【五月のお題について】
お題はいつもモノ2つ、コト1つの計3つ。
モノの1つは何と「雑貨屋」。一応モノですが、先月の「アドバルーン」や「白衣」と違って、五感に直接訴えるような物体でなく、コトに近いのが難しいところ。「雑貨屋」とは、「雑貨」がたくさん売られている店舗、もしくは、「雑貨」を売っている人間であって、「雑貨」という商材の方がモノらしいです。「雑貨」自体も不思議で、日常生活で用いる家庭用品や携帯品の総称なので、具体例がないと実態が見えてきません。つまり、何らかのモノあっての「雑貨」で、何らかの「雑貨」あっての「雑貨屋」で、まるで「季何」あっての「季何学研究所」のようですね、エッ、ちがう!? 閑話休題、お題は「雑貨」でなく「雑貨屋」であるのがポイントです。
もう片方のモノは、お約束の研究所っぽいモノ、今月は「レーザー」。映画『スター・ウォーズ』シリーズで使用されている武器のレーザー・ブラスターや巨大なデス・スターから発射されるスーパーレーザー砲のイメージが強い(?)ようですが、うちの研究所ではもっぱら研究発表用のレーザーポインターや手術用のレーザーメスとして活躍しています。あと、研究所の設立に尽力してくださった支援者の一人に目からレーザービームを撃つ方がいらっしゃいますが、テレビ会議の時に昂奮するとモニターを破壊してしまうので、最近は音声会議に切り替えました。
3つ目のお題は「愛」。詠みこみでなく、しばり(=テーマ詠)ですので、「愛新覚羅家」や「愛媛」は駄目です。「愛」という言葉が入っていなくても構いませんので、「愛」を感じさせる句を作ってください。エロース、フィリア、アガペー、ストルゲーといった古代ギリシャの4種類の「愛」に限りません。アガペー的なキリストの「汝の隣人を愛せ」、儒教における「仁」、仏教における「愛」(トリシュナー/渇愛)、藤田湘子の代表句「愛されずして沖遠く泳ぐなり」……何でもどうぞ。
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【実験結果】
【全体評】
選句方針は先月述べたので特に書かないが、選句は完全に無記名なので、選句後に結果を助手に伝え、それから名前を見せてもらうといつもハッとなる。面識はないが先月も投稿してくださった方だ、実力ある俳人の句なのに佳作にも採らず容赦なく落してしまった(復活させるような忖度はしませんw)、初めて見る名前だけど良い句だな、先月もひらがなの多い口語調の句ばかりだったけどこの投句者ってもしかして小学生かな、とか。
「レーザー」は難しかったようで、整形のレーザー手術と野球のレーザービーム送球を詠んだ句が多かったが、良い句には出会えなかった。「雑貨屋」も難しかったはずだが、想像力で押し切った句が活きていた。残念だったのは、店内の情景をしっかり描いているのに、店外の植物などを安易に取合せている句。取合せが違っていたら絶対に採っている。「愛」が一番簡単だったようで、さまざまな愛の句を堪能できた。あまり幸せそうでない愛が多かったのは、俳句的かもしれない。
では、今月も返歌を。
薔薇嗅ぐと気づきぬ近視矯正のレーザー手術できぬ齢(よはひ)と
雑貨屋の人形にわが名を与へ毎日六時顔を見に寄る
会ふたびに皺深くなる母の顔会へばあふほど愛(を)しくおもへり
左手の指環鳴らさで鋼琴を滑らかに繰(く)るごとしわが愛
【天】
雑貨屋さん余命を少しくださいな 札場靖人
雑貨とは「日常生活に必要なこまごました品物」(デジタル大辞泉)。雑貨屋と言えば、それら雑貨を売っていて、中には「本当に日常使うのだろうか?」「必要なのか?」と首を傾げたくなる品も多々置かれているイメージ。それに、雑貨屋なら、訊けば何でもありそうなイメージもある。しかし、その雑貨屋に「余命」を「少し」求めに客が来訪するシチュエーションは妖しい。普通の人間が出入りする、普通の人間が営んでいる雑貨屋でなく、真っ当な人間なら出入りしない、怪異か何かが営んでいる雑貨屋に、「余命」と言う雑貨を求めて怪異の客が来たのか。それとも、普通の人間が出入りする、普通の人間が営んでいる雑貨屋に、店主自身の「余命」を求めて死神が来たのか。
