【六月のお題について】
今月のお題は「アレルギー」(詠みこみ)、「缶詰」(詠みこみ)、「伝える」(しばり)の3つです。
先日、弊所所長が冷凍睡眠カプセルから起きてきたのですが、5月の実験で使っていたレーザーに対するアレルギー(※100m以内にレーザーが飛んでいるといけないそうな)が酷くて、また眠ってしまいました。所長代理の私には起こす権限がないので、放置することにしました。そういう私自身は全般的にアレルギー体質で、各部屋に空気清浄器を入れたり、自室を防菌室仕様にしたり……しても、効果はなかったです。皆さんはどういうアレルギーをお持ちなのでしょう。対策はされていらっしゃいますか。
缶詰と言えば、4月の時点では、非常食として研究所の地下倉庫に1000個くらいあったのですが、先ほど見たら100個くらいしかありませんでした。うちの助手によれば、夜な夜な所長の生霊が現れては一回に15個くらいをどこかに持って行ってしまうそうです。カプセルの中で眠っているはずなのに、不思議な事もあるんですねぇ。あ、ちなみに、缶詰の中身は研究所で新たに開発したハイク・モリンガです。食べると俳句を作るエネルギーが湧いてくる(はずの)ものです。
「伝える」は幅広いお題ですね。伝える手段を持っているのは人類に限りませんし、人類にしても対面の発話やジェスチャーに限らず、電報や電話、メールやツイート、狼煙やテレパシー(!)など様々です。内容にしても、研究所の電子レンジが壊れた、試験管が割れた、天井から液体が漏れてきた、研究員が踊りだした、と様々です。
今月の実験も楽しみです。
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【実験結果】
【全体評】
3つのお題のうち、「缶詰」が一番良かった。一番良かったということは、一番想像をかきたてた、一番刺戟的な句材だったということ。季何学研究所では、今後も缶詰を使った実験を続けていくつもりである。目下、「新季語缶」と「缶切れ」を開発中である。
「アレルギー」は人間アレルギーという類想が多かったものの、句数も多かったので佳句にも恵まれた。
「伝える」はなぜか寡作だった。「缶詰」の束縛に比べて、このお題は少し範囲が広すぎたのかもしれない。しかし、少ない中にも光る句があって嬉しかった。
当研究所のある笠間書院特区は、もうじき梅雨が明ける頃。次の実験結果が楽しみだ。
わがめぐり生者より死者の増えたればごはんに載する缶詰のふぐ
アレルギー検査四十項目になき抗原を知るわが宍(しし)は
自死の報一部始終を読み了へてその始(し)に戻るいま四回目
【天】
星涼し伸ばし続ける糸電話 GONZA
糸電話(の糸)を伸ばし続けても、必ずどこかで限界がくる。しかし「星涼し」と取合せられると、星空へ伸ばし続けられそうな気がしてくる、それどころか、しまいには星が浮かんでいる空間の中どこまでも永遠に伸ばし続けられそうで、マジックリアリズム的な錯覚を読者に起こさせる。そう思うと、三次元空間に一本の線がずっと伸び続けているイメージが浮かんでくる。無論、この句で面白いのは、ただの糸でなく糸電話であるところで、それが天の涯まで伸びて、想像を絶する距離になったとしても、片方の先にいる人間ともう片方の先にいる人間はコミュニケーションできるのだ。
「星涼し」は文語調、「伸ばし続ける」は口語調であるが(文語調なら「続くる」)、二つの「し」による効果でミスマッチはさほど気にならない。むしろ、「続くる」でない方が開放感があって良い。
なお、この句は「伝える」の題で作られた句だろうが、糸電話が昔(紙コップでなくて)金属缶を使っていて「缶電話」とも呼ばれていたことを考えると、「缶詰」の題で作られた句という気もしてくる。
【地】
