2015年5月20日

「どう読むか」の問題提起として ― 武家物祭観戦記2 ―(大久保順子)

 浜田泰彦氏の「『武家義理物語』をどう読むか」要旨は、巻二の一・二の二の「御堂筋の敵討」を(否定的主題ではない)「武士の本意」の話として読む、という方向を示唆していました。そもそも『武家義理物語』のこの敵討話は『武道伝来記』の敵討話とどう違うのか、武家物の各作品の方法的な違いを立証できる要点が示されるのか、等の興味と期待とともに司会担当に臨んだ次第です。論拠の一つ、過度に「悪役」に脚色されていない嶋川太兵衛像は、後続の作品との比較の点で確認されました。

 ただし質疑応答の時にも指摘され、自分も気になった点は、論拠としての「推参」「慮外」等の用例の用い方です。実右衛門の喧嘩の場の瞬間的認知と判断「慮外といはれては断りも申されず」の下りが、当時一般の"武士としてあるまじき"態度を示す言葉への対応ととれるのか。諸本で表記に揺れのある『甲陽軍鑑』等の先行作品例も含め、その「書かれた」文脈での用例の使い方――発話者や対象者が誰か、また地文であれば書き手(主体)の位置や意図等の、吟味が問われます。引用の一覧に(相手への罵倒以外に)主体が自身を卑下する場合の用例が併存していたことは、やや説得力を弱めていたかもしれません。

 近年『新編西鶴全集』索引編の利用など、以前より作品の用例を抽出しやすくなった感はありますが、ある用例が当時総じてそのニュアンスであったという根拠、仮にその場合、西鶴作品での個々の用例のニュアンスはそれらと「同じ」なのか、また「違う」部分はどう見分けるのか。機械的な数量処理の結果だけからは見えにくいもの、文脈の中の語句の配置や、デジタルな点の部分に限らない文章の線の流れや面の感触も、「読み」に求められているものと感じます。

 浜田氏の指摘の「敵と討ち手の、双方の傷ついた名誉を回復する」といった意味を読むには、「慮外」の他の要素も総合して本文を見る必要を感じました。ニュアンスについて「大坂で届けたことで正式の敵討となったので、私闘ではないことを前提とすべきでは」(広嶋進氏)や、「口論はやはり口論であり、藩士と余所者との感情的こじれもあるのでは」(森田雅也氏)等、多くの指摘も寄せられました。「老練の大家」だけが可能な読みということでは決してなく、様々に考察されるべき敵討話の「読み」の問題を提起した発表だったと思います。

※注○武家物祭=第40回・西鶴研究会、です。

2015年5月 1日

無言のままの娘について ―武家物祭観戦記、仲沙織『新可笑記』巻一の四「生肝は妙薬のよし」考―(愛知大学・空井伸一)

 みなさま、仲さんの発表(要旨はこちら。第40回・西鶴研究会)の司会を務めるに際して、研究会事務局からまとめを書いて欲しいとのご依頼があり、このように認めました。書評的な書き方ですので敬称など略しておりますがご海容ください。

  これまでひどく貶されてきた『新可笑記』を丹念に読み直し、光を当てるという仕事を意欲的に行ってきた仲沙織は、今回かなりの難物に挑んだのかも知れない。というのも、そのような『新可笑記』の中にあって、この一篇については富士昭雄、杉本好伸、広嶋進らによる再評価の仕事が既に備わっており、従ってそれら先学の、百尺竿頭をさらに一歩を進めようとすることは、いきおい裏読み深読みの迷路にはまりかねないからだ。それ自体がかなりリスキーな企てと言ってもよい。

 仲自身もそのことは自覚しており、発表の中でも「深読みかも知れないが」という言い方を幾度となくしていた。発表の前に聞いたところ、今回は自説をまとめきれなかったが、敢えて俎板に載るつもりであるという。しかしそれにしても、質疑応答では彼女の読みを肯定的に掬い取る意見はほぼ無く、なかなかに手厳しい言葉が続いた。司会を務めていて、仲の目線と同じ方向からそれを受けとめていた自分には、それらがいずれも、この若く意欲的な研究者を育てようという、文字通り親心からのものであることはひしひしと感じられたのだが、それにしても取り柄をつかんでの意見を聞くことはなかったのは確かである。

 では、仲の試みは全くの失敗に終わったのか。私は、そうは思わない。発表を閉じる際、自分としてはおもしろく聞いたし、ところどころヒントになるポイントがあった、是非まとめあげて欲しいとも言った。これは決して仲人口ならぬ司会口からのリップサービスではない。誰もが得心するようなまとまりは示せなかったが、しかしだからこそ仲は、もしかしたらこれまで誰も気づいてこなかったこのテキストの秘密を掴みかけているかも知れない、そのように思えたのだ。以下、そのことについて粗粗と綴ってみる。

仲に対する異見に共通していたのは、この一話を仏教説話として読むこと、娘によって為される仏教的な救済の物語として見ようとすることへの違和感だった。例えば広嶋や杉本の所説は、武士が「忠」を貫くことで「孝」に尽くす娘が無惨に破壊されるという構図によって、忠孝を奨励した政道へのしたたかな批判が込められると見るものである。武士が出家する結末などは、無常を観じての厭世というよりは「義理」に詰まった挙げ句という皮肉とみなされるし、古浄瑠璃霊験譚の典拠利用などは政道批判のカムフラージュと目される。つまり仲の読みとはいずれも真っ向ぶつかり合うわけで、この大きな先学たちを頷かせるにしては、仲の所論はいささか粗過ぎた。本作に対する仲の論点を三つに絞って上げつつ、自分なりの注文をつけてみる。