思えば、「少し」の「余命」とは、「日常生活に必要なこまごました」ものには違いない。いや、もしかしたら、現実的に解釈すべきで、ここで言う「余命」とは、文字通りの「余命」ではなく、自分の「余命」に繋がりそうな雑貨の事かもしれない。いずれにせよ、類想がない上、句の口語調のトーンが調子よく、しかも忘れがたいので、今月の【天】に推した。
【地】
まろく重くざらざらの月恋終る 坂口香野
一読、驚いた。恋が終わってしまった時に月を見たら、地球で見えるような清らかで鏡のような姿なのではなく、実際は「まろく重くざらざら」なのだと思い至ったのだろうか。恋のビフォーアフターにおける自分自身や恋そのものを月で象徴させていて、ある意味、月の本意本情に挑戦している。巧いのは語順で、当たり前の「まろく」から少々意外な「重く」を引きだし(「く」で韻を踏んでいる)、それから月に接近しなければ判らない「ざらざら」に至る。そう思うと、恋が終わる寸前に月について思ったのは「ざらざら」(完全な失望)であり、その前の「重」苦しさ(現実の厳しさ)であり、さらにその前の、恋しはじめたときの「まろ」さ(甘美)であろう。
【人】
花氷乾びゆく雑貨屋の隅 武智しのぶ
デパートかどこかに納品していた「花氷」を鑑賞に適した期間が過ぎたので引取ったのだろうか、それが「雑貨屋の隅」にある。花氷は発註があってから作る場合が多いので、新品が売れていないのではなく、引取ったと読むほうが自然だろう。だからこそ「隅」にあるのだ。もはや売物ではなく、でも捨てるのは忍びないので「乾びゆく」に任せているのだ。さらに、「乾びゆく」のだから一気に融けてしまわないということが判り、それゆえ、真夏の「雑貨の隅」といえども冷房が効いている事も判る。冷房機が隅の方にあるのかもしれない。雑貨屋に「花氷」があるのは意外だが、不可能ではない。「こういう事ってあるかもしれない」のぎりぎりの線上なのだ。そして、「乾びゆく」がうまい。氷が融けはじめて水になってゆくので、実際に乾燥する事はないのだが、冷房が効いている「雑貨屋の隅」で埃を被っているかもしれない雑貨の在庫と一緒に置かれているとしたら、乾いた質感を覚えても不思議ではない。案外、氷の表面を撫でてみると濡れていないものだ。
【佳作】
片かげり味噌屋雑貨屋履物屋 姫野理凡
この句はよくできていて、入賞かどうか最後まで悩んだ。奇を衒っていない。しかも、動詞も助詞もなく、名詞の羅列だけで一句を構成しているのに、情景を見せていて巧い。「味噌屋雑貨屋履物屋」と並ぶ街、昔ながらの商店街とも解釈できるが、「味噌屋」「履物屋」となると、観光客できてもおかしくない、歴史のある古い街並みだと思う。庇が連なっているような古い様式の建築かもしれない。作中主体はその街の片陰になっている側を歩いているのだ。日の射し方が示され、街の道自体は日が照りつけて灼けている様子だと想像できる。「雑貨屋」も違和感なく街並みに溶けこんでいる。
春や来て出逢い放題別れ放題 野中泰風
「春や来て」の古風な「や」の使い方が良い。古今集の「年の内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ」(在原元方)を踏まえた「春や来し年や行きけん小晦日」(芭蕉)を思い浮かべる。旧暦だと、冬と春の境目と去年と今年の境目はほぼ同時に来る。芭蕉の句の本歌取だと解釈すると、春が来ることに「出逢い」が対応し、年が行くことに「別れ」が対応している。おもしろいのは、「かけ放題」のような、現代よく使われる「〇〇放題」という表現で、慎ましさが微塵もないことである。実に潔く、すっきりするような春の来訪である。
星涼し人でなしだと呼べばいい 松浦麗久
