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2016年8月26日

 記事のカテゴリー : 新刊案内

●中醫經典被「另類改編」成娛樂刊物!?○陳 羿秀[お茶の水女子大学(院)]―福田安典『医学書のなかの「文学」』(笠間書院)中文紹介文公開

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福田安典『医学書のなかの「文学」』(笠間書院)の、陳 羿秀氏による中文紹介文を公開いたします。

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福田安典『医学書のなかの「文学」 江戸の医学と文学が作り上げた世界』(笠間書院)
ISBN978-4-305-70804-5 C0095
A5判・並製・カバー装・280頁
定価:本体2,200円(税別)

○本書の詳細はこちらをご覧下さい。
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305708045/

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中醫經典被「另類改編」成娛樂刊物!?

陳 羿秀[お茶の水女子大学(院)]

 在日本江戶時代(十七世紀初至十九世紀後半)出現了一些需具有醫學(指以中醫理論為基礎的日本漢方醫術)知識及須精通相關醫學著作方能理解的文學作品。而從事這類著作的作者抑或其讀者,具有醫學背景,平時可能一面運用醫書從事醫業,一面卻將這些嚴肅的醫學專書改寫成通俗文學作品,或成為其讀者。因此,醫學專書既是他們賴以為生的工具;亦是其自娛自樂的一種方式。

 然而,隨著時代的推進,從事醫學著作改編的作者漸漸的已不侷限為醫師,一些非醫師本業者也加入改編醫書以娛樂大眾的行列,使原本枯燥乏味的醫學經典,經由作者巧妙的改寫後,搖身成為通俗的大眾文學,使作者與讀者層面擴大,即使非醫學專家的讀者也能藉由閱讀這些作品而間接獲得醫學相關知識。但對他們而言,閱讀這些讀物的初衷並不是為了獲得醫學知識,而只是單純為了打發時間並娛樂自己而已。

現代人潛意識裡認為醫學與文學是各屬不同的領域,但於江戶時代,醫學與文學確實是無法分類的。而藉由這些具有娛樂性質,但卻也需有醫學或本草知識才可理解的醫學改編文學,印證醫學與文學是可相容的,且經由改編者的巧思將其發揮得淋漓盡致。透過這些漢方「醫學」經典改編成的詼諧「文學」作品,闡明醫學與文學間的關係,是本書作者福田安典教授特別想深入探討的。

 於江戶時代的確存在不少需要醫學知識才能理解的文學作品,例如在江戶中期,有一本在日本京都出版以妓院為題材名為《本草妓要》寶曆年間(1751─1764)的庶民文學,《本草妓要》的書名是參照《本草備要》而命名,即使是序的部份也依據《本草備要》的和刻本(於日本刻版複製且漢字旁附有日文讀法之中國書籍)的「序」逐字改寫成符合妓院情境的內容。而內文中的插圖〈妓類附圖〉(圖1)則仿照李時珍的《本草綱目》中之〈木部香木類附圖〉(圖2),將原本為植物圖鑑的內容, 詼諧改編成各類層級妓女的使用器具示意圖。提及《本草綱目》,江戶時代中後期出現許多看中《本草綱目》的知名度,而模仿《本草綱目》的書名,藉以吸引當代讀者的注目,進而換取銷售量的文學作品。譬如明和5年(1768年)出版的《加古川本草綱目》,其書名即是融合《本草綱目》與當代知名的淨瑠璃劇本《假名手本忠臣藏》中的出場人物「加古川本藏」,本書除了書名及故事最初介紹本草學歷史的部分參考《本草綱目》「歷代諸家本草」之外,其餘的內容與《本草綱目》皆無關係;而文政2年(1819年)出版的《本草盲目集》是本娛樂取向刊物,其書名雖取自《本草綱目》之諧音,但內容與《本草綱目》毫無相關,若將《本草盲目集》(圖3)與《本草綱目》(圖4)的封面擺在一起,應可更清楚看出兩書性質之差異。


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《本草妓要》(圖1)
「太夫,天神,白人,藝子為關西地區妓女之階級名稱」

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《本草綱目》(圖2)

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《本草盲目集》(圖3)

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《本草綱目》(圖4)

