
【一月のお題について】
今月のお題は「ボトル」(詠み込み)、「抵抗」(詠み込み)、「複製」(しばり)の3つです。
季何学研究所もオープンしてからすでに八か月、実験慣れしてきた方々もいらっしゃると思いますが、そういった方々にはさほど難しくないお題ではないでしょうか!?
「ボトル」は、瓶のことですが、ペットボトル、ワインボトル、ボトルキープといった普通の使い方でなく、ボトルシップ、マイボトル、ボトルネックといった使い方も楽しそうです。なお、ボトルキープ、ボトルシップ、マイボトル、いずれも和製英語だとか。季何学研究所の試料や薬品はボトル入りではないので、あまりボトル絡みのことはないですが……あっ、ボトル絡みの事といえば、作句の労働力(=俳人)が不足することによる俳句作品の原稿料上昇について……すなわち、ボトルネックインフレを研究している客員研究員が一時期的に在籍していたことくらいでしょうか。この年末、俳人のブランド力や作品の質が原稿料に影響することに気づいたようで、真剣にモデルを再構築するため、本国に帰ってしまいました。
「抵抗」は、そのままだと少し扱いづらい言葉ですね。物理的な抵抗は別として、権力や相手の態度への抵抗などは抽象的ですので、ベタに使うと句が説明や報告に堕してしまう可能性が高いです。また、物理的な抵抗の方は抽象的ではないものの、今度は抒情とかけ離れた科学用語になりやすく、要注意です。無抵抗、抵抗力、抵抗運動、抵抗勢力、空気抵抗、摩擦抵抗といった言葉は何とか詠みこめそうですが、電気抵抗、抵抗権、抵抗野党といった言葉になると……詠みこまれた句を見てみたくなりますね(苦笑)。当研究所での抵抗絡みのことといえば……抵抗文学としてのシュメール語俳句を研究している客員研究員が一時期的に在籍していたことくらいでしょうか。この年末、シュメール語俳句の作者たちが抵抗していた相手であるアヌンナキの神々が本当は宇宙人だったと気づいたようで、古代宇宙飛行士説の勉強をするため、本国に帰ってしまいました。
「複製」は詠みこみでないので、複製を思わせる内容でしたら何でもOKです。コピー用紙でもDNAでも身分証偽造でも出産でも著作権法第2条第2項第15号でも模写でもクローンでも。そう、模写とクローンといえば、東京藝術大学大学のスーパークローン文化財/クローン文化財は本当に素晴らしいですよね。同じ芸術でも、俳句における複製は、類想、類句、盗作といった嬉しくない話になりますが……あ、そうそう、当研究所での複製絡みのことといえば……AIで芭蕉の俳句脳を複製する研究をしている客員研究員が一時期的に在籍していたことくらいでしょうか。この年末、芭蕉が残した作品だけでは芭蕉の俳句脳を再現できないことに気づいたようで、元禄時代の芭蕉に会いにいけるタイムマシンをM資金で開発するため、本国に帰ってしまいました。
今気づいたのですが、年が明けたら客員研究員が一人もいないことに。新しい客員研究員を探すため、私は外国にちょっくら行ってまいります。
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【全体評】
季何学研究所の実験応募は、毎月ほぼ同じ句数が来る。但し、応募者の数は毎月増えてきていて、なぜ同じくらいの句数に落ち着いているのかというと、大量投句をしてくる人が毎月減ってきたからである。全体的な質も上がって来ていて、読み応えのある句が増えている。選者冥利に尽きる。とはいえ、今月の実験は先月のよりも少し難しかったようだ。「ボトル」は、ボトルシップ、ボトルキープ/マイボトル、ボトルメール(瓶に封じて海などに流されたメッセージ)、ペットボトルとして詠みこまれることが多かった。俳句として違和感なく成立した感がある。反対に「抵抗」という言葉は句に馴染みにくく、扱いに苦しんでいた作品ばかりだった。「複製」しばりは、クローンに集中したが(たしかに「研究所」っぽいですw)、概ね「ボトル」と「抵抗」の間くらいの出来だったと思う。
うつろなるペットボトルに降る雪のましろき米のつもるまにまに