 一つ目は、母親の描き方について。典拠作ではいずれも母親は亡くなっており、遺された子供たちの物語になっているが、本作では母の人物像が詳しく語られ、彼女の語りによって話の大きな部分が展開していくことを仲は指摘する。また、夫の死後貞節を守る姿などは女訓物の典型のようでありながら、娘の美貌にこだわり、それ故彼女の将来に期待を寄せるところなどは当時としては特殊な母親であると仲は言う。また、そのような期待を抱くが故に旅僧に偽装した武士に心を許し、欺かれてしまうことになる、そのような「多面的」な描き方に含みがあるという。

 私は、「子安地蔵の腹帯」を受け取って油断してしまう母親に、娘に執着するが故の落ち度を見るよりも、その娘の幸せな婚姻と出産という将来を無惨に破壊することで得られる「生肝」を奪取するために、その幸福を祈念する品を贈って取り入る武士のやり口のおぞましさの方に深い闇を見てしまう。また、娘の器量自慢な母親や、その嫁ぎ先に大きな望みをかける母親が特に際立ったものかどうかも疑問はある。西鶴もそのような母親を描いてはいまいか。だから、この母親像が特異だというのは言い過ぎに感じる。

 しかし、夫の没後いったんは世を捨てる思いであった彼女が、娘故に現世に未練を抱き、しかしその娘を失うことで再び無常を観ずるに至るという指摘には考えさせられるところがあった。これは娘によって救済される物語を読み取ろうとする仲の目論見からすれば肝心なとこだろう。ここを詰めることが仲の論を立てるためには欠かせないように思う。

 二つ目は、里人の中に「内通者」の存在があったという指摘。この美貌の娘を、当初は色欲の目で見る者もあったが、その孝心に感じ入って以降は母子の寄る辺なさに同情せぬ者はなく、村中総出ともいえる支援ぶりが描かれる。娘を陥れる存在をそこに見込めるような直接的な表現はない。しかし仲は、「物なれたる老女」が殊更に娘の「五月五日」という生月生日を言い立てたことの不審を指摘し、娘が「生肝」の提供者として好適だということが老女によって密告されたのだと見立てる。だが、出生の日付を知っていただけでそこまで言えるかは疑問で、質疑においても否定的な意見が相次いだ。仲自身も認めていたように、このままでは深読みに過ぎると言わざるをえない。「腹帯」や逃亡用の駕籠をあらかじめ用意していた武士の周到さを思い合わせれば、事前調査が行き届いていたことは確かだが、それが内通者の情報に拠るという根拠は、私には作中どこにも見いだせない。斬新な観点と言えば言えるが、今発表においては、そのように見れば見える程度のことに留まった。

 しかし仲は内通者の存在を読むことにはかなりこだわりがあるようだった。皆に愛される存在なのに、そのような悪意が存在しえたことに意味を認めたいらしい。薄幸の母娘を優しく取り囲む善意の人々、しかしその中に潜む一点の悪意、なるほど魅力的な見立てだ。ならばそれを説得力のあるかたちで呈示しなければならないし、なによりもそれが娘による救済の物語という仲の読みにどう繋がるかを示さなければなるまい。今回の発表では、その理路はたどられなかったと記憶している。

 先に述べたように、わたしは今のところこの見立てそのものには否定的である。しかしひとつ思うのは、このように深読みさせてしまう存在は、典拠や先行作には認められないということだ。それは、本作以外のどの作も、娘の「生肝」が取られることは霊験によって回避されるかたちを取るからである。身代わりになってくれる神仏もなく、むごたらしく胸を割かれた後だからこそ、老女が登場するわけであり、ならばこれは本作の決定的な作為のひとつとして考察すべきことではあるだろう。もし、仲の読みに沿わせるとするならば、身代わりになる神仏がなかったということは、他ならぬ娘自身がそうした超越的な存在を体現しているのだという見取りもありうるのではないか。

 さて、最後の三つ目は『本朝二十不孝』巻二の一「旅行の暮の僧にて候」との参照比較である。話の展開や語句表現の類似を丹念に示し、両作が同一の設定・発想を根底に持ちながら、結果としては相反するものを提示していると仲は指摘する。西鶴の少なからぬ作に認められる方法でもあり、このことについては参加者の同意を得られていたと思う。しかし、ならばそれは本作においてどのような意味を持つのかについての考察には、今回至ってなかった。むろんそこが肝心なので詰めてもらいたいところだが、この指摘自体は本作を読む上でかなり大切なことだと私は感じる。