アレルギーなので枯野を出られない 安田中彦
アレルギーは、免疫反応が特定の抗原に対して過剰に起こることであり、この句の作中主体にとっては、枯野の外にその特定の抗原があるのだろう。その抗原が何かは読者にはわからず、枯野にないことだけが確かである。そこが謎めいている。現実世界で知られている抗原に該当するものがあるかもしれないが、これが架空の抗原でも良いと思う。この句で重要なのは具体的な抗原でなく、作中主体が枯野を出られなくなってしまっていることだ。雪が降って雪野になっても雪の下は枯野のままだから出られないだろう。でも、春が来たら、夏が来たらどうだろう。枯野ではなくなっているはず。いや、枯れているかどうかでなく、特定の枯野から出られないということなのか。夏野になっても、その枯野だったところを出られないのか。それとも、もしかして、そこは永遠の冬、永遠の枯野であって、作中主体は永遠に出られないのか。カフカの小説めく。
【人】
ラフレシア咲けば缶詰あけましょう 小泉岩魚
無季だが、無季が活きている。なぜならラフレシアには決まった開花時期がないからである。しかも、約一年以上のつぼみの時期を経て一週間弱咲く花であり、開花まで気長に待つしかない。いつ咲くかわからないからこそ、咲くまでどれほど待たされるかわからないからこそ、それが咲いた時に缶詰を開けるという提案が意味を持つのである。この提案は約束であるが、いつ履行されるかわからない、履行できるときには一方が忘れているかもしれない、とてもあやしい約束である。
ちなみに、ラフレシアの花は世界最大、花粉を運ぶのは蠅、開花している時のわずかな間だけ匂いがするがそれは非常な悪臭(他の期間はほぼ無臭)、という強烈な花である。その辺から連想すると、いつか開けるであろう缶詰は、屋外でしか開けてはならないとされる、世界一臭い食べ物とされるシュールストレミングの缶詰ではないか、という気になってくる。
【佳作】
缶詰の無呼吸といふ涼しさよ 戸矢一斗
涼しさとは夏の季語で、暑さに思いがけず覚える涼しさを指す。涼味を感受するもとは様々で、触覚的な何か(風雨など)に限らず、聴覚的な何か(音)だったり視覚的な何か(物体の動きなど)だったりする。この句の場合、それが「缶詰の無呼吸」であると言う。密閉された円柱の金属からは、ぜぇぜぇはぁはぁといったような暑苦しい声も熱い吐息も洩れてきそうにもないし、口を開けただらしない姿も見えてこない。つまり、聴覚的、触覚的、視覚的な何かでなく、それらの〈不在〉に涼しさを覚えているのである。
缶詰や王の墳墓のごと光る 黄頷蛇
缶詰を何かに見立てた句は他にもあったが、この句が一番良かった。まず、缶詰に王の死体が入っているなどといった無理筋なことを言っていない(幻想は好きだが、王の死体ではときめかない)。そして、実は、缶詰が王の墳墓のようだとも直接言っていなくて、「王の墳墓のごと」は缶詰が「光る」さまの比喩である。結局、缶詰が光るさまを写生した句であり、光り方が「王の墳墓のごと」なのであり、缶詰と王の墳墓の機能性の類似も連想させるという塩梅である。築かれたばかりの円墳を連想しても良いが、フォルムの類似はさほど厳密ではないだろう。
つばなほつれそむ缶詰の開け方 遠音
取合せの句。春が終わる頃に(仲春の)茅花が解れはじめることと缶詰の開け方に直接の関係はない。しかし、この両者のイメージがどこかで繋がるのは、缶詰を開けるためには何かしらの方法(梃子式・螺子式・巻取式等の缶切やプルタブ等)でゆっくりとぎざぎざに切断してゆき、質感と時間感が茅花が解れはじめる様と重なるからである。なお、この句の技巧は二つ。一つは「つばなほつれそむ」をひらがな、「缶詰の開け方」を漢字を多用した表記にして、前からほつれてゆく(開いてゆく)様を視覚的に表現したこと。もう一つは、「つばなほつれそむ」を動詞で終え、「缶詰の開け方」を名詞で終えたこと事で、前者の方を緩く感じさせる効果に寄与している。
