« 高志の国文学館 企画展「浅野総一郎 - 九転十起の生涯」(平成28年10月29日(土)~12月19日(月)) | メイン | 大東文化大学第一高等学校・高等学校専任教諭(国語科)の公募(2016年10月28日 必着) »

2016年9月29日

 記事のカテゴリー : 新刊案内

●『太平記』国際研究集会編『『太平記』をとらえる』第三巻(笠間書院)

このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote Share on Tumblr LINEで送る

10月中旬刊行予定です。

70763_k.jpg

『太平記』国際研究集会編
『『太平記』をとらえる』第三巻(笠間書院)

ISBN978-4-305-70763-5 C0095
A5判・並製・カバー装・226頁
定価:本体2,800円(税別)

 『太平記』は、南北朝期の四十年に及ぶ戦乱をともかくも描ききった、文字どおり希有の書である。しかし、四十巻という膨大な分量をもつことや、これに取り組む研究者が少ないことなどから、依然として基本的な部分での研究課題を積み残している。
 『太平記』研究になお残る課題を少しずつでも解明することをめざし、『『太平記』をとらえる』を全三巻で刊行する。本書はその第三巻でシリーズ完結である。

 第三巻では第一章「『太平記』における知の表現」、第二章「有力守護大名と歴史の表現」、第三章「書物としての探求」の三章を設け、六篇の論文と三篇のコラムを収録。執筆は森田貴之/張 静宇/ジェレミー・セーザ/和田琢磨/北村昌幸/今井正之助/小秋元段/長坂成行/鈴木孝庸。巻末には六篇の論文の英語・中国語・韓国語の要旨も収載。「二〇一五年度『太平記』研究国際集会」での研究発表をもとにした論集です。

【例えば『太平記』研究では、表現の基底や挿入説話の典拠に依然不明な問題が多く残されている。また、同時代の争乱を描いた『太平記』は、眼前の情報をどのように収集し、記事化していったのか。これらの問題を明らかにすることは、『太平記』の成立論・作者論に新たな局面をもたらすことになるだろう。諸本研究にも課題は多く残されている。古態とされる伝本を再吟味することによって、私たちの『太平記』のイメージは少なからず修正を迫られるはずだ。加えて、これらとはやや次元を異にする問題であるが、国際化・情報化の進む研究環境のなかで、国内外の研究者がどうネットワークを構築し、課題を共有して解決に導くかについても、考えてゆかなければならない時期にさしかかっている。こうした様々な課題に少しずつ挑むことにより、つぎの時代の研究基盤を準備したいというのが、本シリーズのねらいである。】

-----------

■著者紹介

○編者
『太平記』国際研究集会

[執筆者]

森田貴之(もりた・たかゆき)南山大学人文学部准教授
研究分野○和漢比較文学 著書等○「『太平記』と元詩─成立環境の一隅─」『國語國文』第七六巻第二号(京都大学文学部国語学国文学研究室、二〇〇七年二月)、「『唐鏡』考─法琳の著作の受容─」『台大日本語文研究』第二〇期(國立臺灣大學日本語文學系、二〇一〇年一二月)、「女主、昌なり─日本中世における則天武后像の展開─」『論集 中世・近世の説話集と説話』(和泉書院、二〇一四年)など。

張 静宇(ちょう・せいう)北京外国語大学北京日本学研究センター博士課程
研究分野○中世文学・中日比較文学 著書等○「『太平記』と呂洞賓の物語」(『軍記と語り物』第五十二号、二〇一六年)など。

ジェレミー・セーザ イリノイ・ウェズリアン大学准教授
研究分野○中世文学・軍記物語
著書等○
軍記物語・太平記
・「下剋上への道─『太平記』に見る観応擾乱と足利権力の神話─」(『太平記』をとらえる』第一巻、笠間書院、二〇一四年)
・"A Critique by Any Other Name: Imagawa Ryōshun's Nan Taiheiki." In Japan Review, col. 29 (forthcoming).
・"Rebel with a Cause: The (Im)Morality of Imagawa Ryōshun." In Japan Review, vol. 28 (summer, 2015).
・Entry on Taiheiki in Perez, Louis G. Japan at War: An Encyclopedia. AB-CLIO, 2013

和田琢磨(わだ・たくま)東洋大学文学部准教授
研究分野○太平記・室町軍記 著書等○単著『太平記』生成と表現世界』(新典社、二〇一五年)。論文「十四世紀守護大名の軍記観」(日下力監修『いくさと物語の中世』汲古書院、二〇一五年)「室町時代における本文改訂の一方法─神田本『太平記』巻三十二を中心に─」(『太平記』国際研究集会編『『太平記』をとらえる─第二巻』笠間書院、二〇一五年)。

北村昌幸(きたむら・まさゆき)関西学院大学文学部教授
研究分野○中世文学・軍記物語 著書等○『太平記世界の形象』(塙書房、二〇一〇年)、「今川了俊の語り─体験と伝聞と─」(『日本文藝研究』六六─二、二〇一五年)など。

今井正之助(いまい・しょうのすけ)愛知教育大学名誉教授
研究分野○中世軍記文学 著書等○『太平記秘伝理尽鈔』研究』(汲古書院、二〇一二年三月)。「永和本『太平記』の復権」(『國學院雑誌』第一一四巻第一一号、二〇一三年一一月)。「扇の的」考─「とし五十ばかりなる男」の射殺をめぐって─」(『日本文学』第六三巻第五号、二〇一四年五月)

小秋元段(こあきもと・だん)法政大学文学部教授
研究分野○日本中世文学・書誌学 著書等○『太平記・梅松論の研究』(汲古書院、二〇〇五年)、『太平記と古活字版の時代』(新典社、二〇〇六年)など。

長坂成行(ながさか・しげゆき)奈良大学名誉教授
研究分野○中世軍記文学 著書等○『伝存太平記写本総覧』(和泉書院、二〇〇八年)、『穂久邇文庫蔵『太平記』〔竹中本〕と研究(下)』(未刊国文資料刊行会、二〇一〇年)など。

鈴木孝庸(すずき・たかつね)新潟大学 人文社会・教育科学系 フェロー
研究分野○平曲を素材とする文学と音楽に関する研究 著書等○『平曲と平家物語』(知泉書館、二○○七年)、『平家を語る琵琶法師』(ブックレット新潟大学、二○一三年)など。

-----------

■ご予約・ご注文はこちら

○全国の書店でご予約・ご注文出来ます。お近くの書店にご注文下さい。

○笠間書院から直接購入することも可能です。笠間書院 Web Shop[クレジット決済]。ネット書店での購入をご希望の場合もこちらをご覧下さい。
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305707635/

○公費・郵便振替でのご購入の場合
直接小社まで、メール info@kasamashoin.co.jp または下記のフォームで、購入希望としてご連絡ください(書名・冊数・お名前・ご住所・電話番号を明記してください)。
http://kasamashoin.jp/mailform.html

-----------

【目次】

はじめに―『太平記』における言葉の重み?▼小秋元段

1●『太平記』における知の表現

1 『太平記』の兵法談義―その位置づけをめぐって―▼森田貴之
 はじめに
 1 『太平記』の展開と謀、兵法
 2 二つの知
 3 背水の陣
 4 おわりに―「機」と兵法