 『二十不孝』の小吟は強烈な個性で、生来の悪、社会病質者とでも言おうか、行き暮れた旅僧に慈善の手を差し伸べながら、その強殺を親にそそのかすという両極性を示す、西鶴作においても希有なキャラクターである。それ故、彼女の名は小吟として作中明確に刻まれ、初手の悪行においては自らその手口を詳しく親に語り聞かせ、成長してからは男を選り好みし、嫉妬の逆恨み故に主家の奥方を殺害するなど、常に能動に出る存在である。対して、本作の娘には固有の名は一切示されず、作中ほとんど語ることもない。そのような彼女が、唯一自らの言葉を持って直接意志を示すのは、小吟と同じく、行き暮れた旅僧を自家に招き入れんとする、「やさし」い言葉なのだ。そして小吟とは正反対に、彼女自身が、招き入れた偽僧侶に殺害されるという悲運を遂げる。惨事に全く気付かなかった母が嘆くように、「声は立てず」にである。

 この、無言のまま身体を破壊され、その身のうちにあるものを他者の命を救うために摘出されるということにおいて、彼女は典拠における身代わりの阿弥陀や観音と確かに重なっている。仲が指摘していた本作の特異点のひとつ、生肝を本当に取られてしまうこと、彼女自身は救われないことには、確かに意味がある。彼女の身代わりはなく、彼女自身が犠牲となることで母や武士を仏道に導き入れたということであれば、そこに典拠とは違うかたちの霊験譚を見い出すこともあながち的を外したこととは言えない。仲は質疑への応答の中で、「聖なる装置」という言い方をした。多くを語ることのない、具体的な存在感には欠ける娘、そのように、ある種空っぽな中心だからこそ聖性を帯びるというのも、記号的な解釈としてはあり得るかも知れない。

 ただし、こうしたことをもって本作を仏教説話と解するのは今のところ相当むつかしいだろう。例えば、武士が最後に出家しているから仏教説話だというのならば『一代女』も出家するが、それを仏教説話と呼ぶ人はいないだろう、という厳しい指摘もあった。また、仏教説話、霊験譚の枠組で読むというのなら、武士が母親を欺くために用いる「子安地蔵の腹帯」とはどのような由来のものか、推定ぐらいしておかないでどうするという駄目出しもあった。しかしこうしたことも含めて、仲がなかなか言語化出来ずにもやもやしているところを煮詰めていくと、誰もが思いもしなかった、西鶴描くところの「胸割」の様相が見えてくるのではないか、そんな期待をしている。

 さて、最後にまったくの思いつきを書くことを許して欲しい。「生肝」を取る話、例えば「猿の生き肝クラゲの骨抜き」といった昔話は世界各所に認められるようだが、日本におけるその類の話の由来はインド説話に認められるだろう。本話の典拠というにはいささか間遠いが、『今昔物語集』巻四第四十の法華経霊験譚などは舞台そのものが「天竺」である(第四十一の「猿の生き肝」譚の前に配されている)。この話は、国王の太子が歳十三に及ぶまで一切物を言わず、その治療の妙薬として髪の美しい娘の生肝が取られようとする話だが、この、十三年にわたって言葉を発しない無言の王子は、『源氏物語』「夕霧」において心を痛める紫上が漏らす言葉の中にも認められる、その名も「無言太子」、すなわち、『仏説太子慕魄経』などの漢訳仏典に描かれる、波羅奈国の太子慕魄のことを踏まえている。慕魄の場合、その無言ぶりは国を滅ぼす不祥事とされ、彼自身の命が奪われようとするのだが、興味深いのは、慕魄は過去から未来にわたる己が宿命を見通す、いわば宿命通の神通を得ているが故に無常を観じ、その出世間の思いから言葉を発しなかったということである。彼の「無言」には、いわば阿羅漢果に到達した者の、完璧な諦念が秘められていたのだ。無言のまま殺害され、切り裂かれた娘の胸の内にも、そのような聖性が潜んでいたかも知れない、というのはいささか付会が過ぎることだろうか。

2015年4月10日

研究会の感想(石塚修)その3

武家物祭の第三段目は真打ち登場といったところでした。

井上泰至先生は、いまや近世文学のみならず近代俳句の分野でも精力的に活動をされています。Facebook仲間のみなさまはわたくしもふくめてご承知でしょうが、その最近のお仕事ぶりはまさに超人的な感じです。江戸時代でしたら、あらゆることをテキパキと裁いていく老中筆頭のごときお働きぶりとなりますでしょうか。小普請組大好き人間のわたくしとしてはただただ敬服いたすばかりであります。

こちらのフログでも前哨戦がありましたが、井上先生はお得意の軍書なかから西鶴の分野でももっと軍書の利用が話題にされてもよいのではないかという問題提起をもってのご発表でした。

ただし、そこには、事前にも話題になっているとおり、「西鶴は軍書を読んだか」、または「西鶴の読者は軍書をそれなりに読んでいたのか」という根本的な課題が課せられてしまいます。井上先生の定義では、軍書は司馬遼太郎的な「読み物」でもあったということですが、そこの普遍化は、研究会の雰囲気ではまだ常識化されていないという印象を参加のみなさんの質疑からは受けました。

さきの二つの問いかけは、図らずも、わたくしが茶の湯と西鶴を論じるに際してもあったことですので、そうした問題提起を普遍化していくことの困難さは他人ごとではなく身にしみて受け取りました。