本当に振り向いたから少しこわい ましろなぎさ
振り向いたのは自分でなく他者であろう。その人の後ろから「振り向け、振り向け」とテレパシーを送ってみたら、すぐに、本当にその人が振り向いたのだ。すなわち、この句は「伝える」のお題で作られた句だが、「伝える」部分を省略しているのが巧い。面白いのは、「こわい」は「こわい」にしても「少し」と言って見せているところである。真剣な超能力実験ではなく、作中主体の頭の中で行われた軽い遊びなのだ。
Automatic translation
suspended in a summer breeze. はやみかつとし
自動翻訳というものの本質を突いている気がする。「自動」の翻訳には、夏のそよ風のような、暑さを癒してくれるかのような清々しさと軽さと明るさがある。無論、「翻訳」という行為は両言語の中間にあるもので、永遠に一陣のそよ風に漂っている状態である。
実は、この句、俳句的にもっと良くするためには行を入れ替えて「Suspended in a summer breeze/automatic translation」と、切れを強めるべきだが、やや切れの弱い原句の方が自動翻訳された感じが出ていて、内容との整合性を考えるとこのままが望ましいのかもしれない。
ちなみに、この句をGoogleで自動翻訳してみたら「自動翻訳/夏のそよ風に乗って」と、連句の第三句で使われる杉形のような句が出てきた。
缶詰の鳳梨の穴や揃ひたる 姫野理凡
鳳梨とはパイナップル。作者はその鳳梨自体ではなく、穴に注目している。思えば、缶詰もその中の鳳梨も円柱であり、さらにその中の「揃」ってほぼ均等に刳り貫かれている穴が為す空間も円柱である。もちろん、缶詰から取り出された鳳梨は何枚かの輪に崩れてしまうが、その輪も中の穴も依然円柱である。缶詰パイナップルの本質とも言えよう。
五か国語話せる乞食青葉風 海音寺ジョー
「乞食」は「ホームレス」とは違う。公共の放送では、後者を指すのに前者の言葉を使ってはならないとされる(「こじき」は後述のように法律で用いられている用語なので、それ自体は問題のない言葉である)。外国では両者を兼ねた人間も多いが、日本では軽犯罪法第1条二十二で「こじきをし、又はこじきをさせた者」に該当すると「拘留又は科料に処」されてしまうため、ホームレスが乞食をすることはほぼない(私が読んだところによると、乞食をしてもすぐには逮捕されず、警察に強く注意されてやめる場合が殆どらしい)。だからホームレスを乞食と呼んではいけないのだ。
というわけで、この句はたぶん日本でなく外国の情景である。多言語国家でない日本にいる人間の感覚からすれば、五か国語もマスターしていた人間が人生を転落して乞食に身を窶(やつ)したんだなぁ、と解釈してしまう惧れがあるが、たぶん違うだろう。この乞食は学校になど行っていないし、正規の言語教育は受けていない。あくまでも多言語国家や多くの外国観光客が来る地域で乞食として生きていくために、(乞食とは限らない)親か(乞食の)元締めか仲間かに五か国語の日常会話、特に乞食をするための台詞を教わったのだろう。例えば、東アジア人っぽい観光客がいたら、日本語、中国語、韓国語、英語、現地語で声をかけるといった具合である。悲惨な境遇であるが、「青葉風」という季語には、その乞食の逞しさというか、いまだ人生を悲観していない、前向きな明るさが感じられる。世の中には、下手なサラリーマンよりも儲かる乞食もいるそうだし、このマルチリンガルな乞食も案外そうなのかもしれない。
paying a ransom
