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2017年5月29日

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●渡辺麻里子「日本古典文学のファンを増やすために―文化コードの断絶のなかで」【特集1・いま全力で取り組むべきことは何か】●リポート笠間62号より公開

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リポート笠間62号より、渡辺麻里子「日本古典文学のファンを増やすために―文化コードの断絶のなかで」、を公開いたします。

リポート笠間は、小社のPR誌で年2回刊行しています。送料無料・購読料無料。定期購読は随時受け付けています。お気軽にご連絡ください。詳細は以下のページでご確認ください。
http://kasamashoin.jp/report.html

ご連絡お待ちしております。

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特集【趣旨】は、以下。

文学教育にせよ、研究にせよ、
すべてのものが、まるで自明のものではなくなったように
見えてきてしまう昨今。
それぞれの立場から、
「いま全力で取り組むべきことは何か」について
お書き頂きました。
これから、何をどうしていくのがいいのか。
ヒントを得たいと思います。

※web版では、ルビをカット、傍点を太字に、また、改行等適宜行っています。ご了承ください。

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渡辺麻里子「日本古典文学のファンを増やすために―文化コードの断絶のなかで」

 一人でも多くの古典文学ファンを増やしたい。古典文学研究者ならば、誰でも考えることであろう。古典文学の魅力を伝えるために、目の前の受講生を大事にし、書ける機会、話せる機会を大事にする。一人でも二人でも、「へ〜、古典って面白いね」と思ってもらえたら、それほど嬉しいことはない。古典文学好きが一人増えれば、裾野が広がる。人文学軽視の風潮が激しさを増す今、迂遠な策に感じられようと、「古典文学を読みたい、知りたい」と思う人を増やしていくことが何より肝要である。

 授業の時には、「この学生にとって生涯最後の古典の授業だ」と考えて授業をするようにしている。高校生の場合、進学先の大学の教養科目で古典文学を受講する可能性が若干あるが、多くの場合、生涯最後の古典文学の授業になる可能性が高い。大学の一般教養科目もまた同様である。目の前の受講生たちが、古典を面白いと思うかどうか。それはとても重要なことである。

■一、読んで訳して、その先に......
 受講生の中には、必ず一定数、「古典は難しい」と思っている学生がいる。その原因の一つに、高校で一般的に行われる「品詞分解読み」の授業があるように思う。品詞分解を行って用法を確認し、辞書を引いて単語の意味を調べ、現代語訳を作成する。広く「定型化」したこの授業形態では、現代語訳がいわば「目標(=最終到達点)」になっていることが多い。生徒は、先生の言った現代語訳を書き取ったり、ワークシートで穴埋めをするが、本当に納得している訳ではない。心の中の「だから何?」というモヤモヤ感はぬぐえておらず、「なんだかよくわかんない」ままに通過していく。

 よく考えれば、現代語訳と理解とは別である。例えば太郎から花束を受け取って「花子、ほほえみにけり」という文があるとする。「花子はほほえんだ」とすぐに訳せるが、訳はゴールではなくスタートに過ぎない。この場面では、太郎や花子の人物像や太郎と花子の関係を理解した上で、はじめて花子がほほえんだ意味がわかり、この文が理解できたことになるのである。泣いた、笑った、怒った......古典作品の中に登場する人物やその思いに、背景を考えつつ可能な限り近づくと、文章が立体的に立ち上がり、古典文学がぐっと身近に感じられてくる。

 この例では、また「花束」が一つのポイントとなる。現代社会において、男性が女性に渡す「花束」は特別な好意を示す意味を持ち、私たちの社会では一定の共通理解を得ている。こうした物や事柄を「文化コード」と称しておく。花束の意味は説明されなくても、嬉しさは理解できる。しかし時代とともに、生活グッズや価値観は異なり変化するので、ここには説明が必要となる。

 平安貴族社会で外出の際に用いられるのが「牛車」であるが、今日、牛車で登校する学生はいないので、説明が必要である。木の車輪でサスペンションが効かない牛車の乗り心地を考えると、牛車を全力で走らせて酔ってしまった男たちの話(「頼光郎等共紫野見物語」『今昔物語集』巻二十八第二話)が理解できる。また牛車は、乗る人自身が走らせるものではないので、牛車での外出はこっそりとはできない。そこで童一人だけを連れた徒歩での外出に特別の意味が生じる。一歩踏み込んだ解説が加わると、文章の中の出来事にリアリティが出てくる。