今回は、『武家義理物語』巻一の一「我が物ゆへに裸川」における青砥藤綱説話について軍書の生成と関連付けてのご発表でした。青砥の伝承は巷間では「太平記」を通してよくしられています(わたしはなぜ修身を履修した世代の母親から子供のころに聞かされました)が、じつは、「太平記」には藤綱の名前はないことから、「北条九代記」や「新鎌倉志」なども視野にいれた探求の必要性を提案され、ひいてはそこに、西鶴の政道への批判や
風刺もこめられている可能性があるとの結論でした。

西鶴の武家物祭のレポートもこれにて、キリでございます。

2015年4月 6日

研究会の感想ー充実の三発表、ただし不満も!(有働裕)

やっぱり研究発表が中心になるのはいいですね。仲さんも浜田さんも、色々な反論を受けて怯んだかもしれませんが、結論の是非はともかく、発表過程にさまざまな大切な示唆が含まれており、大変興味深く思いました。

ボロクソに言われるのを承知で挑むのが、創立当初のこの研究会の発表形式でした。その覚悟で私も引き受けてきましたが、ふと気が付くと、若い人たちが発言せず、発足以来のメンバーばかりが意見を述べているようになっている気がしてきました。もっと色んな方に質問意見を述べてもらいたい。我々ロートルが若い皆さんを委縮させてしまっているとするなら忌々しき問題。なんとかしなくては。

井上さんの発表は、篠原先生との前哨戦でどうになることかと思っていましたが、予想に反して方向性に近いものを感じたのですがどうでしょうか。井上さんが紹介してくれた小川和也氏『儒学殺人事件』(講談社)、遅ればせながら読みました。感動的なほど面白い。『文学』の井上さんの論文とよみ合わせるしと一層面白いと思います。まだお読みでなければぜひ!

2015年4月 2日

研究会の感想(森田雅也)

今回の武家物祭?の企画、秀逸でした。仲氏の『新可笑記』からの武士の救済論、浜田氏の『武家義理物語』を「推参」、「慮外」をキーワードにを読み解こうとする果敢な論、井上泰至氏の近世軍書から青砥説話を分析しようする重厚な論。いずれも染谷氏、石塚氏のコメントに尽くされていると存じます。

しかし、「武家物」とは何なのでしょうか。今回、司会役を任されたからでなく、私自身の西鶴論のデビューが武家物だけにずっと悩んできました。全国大学国語国文学会だったでしょうか、篠原進先生に司会をしていただき、発表後「どうして評価の低調な武家物から研究を思い立ったのですか」というような質問をしていただいた記憶があります。当時の私には答えられませんでした。今も武家物の世界について明確に出来ず煩悶している私ですが、ただ、その頃からずっと「武士」に対する一つの捉え方がありました。

「武士」とは「武家」「武道」という精神美を讃える前に当時の人々にとって、為政者の集団なのです。長剣を差すだけで示される公務員なのです。したがって、この「武士」の行動を見つめる眼は、江戸以外では、町人より農民の方がずっと熱いのです。都市より地方の方が注目しているのです。

もちろん、武家物は江戸の武士たちを読者として想定した読み物ではないかという意見はその通りだと思います。

しかし、西鶴を町人という枠から外し、為政者に苛まれる一人が武家物を創作したとして見れば、自ずから題材と距離が生じ、何か突き放した武士の愚かさへの冷たい視線を感じるのです。もちろん、それをして当世批判とは言いませんが、ある意味では、江戸時代に最も多い大衆、「百姓」の目に近いのではないでしょうか。

そうすると、武家物は特別な枠組みではなく、単なる武家や敵討ちを題材にしただけの諸国話にすぎないのか?
ここに第三のビールを示さねばならないのですが、今、考案中です。

2015年3月31日

研究会の感想(石塚修)その2

研究会の感想(石塚修)の続編です

武家物祭の2段目は、佛教大学の浜田先生のご発表です。先生は「ちゃはつ」ですが研究は誠にぬばたまの黒髪のごとき丁寧な語句からの読みでした。(ちなみに、チャパツはキンパツとは異なり音韻としては不可ですね)

それはさておき、『武家義理物語』巻2-1と2のお話は、西鶴のなかでも年号も事件も特定できるという点で際物的な章です。その描写について、「慮外」「推参」という語句のレベルから、喧嘩の原因を探り、読み深めていこうという趣旨でした。仇討ちの話としてではなく喧嘩口論の話として読めないか、もし喧嘩口論ならば序文と齟齬が生じ、そのことが「義理」というテーマの理解にもつながるという指摘でした。発表後、まさに槍衾状態の質疑が飛んでいましたが、浜田先生は、しっかりと傘を広げて受けて立っておられました。

ところで、この事件の発端となる「傘のふりあて」ですが、一時期流行って、文部科学省もだまされた、あの「江戸しぐさ」の一つですね。「江戸しぐさ」のできなかった徳島の田舎のお武家さまが、傘があたったことで斬り合いになって、あげくはその敵討ちにまでおよんだとなると、かっこうの「江戸しぐさ」の教材なんですがねぇ。あの活動はその後はどうなったんでしょうか。

2015年3月30日

新旧の酒、取り交ぜて新しい革袋に(染谷智幸)

先週木曜日、西鶴研究会が盛会のうちに無事終了いたしました。
今回はご発表が3本、どれも力の入った充実した発表だったと思います。

ご発表についてのレポートについては、何人かの方にお願いいたしましたので、近々このブログに上がって来るかと思いますが、もちろん、それを待つ必要はありませんので、どなたでもご感想なりご批判なりをお寄せください(染谷までメールでお送りください)。