庫内灯の月のごときに照らされてペットボトルに眠るしろ米
朝(あした)まで飼ひゐし牛を食したり終の抵抗はげしき牛を
いささかの抵抗もちて答へたり死蝉の落ちきたる借問(しやもん)に
やつて来てわたしに何か言ふときの顔がむかつくわたし似の顔
【天】
凍蝶を殺した、抵抗しなかった。 けりいせ
口語調の作品。「抵抗しなかった」が秀逸。凍蝶が抵抗しないのは当たり前では、と言ってはいけない。作中主体は、抵抗しないのが当たり前の凍蝶を殺した上で、「抵抗しなかった」と、まるで抵抗される可能性があったかのように、そして、その可能性があったから殺しても已む得なかったかのように嘯いているのだ。当然、この句は人類史で行われてきた幾千万(もしかしたら幾億)に及ぶ虐殺のアレゴリー(寓意)として読めるし、広く解釈すれば、日本でもいまだに起きつづけているレイプやDVなども含まれるだろう。晩冬の句であるが、寓意から考えれば、冬の季感は弱く、実際は超季の句であろう。
【地】
トロツキー地球は夏を繰り返す 土井探花
夏の句とも言えなくはないが、中七以下で季節の周期性について言及するために「夏」を出しているので、超季の句として捉えたい。句の構造としては、「トロツキー」の後に切れがあり、「地球は夏を繰り返す」との取合せ、この場合は二物衝撃になっている。つまり、本来は全く無関係な二つのものが一つの句で並べられることで、細い糸で二者が繋がり、相互作用的に妙味を生み出している。では、この句の二物衝撃における細い糸とは何か。愚見では、それはトロツキーが提起した永続(永久)革命論と世界革命論であり、地球全体が社会主義化するまであらゆる国家で革命を繰返し、継続してゆくことである。夏という熱気を帯びた季節はどこか暴力的な狂気の匂いがする。
【人】
抵抗を止めよ菫を投げ捨てよ 山内彩月
三春の句ではあるものの、この句の寓意からすれば超季の句として捉えても良いと思う(今月の実験、天地人、全て季語が入っている超季の句と見做せる)。「抵抗を止めよ」は、「無駄な抵抗はやめろ」という各国の警察や政府軍がデモや反政府軍を鎮圧したり犯人を制圧したりする際によく使う台詞(もちろん各国の言語で少しずつ違うが)を想起させるし、犯罪者がレイプや強盗の際によく言うとされている「抵抗するな」という台詞も想起される。いずれにせよ、強い側が弱い側に言う台詞であり、弱い側に抵抗されれば、強い側は実力行使して弱い側をもっとひどい目に遭わせるという意味が言外に含まれている。「○○を投げ捨てよ」の「○○」は、武器、銃、ナイフなどを「投げ捨てろ」という、やはり各国の警察や政府軍がデモや反政府軍を鎮圧したり犯人を制圧したりする際によく使う台詞である。この場合、弱い側は到底武器になり得ない「菫」しか持っていないので、香港で起こっているような警察と市民のデモ隊のようなシチュエーションだと解釈できる。しかし、「菫」が凶器でなくても、弱い側がそれを掲げている限り、権力への抵抗のシンボルでありデモのシンボルなのだ。少なくても、強い側はそう捉え、弱い側に菫を捨てさせ(デモをやめさせ)ようとする。最初は言葉で、やがて暴力で。
【佳作】
姉の絵に弟眠る暮の秋 黄頷蛇
描かれている弟の眠りとは睡眠か永眠か。そもそも、この弟は実在しているか(この絵は現実の複製なのか幻想の複製なのか)。答えはなく、読者は姉弟の関係を想像するばかりだ。本来、これだけでは漠然としていて、句としては物足りないが、この句の場合、その関係性こそが古の物語における構造のようで、一句を成立させている。「暮の秋」は「絵」や「眠る」とやや距離が近いものの、冷ややかな静謐と時間が停まっているかのような感覚を一句に与えている。
蝶に翅少年に傷ありぬべし 古田秀
「複製」しばりで作られた句。やや広めの形で題を満たしていて、「蝶に翅」の写像として「少年に傷」が提示されている。蝶を蝶たらしめているのが翅であるように、少年を少年たらしめるのは(たぶん心の)傷なのだ。「鶏頭の十四五本もありぬべし」(正岡子規)でも判るように(※〈「未来へのまなざし」―「ぬべし」を視座としての「鶏頭」再考―〉という松王かをりの現代俳句評論賞受賞作などに詳しい)、「ありぬべし」をどう解釈するかは難しいが、少年という存在には作中主体や作者の存在が重なっているように思える。