2 『太平記』巻三十七「楊貴妃事」と『詩人玉屑』▼張 静宇
 1 はじめに
 2 日本における『詩人玉屑』の受容
 3 巻三十七「楊貴妃事」と『詩人玉屑』
 4 まとめ
 
●コラム 南北朝時代の重要性と世界文学としての『太平記』▼ジェレミー・セーザ

2●有力守護大名と歴史の表現

1 今川了俊と『太平記』▼和田琢磨
 1 はじめに
 2 了俊の姿勢─『太平記』をどのように読んでいたか─
 3 了俊が目にした『太平記』─了俊は全巻を読んでいたのか─
 4 おわりに

2 『太平記』の情報操作―山名父子の離反をめぐって―▼北村昌幸
 1 はじめに
 2 貞和五年の政変と山名時氏─巻二十七の本文溯源─
 3 観応の擾乱と山名時氏─史実との落差─
 4 文和年間の山名父子離反─作為の可能性─
 5 山名一族に向けられた視線─贔屓か批判か─
 6 おわりに

●コラム 『太平記』の「左馬頭」―予稿―▼今井正之助
 はじめに
 1 鎌倉管領足利左馬頭義詮の発言
 2 「左馬頭」義詮
 3 直義と義詮

3●書物としての探求

1 神田本『太平記』の表記に関する覚書
―片仮名・平仮名混用と濁点使用を中心に―▼小秋元段

 1 はじめに
 2 片仮名・平仮名混用の淵源
 3 神田本『太平記』の表記法の全体像
 4 片仮名・平仮名使用の実態
 5 他資料の状況
 6 濁点の使用
 7 むすび

2 北畠文庫旧蔵本『太平記』管見▼長坂成行
 1 北畠文庫旧蔵本について、先行する知見
 2 書誌の概略
 3 附属資料三点
 4 筆跡について
 5 現存の冊数についての不審
 6 北畠治房について
 7 本文系統について
 8 主な書き込み・貼紙等について
 9 結び

●コラム 神田本太平記の引用符号▼鈴木孝庸
 1 引用符号の諸相
 2 引用符号の繁簡
 3 引用符号と対句の周辺
 4 以上、まだまだメモはあるが、ここまでとする。
 5 引用符号と本文書写の時点の交差

□外国語要旨
英語▼ジェレミー・セーザ訳
中国語▼鄧 力訳
韓国語▼李章姫訳

-----------

【序文全文掲載】

はじめに―『太平記』における言葉の重み?
◉小秋元段

 『太平記』を読む者は、この作品が四十年もつづく争乱をともかくも描ききったところに、まずは圧倒されることだろう。しかも、その歴史叙述は、理念・思想、故事・先例に支えられ、重い言葉によって展開される。だから、『太平記』を読む者は、その言葉によっても圧倒されることになる。
 しかし、そうした言葉のあり方とは裏腹に、『太平記』の思想は必ずしも一貫しておらず、言葉も刹那的に発せられているという一面がある。これまでもそうした指摘はなされ、優れた論考も発表されてきた。だが、『太平記』のこうした叙述姿勢と表現の特徴は、今後も様々な面から追究されるべきだろう。
 本書巻頭に収める森田貴之氏「『太平記』の兵法談義―その位置づけをめぐって―」は、兵法談義という視点から、『太平記』の表現を考察したものである。『太平記』の合戦記事では中国の兵法がしばしば引用され、武士たちの行動が説明づけられる。だが、引用された兵法の論理は、作品全体のなかでどこまで一貫性を保っているのか。森田氏の論は兵法という、『太平記』中ありふれているがゆえに見過ごしがちな素材を丁寧に追ったものだ。
 叙述の一貫性という面からいえば、第二章「有力守護大名と歴史の表現」に収める北村昌幸氏「『太平記』の情報操作―山名父子の離反をめぐって―」にもこれに通じる視点がある。北村氏はここで、『太平記』巻三十二の山名父子の幕府離反記事が、巻二十七以降の山名氏に対する周到な情報操作を経て、佐々木道誉の山名氏への不当な扱いが際立つかたちで展開されていることを指摘する。だが、『太平記』は一貫して山名氏を肯定するわけではなく、場面場面に応じて肯定・批判を使い分けてゆくという。こうした『太平記』の「一貫性のなさ」は、見方によっては四十年の歴史叙述を可能にした『太平記』の最大の秘訣だったのではあるまいか。
 
 さて、本巻では第一章「『太平記』における知の表現」、第二章「有力守護大名と歴史の表現」、第三章「書物としての探求」の三章の構成をとり、論文六篇、コラム三篇を収載している。
 第一章「『太平記』における知の表現」では前掲の森田氏の論考のほか、張静宇氏「『太平記』巻三十七「楊貴妃事」と『詩人玉屑』」を収める。宋代の詩話書『詩人玉屑』が『太平記』で活用されていることはすでに知られているが、その具体的な姿を追究した論考はまだ少ない。張氏は巻三十七「楊貴妃事」をとりあげ、章段内の複数のエピソードが『詩人玉屑』にもとづくことを論証する。前巻所収の論考に引きつづき、『太平記』における宋元文化の受容を考察した一篇だ。
 第二章「有力守護大名と歴史の表現」では前掲の北村氏の論考のほか、和田琢磨氏「今川了俊と『太平記』」を収める。今川了俊の『難太平記』は『太平記』の成立を考える際、必ずといってよいほど拠り所として用いられる文献だ。だが、その記述はどこまで信用できるのか。そうした疑問を視野に入れ、和田氏は『難太平記』所引の『太平記』関連記事の性格を分析するとともに、果たして了俊は『太平記』全巻を読んでいたのかという根本的な問題についても考察する。
 第三章「書物としての探求」では、小秋元「神田本『太平記』の表記に関する覚書―片仮名・平仮名混用と濁点使用を中心に―」と、長坂成行氏「北畠文庫旧蔵本『太平記』管見」の二篇を収める。小秋元の論は、全巻にわたり片仮名と平仮名を混用する神田本『太平記』の特徴に焦点を当て、巻ごとの傾向を分析し、こうした特異な書写がなされる背景を考察したものである。長坂氏の論考は、約半世紀ぶりにその姿を現した北畠文庫本『太平記』についての詳細な考察である。本文系統の分析はもとより重要な成果だが、旧蔵者をめぐる考証や、欠巻を生じた伝来過程の謎にも興味が尽きない。

 これらのうち、森田氏・張氏・北村氏・小秋元・長坂氏の論考は、二〇一五年八月二十三日(日)に東京の法政大学で開催された「二〇一五年度『太平記』研究国際集会」での研究発表をもとにしている。また、当日の集会に参加し、熱心な議論に加わっていただいた和田氏には論文を、今井正之助氏・鈴木孝庸氏にはコラムを執筆していただいた。さらに、ジェレミー・セーザ氏には、米国の学界を中心とした南北朝、『太平記』の研究状況を報告していただくべく、本書への寄稿をお願いし、コラムを執筆していただいた。
 本シリーズは『太平記』研究の一層の深化と、つぎの時代の研究基盤を準備することをめざし、全三巻で刊行することを企画した。この三巻を通じて、各執筆者が集中的に『太平記』の新たな論に取り組むことにより、所期の目標を達成することができたと考える。とりわけ、『太平記』研究の扉が海外に開かれた意義は大きい。
 また、本巻でも英語・中国語・韓国語による論文要旨を収載した。翻訳の労を執ってくださったジェレミー・セーザ氏、鄧力氏、李章姫氏に感謝したい。

