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2016年10月22日

 記事のカテゴリー : 学会・講演会・展覧会情報

●宮城学院女子大学・シンポジウム「怪異と幻想の日本文学」【犬飼公之、菊地 仁、伊狩 弘、深澤昌夫の各氏】(2016年11月26日(土) 13時から16時半まで、C201教室(講義館2階))

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シンポジウム情報です。

●公式サイトはこちら
http://web.mgu.ac.jp/jl/event/2153.html

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【今年、宮城学院は創立130周年を迎えました。そして日本文学科の教員と学生による自主的研究活動組織である「日本文学会」は、設立70周年を迎えました。
宮城学女子大学学芸学部日本文学科ではこの記念すべき年を祝し、特別公開シンポジウム「怪異と幻想の日本文学」を開催いたします。】

日時:2016年11月26日(土) 13時から16時半まで

会場:C201教室(講義館2階)

【発題者

犬飼公之(宮城学院女子大学名誉教授 / 古代文学) 「怪異と幻想の古代」

怪異と幻想の文学はもとより想像力/創造力の所産である。しかし、それは妄想や仮象のイメージというのではない。そこにあるのは切実な内的現実の可視化にほかならない。さかのぼって奈良時代文学において、それは神異、霊異の「かたり」としてとらえられる。ここではまず『古事記』(日本神話)の黄泉国訪問をとりあげ、古代日本人の死生観とのかかわりを、次いで『日本霊異記』(仏教説話)にみる地獄のイメージと現世における罪償とのかかわり、および景戒の夢をとりあげ、仏教教理と人間存在とのかかわりをとらえよう。その神異、霊異のありようは「怪異と幻想の文学」の史的変遷の一端を示唆することにもなる。

菊地 仁(山形大学名誉教授 / 中古・中世文学) 「擬人化を拒否する怖さについて ─『今昔物語集』の霊鬼説話を読む─」

柳田國男によれば、妖怪(お化け)はそれと遭遇する場所が固定的であり、幽霊はそれと遭遇する人物の方が固定的である。ここに取りあげる平安時代後期の説話集『今昔物語集』の本朝部には、その意味で、幽霊よりむしろ妖怪と呼ぶべきものが数多く収録されている。さらに、それらの説話にあっては、おおむね妖怪の正体が鬼ないし動物であったと謎解きされる。しかし、そうした擬人化ないし生物化を拒むかのような異質の霊鬼説話も、わずかながら『今昔物語集』には存在する。今回、その種の無機質な妖怪が登場する説話の具体例として、『今昔物語集』巻二十七の第十八話を取りあげ、それがもたらす恐怖の意味を少し考えてみたいと思う。

伊狩 弘(宮城学院女子大学日本文学科教授 / 近代文学) 「幻想文学について」

すべての文学は幻想性を持っているし、人間はすべてにおいて幻想性をいくらかずつ帯びている。たとえば、誰か(私でもいい)が好きな本を開いて読み始めると、たちまち私の心や目の中には本の中の人物や情景が広がり、動き始め、私をその中に浸らせる。それは私だけの幻想に浸る喜びであるとも云える。それは書物だけに限らない。この夏に体験した嬉しい、又は悲しい体験・情景、それはもう二度と同じかたちで再現することはない。しかし目を閉じて思いを凝らせば、心の中にはありありとその情景が浮かんで来るだろう。それこそ幻想ではないだろうか。今回のシンポジウムでは、幻想文学と江戸川乱歩について語りたい。

コーディネーター 深澤昌夫(宮城学院女子大学日本文学科教授 / 近世文学)

初冬の穏やかな土曜日、皆様をお待ちしております。学科、学年はもちろん、学内、学外問いません。一般の方も大歓迎です。事前申し込み不要、入場無料、当日、直接会場にお越しください。また、駐車場には限りがございますので、学外からお越しくださる際は公共交通機関をご利用ください。

宜しくお願い致します。

お問合せ先:日本文学科副手室(022-277-6121)】


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