(と書いている最中に、石塚さんからご投稿がありました。感謝。)

今回は「武家物祭り」の体になりまして、私としては、つくづく時代を感じました。西鶴研究を続けていると分かりますが、武家物というのはなかなかに取っつきにくいものなのです。その理由は様々ですが、やはり好色物・町人物で浮かび上がってくる西鶴像を、武家物に結び付けにくいというのがあると思います。好色物や町人物では、比較的したたかで表現本位の作者精神というものが浮かび上がりますが、それをそのまま武家物にスライドさせられないところがあります。

逆に言えば、西鶴とは何かは、武家物を理解してこそ分かるものである、とも言えます。そうした意味で言えば、今回の武家物祭りは、その西鶴研究の問題と、昨今の武士・いくさと文学研究の深まりが啐啄するという、当に時宜にかなったものだったと思います。

特に、今回3本目にご発表された井上泰至さんは、昨今近世軍書や武家説話の研究を集中的に展開して居られ、そうした外濠を埋めて(浜田啓介氏『上方文藝研究』第11号)の大坂夏の陣であったわけで、様々に興味深いものでした。

図らずも岩波『文学』(3・4月号)にて「いくさと文学」の特集があり、井上さんと佐伯真一さんの対談、鈴木彰さん等若手の活きの良い論文、昨今金時徳氏の発見された『新刊東国通鑑』報告などの好企画が目白押しです。

私は、二年前に佐伯さん井上さんとご一緒に韓国へ行った際、お二人の会話を横で聞いていて、新しい時代の到来を感じたことがありました。その時のことはリポート笠間55号に書いた「十五~十七世紀、室町―上方文学論は可能か」でも触れましたし、またこうした題で文章を書こうと思った切っ掛けにもなったことですが、地殻変動は確実に始まっていて、今回、風雲急を告げる西鶴城を、直下から揺るがす事態になったというわけです。

いずれにせよ、もう中世も近世もありませんし、西鶴を近世や文学(旧態の謂)の枠内で捉えて行くことも無理でしょう。作品・作者をその時代の中で捉えるなら、それはその時代のあらゆる文物との関係の中に作品・作者を解体し、さらには「その時代」という枠組みも解体しつつ、国や国語の枠をも解体しなければ出来ないはずです。中途半端はそれこそ近代やその文学観の残滓です。

ちなみに、この岩波『文学』に載る座談会「「聖なることば」が結ぶ世界」(ジャン=ノエル・ロベール、ハルオ・シラネ、小峯和明)は必読です。日本はもちろん、東アジアやさらにはアジアへ目を向けた時、仏教の存在が大きいことに私は何度も驚かされましたが、その仏教の中でも『法華経』は極めて大きい存在です。

平岡聡著『法華経成立の新解釈-仏伝として法華経を読み解く』(大蔵出版、2012年)から、改めて『法華経』の勉強をしなおしましたが、この経典の悉皆成仏(一仏乗)と日本神道のシンクロには日本とは何かを考える上で極めて重要なものが潜んでいるように感じているところです。

西鶴と『法華経』。これも西鶴-日演-遊女吉野というラインで、西鶴に深く絡みます。いずれ論じてみたいと思っています。

研究会の感想(石塚修)

今回の研究会の懇親会で、染谷先生のお向かいに座りましたために、「なんか報告を書きなさい」とのご下命、「慮外ながら」感想めいたものをしたためますが、「推参」と思われたらご海容下さい。そもそも、この書き出しがおわかりにならない方は、研究会に参加されればよかったと歯ぎしりあそばすことでしょう。

さて、今回は、西鶴の武家物の発表が3本。豪華絢爛の西鶴武家物祭でした。後半はやや血祭りとの声も参会者から飛び出すほどの質疑のやりとりでございました。さぁ、そのあたりは知る人は知るぞかし。

一本目は、大阪大学の大学院生仲さんのご発表。質疑のとき、N先生は「沖さん」と間違って何度も名指しされ、直されたときに、「花粉症だ」とごまかされていましたが、あれは、先生の「そろそろ沖に釣りに行きたい」という深層心理の表出であることを小生は見抜いていましたぞ。それはさておき、仲さんのご発表は『新可笑記』一の四「生肝は妙薬のよし」をとりあげ、浄瑠璃作品と『本朝二十不孝』との比較から、この章のテーマの読みを深めていくという趣旨でした。

論証経緯は飛ばして、最終的には、だました武士が出家して救済される仏教説話として読むべきだという主張であったかと存じます。仏教説話として読むということには、たくさんのご意見が出てきていて、この手の話をすべからく仏教説話としてしまうと、西鶴はなんのために『新可笑記』を書いたのかということにも関わることにもなりかねませんので、各章の「読み」をかえることは大切ですが、作品全体のテーマ性との関連をも含めて問題にしないとならないとの感を強くいたしました。

ご発表を伺っていて、いかに主命であっても偽坊主になって殺人を犯して生き肝をとった武士が良心の呵責に耐えられずに、母親に告白して出家し、母親も改めてその話を聞いて仏道への心を深めたという話は、じつは、救済というならば母親が救済されたのではないかと考えました。