-----------

□外国語要旨

英語▼ジェレミー・セーザ訳
中国語▼鄧 力訳
韓国語▼李章姫訳

ABSTRACT


War Councils in Taiheiki--Regarding their Placement
Morita Takayuki

Taiheiki's special characteristic is the large number of episodes about war. There are a number of references to strategy and tactics in such episodes. In this essay I consider Taiheiki's view of military methods (heihō 兵法) through the councils (gungi 軍議) that occurred before battles, and the language evaluating the outcome of those battles.
In episodes that include war councils, most of the references to past military conflicts center on Heike monogatari and Chinese works on strategy, such as the Three Strategies of Huang Shigong and the Six Secret Teachings. However, the discussions in those councils often conclude in ways different than the episodes from other variants; alternatively, the conflicts do not necessarily turn out as the discussions in the council originally imagined. Moreover, there are parts seemingly made to equate with past examples or with content from strategy primers. Such episodes include: "The Matter of the Battle of the Twelfth Day of the Third Month" in chapter 8, "The Matter of Wakiya Hyōbugyō Joining the Southern Court and the Tale of Takasuke" in chapter 23, or "The Matter of the Shogun and His Son Journeying to Kyoto and the Battle of Abō Akiyama Kawara" in chapter 29.
Compared to the high degree of interest in the use of strategy and tactics in Taiheiki, past examples from earlier war tales and strategy manuals do not function as a universal "logic" throughout the text. Rather, opportunity (ki機) and intention (ki気) decide the outcome of battles. There are frequent inconclusive arguments about setsuwa in Taiheiki. A number of points are delineated in such episodes, just as in the case of Taiheiki's war council episodes. From this we can deduce that Taiheiki treated war councils as noteworthy events in and of themselves.
It is also apparent that Taiheiki's readers were also highly interested in Taiheiki's war council episodes, whose content changes in a number of variants, such as in "The Matter of Yoshiakira Deserting the Capital and Momonoi Entering the Capital" in chapter 29 and "The Matter of Yamana Uhyōe no Sakan becoming a Foe and The Matter of Musashi Shōkan's Suicide" in chapter 32. Additionally, readers in the early modern period were interested in matters of strategy as seen in Taiheiki, leading to the creation of works such as Taiheiki hyōban hiden rijinsho, which expanded on strategy and tactics and as a result achieved critical acclaim. However, Taiheiki's war council episodes do not outline an absolute military theory.


"The Matter of Yang Guifei" and "Shijin Gyokusetsu" in Taiheiki Chapter 37
Zhan Jingyu

The chapter 37 episode "The Matter of Yang Guifei" is quoted in order to tell the process by which the rebellion of Hatakeyama Kunikiyo grew to wield great power in the Kanto area. While the episode is based on legends of Emperor Xuanzong of Tang and Yang Guifei as they appear in the Song of Everlasting Sorrow (Chōgonka) and Transmissions of the Song of Everlasting Sorrow (Chōgonkaden) in Japan, entirely new information was inserted into the episode. In this essay I consider this new information along with trends of the Song and Yuan eras, mainly in relation to the Song era work Poets: Treasures and Tidbits (Shijin gyokusetsu).
The episode about the Prince of Ning and Yang Guifei in "The Matter of Yang Guifei" is also quoted in chapter 35's "Passing the Night at Kitano Shrine" episode. Accordingly, it is difficult to say that it is the invention of Taiheiki's author. Most of the Chinese poets of the Song and Yuan periods, treating the Prince of Ning and Yang Guifei as poetic material, avoided the chaos of concubine life following the Tang Dynasty. Five Mountains (Gozan) priests, who saw this trend, made such poetry. The verses of Liu Changqing quoted in "The Matter of Yang Guifei" can be said to have received a high degree of influence from "Seisai's Evaluations on the Difference between Concealing and Revealing the Truth when Writing a Poem", a poetic commentary from chapter 2 of Poets: Treasures and Tidbits. Similarly, since Chen Ke's verse "The History of the Prince of Ning's Advance" in the aforementioned "Seisai's Evaluations" speaks of the Prince of Ning and Yang Guifei, it can be supposed that the episode of the Prince of Ning and Yang Guifei in "The Matter of Yang Guifei" was influenced by Poets: Treasures and Tidbits. Additionally, since the Battle of Tong Pass in "The Matter of Yang Guifei" is a great deal shorter than that which appears in the Chinese history titled the Old Book of Tang, it is unlikely that it was influenced directly by histories such as the Old Book of Tang; in fact, it is highly likely that it was quoted from Du Fu's verse on the "History of Tong Pass" as quoted in his the Thatched Cottage in "The Search for Perfection" in chapter 14 of Poets: Treasures and Tidbits. Moreover, that Yan Wu appears in Taiheiki but not in Origin of the Song of Everlasting Sorrow (Chōgonka koji) is because he appears in Poets: Treasures and Tidbits.
As has been shown, Poets: Treasures and Tidbits was quite popular during Japan's medieval era, and there are many parts that influenced Taiheiki. Therefore, the Prince of Ning and Yang Guifei, the Battle of Tong Pass, and Yan Wu as they appear in "The Matter of Yang Guifei" in chapter 37 of Taiheiki are deeply related to Poets: Treasures and Tidbits, and likely reflect the trends of the Song and Yuan periods.


Imagawa Ryōshun and Taiheiki
Wada Takuma

We cannot overlook the Imagawa family when considering medieval shugo daimyō's views on Taiheiki. The Imagawa left their mark in a number of important documents from the Nanbokuchō through the Muromachi periods, such as Imagawa Ryōshun's Nan-Taiheiki or Imagawa Ujichika's letter in Sanetaka kōki, which are indicative of the relationship between shugo daimyō and Taiheiki. In this essay I focus on Nan-Taiheiki and consider how Ryōshun, who was active during the 14th and early 15th centuries, read Taiheiki.
I have published Taiheiki seisei to hyōgen sekai, which compiles and analyzes the history of Nan-Taiheiki and deals with the importance the Ashikaga placed on Taiheiki as a legitimate history of their family; I also examine it as a work belonging to the classification of legitimate histories, and Nan-Taiheiki's importance in that regard. It goes without saying that Ryōshun felt Taiheiki was a legitimate history. However, when we read Nan-Taiheiki closely, we cannot conclude that Ryōshun's thoughts on it reflect the general opinion of shugo daimyō.
One wonders how closely Ryōshun read Taiheiki. If it were widely accepted as a work of legitimate history for the Muromachi shogunate, or at least one belonging to that category, then he would no doubt have read it closely and would have recorded mistakes or parts requiring alteration in Nan-Taiheiki. It is likely that he would have had access to a complete copy of Taiheiki when he began writing Nan Taiheiki.
I will consider not only these points but also Ryōshun's reception of Taiheiki based on its depiction of the Imagawa family. My conclusion should assist us in apprehending the ideas of Nanbokuchō and Muromachi period shugo daimyō regarding Taiheiki.