二体目のゾンビが雪に倒れ込む 綱長井ハツオ
ゾンビのベースになる死体は基本的に人間のものであるから、どのゾンビも微妙に異なるはずだが、各所が腐爛していて生前の身体的特徴をだいぶ失っているため、区別はつきにくい。ゲームやアニメでは(たまには映画でも)どれも「複製」のように同じに見える場合が多く、いわゆるゾンビ物では、時間短縮のために同じ原画が複製されて大量のゾンビが描かれていることが殆どである。さて、この句において、「二体目のゾンビ」は一体目と似た姿であったのだろう。少なくとも作中主体には同じ姿にしか映っていない。ゾンビを倒してゆくゲームや映画の一場面なのかもしれないが、現実の光景だと考えても構わない。ゾンビが「雪に倒れ込む」瞬間が捉えられていて印象的である。「二体目」という言葉で、今後ぞろぞろと何体も出てくることが暗示されている。なお、この句を最初に読んだとき、選者はこれが俳句なのか少々悩んだ。しかし、有季定型であることは間違いない上(五七五。季語の頂点に君臨する「雪月花」のうちの「雪」)、客観写生の句になっていて、よくよく読めば、非常に俳句的である。
クローンじゃない人間もいて朧 とかき星
クローン人間が出てくるだけでは、俳句としてはあまり面白くない。だが、「クローンじゃない人間もいて」となると少し面白くて、多数がクローン人間で、少数が「「クローンじゃない人間」の世界が現れる。「クローンじゃない」方が珍しいのだ。しかし、両者の見分けはつかない。特に「朧」の中では。
クローンめく母子や卒業看板前 玉木たまね
よく似ている「母子」のことだろうが、「クローンめく」と表現されるとドキッとする。気持ち悪いほど似ているのだ。その「子」(女の子だと思われる)が、将来、今の「母」と瓜二つの容姿になるという仮説が構築される。たまたま似過ぎていると解釈してもいいし、実際にクローンが一般的になり始めた時代のクローン母子なのだと解釈してもいい。いずれにせよ、二人の姿は卒業看板前で撮られた写真ないし動画に記録され、その子が大きくなった時に、仮説が検証されるのだ。
冷奴食ふ子(遺伝子組換えでない) ぐでたまご
「遺伝子組み換えでない」は、豆腐など、大豆を使った食品のパッケージによく表示されている。それゆえ、一読、「冷奴」が「遺伝子組み換えでない」のだと錯覚してしまう。しかし、読みなおすと、それを「食ふ子」が「遺伝子組み換えでない」ことが判る。人間の(特に誕生前の)遺伝子操作は倫理的な問題から、多くの国で禁止されている。人類初の遺伝子操作ベビーは2018年に中国で誕生した双子の女児とされているが(他国などでもそれ以前の非公表事例はあるかもしれない)、倫理観の変化とともに、「遺伝子組み換え」の子どもはいつか激増するかもしれない。その場合、先天的な病気や障碍を避けるために行われるだけでは済まなくなり、富裕層の親が身体的に「優れた」子を作ろうとする、優生思想を助長しかねない行為も見られるようになるだろう。
ペットボトルばけつへ園児らの蟹 播磨陽子
平明な句だが、句跨りが効果的で、ペットボトルの狭い口へ小さい蟹が小さい手で投入されてゆく様子と合っている。普通なら「の」を「が」もしくは「は」にするところだが(その場合、句末の「を入れる」が省略される)、「の」による舌足らず感がこの句ではマイナスにならず、しかも、「の」の場合は動詞が全く入らないので(「を入れる」の省略もない)、即物的になり、モノだけで読者に情景を想像させている。
旧姓のマイボトルの字あたたかし 砂山恵子