以前に三浦綾子のエッセイで、わが子を殺した殺人犯が出所したあと、被害者の母親を謝罪のために訪ねたところ、泊まっていくように言われ、なんと枕を並べて寝て、母親がその犯人を母親として抱きしめてあげるという話がありました。懺悔と許容、そこにこそ宗教の普遍があるのではないでしょうか。

この話ももし仏教説話として読むならば、そのように読める可能性も感じました。

研究会の感想(石塚修)その2、につづく

2015年3月 2日

西鶴研究会のブログ、さまざまにご活用を(染谷)

西鶴研究会のブログが始まりまして、すでに篠原さん、井上さんの研究会前哨戦が始まり、まことに慶賀の至りです。会員のみなさんはもちろんこと、西鶴にご関心のある方はぜひ、この議論に乱入、いや一石を投じていただければと思います。気取って傍観などしてちゃダメですよ。それこそ、不好容儀(いやなかたぎ)と言われかねません。私もそのうち折を見て闖入したいと考えて居ります。

とはいえ、こうしたある種のテーマを持った議論も大事ですが、それとは別個にというか、勝手にいうか、ご自身の近況報告なども、どしどしお寄せいただければと存じます。また、西鶴に絡んだ簡単なエッセイなどでも結構です。よろしくお願いいたします。

と事務局長的にはここで終っても良いのですが、「先ず隗より」ということで、私の近況をすこし・・・。

最近、元外交官の佐藤優氏の本をよく見かけますね。印象的な御顔立ちの方で、あの鈴木宗男氏(こちらもかなり印象的な方ですが)に、外務省のラスプーチン(帝政ロシア末期の怪僧)のと言われた方です。それでというわけではないのですが、幾つか買って読んだところ面白くてハマってしまいました。特に面白いのが、外交官時代、ロシア(ソ連)に滞在していた時の話。丁度、ソ連が崩壊した時で、その市場の混乱ぶりの話がすこぶる面白い。

たとえば通貨ルーブルの価値が暴落、だれも御銭(おあし)を相手にしない。じゃどうやって経済が成り立ったのか、商品が流通したのかというと、御銭の代わりに煙草(マルボロ)とかお酒(ウォッカ)が大活躍したらしい。佐藤氏も日本から議員が来て食事などに招待した場合、ルーブルの代わりに煙草ワンカートンとか持っていくと、店員は極めて丁寧に応対してくれたとか。

かのマルクスは、貨幣が通用する前に貨幣に代わるものが通用する時代があると確か言っていましたが、まさにそれですね。日本では米や布だったわけですが、煙草・酒というのが如何にもロシアらしい。

佐藤氏は、こうしたソ連崩壊の中に資本主義のスタートが見えたと言っていました。

実はこれが、西鶴研究に則しても面白いんですね。というのは、こうした大混乱の中で起きたことが西鶴の町人物『日本永代蔵』『世間胸算用』のドタバタ悲喜劇とけっこう通じることです。たとえば『永代蔵』巻五の一「回り遠きは時計細工」の中に長崎に集まった手代たちが、主人がどうして分限(金持ち)になれたのか話をする場面があります。ここで語られるのは、その主人たちのほとんどが偶然やイカサマまがいの行動で金をせしめ、それから商売に成功したということです。佐藤氏の話の中にも、これに似た話がいくつも出て来ます。ソ連が崩壊した時、相当荒っぽい方法で金や物資を集めた人たちが、その後のロシアで企業展開していったらしい。西鶴が言う「その種(まとまった金)なくて長者になれるは独りもなかりき」(前掲章)です。

実は江戸時代初期が典型的だったらしいのですが、資本が初転してうまく展開するためには、相当な資金が必要で、その金は、植木等じゃないけれど、コツコツやる奴ではだめ、偶然か大ばくち、もしくは犯罪紛いの行動で手に入れたということなんです。かつて歴史学者の中井信彦氏が言ってましたが(『町人』小学館、一九七五年)、江戸初期の商家の手代たちで後にのし上がった人たちは「引負」「取り逃げ」(共に違法な使い込みのこと)で財をなしたんだと。西鶴も『永代蔵』巻一の三「浪風静に神通丸」で、当時の手代たちの多くが「自分商を仕掛、利徳はだまりて、損は親方 にかづけ」(「自分商」とは使い込みのこと)たと言ってます。それを禁じる御触、町触も多く出ています(京都町触集成、江戸正宝事録など)。

つまり、西鶴が同じく『永代蔵』で言っていた、「惣じて親のゆづりをうけず、其身才覚にしてかせぎ出し」(『永代蔵』巻一の一「初午は乗てくる仕合」)とか、「人は十三才迄はわきまへなく、それより廿四五までは親のさしづをうけ、其後は我と世をかせぎ、四十五迄に一生の家をかため、遊楽する事に極まれり。(『永代蔵』巻四の一「祈るしるしの神の折敷」)とか言うのは、ウソではないけれど、かなり稀というか希望的な話で、実際はやはり西鶴が言っていたように「銀が銀をもうけ」(『西鶴織留』巻三の三「色は当座の無分別」)るのが経済といか金融世界の常道・基本だったということです。