「星涼し」とは、夏に高原などの屋外や縁側で星を眺めて涼を感じること。この句の解釈は二通り。一つは、恋人二人で眺めていてロマンに浸っていたのも束の間、たぶん痴話喧嘩が勃発、一方が「人でなしだと呼べばいい」ともう一方に言うシチュエーション。もう一つは、何らかの喧嘩をした後に、作中主体が自分だけで星を眺めながら、頭を冷やしつつ、「人でなしだと呼べばいい」とぼやくシチュエーション。いずれにせよ、「星涼し」との取合せで、暗すぎず、いつか仲直りできそうな雰囲気である。
左心房流るゝ愛や夏兆す 伊藤正美
「左心房」が良い。肺で酸素をたっぷり注入された血が流れ込んでくる心臓の部位である(そこから左心室を通じて全身に血が巡ってゆく)。夏が兆しているように、春にした恋が情熱的な愛に昇華してゆく様が兆しているようだ。そのためには、酸素を入れて「左心房」に流れているエネルギッシュな血、そういう愛でなくてはならないのだ。中七と下五のN音の頭韻も心地良い。
溺愛やあまたの鯉の猛るなり 藪中藪
「鯉」は「恋」と掛けてあり、春から夏にかけて(多くは初夏に)鯉が産卵・放精に没頭するかのように、作中主体の私は、「あまた」の恋が「猛」ているかのような勢いを持った「溺愛」をしている。一つの溺愛だが、心の中で相手に対する恋が湧きに湧いていて、猛狂っているのだ。鯉幟の句かもしれないが、鯉幟の句と見るより、鯉が産卵・放精に没頭する時季の句と見た方が自然だろう。
オーデコロン変えて一括削除する 中山月波
「愛」の題で作られた句だろう。「一括削除」されているのは、愛していた相手に関わる画像やメールであり、自分の心にある相手への愛である。一括削除できるかはわからないが、一括削除を試みている。もう終わってしまったのだ。そのため、相手を思い出さないためにも、相手と会う時に付けていたオーデコロン(香水は夏の季語)も変えてみる。もしかしたらそのオーデコロンは相手がくれたものかもしれない。
レーザーを浴びて躑躅になつてゐる ゆみやん
謎めいた句。理由はない。季何学研究所で「レーザー」を浴びてしまって、「躑躅」になってしまったのだ。どこか髑髏を思わせ、しかもどこか変な物体になってしまったかのような「躑躅」という表記が効いている。「つつじ」だと一句が立ちあがってこない。
足枷に妻鉄球を繋ぐ夏 玉木たまね
ご愁傷様です。相手を繋ぎとめておく愛。もう逃れるのは無理。尻に敷かれるどころではない。浮気なんて不可能。飲みに散財するのも不可能。重いようだが、夫婦生活のためには健全なことかもしれない。一蓮托生なので、鉄球を繋いだ足枷は夫の足だけでなく、妻の足にも仲良く繋がっているのだろう。えっ、違う?
盤上の家族戦争かたつむり 新倉村蛙
「家族」でボードゲームに興じているのか。それとも、「家族」のメンバーたちがそれぞれ将棋やチェスのように頭の中で策略を巡らしながら自分に有利な展開を作ろうと「戦争」しているのか。どちらにせよ、血は流れない、(矛盾する言葉だけど)平和な「戦争」ですね。しかも、「かたつむり」との取合せなので、後者の解釈だとしても、陰険さはなく、どこか微笑ましいのだ。中七と下五の頭のカ音も調子良い。
エンタシス重なる人の影涼し 菊華堂
エンタシスとは、古代ギリシャ建築や法隆寺の柱に施された緩やかな膨らみで、視覚的な安定感を与えるとされる。そこに複数の人影(人の姿、もしくは日が人に当たって作る影)が重なる。涼しさを感じる。なぜならエンタシスのある建築物の中で日を避けながら、歴史を感じる構造の幾何学に取りこまれているからである。エンタシスの曲線と重なる影のフラットさ。ギリシャだとすれば、白と黒が幾何学性を強調する。
【今月の力学】
やまふぢや姓を捨てたきものどうし
腹に顔埋めた後の麦茶かな
あぢさゐは愛憎深き色したる
葦牙や笑み切れ長に三三九度
雑貨屋の兎はずつと二足立ち
朝帰る無口な人に塩むすび
ともに苦しんでほしくて穴惑
雑貨屋の店員帽子から青葉
