日置貴之『変貌する時代のなかの歌舞伎 幕末・明治期歌舞伎史』の「はじめに」を全文公開

2月16日に刊行した、日置貴之『変貌する時代のなかの歌舞伎 幕末・明治期歌舞伎史』の「はじめに」を全文公開します。
ぜひご一読下さい!
なお、本書の詳細は以下でご覧頂けます。
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●日置貴之『変貌する時代のなかの歌舞伎 幕末・明治期歌舞伎史』
http://kasamashoin.jp/2016/01/post_3526.html
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はじめに
本書の目的
 幕末から明治という時代は、日本の歴史において一大転換期であった。そして、歌舞伎という江戸時代に誕生した演劇もまた、この時期に大きな変化を迫られたのであった。この時期の歌舞伎の変容の中から、今日私たちが目にする歌舞伎につながるさまざまな要素が誕生した。
 たとえば、現代の観客はほとんどの場合、椅子席に座って歌舞伎の舞台を眺めるが、いうまでもなく観客席に椅子が導入されたのは明治時代の出来事である。いま、「ほとんどの場合、椅子席に座」ると書いたが、近年では「江戸時代の芝居見物」に対する憧憬からか、近代的な劇場にあえて枡席を設けたり、江戸時代の芝居小屋を模すような形の仮設の劇場で歌舞伎を興行することがしばしば見られる。だが、ことさらに「江戸」を強調した感のある平成中村座にしても、その実質は近代的なプロセニアム形式の劇場のプロセニアムの内側に多少の座席を設け(「桜席」と称している)、一階席を枡席にしたに過ぎないのであり、近世の江戸の劇場(▼注[1])の形式とは似て非なるものである。これは何も、平成中村座はニセモノである、という批判ではない。今日の役者にとっても観客にとっても、もはや歌舞伎を見る空間とは明治以降に形作られたそれ以外にはあり得ず、そこで演じられる芝居も、そうした空間で近代に形作られてきたものでしかあり得ない(現代の役者で「江戸時代の芝居小屋」で育ち、演技を身につけた人は当然皆無である)、というだけのことである。これはやはり近年目に付く、全国に残る古い芝居小屋での歌舞伎公演にもいえることである。文化財に指定された芝居小屋での公演を行うある現代の人気役者は、その芝居小屋について「本当に江戸時代にタイムスリップしたような小屋ですね」と記者会見で語った(▼注[2])。もちろん、彼はこの芝居小屋が明治三十四年に作られたという歴史は知っているであろうし、この発言自体も芝居小屋の周囲の街並みなども含めた空間に対する感想ではある。しかしながら、この言葉には結果的に、役者にしろ、観客にしろ、「江戸」を追い求めながらも、どう頑張ってもそこには戻り得ない――せいぜい明治期の空間で、明治以降に形成された芝居を身につけて育った役者の演技を見るしかない、という今日の歌舞伎の状況が表れているように思われる。これは唯一、明治維新以前から残る芝居小屋である金丸座(香川県仲多度郡琴平町)にしても同様であろう。そこで「江戸の芝居」を見ることは叶わない。
 「江戸の芝居」を見ることができないとすれば、いま私たちが見ているものは何か。現在上演されている多くの芝居の演出史をたどっていくと、多くの場合、明治期の団菊、九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎に行き着くという説明はしばしばなされる。たしかにそれは事実であり、主に時代物において団十郎が、世話物において菊五郎が初演した演目、練り上げた演出等々が、その後、団十郎の場合は門弟の七代目松本幸四郎や初代中村吉右衛門、幸四郎の子である十一代目団十郎、八代目幸四郎(白鸚)、二代目尾上松緑らに、菊五郎の場合は子息六代目菊五郎、十七代目中村勘三郎、松緑といった人々に継承され、さらに今日活躍する役者たちに受け継がれている。今日の歌舞伎を支える土台が明治期に作りあげられたことは言うまでもない。