こうした強奪まがいの自由主義的貿易からスタートした日本の資本制だったわけですが、それでは社会が安定しません。昨今人気のトマ・ピケティ(『21世紀の資本』)が言うように格差は開くばかりで、経済構造自体が崩壊する可能性がある。そこで、既に儲けた人たちは何とか社会の安定(と同時に自分と富の保身)を考える。江戸時代にはそれが商家の暖簾分けを基本にしたイエ制度として現れたわけです。これで江戸時代は安定した。

ただ、この安定は固定でもあったわけですね。つまり昨今の格差是正という話も耳には心地よいけれど、その裏で変な法律が施行されたら大変です。要するに勝ち組が勝ち組として永続化するということでもあるのです。そんな話に乗っていいのかどうか。。。

さて、いささか脱線しましたので話をロシアに戻せば、大切なのは、ソ連崩壊とロシア経済の黎明に、江戸時代初期に日本で起きたことと同じようなことが起きていたということです。これはすこぶる面白い。つまり、西鶴の町人物の世界とは、別に過去の世界ではなく、現在でも社会主義・共産主義から資本主義へ移行するところ、または発展途上国の中などに見ることが出来るということです。

ちなみに、この2月中旬の2週間、ミャンマー(ビルマ)へ行ってきましたが、そこでも同じような体験をしました。

たとえばミャンマーに行く前に、国内でUSドルは使えるがピン札でないとダメだ、しかも折ったりしてもいけないという話を聞きました(ピン札というのは、日本でも結婚式の時とか必要なので分かりましたが、折ってはいけないというのには驚きました)。そこで銀行で両替したピン札を後生大事に持って行きまして、現地に着いてからチャット(ミャンマー通貨)に換えて使いました。同行した学生たちには、両替を鵜呑みにしてはいけないよ、ちゃんと自分で数えて確認しなさい、などと言ったのですが、そんな教訓をたれた私たち教員側にこんなことが起きました。

それは、ミャンマ-のパガン(パゴダ[仏塔]が多くある古代都市、世界の三大仏教遺跡の一つと言われる)に行った時のこと。ある店で食事をしたのですが、最後の支払いで出したチャット札を店の主人が受け取れないというのです。良く見ると、お札の端がほんの少し破れていて欠けています。他のチャット札もそんなに綺麗なものではないので(むしろ汚いので)、こっちはこれくらい問題ないだろうと言い返しましたが、向こうはエライ剣幕でダメの一点張り、結局受け取ってもらえませんでした。

旅の気分が台無しにされた話ではあるのですが、後で考えて見ると、折っちゃいけないUSドル札も、このキズもんチャットの話も、まだミャンマーでは貨幣が全き貨幣になっておらず、物の部分を残しているということなんでしょう。

ご承知のように『永代蔵』には悪銀を掴むなという話がいくつも出て来ます。江戸時代の大阪は銀遣いで天秤をつかった計量取引でしたから(ちなみにミャンマーにこの天秤がありました)、銅などを交ぜた粗悪な銀も出回っていて、それを掴まないことが商人の見識の一つとされていました。

ミャンマーの店主から見れば、悪銀をつかんだお前たちが悪いということなんでしょうね。

それから、ミャンマー最大の都市ヤンゴンへ行きました。ちょうどホテルの近くが様々な商店(問屋)街でした。パガンのような事件?があったからでしょうか、興味津津で散策すると、これが実に面白い。人を撥ねるばかりの車やバイク、強烈な悪臭、そうした中の取引する声や若い店員を怒鳴りつける声。まさに生き馬の目を抜くようなエネルギッシュな喧騒世界は、綺麗で清潔になった日本が失ったものです。そして、それこそ『永代蔵』の世界そのものでした。

前々から西鶴の町人物の世界を理解するためには、文献を漁るだけじゃなくて、今まさに資本制が立ち上がろうとする、世界の都市をみるのも役立つんじゃないかと漠然と思っていましたが、今回の旅でそれは確信になったような気がします。

ちなみに、3月中旬には台湾に行ってきます。こちらの商売は様々な神様と合体しています。『永代蔵』にも多くの神様が登場しますが、商売と神は切っても切れない関係にあります。噂によれば、今をときめく六本木ヒルズあたりのIT長者も神棚を飾っているとか。投機には運不運が付きまといますから、神様に頼る心情は良く分かるところです。その商売と神の根元的関係が、台湾にたくさん残っていそうです。

何か面白い話があれば、またご報告したいと思います。(以上)

2015年2月26日

「ルビンの壺」は顔でも壺でもない――篠原進さんの批判に接して(井上泰至)

 書くこととは、〈賭け〉ることです。篠原さんの論文を読んで、最初にこのことが浮かびました。書いた当人が予想もしなかった受け取り方も当然生まれます。しかし、そのことも含めて、書いた人間は責任を負わなければならないでしょう。さて、私の〈賭け〉は、勝ちか、負けか、はたまた引き分けなのか、投了なのか。それは当事者以外の判断にゆだねるべきでしょう。

 この文章は、篠原論文への正面からの応答ではありません。それは本来、私の論文に向けられた疑問の、根拠となる部分について、きちんとした答えを用意して、正式な論文の形で行われるべきものです。