虹を撮る虹を見せたい人がいる
雑貨屋の薄闇に売る兜虫
雑貨屋の裏口出れば大海原
東京の踏み潰されて湖水哉
レーザーが名古屋で四十五度曲がる
「はじめまして」と手土産に雑貨屋の香り
雑貨屋に敗戦国の旗並ぶ
三代目雑貨屋素手に胡桃割る
雑貨屋に手袋を買うおててかな
見つめ合う多少無茶でも夏だから
龍天に昇る排卵日の着床
レーザーでロックオンする恋敵
夏帯をときて念ぜむ〈帰りこよ〉
夏風邪で動けないのね、あらうれし
レーザー大声でレザー早口でレーサー
雁風呂や愛に縋って人は生き
雑っくりと貸してくれる屋あいつなら
恋びとは夜のまなうらを泳ぐ魚
惑星の欠片か夜の雑貨屋は
雑貨屋に盗みし核兵器のボタン
罪人に太くあれかし蜘蛛の糸
YOU CAN SEARCH ME at THE KNICK-KNACK SHOP ! ψ(`∇´)ψ
溢れてる live-love-life 紡いでる
レーザー。しめりたくない
〇と×きみの唇まだ遠い
ららららら炎天にただきみの肉
寂庵に寂聴がゐて花の雨
雑貨屋は拳銃も売り薔薇も売り
あげられるものはなくなりほつれおり
いつだってマンゴーソルベたべれるぞ
あなたといるわたくしがすきあまりりす
寝室で月見て親を待つ子かな
読書後の妻には触れじ春の夜
flowing into the gate/ on my back,/ your breath
春の雨出雲へ愛が舞い降りる
かみつけばかみつきかへすヒヤシンス
我慢することも愛とか姫女苑
キスマーク残していった青嵐
夕凪に立ってひとりになるふたり
雑貨屋のリアルな蜘蛛が生きてゐた
闇を這い廻るレーザーなめくぢり
「愛は私には無理です」麦を蒔く
青梅雨や水タバコ香る雑貨屋
虚数i愛のどちらを夜鳴きそば
雑貨屋に置かれ雑貨となる蛍
レーザーに探る青葉闇の倭国
この脳に雌雄無き部位すみれ草
かぶりつく桃のあばたのあざやかさ
夜の黒雲に愛が乗ってゐた
愛欲てふ巨大なまずのたゆたへる
蟻塚はレーザー発射装置かな
愛の日や射止めようとして撃ち殺す
雑貨屋が村の胃ぶくろ支配する
【助手の一句】
雑貨屋の地下室愛の実験中
【もう少し】
母の日の夫のピアノのまた躓く
母の日に夫(つま)がピアノを弾いている、でも、久々なのか、また演奏に躓いている、という句意でしょうか。とても魅力的です。せっかくですから、中七で切って、切れを強くしましょう。その方が、大景の感動をまず描けて、そこに細部の描写でリアリティーを加えられます。「母の日の夫のピアノやまた躓く」
愛人と次から次へしゃぼん吹く
おもしろいシチュエ-ションですね。読者に色々と想像させます。一つ惜しい点は、リズムが平句・川柳的になっていて、俳句としてはややゆるい事です。ここは語順を変えて、まず愛人としゃぼんを吹いている情景を描き、そこで切った上で、「次から次へ」で動きを付けたいです。「愛人としゃぼん吹く次から次へ」
色悪を気取りつつ灰汁掬いをり
色悪というのは「(歌舞伎などで)二枚目なのに性根は悪人」、それを気取っているつもりなのに、やっているのは鍋奉行、いや、単なる灰汁掬い、というのが滑稽で、楽しい句だと思います。この句も惜しい点はリズム。上から下に散文のように来ていてややダレていますし、上でネタを仕込んで、下で実は灰汁掬いだったんですよと言うと、それだけの句になってしまいます。やはり、まず見える情景を先に持ってきて、その後で雰囲気を出しましょう。なお、無理矢理、鍋の季語を別に入れる必要はありません。「灰汁掬いをり色悪を気取りつつ」
雑貨屋が深夜業務でモメている
雑貨屋の句の中で、こういう情景の句は他になかったので面白いと思いました。ただ、惜しむらくは事実の報告で終わっていること。モメている業務の内容も、誰と誰がモメているかも、どういう感じでモメているのかも、どの季節かも、今だと何もわかりません。こういう句の命はリアリティーを感じられる情報です。たとえば「雑貨屋より怒鳴り声泣き声無月」。