vol.1・見城徹ロングインタビュー立ち読み

本書148ページから163ページに掲載した、
見城徹さんのロングインタビューを一部紹介いたします!

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一匹の切ない
羊のために
「表現」はある

……… 篠原■ 先の総選挙が典型的だったのですが、第四の権力としてのメディアを体制側が握ることに底知れぬ危険性と恐怖を感じました。村上龍の言葉(『群像』05・6)ではありませんが、文学やメディアというのは本来マイノリティの側に立つべきという考えは古いでしょうか。
 『見城徹 編集者 魂の戦士』(KTC中央出版)を拝読した印象では、編集者とは表現者(切なさを過剰に抱えた一匹の羊)の内包する強烈なエネルギーのトランスフォーマー、すなわち表現者の発電する高圧電流を家庭用の二〇〇V、あるいは一〇〇Vに変圧する装置のようにも思えるのですが、編集者はどこまで表現行為にかかわることが可能なのでしょうか?またかかわってはいけない領域はどんな部分なのでしょうか。見城語録には「顰蹙は金を出してでも買え」、「売れた本は良い本」、「価値紊乱者」などという露悪的言葉が躍っていますし、出版物も小林よしのり『靖国論』と『ジャスミンを銃口に︱重信房子歌集』など右と左が混在しています。逆にどんなに売れそうな本でも、絶対に手を出してはいけないというタブーのようなものがありますか。重信さんの本などは、とても売れそうには思えないのですが。
見城■ ええ、売れるとはまったく思ってなかったです。
篠原■ そうですよね。悪ぶっていると言っては失礼ですけれども、見城さんには一方で「本」へのものすごい思い入れがあって、これはマイノリティの側に立つかどうかというのは別としても、採算を度外視しても出したい或る領域があるのではないかなと思ったんですが。
見城■ っていうか、マイノリティっていうよりも、共同体か非共同体かということだと思います。
 表現というのは、非共同体の一点にかかっていると思います。イエスの例えの中に羊というのが出てきますけど、私は千匹の、いや百匹でもいいや、百匹の羊の共同体の中で一匹の過剰な、異常な羊、その共同体から滑り落ちる羊の内面を照らし出すのが表現だというふうに思ってるんですね。そのために表現はある。ですから、共同体を維持して行くためには、倫理や法律や道徳やそういうものが必要だろうけども、一匹の切ない共同体にそぐわない羊のために表現はあると思っているわけです。表現がある限りはすべてを奪われても、表現というのが残っているかぎりは、その人はすべてを失ったことにはならないというふうに思っているわけです。
 権力のとらわれの身になって、すべてを奪われても想像力があるかぎり、イマジネーションがあるかぎり、その人は救われると思っているわけです。だからものすごく抑圧されているものからしか、芸術というのはあまり出てこない。能でも歌舞伎でも狂言でも、華でもお茶でも、ぜんぶそれは被差別のところからしか出てきていない。桎梏や抑圧が表現するものを豊かにするということは確実にあると思うんですよね。葛藤は大きければ大きいほどいい。そこからしか表現は出てきていないというふうに僕は思っているんですよね。
篠原■ ただ、ある程度洗練が加えられていくと、カブキもの的な精神も次第に失われていきますよね。
見城■ 小手先になっちゃうんですね。だけど、表現でやらないと、とらわれの身になるというかね、実際に何かやってしまったら、たとえば犬を犯したい人もいるわけだし、人を殺すことが快感の人もいるわけで、それをやってしまったらば、それはとらわれの身になったり、変態と呼ばれるわけで、それを表現によって自己救済するというのが初発だと思っていますから。
 重信房子のやったことというのは、それは客観的な善悪なんかないと思うんですよ。重信房子、または奥平剛士がやったことというのは、それはある側面から見ればとんでもない犯罪者、テロリストかもしれないけれど、ある側面からみれば、それは天使のような行為だったというふうに見えるわけですよ。それは目にみえない形で日常的に圧殺されている人たちがいっぱいいるわけで、それを変えるためには爆弾を投げざるを得なかった、銃を乱射せざるを得なかったっていうことがあるわけで、それを奥平と共にやってきた重信房子という人の、とりあえず共同体を維持しようとする所からずれた心情は、やはり短歌という表現で出版しておきたかったんですよね。
篠原■ そういう人たちが内包している不定形なエネルギー、マグマみたいなもの。それを本にまとめていく過程で、相当に切り落としていかなくてはならないのでしょうか。