 《本草妓要》與上述作品相對照,其不僅是書名參照醫學著作,文章主體內容也依照當時日本京都著名的漢方醫師香川修庵的兩本著作《一本堂藥選》和《一本堂行余醫言》來作巧妙的通俗化。例如:
 
凡藥之美惡真偽故,醫人之所當識辨,藥不真美病不可癒。《一本堂藥選・凡例》
凡妓之美惡真偽故,嫖客之所當識辨,妓不真美茍不可買。《本草妓要》

 以上兩則對照可顯示出經過改編後,能將一本原來生澀的醫學專書轉換成會心一笑的刊物。因此,若想要了解《本草妓要》究竟如何被<另類>改編,必須要先精通《本草綱目》及修庵的《一本堂藥選》《一本堂行余醫言》,以它們作為基石,才能完全理解本書的詼諧之處;但遺憾的是《一本堂行余醫言》的刊本至今尚未齊全,當時此書的流傳僅靠其子弟間的抄寫本,一般大眾無法窺其全貌,可見《本草妓要》的作者及讀者必然是精通修庵著作的人,例如都賀庭鐘這位修庵的得意門生,他擅於寫雅俗共賞的作品,就極有可能是此書的作者或讀者。本書屬當代典型的醫書改編著作,這類的作品可能當時在同好之間私下流傳,而其作者或讀者就如同都賀庭鐘一般,一邊從事醫業,一邊於閒暇時將醫書改編成妓院文學用以抒發壓力。

 修庵是提倡儒醫一體的古方派(江戶中期興起的漢方醫學門派,批判宋代以後的醫學著作,提倡重現宋以前的醫學療法)大家,但因其個性擇善固執,而易引發當代文人對他的嘲諷,如平賀源內在他的《放屁論》等著作中對他嘲弄和批判;但也有敬佩他的人,比如曾私淑修庵的江戶後期漢方醫師橘南溪,就曾在其隨筆《北窗瑣談》裡提到修庵年少時因太忙於醫治病人,而不曾在行醫時中途如廁的軼事,諸如此類的逸聞,傳為美談,可見其行醫之認真態度。而其弟子中自然有景仰這位老師者也有嘲弄的,對他的弟子而言,平時奉老師的著作為金科玉律,當一旦脫下醫袍化為文人騷客時,老師的著作即刻轉變成他們調侃改編的對象。

 《本草妓要》一書出乎意料的受到當時讀者們的熱烈歡迎,而不斷的再版,其讀者群也擴展至修庵的弟子以外的一般民眾,而這本書的讀者大多是不精通醫學的門外漢,他們有可能會發現這本書與修庵的著作有相關,進而在閒暇時將修庵的著作找出來閱讀嗎?還是只有醫生才能看穿本書與修庵著作的關連呢?若真為了將《本草妓要》「融會貫通」,而特地去翻閱如《一本堂藥選》等專業醫書的讀者存在的話,那麼,我們是否可說修庵的著作不僅只是醫學專書,並具有近似文學讀物般的存在意義呢?從《本草妓要》書中所舉的例子可知於江戶時代醫書與文學作品的界線比現代人想像中更為模糊。

以下再舉一例,各位是否可分辨出A與B何者為醫學作品,又何者為文學作品呢?

A太陽病,項背強几几,無汗惡風,葛根湯主之。
B知是太陽病,脈浮頭項強,藥方何所主,仲景葛根湯。

 A是醫學書《傷寒論・弁太陽病脈證并治》裡的醫學理論,而B為文學作品《茶果子初編》裡的五言絕句,這首詩在文句上很難說它有改變成詼諧的詩文意味,只是將《傷寒論》的文章改寫成韻文以利於當代人背誦;它的重點並不在於其文學價值,而在於它不僅是作者自得其樂的小品文,且因獲出版商青睞,將其印刷成為民間廣為流傳的讀物。由此觀之,醫學經典也因改寫成為大眾文學而使讀者群擴大。