The Management of Information in Taiheiki: Regarding the Division of the Yamana Father and Son
Kitamura Masayuki

The Kannō Disturbance, which saw the warriors of the Ashikaga split into two factions, began when Kō no Moronao surrounded the shogun Ashikaga Takauji's manor. The members of the two camps differ based on Taiheiki variants. Importantly, Yamana Tokiuji, who belongs to the Ashikaga Tadayoshi faction in the Genkyūbon variant, is a member of Kō no Moronao's faction in the Kandabon variant. In analyzing chapter 27 of Taiheiki, I conclude that there is a high possibility the Kandabon variant is closer to the original Taiheiki.
Treating Yamana Tokiuji as a member of the Moronao faction probably belongs to historical fact. However, no variant deals with the fact that the rest of the Yamana family defected to Tadayoshi. Accordingly, we are left with no choice but to read the Kandabon and Seigeninbon variants as if the entirety of the Yamana family followed the Moronao--i.e., Takauji--faction during the Kannō Disturbance. Following the Kannō Disturbance, the Yamana's relationship with Tadayoshi was covered up, even in chapter 32 in which the Yamana are finally divided (although it was actually the second time). Moreover, the way Taiheiki deals with the various relationships with Tadayoshi is slightly different. Therefore, unlike the case of the Ishidō family, we are forced to conclude that the development of chapter 32, which deals nonchalantly with the Yamana's rewards, does not accord with logic. Thus the conduct of Sasaki Dōyo, who rejected the Yamana's suits, comes across as irrational. Dōyo, who was the architect of the ostracism of Hosokawa Kiyouji and even of Shiba Takatsune, was evidently seen as one of the primary villains who contributed to the extension of the Upheaval of the Northern and Southern Courts.
Nevertheless, one cannot simply conclude that Taiheiki's author was a Yamana partisan who hated the Sasaki. For instance, in the scene where Yamana Morouji requests Dōyo to put in a good word for him, Morouji is given a drawn out soliloquy. [Their conflict] is not depicted as a binary one of good and evil but as one in which two individuals with differing motivations are in conflict, a common modality often seen in Taiheiki. The episodes of the division of the Yamana father and son are difficult to understand at first glance, but we can count this as one specific example of this modality.


Educational Writings Related to Expressions in Kandabon Taiheiki--Regarding Voiced Consonant Marks (Dakuten) and Combined Usage of Katakana and Hiragana
Koakimoto Dan

The presence of kanamajiri in Kandabon Taiheiki's prose is one of the text's special characteristics. Examples of kanamajiri mixed with kanji date back to the Insei period. However, why is this combination used in Kandabon Taiheiki, which dates to the chronologically distant Muromachi period?
Although Kandabon Taiheiki is the product of a single author, we can divide it into different four styles, A through D. It is possible that these styles reflect reflects a difference in transcription periods. When we look at the degree of mixed usage of hiragana and katakana, B and D exhibits greater usage of hiragana compared to A and C. Conversely, A, which comprises chapters 1 through 9, exhibits a low degree of hiragana, in particular in the first half of chapter 1, which has few instances of hiragana. This means that Kandabon Taiheiki was originally written in kanji and katakana majiri, and that from the beginning the author tried to maintain that style.
We can identify a recognizable tendency when hiragana appears in A, which as I mentioned exhibits a high degree of katakana. In addition to recording particular language such as "nite", "yori," and "kara" in hiragana, "shi," "te," and "mo" are also written in hiragana. Furthermore, those words and syllables act as catalysts for idioms and phrases to be written in hiragana. This reveals that the author's specialized language and syllables were better expressed using hiragana than katakana, and that there was a policy of choosing hiragana for certain words and phrases. The author tried to preserve kanji and kanamajiri as they appeared in the original version, but gradually that pattern was broken and the author proceeded to write in the simpler hiragana, leading to it eventually overriding katakana. In this way Kandabon Taiheiki prioritized speed of writing and efficacy instead of spectacle for the third person reader.
Another issue is that Kandabon Taiheiki's use of dakuten is relatively marked compared to other Taiheiki variants. The unique method of placing dakuten to the left of a character is evident until chapter 2. The early Muromachi period is the first period with examples of dakuten for Japanese prose (wabun), though the method was not yet formalized at that time. In this essay I argue that we must pay attention to the existence of Kandabon Taiheiki's "left dakuten" as something worthy of attention in the history of Japanese writing.


The Hatakeyama Bunkobon Taiheiki Memorandum
Nagasaka Shigeyuki

Among old Taiheiki manuscripts, the Hatakeyama paperback (bunkobon) was displayed around the time of the Santo Classical Japanese Alliance's preliminary exhibit in December of 1972. According to descriptions in entrance catalogues and two or three researchers present at the event, this version was comprised of 40 volumes, not including chapter 22; included 40 books; was written in kanji and kanamajiri script; had a preface dating to 1599 (Keichō 3); and had a seal indicating it belonged to the "Hatakeyama Library (bunko)." Having come down to us from forty years ago, I introduce a summary of it here because it seems to me to have some slight historical importance.
32 chapters remain in this work: books 1 through 19 and 28 through 40--books 20 through 27 are missing. According to the preface recorded on the reverse side of lid of the box in which these 32 chapters were stored, we know the original version once belonged to a "Lord Fukokuen," who is none other than Kitabatake Harufusa (1833-1921), which was also revealed by the lord's seal. Harufusa, a court officer and member of the Supreme Court during the Meiji period, was also in possession of classical texts such as Mingō nissō, Nanju ibun, and Tōka hiden. Later, it appears that the work passed to Ōshima Masataro and the Kōbunsō, but while it was in Kitabatake's possession it ought to have had the 40 chapters reported in 1972. However, doubts remain as to its authenticity, as there are inconsistencies and a size difference with the box in which it was stored; it is also missing 8 chapters. And it is likely this is an earlier copy, since "The reading of this texts was completed on August 1st, in the hour of the dog, in the year keicho 3" is visible in the preface at the end of chapter 40. Moreover, judging from the paper quality and its appearance we can safely say it is a late Muromachi period copy. Still, the expert opinion of Kohitsu Ryōchū (1656-1736) attached to it provides the name of Egetsu and six other priests of Daitokuji as the writers of the volumes, but some of those individuals were dead in Keichō 3, putting the reliability of Ryōchū's opinion into question.
It is unfortunate that the work doesn't include chapters 20 through 27, which are important for knowing this work's lineage. However, we can infer from characteristics in the following episodes that the work belongs to the Genkyūbon variant lineage of the kō (甲類) classification: "Kusunoki Encamps at Mt. Kongō" at the end of chapter 3; "The Imperial Residence at Higashi Sakamoto" in chapter 14; the presence of Saint Hizō, and the ascetic journey episodes of Yasutoki and Sadatoki in chapter 35's "Three Individuals Discuss the State of the Realm at Kitano Shrine" episode; and chapter 40 beginning with the "Middle Hall Gathering" episode.