 今ここでは、HPにアップするというスピーディな対応を取られた篠原さんにお応えすべく、あえて拙速を尊び、批判論文を読んで感じた私なりの問題意識を書きつけておくことで、期せずして武家物特集の様相を呈した、来る西鶴研究会の建設的な議論につなげたいと思います。「篠原さん」と呼ばせて頂いているのもそういう理由からです。

 そもそも私の論文の標的は、三つありました。これは西鶴研究会の折にもはっきり申し上げたし、論文の副題にも挙げていますが、まずは中村幸彦氏の「武道」解釈です。私の近著『近世刊行軍書論』自体が、氏の小学館古典文学全集(「英草紙」などの入った巻)の月報にあった軍書についての見方から出発しているくらいで、氏の研究は仰ぎ見る指針なのですが、西鶴の「武道」を、時代がずれる貝原益軒の『武訓』などを引いて、人倫全体に一般化して解釈してゆくのには異論がありました。

 そして、この中村氏の解釈は、篠原さんも今回の論文で認めているように、その後きちんと受け止められず、私には「なんとなく」批判もされず、通用しているように見えたのです。「武道」という言葉の来歴を洗えば、そのような見方にならないことは、既に書きました。

 もちろん、篠原さんが今回問題にしているように、私の論文では、西鶴の「武道」の用例を全部挙げず、『武道伝来記』の用例のみ、それも自明と思えるものは措いて検討しただけです。篠原さんが私の論に納得いかないのは、一つはそこにあったことはよく理解できます。「武道」を「武士」と解釈する立場も含め、今回篠原さんが疑問の根拠とされた諸用例について私なりの考えはありますが、そこは機会を改めて意見を述べたいと思います。今は、冗長を嫌うあまり、用例の検討を徹底して挙げなかったことを反省するばかりです。

 二つ目の標的は、西鶴本の読者と軍書の読者は違う、とする「常識」です。これについては、単行本にこの論文を入れる際、補記の形で、甲州下井尻村の郷士が双方を熱心に読んで抜き書きしている例(横田冬彦「「牢人百姓」依田長安の読書」「一橋論叢」一三四参照)や、『葉隠』に『男色大鑑』からの引用があることなどを指摘しておきました。拙論初出時、中野三敏先生からも、「大名蔵書に好色物・町人物はない、まず武家物だ」と賛意を表して頂いたのですが、これは私も軍書調査で得た実感です。

 今回の篠原さんの論文には、双方の読者が違うと思うとは書いてあるが、その具体的根拠も、私の挙げた根拠への批判もありません。西鶴本と、堅い長大な軍書とでは読者が違うと考えたくなる気持ちもわからないではないです。しかし、だからこそ「武道」は焦点化してこなかったのではないでしょうか?『近世刊行軍書論』の全体を読んでいただければ、寛文・延宝期以降の軍書は娯楽性も濃くなり、当然読者層が拡がったことはご理解いただけるはずですし、その前の時代に出た堅い『甲陽軍鑑』すらが、元禄には小本として、軍談中心の編集がなされ、娯楽読み物化していること、さらには『武道伝来記』の翌月に出された『諸国敵討(武道一覧)』の多くが『甲陽軍鑑』を引用している事実は、当の批判されている私の論文に書いたことですが、これには批判も言及もありません。これ以上の議論は平行線となりますが、少なくとも、私の提示したこれら数々の根拠への問題点を示すか、あえて私とは違うご意見を下される根拠を示して頂くことを切に願うものです。

 さて、三番目の標的は、『武道伝来記』を「敵討」の方面から論じてきた傾向です(もちろんこれが全てだとは言いません。「主に」と書きましたが、この傾向が論の「主流」であるか否かについては、改めてきちんと整理し直しましょう)。角書にある「敵討」は趣向に過ぎず、「武道」こそが、一度正面から論じられるべきなのは、この作品がまともな敵討ちが必ずしも描かれていないことで従来から議論になってきたことや、その書名から見ても当然のことに思えましたが、そういう論文が皆無だったことが私には驚きでした。そういう傾向の背後には、西鶴と「武道」のような勇ましい言葉は、結びつくはずがない、というバイアスすらあるのではないかという疑問から私の研究は始まったわけです。

 私の論文に対して、西鶴研究会の発表以来受けた感触では、一番点数の辛い篠原さん(発表時、「今回だけは許す!」とおっしゃったのには面喰いました)すら、「武道」という言葉を正面に据えて考えることは一旦認めた上で、「勇武の意味の「武道」」の裏に蓄光されたそれ」に焦点を当てて論じられた今回の篠原さんの「姿勢」には、「我が意を得たり、蛮勇を振るって西鶴を論じてよかった」と心から喜んでいます。篠原さんも、当代の武家への皮肉な視線を読み取る、私の立場には賛成して頂いています。もちろん私と篠原さんの立場の違いはあって、それは西鶴が勇武の「武道」に本気で与していたかという点であることも、先の「武道」の用例の検討から明らかです。

 篠原さんがよく言及される、ルビンの壺は、顔なのか壺なのか、それも大事ですが、表裏一体の形そのもの(=武道)が前景化したことが、今回の応酬での一番の成果ではなかったかと勝手に自画自賛しています。私は、西鶴は顔も壺もありの人だと狙いをつけていますし、今度の西鶴研ではそういう発表をする積りです。また、胸をお借りできれば幸いです。