 江戶中期的醫師兼文人勝部青魚曾於《剪燈隨筆》中提到,當時的思想界流行伊藤仁齋等人的古學派(否定宋明理學,強調回到孔孟時代的復古運動),而此派之風氣傳至醫學,更甚至影響國學(盛行於十七十八世紀的日本,專門研究考據日本古代文學與神道),以致萬葉集和歌的研究因而盛行。換言之,當代確實有文人認為儒學的古學派影響擴及到醫學的古方派甚而再傳至國學的研究,可見醫學融合文學,它們之間的相關性在那個時代是有其脈絡可尋的。綜觀前所述,現代人總認為醫學與文學是不相關的領域,但這樣的分類法卻無法完全掌握江戶文化之全貌。期盼各位讀者能透過本著作,對江戶時代的醫學與文學之間的關係有全新的認識。

---日本語訳---

パロディ化された中国医学書!?
陳 羿秀[お茶の水女子大学(院)]


 日本の江戸時代(17世紀〜19世紀)には、医学知識(ここでの医学とは、古代中国医学をベースとした日本漢方医術を指します)がないと理解できない文芸作品が数多くありました。この種の作品に携わる作者と読者は、いつもは医術に従事しながらも、その合間に、医学専門書をパロディ化したり、そうして出来上がったパロディ作品の読者になったりしました。医書は彼らにとって、商売道具であると同時に、自分を楽しませてくれる娯楽書でもあったのです。
 そういった医学書をパロディ化するという遊びは、時代が進むとやがて医学の関係者でない人にも及んでいきます。固苦しいはずの医学書も巧みな改編によって、娯楽性に富んだものに変身し、通俗的な大衆文学になっていきます。本来は医学の専門家でない読者も、これらの作品に目を通すことによって、間接的ながらも医学知識を身につけることができるようになったのでした。パロディ化された医学書は、もはや専門書ではなくなり、「文学作品」になってしまったのです。
 本書は、こういった医学書及び本草学の知識を必要とする医学書のパロディ作品を中心に取り上げ、医学と文学の関係を明らかにするものです。

 医学書の知識がなければ理解できない作品には、例えば、京都の初期洒落本(江戸中期の戯作の一種で、主に遊廓(妓院)を舞台にしている)に『本草妓要(ほんぞうぎよう)』(宝暦頃〈1751〜1764年〉)があります。この作品は題名からして、『本草備要(ほんぞうびよう)』(1682年頃、清・汪昴著)という中国の医学書のもじりであることがわかるのですが、その序文の内容も『本草備要』の和刻本(中国などの本を日本で覆刻し、さらに訓読のための返り点やルビなどを付加したもの)を逐語的にもじったものなのです。この『本草妓要』の挿絵「妓類附図」(図1)も『本草綱目』の挿絵「木部香木類附図」を模したもので(図2)、『本草綱目』の本来植物図鑑的な内容を、見事に遊女(妓女)の持ち物にパロディ化したのでした。『本草綱目』といえば、江戸時代中後期に『本草綱目』の知名度を見込んで、その書名をもじって出版された、いわゆる「本草綱目物」が数多く誕生しました。例えば明和5年(1768年)刊『加古川本草綱目』の書名は、まさに『本草綱目』と『仮名手本忠臣蔵』(人形浄瑠璃及び歌舞伎の演目で、1748年が初演)の登場人物である「加古川本蔵」を融合させたものです。『加古川本草綱目』と『本草綱目』との関係は、書名と冒頭の本草学の歴史を紹介する部分だけにとどまります。その他、文政2年(1819年)に刊行された『本草盲目集』も大衆向けの娯楽作品ですが、書名こそ『本草綱目』の影響を受けていますが、内容はは全く『本草綱目』のパロディになっていません。両書の表紙を並べると一目瞭然です(図3・4)。
 『本草妓要』はこれらパロディの方法と比べると違いがあります。書名を『本草備要』からもじっただけでなく、内容も、当時京都著名な医師香川修庵(かがわしゅうあん)(1683〜1755年、江戸中期の漢方医)の著作『一本堂薬選(いっぽんどうやくせん)』と『一本堂行余医言(いっぽんどうこうよいげん)』を遊廓の世界に即して巧妙にもじって作っているのです。一例を挙げましょう。