摘 要


《太平记》的兵法谈义
―以其定位为中心
森田 贵之

  《太平记》作为军记物语,其特性上的表现便以合战为主题的描写段落居多。在合战场面里,时常提到战术战略等方面的语言。本论文通过考察合战前的军事讨论以及对合战结果的批判等得以一窥《太平记》的兵法观。
  《太平记》的军事讨论主要提及两个部分,一是讨论以《平家物语》为主的过去合战案例,二是分析以《三略》《六韬》为主的中国兵法书。讨论的内容在《太平记》的其他章节得到了与预想不同的结果,其结局与预想不一致的情况居多。另外,把过去的合战案例与兵法书的内容对照起来描写(比如第八卷的<三月十二日合战之事>、第二十三卷<脇屋刑部卿去吉野参拜之事 付 隆资卿物语之事>与兵法书内容相对应的第二十九卷<将军儿子上京之事 付 阿保秋山河原合战之事>)。
  与数量繁多的兵法以及对"谋略"的高度关心相比,前面提到的军记物语中过去的合战例与兵法书并没有发挥出贯穿《太平记》整体的"理"机能,而是让《太平记》的合战落脚到流动性的"机"或者说"气"之上。从《太平记》的说话引用中可以发现不少没有结论的讨论。《太平记》合战描写中的兵法讨论同样如此,最后拿出多方观点,将讨论本身以乐趣的态度进行叙述。
  另一方面,《太平记》的读者方表示出对文中兵法谈义的高度关心,我们也能看到不同的传本探讨的内容也有所变化。(第二十九卷 义诠赴任桃井入京之事 第三十二卷 山名右卫门叛变之事 付 武藏将监自尽之事)。之后近世的《太平记评判秘传理尽钞》将《太平记》中的兵法书要素找出来并详加分析,得以广泛流传。不过《太平记》的兵法谈义没有绝对的理论,这也是其特征之一。


《太平记》第三十七卷"杨贵妃事"与《诗人玉屑》
张 静宇

  为了讲述关东势力强大的畠山国清谋反的经过,《太平记》第三十七卷引用了杨贵妃的故事。此故事以《长恨歌》《长恨歌传》为主,在日本流传的唐玄宗与杨贵妃说话的基础上,加入了以前没有的新叙述。有必须考察这些新的叙述内容与宋元时代的风尚,特别是与宋代的诗话《诗人玉屑》之间的关系。
  在《太平记》第三十五卷"杨贵妃事"中引用了关于宁王与杨贵妃的故事。这一段叙述很难说是《太平记》作者的原创。在宋元时代,中国许多诗人以宁王与杨贵妃的故事为主题创作诗歌,对唐代糜烂的后宫生活进行了批判。 受此文学风气影响的日本五山僧人也创作过类似诗歌。"杨贵妃事"中引用的刘长卿诗句,被认为源自《诗人玉屑》卷二・诗评"诚斋评为诗隐蓄发露之异"的可能性极高。同样在"诚斋评为诗隐蓄发露之异"中,陈克的《宁王进史图》也在讲述宁王与杨贵妃的故事,因此是否能推测《太平记》的"杨贵妃事"中关于宁王与杨贵妃的叙述受到《诗人玉屑》的影响呢?另外,"杨贵妃事"中潼关之战的描写比中国史书《旧唐书》更为简略,所以《太平记》直接受《旧唐书》等历史书影响的可能性较小、而从《诗人玉屑》卷十四草堂"责其备"中所引用的杜诗"潼关吏"影响的可能性较大。还有,"长恨歌故事"中一直没有出现的严武在《太平记》的叙述中登场,也是因为在《诗人玉屑》中出现的缘故吧。
  《诗人玉屑》在日本中世广为流传,如先行研究所指出的那样,给予《太平记》诸多影响。因此,在《太平记》第三十七卷"杨贵妃事"中关于宁王与杨贵妃的叙述、潼关之战以及严武的登场都与《诗人玉屑》紧密相关,不正是反映了宋元时代的文学风尚么?


今川了俊与《太平记》
和田 琢磨

  考察中世守护大名的《太平记》观时,今川氏的存在不能忽视。以今川了俊的《难太平记》为首,今川家本的后记记载了今川氏亲收藏的《太平记》以及《宣胤卿记》记载的氏亲书状等,从南北朝时代到室町时代记载的有关《太平记》与守护大名关系的重要资料中,都留下了今川氏的名字。本论主要以《难太平记》为中心,考察活跃于南北朝时代与室町时代的今川了俊如何阅读《太平记》。
  关于《难太平记》的研究史,笔者曾整理讨论过。(请参照拙著《<太平记>的生成与表现世界》)新典社、2015年)。从中可以看出一个问题,《太平记》之所以可看作足利将军的"正史"或者说"正史类"作品,其中一个重要证据就是可以列举出《难太平记》的记载。当然,我也同意今川了俊确实持有这样的态度。不过仔细阅读《难太平记》的本文后,发现并不能说当时守护大名的一般认知与今川了俊的态度是一致的。
  究竟今川了俊阅读《太平记》到何种程度呢?如果说《太平记》在当时被普遍认为是室町幕府的"正史"或者类似存在的话,那了俊不是应该非常仔细地阅读过《太平记》么?那有关书中的错误或者订正,在《难太平记》中不是应该有所记载么?今川了俊难道不是应该持有《太平记》的全卷么?
  为解答以上疑问,不仅要详细比较《太平记》与《难太平记》,还应该考察《太平记》中关于今川氏的描写,这样才能具体阐明今川了俊对《太平记》的吸收方法。本论最后的结论也与南北朝时代至室町时代初期守护大名的《太平记》观密切相关。


《太平记》的信息操作
―以山名父子的背叛为中心
北村 昌幸

  观应之乱是从足利方武士被敌方分裂,高师直包围将军府邸事件开始。此时双方阵营的人员,《太平记》的不同传本有不同的写法。值得特别注意的是,玄玖本中属于足利直义派的山名时氏在神田本中却属于高师直派。因此在分析两传本卷二十七的异同之后,我们能够发现神田本的叙述更加接近《太平记》的原形。
  山名时氏作为师直派的成员是忠于史实的。不过之后山名氏叛变到直义阵营的事件,各诸本却没有言及。因此在神田本、西源院本中,我们只能读到在观应之乱中,山名氏一直属于师直派(即尊氏派)。即便在卷三十二观应之乱后的叛变描写(在史实中其实是第二次叛变)中,隐藏着与直义的关系,而从其他直义派成员的角度进行描写,多少有些不同。与石塔等人的情况不同,第三十二卷在写到分封奖赏时,山名氏受到了冷落,这看起来并不合乎情理。接着佐佐木道誉驳回山名氏的上诉,更让人看不明白。另外道誉还驳回过细川清氏、斯波高经等人的上诉,道誉简直可以说是造成南北朝内乱持续不断的元凶之一。
  如果认为《太平记》的作者是讨厌佐佐木的山名贔屭的话,那事情就变得并不单纯。在山名师氏拜托道誉为其美言的场景中,却又保留了师长冗长的发言。这样的对立并不是要区分善恶,而是要强调双方对峙的属性,这种写法在《太平记》中屡见不鲜。山名父子叛变的描写,初看有些晦涩难懂,这也算是《太平记》叙述手法的一种。