for a little boredom
allergy symptom 斎藤秀雄
この句によれば、少しの無聊を慰めるための身代金としてアレルギー症状がある。つまり、退屈を少し紛らわせるために、アレルギー反応が出ることを承知で抗原に接する行為をしてしまったのだ。まさに体を張った行為。代償がかゆみかくしゃみかわからないけど、重くないことを祈るのみ。三行とも「om」の脚韻を踏んでいてなかなか技巧的。
夏草の多分どれかがアレルギー 藤井祐喜
中七のぼかした言い方に味がある。庭か野原かで夏草に触れていたら蕁麻疹ないし肌荒れが起こった、でも、どの夏草が悪さをしたのかわからない、という句意であろう。しかし、別の解釈もできる。なぜなら、最初の解釈だと、アレルギーよりもアレルゲン(アレルギーの原因となる抗原物質)の方がより正確だからだ。二つ目の解釈だと、どの夏草かわからないけど、夏草のなかにアレルギーになっているものがある、当然その原因は作中主体の私、ということになる。つまり、主客転倒した解釈であるが、こちらの方が面白い。
存在は虹の誤訳であるといふ 小津夜景
普通の感覚だと、句とは逆に、虹の方が存在の誤訳である。虹は、光という存在が大気中に浮遊する水滴の中を通過する際に(誤訳のように)屈折ないし反射することで様々な色が見られる、短い時間の現象であり、虹自体の存在は儚い。しかし、ホログラフィック宇宙論にこの句を適用すると違った景が浮かぶ。その論によれば、私たちや地球や光といったこの世のすべての存在は、様々な色(情報)を含むメタファー的な「虹」を不完全に投影したホログラムに過ぎない。つまり、存在は虹の全てが投影に伝わりきっている状態でない、場合によっては不完全どころか誤訳とさえ言えてしまうようなものであるというのだ。余談だが、「虹」は三夏の季語だが、この句では季語として機能しておらず、句自体は超季の句である。
【今月の力学】
le matin d’été/un murmure sanglote/l’allergie au monde
くちばしがわたしを運ぶ青嵐
蘭鋳語出目金語指回しつつ
そしてまた缶詰の中の缶詰
人間をアレルギーとして櫻桃忌
孝行をしたかったのだところてん
缶詰の日付が昭和になっている
あくがれは缶詰となり卒業す
赤ちゃんの缶詰選ぶ指の汗
わたしはこころの缶詰なのだろう
敗戦の缶詰隣国が開ける
缶詰や時弛めたる小銀河
夏ならむ猫も鼻血のアレルギー
小(ち)さき詩でなづきに灯す悲劇の火
アレルゲン蓄えながら山眠る
愛の過剰摂取でなってみたいアレルギー
水中花アレルギーから逃れきる
空き缶に挿す紫陽花や無人駅
幾百年腰で伝へし踊かな
春苺ハウスに内職募集の字
龍淵に潜むシュールストレミング缶詰
ツチキヌタアブミ骨の祭り太鼓
缶詰食うて老後は無なり知るもんか
北京より信(てがみ)や赤き虞美人草
糸電話神の居留守を告げもして
手を振るよポプラの高き梢から
伝道や黒い揚羽が肩に来る
缶詰の中も吹雪いてゐるらしい
シェルターに缶詰のこる人類以後
缶詰の中に浪立つ海のあり
となりから缶詰もらふキャンプかな
三葉虫アレルギーかもしれなくて
穴掘ってしかじか話し埋めておく
告白も離婚もメールで済ます秋
琴座との交信微塵も揺れぬ金の脳髄
別れの明る日は缶詰の塩味
宇宙の空気入り缶詰黴拭う
黒南風や吸着音のをとこ来る
ほろほろと夜毎の誓い缶詰に
缶詰を食しこの味この味と
卒業歌つたえそびれたことはなし
白シャツや缶詰バーの魚臭
アレルギーそれとも痛み室の花
あなたごとアレルギーです扇風機
缶詰の世界で羽化する多足は
霾るやツナ缶詰を棺に入れ
身廊の端から端へ糸電話
妄想は永久凍土の缶詰に
アレルギー恐れて北へ失踪か
してほしいことを伝えると、雨がふる
川翳るあれはコレラ船かも知れぬ