見城■ いや、だけど基本的に持っているオリジナルなものというのを僕らは変えることはできないわけで、オリジナルなものがないかぎり、それは表現にはならないわけですから、そのオリジナルなものをどう発見するかということなんです。ただ、オリジナルなものというのは、おっしゃるようにいびつだったり、まとまりがついていなかったり、変形だったりするわけですよね。
 僕らが出来ることといったら、技術的なことなんですよ。ブラッシュアップしたり、補助線を引いたりということだと思うんですよね。でもその場合、編集者に必要なことは、オリジナルなマグマを持っている人に対してどれだけの刺激を与えられるかということだと思うんです。で、その刺激を与えることによって、この人のために自分は作品を差し出そう、表現を差し出そうという気にさせるかどうかだと思うんですよ。こいつとやったらば、俺は作品を作れるかもしれないというふうに思ってもらうことがまず編集者の第一であって、次に編集者にとって大事なのは、それをちゃんと形にするということだと思うんです。だから文章がへたくそだろうと、まとまりがなくたっていいんですよ。オリジナルなものがあれば僕らはそれに立ち向かっていくわけで、そのオリジナルなものを持っているか持っていないかを判断する能力が、編集者の一番の能力だというふうに思うんですよ。
篠原■ 表現者というのは常人には理解し難いものを持つ、わがままな荒馬のようなものだと思うのです。
見城■ 僕にとって黄金の表現をする人たちは、みんな一筋縄ではいかないんですよね。言葉は悪いけれども、みんな「狂人」です。たいがい扱いやすい人はろくな表現をしないんですよ。共同体を維持するという方向でしか、すべてのことは動いていないわけで、そことはまったくベクトルが反対のところが表現だというふうに思ってます。
中嶋■ 尾崎豊さんはある意味では「狂人」として非常にわかりやすいですけれども、たとえば、伊藤整のように仮面紳士みたいなことを言う人もいますよね。そういったものを直感的に見抜くわけですか。
見城■ そうですね。それができないと編集者というのは成立しないと思います。伊藤整って相当変な人だったと僕は思っています。それは株で儲けろとか、ヘアヌードのたぐいの本でも同じだと思います。だからこの女優がどれだけ「狂人」か、どれだけの覚悟を持っているか、または共同体にそぐわないか。
 別に小説じゃなくても詩じゃなくても短歌じゃなくても、何でもいいんですよ。異常なものを嗅ぎ分ける能力です。それがない限りは、編集者としてはなかなか成立しがたいというふうに僕は思っています。あるレベルの人たちは個性的ですから誰でも異常さはあるんです。非共同体的なものですね。そこをどういうふうに嗅ぎ分けて、どういうふうに切り込んでいくかということだと思うんですよね。
篠原■ これは出せば絶対売れるけれども、手を出したくないというものはありますか。
見城■ ないです。でも止めたのはありますよ。これはたぶん一〇〇万部二〇〇万部売れただろうというので止めた本はあります。途中までいって。ある女性歌手の、自分はどう生きてきたかというもので、それはもうすごい本です、どういう本だったかというのは、ちょっと……言えません。
 また七年前にある相撲取りが突然やってきて、自分の本を出したいと言って、一週間しゃべり続けたことがありました。それは出せば、二〇〇万部、三〇〇万部、いったかもしれないけれども、両方とも出したら、たぶん彼は相撲をやっていられないし、その女性歌手は芸能人をやっていられない……。それはやれないけれども。それ以外のものは特にないですね。
中嶋■ 表現者にとって表現するということが、ある意味では救いになる、書くことによって救いになるということがもちろんあると思うのですけれども、書くことによって、逆に底のほうにのめり込むような表現者もいると思うのですが。
見城■ 僕は精神科医でもなんでもないんだから、そんな倫理的なことを言われても困ります。とりあえず、あなたこれを書かなければ一歩も前に進めないでしょうと言って、書いてもらう以外にないわけです。それはそれで躁鬱病になろうと、僕はいい作品さえ手に入れればいいんです。だから極端に言えば殺人者であろうと変態であろうと、それから書いたためにその後自殺されようと、僕らは作品がすべてですから、いい作品さえもらえればそれでいいんです。あとは知ったこっちゃないんです。そう考えなければ編集者なんてやってられませんよ。


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