神田本《太平记》表记的备忘录
―以片假名・平假名以及浊点的使用为中心
小秋元 段

  神田本《太平记》的特色之一便是本文的假名部分用片假名・平假名混合标记。把汉字与片假名・平假名混合标记的先例早在院政时期便已存在。那为何在相隔遥远的室町时代成立的神田本还要把二者混合标记呢?
  虽说神田本出自同一笔者抄写,但可以分成ABCD四类书写风格。这可以认为反映了书写时期的不同。我们如果观察片假名・平假名混用的程度的话,会发现与AC类相比,BD类的平假名使用率颇高。反过来说,第一卷到第九卷的A类书写风格平假名的使用率很低,特别是第一卷中几乎没有平假名。这说明神田本的底本是用汉字与片假名混合标记,神田本抄写者最初是严格遵守底本进行抄写。
  在片假名使用率高的A类中,平假名的出现具有一定的倾向性。比如"にて""より""から"等特定的词汇用连绵的平假名来标识外,与汉字接续的"し""て""も"等也用平假名进行表记。以这些词或音节为首,神田本《太平记》中有一定的词汇或句子用平假名来表记。这说明对于抄写者说,与片假名相比用平假名表记词汇或音节更能起到强调作用。如此一来,便出现了以平假名来表记词汇句子的备选项。抄写者虽然最初按照底本遵守汉字片假名混用的表记,但之后渐渐破坏规则,演进到使用自己容易书写的平假名来表记,最终用平假名表记取得了压倒性优势。这也意味着从第三者来看神田本,可以认为是高速性、效率性优先的抄写吧。
  另外,与《太平记》其他传本相比,神田本浊点的标识更为细致。不过到第二卷为止的浊点是标记在文字的左边,这个手法比较特殊。室町时代前期是认可对和文进行标记浊点的初期,也是标记方法还没确定下来的时期。这一时期中神田本出现的左边浊点标记法,在国语表记史中具有特殊意义,学界应当引起重视。


北畠文库本《太平记》的备忘录
长坂 成行

   《太平记》的古代抄本----北畠文库本于昭和四十七年(一九七二)十二月在三都古典联合会举办的下见展观中被展出。根据收藏目录的记述以及在会场阅览过该抄本的两三位研究者的报告,可以得知该抄本共四十卷,第二十二卷散佚,用汉字与片假名书写,有庆长三年的出版记录,"北畠文库"的收藏印等信息。如今四十年过去,为了让北畠文库本受到重视,判明在研究史中的意义,由我来简单概述该抄本的情况。
   该书现在残存第一卷到第十九卷以及第二十八卷到第四十卷,第二十卷到第二十七卷散佚。此三十二册书籍收藏在慳贪箱中,其后盖的记录页写有收藏经过,可以得知本书是布壳园主人即北畠治房(一八三三〜一九二一)的旧藏书,盖有"北畠文库"收藏印。北畠治房在明治时期是司法官担任大审院部长,他还收藏了《岷江入楚》《南狩遗文》《东家密传》等古典书籍。
   此后该书由大岛雅太郎、弘文庄收藏。在北畠治房收藏时,直到昭和四十七年左右应该还存有四十册。散佚的八卷是否与收纳的慳贪箱体积大小有关尚存疑问。根据第四十卷最后的收藏记述"庆长三戌正八月朔日读终之者也",可得知这是庆长以前抄写的,再综合纸质与体裁判断的话,大致是室町末期完成的抄写。但附录的古笔了仲的鉴定书认为,每卷的抄写者不尽相同,应该是以江月和尚为首的六名大德寺僧人抄写完成,但这六位僧人里有庆长三年时还没有出生的人,因此传言的准确性值得再商榷。
   虽然判定系统归属的重要指标所在的第二十卷至第二十七卷残缺,但从第三卷的末尾"楠金刚山上筑城"与第十四卷"东坂本皇居事"的叙述、第三十五卷"北野诣人世上杂谈事"中关于日藏上人、泰时修行、贞时修行的叙述、第四十卷从"中殿御会事"开始等等一些特征上来看,该本应属于甲类本玄玖本系统的一种。


요지


『타이헤이키(太平記)』의 병법담론
― 그 평가를 둘러싸고―
모리타 다카유키(森田 貴之)

 『타이헤이키(太平記)』에는 군담 소설의 특성상 전투를 주요 제재로 하는 대목이 많다. 이들 전쟁담에서는 종종 전술·전략면에 대한 언급도 행해진다. 본고에서는 주로 전투를 앞두고 하는 군사회의 장면과 그 전투 결과를 비평하는 말을 통해 『타이헤이키』의 병법관을 고찰했다.

 『타이헤이키』의 군사회의에서 주로 언급되는 것은 『헤이케 모노가타리(平家物語)』를 중심으로 하는 과거의 전투 사례로, 『삼략(三略)』·『육도(六韜)』를 비롯한 중국의 병법서다. 이때 논의되는 내용은 다른 대목에서 했던 논의와 다른 결론을 이끌어내기도 하고, 논의 때 예상한 대로 결말이 나지 않는 경우도 많다. 또 과거 사례와 병법서의 내용을 대치시키는 부분(권8 '3월 12일 전투', 권23 '와키야 형부경 요시노에 가다. 다카스케경 이야기(脇屋刑部卿吉野へ参ぜらる事 付 隆資卿物語の事)')과, 병서 자체를 상대화하는 듯한 부분(권29 '쇼군 부자의 상경. 아호·아키야마 카와하라의 전투(将軍親子御上洛の事 付 阿保秋山河原合戦の事)')도 있다.

 이와 같은 수많은 병법의 이용이나 '계략'에 대한 높은 관심에 비해, 선행하는 군담 소설의 과거 사례와 병법서는 『타이헤이키』 전체를 관통하는 보편적 '이치'로서 기능하지 않고, 전투의 귀추를 유동하는 '기회' 내지 '기세'를 통해 찾으려 하기도 한다. 『타이헤이키』에는 설화 인용 등을 두고 결론 없는 논의가 종종 이루어지는데, 『타이헤이키』 전쟁담속의 병법 담론 역시 여러 관점을 제시하고 어디까지나 논의 그 자체를 즐기는 방법의 하나로 위치하는 것이다.

 한편, 독자 측의 『타이헤이키』 병법 담론에 대한 관심도 높아, 때로는 이본들 간에서 논의 내용에 변화가 보인다(권29 '요시아키라 하국과 모모이 상경(義詮下国桃井入京の事)', 권32 '야마나 우위문좌 적이 되다. 무사시 쇼칸의 자해(山名右衛門佐敵と為る事 付 武蔵将監自害の事)'). 또 근세에서는 『타이헤이키』 자체에서 병법적 요소를 발견해 그 요소를 확대한 『타이헤이키 효방 히덴 리진쇼(太平記評判秘伝理尽鈔)』가 널리 유행하게 된다. 하지만 『타이헤이키』의 병법 담론은 절대적인 이론을 찾지 않은 곳에야말로 그 특징이 있다.


『타이헤이키(太平記) 』권37 '양귀비'와 『시인옥설(詩人玉屑)』

초세이우 (張 靜宇)

 『타이헤이키(太平記)』권37 '양귀비'는 관동(關東)에서 권력을 휘두른 하타케야마 쿠니키요(畠山國清) 모반의 경위를 설명하기 위해 인용된 이야기이다. 이 이야기에는 『장한가(長恨歌)』과 『장한가전(長恨歌伝)』, 그리고 일본 측에서 전해지는 당(唐) 현종(玄宗)과 양귀비의 설화를 바탕으로 지금까지 없었던 새로운 정보가 삽입되어있다. 이들 새로운 정보와 송·원代의 풍속·문화, 주로 송代 시화 『시인옥설(詩人玉屑)』과의 관계에 대해서 살펴보았다.