飲食店などにボトルキープされているマイボトルには自分の姓が書いてあることが一般的だ。店員が書く場合もあるが、自分で書く場合も多い。この句では、作中主体の「旧姓」が書かれている。改姓前にキープした際、自分が書いたのだ。(※……と最初に書いたものの、お気に入りのドリンクを外出先に持ち歩くためのマイボトルのことを思いだした。そのマイボトルでも構わない。その場合、どこかで春の日を浴びながらマイボトルから飲もうとしたときに、旧姓が書いてあることに気づいたのだろう。)「あたたかし」とあるので、たぶん悪い理由での改姓ではない。三春の季語なので、人生に春が来て、結婚で入籍、改姓したのかもしれない。
便器は泉ボトルは誘惑 潤目の鰯
自由律句。「便器は泉」というのは、マルセル・デュシャンの代表作「泉」(セラミック製の男性用小便器に署名と年号が書かれ、「泉(Fontaine)」というタイトルが付けられている)を踏まえている。便器は、泉だと看做せば泉という価値ある存在(この場合は芸術作品)になるのだ。同様に、ボトルは、誘惑だと看做せば(作中主体にとって)誘惑という価値ある存在(この場合は美味しい酒が入っているからだろう)になるのだ。以上の理屈が含まれている句だが、こういう理屈をこしらえながら、ボトルの誘惑に落ちる作中主体を想像すると楽しい。短律なので、理屈が冗長になっていなくて良い。
En chantant/Je vais au paradis/Avec une bouteille du vin 河合誠義
直訳すれば「歌いながら/天国へ行く/ワインのボトルを持って」。当研究所に来る外国語俳句の中ではわかりやすい句だが、洒落ている。ワインへの愛も感じる。持っていく一本は、何だろう、ロマネ・コンティかシャトー・ラトゥールか。こういう形であの世に行けるなら、酒飲みにとっては悪くないと思う。
【今月の力学】
ささやかな部下の抵抗春二番
春の恋固く複製禁じます
蝌蚪の紐ペットボトルに絡まりぬ
抵抗もせず割れてゆく鏡餅
贋作のモナリザ嗤ふ寒さかな
名水をボトルにくめば光る風
地球とはコピーのコピー杉花粉
向うから名前を知らぬ俺が来る
空港に抵抗の歌バウヒニア
夫か子か区別のつかぬ初電話
ミスラ神の笑みは弥勒へ山眠る
漂着のボトルの中に領収書
空ボトル床に並べし寝正月
空気抵抗すらいらないの全部埋めたい
なぜ抵抗をしないんだ警察官は軽く言ふ
抵抗の市民歌へり冬銀河
三寒の抵抗四温の無抵抗
ドラえもん若き私を作つてよ
虚無僧の調べに似たりボトル吹く
手に固きボトルのキャップ冬ざるる
抵抗は薔薇の形を保つため
CGで増やす兵隊波の花
空覆い尽くしサンタが降って来る
冬深し写経の裏の出納帳
赤とんぼ俺の逆立ち盗みをる
もぢらうが本歌は越せぬ実朝忌
抵抗を反逆とせるマスクかな
凩やデスマスクには皺ありて
抵抗の顎鬚伸ばし初仕事
debes resistirte/al lenguaje/para la tarea de duelo
Alguien se esconde/en la copiadora./En el Gobierno Metropolitano
秋の海ボトルの中に手紙なし
浪知らぬボトルシップや秋の夜
複製のゲルニカ残る空家かな
複製のさくらを仰ぐいつかの日
老年の真似たきものに烏蝶
うらうらとボトルシップの帆のたわむ
春の雲ボトルメールのウイグル語
もう来ない友のボトルや小夜時雨
クローンの首相三代狸汁
脳めけるデカルコマニー蜥蜴這ふ
原罪と同じ形のマイボトル
初笑ばあちゃんとお揃いの耳
ブランデーボトルのくびれ春暖炉
妹と同じ襟足春ショール
巡礼の異言の祈り冬の雷
縄文の裸眼で睨む初鏡
やどかりに届くボトルの手紙かな
霍莱岛上/有一个天安门/抵抗者墓
今の今まで姉だと思ってたよ
面は水のほころび月のほころびぬ
コピーするたびに潰れる君の顔
さまよえる指、⌘Cののち
拘置所にボトルキープのママ来る
教室の壁埋め尽くす「初日の出」
梅の香に会ふは三人目のわたし
数の子やボトルキープにある偽名
ひきがえる二重らせんは絡まらぬ
La buganvilla pereciendo,/replica los minotauros/en el laberinto obsequioso
どこまでも余白を殖ゆる鬱金香
Unbedingt unbequem: Er ist wieder da.