 古典文学を「難しい」と思う学生たちには、できるだけ「知らないだけだ」と言うようにしている。「知らない」ことは理解できなくて当然なのだが、品詞分解と辞書でわかるはずだと言われた学生たちは、理解できない古典の文章を前に、自分たちを能力不足と誤解し、古典は難しいと考える。現代、使われない物の文化コードは、学生自ら自発的に理解できるものではないと思う。現代人にとって当たり前の携帯電話も、紫式部や夏目漱石に「ラインの既読がつかなくなった」「携帯をお風呂に落として泣いた」という文意を理解させようとする困難を考えれば、納得がいくだろう。

 生活グッズが異なる上に、生き方や価値観が違う。その違いを知るのがまた古典文学の醍醐味である。グローバルな学問が推奨されている今、異なる文化を知り視野を広げる古典文学は、グローバルな学問の代表格である。異国の文化を知るのが空間的な横のグローバル研究なら、過去にさかのぼって時空を超える古典文学研究は、いわば縦のグローバル研究である。外国の文化は、実際に行って直接見聞することができるが、平安時代や鎌倉時代に行ってみることはできない。書かれた物から当時の出来事や人々の考え方、生き方を探求する古典文学は、究極のグローバル研究であると考える。

■二、「文化コード」と宗教の学び
 古典文学作品を読んでいると気付くのは、モチーフの重層性、積み重ねである。作品中ではいちいちに説明はされないが、モチーフは積み重ねられ、読み継がれてきた。身分の高い人の都を離れた田舎暮らしといえば、『伊勢物語』東下りや『源氏物語』の光源氏を、多くの后候補の中で一人寵愛を受けたとなれば『源氏物語』桐壺を想起する。モチーフやある種のパターン・約束事は、多くの作品を媒介し、継承されていた。明治・大正・昭和の文学作品にも、古典の作品のモチーフやストーリーがひそむ。

 しかしいつの頃からか、古典の著名作品が読まれなくなり、この長い間積み重ねてきた重層的な継承が途絶えてきたように感じる。テレビで「日本むかしばなし」が放映されなくなり、昔話を簡単に知る機会も減った。かつて古典文学入門の授業で、現代版の「一寸法師」と渋川版御伽草子の『一寸法師』を比較していたが、最近は、昔話の一寸法師の話を知らない学生が一定数現れるようになり、「変化する物語」の入門授業として機能しなくなった。某携帯電話のCMによって、「浦島太郎と桃太郎と金太郎は仲良しだ」ということが基本モチーフとなる時代も近いかも知れない。

 漂流すると鬼ヶ島に着く、継子はいじめられる、特殊な誕生は異能を備える、身分の高い人が喜んで「衣を脱いで取らせた」のは褒美を与えたということ、夢は「夢で良かった」のではなく「夢だから重要」なのだ......古典文学の世界は約束事がたくさんあり、それらを踏まえて物語が形成されている。古典の世界独特の「文化コード」(=共通理解)の蓄積は、長い時間をかけて行われ、日本の文化を形成してきた。しかし現代においては、これらの文化コードが、古典文学研究者のみの特殊な知識となりつつある。現代人が古典文学に親しめなくなっている大きな理由だと考える。

 様々なモチーフを学ぶためには、もっと大量に古典を読ませたい。英語では、精読だけでなく多読・速読も行う。同様に、古典文学もストーリーを学ばせ、古典独特のモチーフや展開を知って欲しい。多読・速読には、現代語訳や漫画を利用することも効果的だと思う。あるいは教員が、こんな話もあると話して聞かせるだけでも有効だと思う。「品詞分解読み」の効能は活かしつつ、極端に読みが遅くなり、ストーリーを追いにくい弊害を、多読・速読で補いたい。

 文化コードの断絶は、とりわけ宗教に関わる内容に顕著である。戦後教育で宗教に関する教育が禁止され、古典文学の中から、仏様も神様も削り落とされた結果、異様な古典文学が誕生した。西洋文化を「キリスト教」を抜きに学ぶことはあり得ないが、日本古典文学では、観音って何?阿弥陀さんて何?を学ばずに通過させていく。

 お年寄りが「そろそろお迎えが来る」と言ったら、この「お迎え」は、極楽浄土からの阿弥陀の来迎に由来する訳だが、ほとんど理解されていない。また清水寺は、古来、観音信仰の聖地であり、身分の上中下を問わず現世利益をもたらした。それゆえに多くの物語において人々が出会う舞台となったのだが、今、学生たちは清水寺について、舞台の高さばかりを習う。多くの修学旅行生は、舞台の上から下をのぞき、観音様にはおしりを向けたままで帰ってくる。

