2012年8月23日

第35回・西鶴研究会(2012年8月23日(木) 午後2時~6時、青山学院大学 総合研究ビルディング 10階 第18会議室)

日程     第35回
2012年8月23日(木)
午後2時〜6時
場所     
青山学院大学 総合研究ビルディング 10階 第18会議室 

◆『本朝二十不孝』― 教訓に違和感を生み出す親子の共通性 ―

                   愛知教育大学大学院  中村雅未

 『本朝二十不孝』における評語や教訓と作品内部との矛盾については、これまで数多くの指摘がなされてきた。たとえば、全五巻二十話において、語り手や世間の評判によって作中の不孝者を悪人だと断定する記述は非常に多く目に留まる。その所業を見る限り、確かに彼らは悪人だと言えよう。しかし、不孝者の話を集めた作品という設定でありながら、不孝者の親にあたる人物の描写から始まる話や、子よりも親の描写の方が多い話も多々存在しており、そこに違和感が感じられる。

巻一の二「大節季にない袖の雨」も、こうした矛盾を抱えた作品である。主人公・文太左衛門の所業は確かに悪人と呼ぶにふさわしく、これと末尾の「世にかかる不孝の者、ためしなき物がたり、懼ろしや、忽ちに、天、これを罰し給ふ」という教訓は、確かに対応している。しかし、主人公よりも親に多く割かれた描写や、親と子の価値観の共通性に注目すると、印象が異なってくる。没落し、人々が見切りをつけて立ち退いていく伏見の町において、ひたすら将軍の上洛を願い、繁栄と零落を繰り返す主人公・文太左衛門の親。一家心中の危機に際して娘が身売りした金を「銀ほど自由なるものはなし」と年越しに充てる無計画性と倫理観の欠如こそ、主人公に引き継がれ、一家を滅ぼした要因であった。

また、巻二の一「我と身を焦がす釜ヶ淵」も、同様の矛盾を抱えている。有名な盗賊である主人公・石川五右衛門の悪事が、その父親によって語られており、この父親の存在感を看過することはできない。また、本話では、典拠となった郭巨説話、石川五右衛門伝承の当時の受容状況から見て、五右衛門の処刑の場に描かれているべき母親の存在が話中から削除されていることが目に留まる。話中には父親が書き込まれているものの、五右衛門の処刑の場には描かれない。父親が挿入された意味は、父と五右衛門、五右衛門と息子という、二組の父子を作中に作り出すことにあったのではないか。つまり、「我と身を焦がす釜ヶ淵」は、有名な悪人を間に挟んだ二代の親子を、父が息子を犠牲にするという共通の構図で描くことによって、むしろその悪人よりも親としての自覚を持たない親の姿を、アイロニカルな視点で描き出した作品として捉えてみたい。

『本朝二十不孝』という作品は、不孝譚という形式を取りながらも、同時に親子の共通性を描き出している。すなわち西鶴は、子のあり方だけを問題にするような「孝」「不孝」の概念に疑問を発していると考えてみたい。

◆『武道伝来記』の「武道」                防衛大学校 井上泰至

 門外漢が、西鶴について発言しようというのは他でもない。江戸時代の「武士の文学」について、ここ十年あまり関心を持って追いかけてきた立場から、標題に挙げた「武道」の意味が、にわかに気になってきたのである。

この時代、「武道」という言葉の流通において、決定的な役割を果たしたのは『甲陽軍鑑』である。西鶴は、そういう一般的な「武道」の意味や、それを流通させたテキストと、どう歩調をあわせ、あるいはどう距離をとりながら作品を構築したのか。

従来は「敵討」のみに焦点が当てられてきた感のある本作を、そういう視点から読み始めてみると、どういう読みが可能なのか。近年の史学・思想史学・軍記研究の成果を踏まえつつ、「武道」という言葉をめぐる当時の文脈と西鶴の位置を整理することをまず志し、「武道」に皮肉な視線を投げかけたとして注目されてきた話以外、具体的には巻一ノ一を中心にその読みを提示して、従来光の当たらなかった別の面が、この作品にはあるのではないか問題提起をしてみたい。

その他     司会は前回発表者の予定です