ウイスキーボトル春の夜の海底
嘘をもて嘘を糊塗するごとく雪
無抵抗な猫は液体春深し
左目を真似て作りし右目かな
合わせ鏡のごと連なりて山眠る
抵抗セヨと鳴く寒鴎よ我が頭にも
海鳴りを宿しボトルは冬眠す
はんぺんの孤高の抵抗おでん鍋
copy Shigure.img copy_Shigure.img
抵抗は無駄だ炬燵は占拠した
ボトルキープ仮名数多の冬銀河
風邪心地ボトルシップの波さわぐ
土鍋行くボトルキープの棚の前
抵抗の詩こそよけれ水仙花
正答をまた一つ知り新社員
手袋がワインボトルを振り下ろす
ボトルから無理に抜けでて伸びた脳
その人の屏風の模写が一寸下手
伊賀焼や深き朧に抵抗す
みどり荘ペットボトルに浮く金魚
住職のボトルの洋酒小正月
複製の春に飽く複製のぼくら
きさらぎ、と双子の声のして二月
ボトル割れカラビ・ヤウ多様体溢る
レプリカの夏、猫は炭酸水となる
ゆくりなく入道相國增殖す
原物を失くしてこんぺいとうがある
型押しのハートを床にぶちまける
双子だけの秘密狐火のゆくえ
白靴の、ボトルネックが口癖の、
ボトル缶握り出待ちダッシュや冬の星
静かなボトルこの姿で死を望んだのか
【助手の一句】
君と目が合う培養液のガラス越し
【添削】
春の色レプリカントの虹彩へ
「へ」が効いていない。普通に〈春の色レプリカントの虹彩は〉や〈レプリカントの虹彩に春の色〉とした方が良い。
淀みなく版を重ねる摺師かな
きちっとできている句だが、「摺師」が「淀みなく版を重ねる」のは当たり前なので、それだけで終わらず、季語を無理やりにでも入れて奥行きを出したい。一例だが、「かな」を捨てて「秋」を投げ入れてみるのはどうだろう。「る」も「て」にしてみよう。少し広がりが出ると思う。〈淀みなく版を重ねて摺師秋〉
文化の日海賊版に不許複製
許可なく複製された「海賊版」に「不許複製」とあるのはとても面白い。「不許複製」という表示まで原版を忠実に複製してしまったのだ。問題は「文化の日」で、ちょっと近すぎる(「海賊版に不許複製」との相乗効果が狭い範囲に限定されてしまう)。もっと良い季語があるはずだ。
窓開けずカーテン越しに睨みおく
「カーテン越し」なので、わざわざ「窓開けず」と先に述べる必要はない。誰を睨んでいるのか知りたい。
クローンの母と一緒に山笑う
「クローン」という設定が活きていない。しかも、「山笑う」は中国北宋の画論(『林泉高致』説と『郭熙画譜』説がある)に由来する擬人化の季語、つまり癖のある季語で、「クローン」のインパクトが消されてしまっている。
ペットボトルロケットの浮く花曇り
ペットボトルロケットという句材は新鮮で良い。ただ、いくらペットボトルでできるとはいえ、本来は勢いよく発射されて跳ぶロケットなのだから、「の浮く」では弱い。それとも、きちんと跳ばず、少し浮いただけで落ちてしまったのだろうか。それに、「花曇り」よりも情景を豊かにする季語があると思う。
飲用水満たすボトルの手は痩せり
着眼点はとても良い。読者にあれこれ想像させる。惜しいのは言葉と語順で(あと、「痩せり」という活用はない)、その辺を工夫すれば秀句に生まれ変わると思う。例えば、「飲用水」という言葉で良いのか、「満たす」という言葉が適切かどうか、動詞を二つ入れるべきか。
抵抗してもしなくても撃たれる
「してもしなくても」が長すぎて、一句に込められている情報が少なすぎる。せめて五音削って、その分、撃たれている情景を詠みこみたい。
コピー機の為の十円託し雪
「コピー機の為の十円託し」に文字数を使いすぎ。整えたい。ちなみに、「雪」はすでに降っているのだろうか、それとも託した時に降りはじめたのだろうか。そういった情報もわかると良い。
自転車に凍てし給水ボトルかな
「凍てし」だと、凍てたという過去の事実を述べているにすぎず、この句の場合、やや寂しい。一字変えてみたらどうだろう。「自転車に凍てて給水ボトルかな」
big big stewpan/surrounded by/resistance fighters
語順をかえて〈surrounded by/resistance fighters/big big stewpan〉の方が驚きが出ると思う。
培養を繰り返しゆく緑の子
「培養を繰り返し」がわかりづらい。「緑の子」の培養が繰り返されているという意味か、「緑の子」が自分で培養の作業を繰り返しているという意味か。
腹いせに上司のボトル飲みつくす
原因と結果の句になってしまっている。原因の「腹いせ」が不要でそこは読者に想像させたい。かわりに、何かしらの適切な言葉(たとえば季語)を入れてみたい。
影武者のわたくし急に腹こはす
どういう状況で腹を壊したのか。少し言葉を短くして、空いたスペースに情報を追加したい。
辞職願出しし記憶を共有す
記憶の共有は情報の複製になるということだろうか。ただ、俳句としてはストレートすぎて、少し屈折を出したい。いかにも俳句という型になってしまうが〈辞職願出して記憶や共有す〉とすれば、最小限の変更で切れが少しは活かされる。