 권 37 '양귀비' 속 영왕(寧王)과 양귀비의 이야기는 권35 '키타노츠야 모노가타리(北野通夜物語)'에도 인용되며 『타이헤이키』의 작가가 지어낸 이야기라고 하기는 어렵다. 송·원代에는 중국 시인 대다수가 영왕과 양귀비의 이야기를 시의 소재로 이용해 당代 후궁 생활의 혼란을 비난했었다. 이런 문화에 영향을 받은 오산(五山)승들도 비슷한 시를 지었다. 권37 '양귀비'에 인용된 유장경(劉長卿)의 시구는 『시인옥설 』권 2·시평 '성제평위시은축발로지이(誠斎評為詩隠蓄発露之異)'의 영향을 받았을 가능성이 높다고 한다. 마찬가지로 '성제평위시은축발로지이'에는 진극(陳克)이 읊은 '영왕진사도(寧王進史圖)'의 시구에 영왕과 양귀비가 등장하므로 권37 '양귀비' 속 영왕과 양귀비의 이야기는 『시인옥설』의 영향을 받은 것이 아닌가 추측할 수 있다.

 또한, 권37 '양귀비'에 나오는 동관(潼關) 전투는 중국의 사서 『구당서(舊唐書)』등 보다 훨씬 간략한 것으로 『구당서』등의 역사서에서 직접 영향을 받았을 가능성은 낮고 『시인옥설』 권14 초당(草堂) '귀기비(貴其備)'에 인용된 두보(杜甫)의 '동관사(潼關吏)'의 시구를 수용했을 가능성이 높다고 본다. 그리고 그동안 '장한가 고사(長恨歌故事)'에는 등장하지 않았던 엄무(嚴武)가 『타이헤이키』에 등장하는 것은 엄무가 『시인옥설』에 나오기 때문이다.

 『시인옥설』은 일본 중세 때 상당히 유행했으며 선행 연구의 지적대로 『타이헤이키』에 많은 영향을 주었다. 따라서, 『타이헤이키』 권37 '양귀비'에 등장하는 영왕과 양귀비의 이야기, 동관 전투, 엄무 이야기는 『시인옥설』과 관계가 깊은 송·원 시대의 문화를 반영하고 있는 것이 아닐까.


이마카와 료순(今川了俊)과『타이헤이키(太平記)』

와다 타쿠마(和田 琢磨)

 중세 슈고 다이묘(守護大名)의 『타이헤이키(太平記)』觀을 고찰하는 데 있어 이마카와씨(今川氏)의 존재는 무시할 수 없다. 이마카와 료순(了俊)의 『난타이헤이키(難太平記)』를 비롯해 이마카와家본 간기에서 전해지는 이마카와 우지치카(氏親)가 소장하고 있었다는 『타이헤이키』의 존재, 『노부타네 쿄키(宣胤卿記)』에 실린 우지치카 서한 등, 남북조(南北朝) 시대부터 무로마치(室町) 시대에 걸친 『타이헤이키』와 슈고 다이묘와의 관계를 전하는 주요 자료들 속에 이마가와 씨가 그 이름을 남기고 있는 것이다. 본론은 이들 중 『난타이헤이키』에 초점을 맞춰 남북조 시대부터 무로마치 시대 초기까지 활약한 료순이 『타이헤이키』를 어떻게 읽었었는지에 대해서 고찰한 것이다.

 『난타이헤이키』의 연구사에 대해서는 이미 필자 나름대로 정리·검토를 가해왔다. (졸저 『『타이헤이키』생성과 표현 세계』신텐샤, 2015(『太平記』生成と表現世界』新典社、二〇一五年) 그 안에서 드러난 문제 중 하나로 『타이헤이키』를 아시카가(足利) 쇼군(將軍)가의 '정사(正史)' 혹은 '정사에 비견하는' 작품으로 규정지을 때의 근거로 『난타이헤이키』가 중요한 위치를 차지하고 있다는 점을 든다. 물론 료순이 그러한 생각을 했을 것이라는 점은 수긍할 수 있다. 하지만 『타이헤이키』 본문을 자세히 읽어 보면 료순과 같은 생각이 당시 슈고 다이묘의 일반적인 인식이었다고까지 단정 짓기는 어려워 보인다.

 과연 료순은 얼마나 제대로 『타이헤이키』를 읽었던 것일까. 『타이헤이키』가 무로마치 막부의 '정사' 혹은 이에 비견하는 것으로서 사람들에게 널리 인식된 것이라면 료순도 『타이헤이키』를 상세히 읽고 있었던 건 아닐까. 그리고 불편한 부분이나 정정해야 할 부분에 대해서는 『난타이헤이키』에 기록한 것이 아닐까. 애초에 료순은 『타이헤이키』 전권을 입수할 수 있었던 걸까.

 본론에서는 이와 같은 의문을 풀고자 『타이헤이키』와 『난타이헤이키』를 자세히 비교 검토하고 이마카와씨가 『난타이헤이키』에서 어떻게 그려지고 있는지 고찰한다. 이와같이 함으로써 료순의 『타이헤이키』 수용의 모습을 구체적으로 밝히고자 한다. 본론의 결론은 남북조 시대부터 무로마치 시대 초기까지, 슈고 다이묘의 『타이헤이키』에 대한 의식을 파악하는 길로 이어질 것이다.


『타이헤이키(太平記)』의 정보 조작
―야마나(山名) 부자의 이반(離反)을 둘러싸고―
기타무라 마사유키(北村 昌幸)

 아시카가(足利) 측 무사들이 대립하며 싸운 간오의 요란(觀應擾亂)은 코노 모로나오(高師直)가 쇼군(將軍)의 저택을 포위한 사건을 계기로 시작됐다. 이때 각 진영에 소속된 무사의 면면은 『타이헤이키』 전본에 따라 다르다. 특히 주의할 점은 겐큐본(玄玖本)에서는 아시카가 타다요시(足利直義)파로 분류되는 야마나 도키우지(山名時氏)가 칸다본(神田本)에서는 코노 모로나오파에 속해있다는 점이다. 이에 권27 본문의 차이점을 분석한 결과 칸다본식의 기술이 원본 형식을 전하고 있을 가능성이 높은 것으로 판명되었다.

 야마나 도키우지를 모로나오파로 보는 것은 역사적 사실에 입각한 것일 것이다. 그러나 그 이후 야마나 씨가 타다요시파로 전향한 사실은 어느 이본에도 명기 되어있지 않다. 때문에 칸다본이나 세이겐인본(西源院本)의 야마나 씨는 간오의 요란 동안 일관되게 모로나오파(즉 다카우지 측)에 있었던 것처럼 읽혀버린다. 요란 후 끝내 이반하고마는 권32 속 장면(역사적 사실로는 두번째 이반)에서도 타다요시와의 관계는 덮여 있어 다른 타다요시파의 무사들을 취급하는 방법과 미묘하게 다르다. 따라서 이시토(石塔)등의 경우와는 달리 야마나 씨가 논공행상과 관련하여 냉대받았다고 하는 권32의 전개는 도리에 맞지 않는 것으로 볼 수밖에 없다. 이렇게 야마나 씨의 호소를 거절하는 사사키 도요(佐佐木道誉)의 행태는 점점 부조리함으로 떠오른다. 호소카와 키요우지(細川清氏)의 배척과 시바 다카츠네(斯波高經)의 배척에도 같은 역할을 맡은 도요는 그야말로 남북조의 내란을 장기화시킨 원흉의 하나로 인식되고 있다고 할 수있다.