缶詰の鰯は無頭ヨハネ祭
父の日も大和煮缶を出す父よ
缶づめを開ければ古稀や猫の春
感性の証に花粉アレルギー
木簡で伝へる恋や夏の山
あかあかとあせもあるいはアレルギー
糸電話持つ手の震へ遠い海鳴り
缶詰を並べてどこも夏料理
缶詰めババロア父の土産や夏の夜
Daytime without stars…“You are the flag-bearer”
缶詰で早い夕飯アロハシャツ
太宰忌のLINEスタンプなる真顔
郭公や大事なことは二回言ふ
缶詰の底まで啜り驟雨聴く
缶詰のかたちにカポと落ちる黴
アレルギーにのど砂時計めく花見
ネッシーは人アレルギー霧うごく
白服にガラスの指輪嵌めて夜
天使来て天使無言のまま立てり焉
缶詰の天蓋剝ぎぬ お、シェヘラザード
缶詰に浮ぶこびとの水死体
缶詰の蛤の夢吸ひにけり
山姥は缶切りがわりに爪使う
いもうとの缶詰はふる薄暑かな
アレルギーにてふうせんを避けにけり
さみだれの心臓のつやつたへけり
こひごころつたへる尻子玉そへて
死んだ瓜わたしは世界アレルギー
神さまがアレルギーなの夏ひかる
呆然と缶づめがある餓鬼忌かな
缶詰をギザギザに開け梅雨入りかな
梔子の花や督促状赤し
缶詰めに火を灯したりなゐの月
やきとりの缶詰めつまむ便りなく
伝え聞くところによれば初鰹
アレルギー発症滝壺をずっと見る
缶詰のなかの去年の鯨かな
人叩きつつ笑う善人ゼラニウム
ゼリーてろん余命喋ってしまう父
アレルギーオスマントルコルリビタキ
canned white asparagus/a little scary/familiarity
trampling a snake/a boy whispers/in a girl’s ear
缶詰を開けて血の香の五月闇
缶詰の高さアスパラガスの白さ
河童忌の顔が黄色いアレルギー
ブランコにとなりのいないアレルギー
風鈴のレの音響くアレルギー
ラムネびん下からのぞくアレルギー
昼寝だな頭の中でアレルギー
雲峰のいつしか消えるアレルギー
アレルギーにふれる大人水中花
ひまわりは鏡に写るアレルギー
ラムネ飲む僕は母のアレルギー
四時間目腹のへっちゃうアレルギー
夏月のいつでも地球アレルギー
アレルギー膠原病科梅雨に入る
【助手の一句】
缶切りに倦み缶詰のごとき朝
【もう少し】
峰雲や缶詰の空気はロシア
この句の眼目は、缶詰の中の空気にロシアを感じた事であって(キャビア?)、取合せの峰雲ではない。しかし、初五を「峰雲や」にしてしまうと、そちらが強くなって、缶詰の空気の発見を薄めてしまう。ここは普通に五七五で「缶詰の空気はロシア雲の峰」でどうだろう。ハッとなるべきロシアのところに切れが来て、そこに焦点が当たり、そのロシアの空気を介して缶詰のミクロから雲の峰のマクロに広がる。
缶詰の錆シロップは甘いまま
たぶん、缶詰は中まで錆びているのに、試しに舐めてみたシロップは甘いままで大丈夫だった、という句意だろう。なぜ「たぶん」と書くかというと、この句も焦点が少しぼやけていて、作者が言いたいことがわかるようでわからないからだ。錆の体言で強く切れていて、錆があることにハッとなったようで、下まで読むと、甘いままということも大事であるような気もしている。では、どうするべきか。錆を強調するなら、応急処置として「缶詰に錆シロップは甘いまま」が考えられる。助詞を一字変えることだけで錆のショック度が強まる。シロップがまだ甘かったことを強調するなら、「シロップ甘し缶詰中(なか)も錆びたれど」のように先に持ってくることも考えられるが、やや理屈っぽくなってしまう。「シロップ甘し缶詰錆を浮かべても」もしくは「錆浮かべ缶詰の蜜甘きまま」と、シロップに錆が浮かんでいる設定にして多少臨場感を足してみるのも一興かもしれない。