 仏様や神様を学ぶことは、「信仰」を強要するのとは違う。古典世界の中で生き生きと活動し、人と交信していた仏神を知ると、古典文学はもっと楽しめると思う。

■三、文字の断絶
 「和本リテラシー」が提唱されているが、強く共感する。変体仮名が読めなくなったのは、日本の長い歴史の中で、ほんの数十年のことと思う。今や、くずし字が読める人は、特殊技能の持ち主となっており、文学・歴史を研究する者のみが学ぶものとなっている。お蔵の掃除をする時、壺や掛け軸はまず捨てられないが、「汚い紙の束」は真っ先に捨てられる憂き目にあう。もし少しでも読めたなら、「まず捨てたい」とは思われないだろう。

 最近のくずし字アプリの流行は、画期的で素晴らしいことである。弘前大学では、くずし字にはまった学生たちが、「弘大翻刻部」という名のサークルを作って活動し始めた。また日本古典文学ゼミでは、地域の要請によって、学区の小学校六年生に「くずし字」を教える授業を行っている。小学生は発想が柔軟で、大学生よりも反応が良く、授業の感想文をくずし字で書いてくる児童も現れる。くずし字は、古典文学へのアプローチの一つであり、古典文学に親しむ回路の一つとして大事にしたい。

■四、教員の新たな学び
 教員免許状更新講習は、研究者が現場教員と直接話ができる貴重な機会である。国語の教員免許は、古典文学専攻でなくても取れるし、古典文学専攻だった人にとっても、高校教科書の教材は、上代から近世まで実に幅広く、内容理解は至難の業である。実際のところ古典教材はよくわからないままに教えられていることが多い。教員用の指導書はあるが、現場教員の知りたいことが親切に書いてある訳ではない。それゆえ、教員免許状更新講習を、教材を学べる機会として活かせないだろうか。

 祇園精舎の鐘は、「ゴ〜ン」と鳴らないし、人が鳴らしているのではない。やたらに難しいことを学ぶ必要はないが、教壇に立つ先生方がせめて教材への理解を深め、その教材の面白さを知ることも、古典文学継承のための一つの方法ではないか。これはかつて高校の教壇に立っていた時の、自分の望みとして述べてみた。

■五、漢語の語彙について
 最後に漢語の継承について触れたい。古典文学において、漢語は大いに利用され、明治以降の作家たちも自在に使っている。近年は、教育現場だけではなく、一般社会において難しそうな言葉を避け、難しい漢字を使用しないことが徹底してきている。テレビ字幕や刊行物を見ていると、難しい字をひらがな表記した結果、漢字の熟語を片方だけ平仮名にしたものまで現れた。これはもはや熟語というのだろうか。最近、気付いた表記では、安ど(安堵)、飛しょう(飛翔)、いん行(淫行)、編さん(編纂)、発こう(発酵)、語い(語彙)......。難しい字には、振仮名を付ければ良いのではないか。そうすると、文意から熟語の意味を覚えて語彙を増やすことも可能となる。

 昔の時代劇を見ていたら、お奉行様が救出された娘さんに、見て来たことを「フクゾーなく申せ」と言っていて、妙に感心した。ちなみにある授業で受講生に尋ねてみたら、正解は百二十名中十四名であった。
  
 古典世界の「文化コード」は、とても豊富で、私自身も不勉強で知らないことばかりである。知らないままに、あるいは間違った知識で教壇に立っている恐れもある。そんな自分を棚に上げて言うならば、伝えることのできる立場にいる一人一人が、少しずつ積極的に発信していくことこそ、古典文学ファンを増やす道である。

 古典文学の魅力は多様にあり、アプローチも色々ある。「いま全力で取り組むべきことは何か」とは、古典文学を楽しく読む回路を開き、古典文学ファンを一人でも増やすことである。次の世代に繋いでいけるよう少しでも努力をしていきたい。

渡辺麻里子(弘前大学人文学部教授)。論文に「古典文学教材の可能性―「検非違使忠明」(『宇治拾遺物語』第九十五話)を読む―」(『古典教育研究会論集』早稲田大学国語教育学会)、「天台仏教と古典文学」(大久保良峻編『天台学探尋―日本の文化・思想の核心を探る―』法蔵館)、「『今昔物語集』巻二十八第一話「近衛舎人共稲荷詣重方値女語」試論―巻二十八の主題と巻頭話としての意味―」(『朱』54、伏見稲荷大社)など。


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