 그러나 타이헤이키(太平記) 작가가 사사키를 싫어하는 야마나 편이냐 하면 그리 단순하지 않은 문제다. 야마나 모로우지(師氏)가 도요에게 거들어주길 의뢰하는 장면에는 모로우지의 거만한 발언이 그려져 있기 때문이다. 이분법적 대립으로 선악을 구별해서 쓰는 것이 아니라 대립하고 있는 이들 양쪽 모두를 냉정한 태도로 그려내는 것은 본디 『타이헤이키』에서 많이 볼 수 있는 서술 방법이었다. 야마나 부자의 이반 기사는 언뜻 이해하기 어렵지만 분명 이와 같은 서술 방법의 한 예로 꼽히는 것이다.


칸다본『타이헤이키(太平記)』의 표기에 관한 각서(覺書)
― 가타카나(片假名), 히라가나(平假名) 혼용과 탁점 사용을 중심으로―
코아키모토 단(小秋元 段)

 칸다본 『타이헤이키(太平記)』의 특색 중 하나로 본문의 가나(假名) 부분이 가타카나(片假名), 히라가나(平假名) 혼합으로 표기되어있는 점이 꼽힌다. 한자에 가타카나, 히라가나를 혼용하는 예는 원정기(院政期)에 존재했다. 그러나 그보다 훨씬 더 먼 시대인 무로마치(室町)기의 칸다본(神田本)에서, 왜 양자 혼용이 일어났을까.

 칸다본은 동일한 필사자에 의해 서사 되었는데 그 서풍은 A~D의 네 서체로 분류된다. 이는 서사 시기의 차이를 반영하는 것으로 보인다. 가타카나·히라가나 혼용의 정도를 보면 AC체보다 BD체에서 히라가나의 사용률이 높아지고 있다. 반대로 권1~권9의 A체에서는 히라가나의 사용률이 낮고 특히 권1은 전반적으로 히라가나가 거의 보이지 않는다. 이는 칸다본의 저본은 한자·가타가나 혼합이며 칸다본 필사자도 처음에는 그것을 지켜가며 서사했음을 의미한다.

 가타카나 사용률이 높은 A체에서 히라가나가 보이는 부분에는 일정한 경향이 있다. 'にて' 'より''から' 등 특정한 단어를 연면체(連綿體)로 히라가나 표기하고, 한자에 접속하는 'し''て''も'등도 히라가나로 표기한다. 그리고 이들 단어와 음절을 계기로 일정의 단어·문절을 히라가나로 표기한다. 이 경향은 필사자에게 가타카나보다 히라가나로 표기하는 것이 특기인 단어나 음절이 있어 이 말들이 나오면 단어·문절 단위로 히라가나 표기를 선택하는 방식이 존재했음을 나타내고 있다. 처음에는 저본대로 한자·가타가나 혼합 표기를 지키고자 했던 필자였지만 차츰 그 규칙이 무너져 본인이 필사하기 쉬운 범위부터 히라가나 표기화가 진행되어, 이윽고 히라가나 표기가 가타카나 표기를 압도하게 된 것이다. 그런 의미에서 칸다본은 제삼자에게 보이려 기보다 속기성, 효율성을 확보하는 것을 우선으로 서사된 것이라고 할 수 있다.

 그리고 칸다본에는 다른 『타이헤이키』 전본보다 탁점이 비교적 꼼꼼히 표기되어 있다. 다만, 권2까지는 문자의 왼쪽에 탁점을 찍는 특수한 방법을 취하고 있다. 무로마치 전기는 고유 일본어에 탁점을 찍는 예가 인정되는 초기 단계로, 그 방식도 정착이 안 된 시기이다. 그러한 시기였음에도 칸다본에 왼쪽 탁점이 존재했다는 사실은 국어 표기 역사상 흥미로운 사례로 주목할 필요가 있음을 아울러 지적한다.


기타바타케(北畠)문고본 『타이헤이키(太平記)』각서(覺書)
나가사카 시게유키(長坂 成行)

 『타이헤이키(太平記)』 고사본 중 기타바타케(北畠) 문고본은 쇼와(昭和) 47년(1972) 12월에 열린 3都 고전 연합회의 사전 답사 전람회에서 전시됐었다. 입찰 목록에 적힌 내용과 현장에서 열람한 두세 명의 연구자에 의해, 권22가 없는 40권짜리 책으로 40권이 존재하는점, 용자(用字)는 한자·가타카나(片假名) 혼합, 케이초(慶長) 3년의 식어(識語)가 있고 '기타바타케 문고' 도장이 찍혀있다는 등의 식견이 보고되었다. 그로부터 40여 년이 지난 지금 기타바타케 문고본을 살펴보게 되어 연구사적으로도 약간의 의의가 있다고 생각하는바 개략을 소개한다.

 본서는 권1~권19 및 권28~권40의 32권이 남아있고, 권20~권27의 8권 분량이 없다. 이 32권이 거의 들어갈 만한 투박한 상자의 뚜껑 안쪽에 적힌 식어를 통해 본서는 후코쿠엔(布穀園)의 주인, 즉 기타바타케 하루후사(北畠治房)(1833~1921)의 舊장서로 보이며 '기타바타케 문고' 인주(印主)도 판명됐다. 메이지(明治) 시대의 사법관으로 대심원(大審院) 부장도 지낸 하루후사는 『민고닛소(岷江入楚)』 『난슈이분(南狩遺文)』 『토우카히덴(東家秘傳)』등 고전적도 함께 소장했었다. 그 후, 본서는 오시마 마사타로(大島雅太郞), 코우분소(弘文莊)로 전래한 듯한데 기타바타케 하루후사가 소장했을 무렵과 쇼와 47년경에는 40권이 존재해 있었을 것이다.

 그러나 보관하고 있는 상자와 크기가 맞지 않아 8권 분량이 빠져있는 문제와 함께 의문이 남는다. 권40 말미의 식어에 '케이초 3년 술해의 정월부터 읽어 8월 초하루에 읽기를 마친 것이다(慶長三戌正ヨリ八月朔日讀終之者也)'는 글이 있으므로 그 이전에 서사한 것으로 보이며 지질·외형 등으로 봐서도 대략 무로마치 말기에 서사된 것으로 생각해도 좋을 것 같다. 또한 첨부된 코히츠 료추 (古筆了仲)의 감정서에는 각 권의 필사자로 코우겐(江月) 화상등 다이토쿠지(大德寺) 여섯명의 승려가 언급되어있지만, 케이초 3년 당시에 미출생인 인물도 포함되어 전승의 신빙성에 문제가 남는다.

 본문 계통을 아는 데 중요한 지표를 담고 있는 권20~ 권27이 빠진 것이 안타까울 따름이다. 그러나 권3 말미에 '쿠스노기 콘고산에 성을 짓다(楠金剛山に城構える)'가 있는 점, 권14 '히가시 사카모토 황궁(東坂本皇居事)'이 있는 점, 권35 '키타노 참배자의 세간 이야기(北野詣人世上雑談事)'에 니치조 쇼닌(日蔵上人) , 야스토키(泰時) 수행, 사다 토키(貞時) 수행 기사가 있는 점, 권42가 '중전행사(中殿御會事)'로 시작하는 등 그 밖의 부분의 특징에서 이 책은 갑류본(甲類本)과 내용이 비슷한 전본 중 겐큐본(玄玖本) 계통의 하나로 인정된다.


●グーグル提供広告