  凡薬之美惡真偽故,医人之所当識辨,藥不真美病不可癒。『一本堂薬選』
  【訳】凡そ薬の美悪は、もとより医人が識り弁ずる所である。薬が真美でなければ病は癒えないであろう。
  凡妓之美惡真偽故,嫖客之所当識辨,妓不真美茍不可買。『本草妓要』
  【訳】凡そ妓(遊女)の美悪や真偽は、もとより漂客(遊客)が識り弁ずる所である。妓がまことに美しくなければ、買ってはいけない。

というように、固苦しい医学書は一転して遊廓のガイドブックに変わってしまうのです。

 問題は、この『本草妓要』の面白さを理解するに、修庵の著作に精通しなければいけないことが条件だということです。しかも『一本堂行余医言』のほうは、当時写本で門人の間に流通していたに過ぎず、『本草妓要』の作者はもちろんのこと、読者も修庵の作品に詳しくないとこの作品を鑑賞することはできません。本書の作者や読者は、例えば修庵の弟子で雅と俗という二つの領域の文芸にまたがる人物、都賀庭鐘(つがていしょう)(1718〜1794年、江戸中期の読本作家、医師)以外は考えられません。この作品は、いかにも京都の初期洒落本らしく、当初は仲間内だけで閲覧されたものでした。その作者や読者は、庭鐘のように、日頃修庵の医書をもって医術に従事し、そのかたわら医書をもって色遊びを語っていたに違いありません。

 修庵は「儒医一本論」を唱えた古方家(江戸中期に起こった漢方医学の党派。宋代以後の医学を批判し、宋以前の医学療法を重用した)の大家でした。しかし頑固で真面目な性格で、時には当代の文人たちの間で嘲笑されていました。平賀源内(ひらがげんない)はそれを『放屁論(ほうひろん)』という作品で皮肉っています。逆に江戸後期に修庵に私淑した橘南溪(たちばななんけい)は『北窓瑣談(ほくそうさだん)』に、修庵が治療が忙しいときにはトイレさえ我慢していたという美談を記しています。そのきまじめな修庵の性格は賞賛されると同時に、嘲笑の対象にもなったのです。

 『本草妓要』は当時の読者に歓迎され、その後も版を重ねていきました。読者は修庵の弟子を越え、一般大衆に広がっていきます。その読者はほとんどが医学に堪能ではありませんでした。読者はこの作品と修庵の医学書との関連を見出すべく、暇な時間に医学書を読んでいたのでしょうか。それとも医師だけがその関係と、そこに潜むおもしろさに気付くことが出来たのでしょうか。『本草妓要』を読むためには修庵の医学書だけではなく、医学全般の知識も必要です。この事情は「医学書」と「読み物」が限りなく近いことを示します。江戸の医学書や文学との境は、現代の私たちの世界では想像できないほど、明確ではなかったといえるでしょう。

 最後に別の例をあげます。以下の、AとB、どちらが文学書で、どちらが医学書でしょうか。

  A 太陽病,項背強几几,無汗惡風,葛根湯主之。
  B 知是太陽病,脈浮頭項強,藥方何所主,仲景葛根湯。

 Aが医学書『傷寒論(しょうかんろん)』「弁太陽病脈證并治」で、Bが文学作品『茶果子初編(ちゃかししょへん)』の五言絶句なのです。この狂詩は『傷寒論』の文章を利用しているのですが、そこにどこまで面白さを見出せるでしょうか。医学書を知っていてこその面白みがわかり、読者ももちろんそれを知っていなければならなかったのです。

 江戸中期の医師にして文人の勝部青魚(かつべせいぎよ)は『剪燈随筆(せんとうずいひつ)』に次のよう記しています。「当時の思想界は、儒学では伊藤仁斎らの古学派(宋明代を否定し、孔孟に戻れとの運動)が起こり、それが医学の古方家に伝わり、やがて日本の国学(17〜18世紀の日本で流行した日本古代研究)に発展し、万葉集や和歌の研究が進んだ」と。医学と文学とのとの融合や関連は、江戸時代において不可分でした。現代では医学と文学は全くの別領域ですが、その意識では日本の江戸文化の全体像を把握できません。この本で読者は、江戸時代の文学と医学との関係について、新しい見方を持つことができるはずです。


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