 だが、「明治の芝居」にしても、そうした、「江戸時代の芝居」の次に現れて、今日の歌舞伎につながるもの、というような図式でのみ捉えられるものではないのではないか。団十郎、菊五郎が今日の歌舞伎の基礎を築いたことも、彼らの存在が従来の演劇史の中で大きな位置を占めていることもわかるが、では、彼らの演じた芝居は同時代の他の人々のそれと何が違ったのか。あるいは、彼らの演じた芝居でも、今日まで残らなかったものは無数にあるわけで、そういった作品はどういったものであったのか、また、なぜ残らなかったのか。明治期の東京以外の地域、たとえば大阪や京都、あるいはそういった大都市の役者が旅芝居で回ったような地方では、どういった芝居が演じられていたのか。こういった疑問について見ていくと、明治期の歌舞伎が、日本の歴史上屈指の激動の時代にふさわしい、多様な姿を持ったものであることがわかってくる。と同時に、そうした多様性の中から、ある方向への「統一」の機運も現れてくる(それこそが私たちが漠然と思い描く、今日の芝居の礎となった「明治の芝居」である、といえるかもしれない)。本書では、そうした変わりゆく時代のなかの歌舞伎の姿を描き出していきたい。
先行研究
 明治期の歌舞伎に関する従来の研究状況を概観しておきたい。明治期の歌舞伎の最初の通史(▼注[3])が、伊原敏郎『明治演劇史』(早稲田大学出版部、昭和八年)であるが、この中で著者は、明治を大きく三期に分け、中期(ほぼ明治十年代に相当)では新富座、後期(二十年代以降に相当)では歌舞伎座と明治座をいわば東京劇壇の中心、正統と位置づけ、それ以外の劇場に関しては「非新富座系」「非両座系」といった言葉で括っている。これは、すなわち団菊および左(初代市川左団次)が本拠とした劇場とそれ以外、ともいえるが、ともかく伊原は東京劇壇の「正統」と「傍流」を峻別した。この区別は伊原が明治三年生まれであることを思えば、ある程度同時代の観客の実感に即したものといえる。しかしながら、ここで形作られた枠組みによって、その後の演劇史が新富座・歌舞伎座の線に偏重したものとなってしまったことは否めない(▼注[4])。
 結果として、(主に新富座で試みられた)演劇改良運動とそこから新派や新劇といった後続の演劇形式につながっていく流れに関しては、比較的豊富な研究の蓄積が見られる。特に松本伸子『明治前期演劇論史』(演劇出版社、昭和四十九年)、『明治演劇論史』(演劇出版社、昭和五十五年)は右の区分でいう「正統」の歌舞伎の周辺における近代化の動きを、主に当時の演劇をめぐる議論から分析したものである。小櫃万津男による諸論考(『日本新劇理念史 明治前期篇』〔白水社、昭和六十三年〕、『同 明治中期篇』〔未來社、平成十年〕、『同 続明治中期篇』〔未來社、平成十三年〕)も明治期の演劇論に焦点をあてたものであるが、本書の関心からすると、小櫃の研究成果ではむしろ、大阪における演劇改良の動きに着目(▼注[5])した点が重要である。
 また、幕末から明治にかけての最大の狂言作者であり、団菊左に多くの作品を提供した河竹黙阿弥についても、すでに多くの論考がある(▼注[6])。特に本書で扱う明治期について詳しいものとしては、渡辺保『黙阿弥の明治維新』(新潮社、平成九年)があり、今尾哲也による評伝『河竹黙阿弥』(ミネルヴァ書房、平成二十一年)も明治期のいくつかの作品について注目すべき解釈を示している。
 黙阿弥を含めた明治期の作者による、新風俗を取り入れた芝居、いわゆる散切物に関しては、低い評価を受ける時代が続いた(第一章第二節参照)。これに対して、散切物の評価の見直しを図ったのが、神山彰による『近代演劇の来歴 歌舞伎の「一身二生」』(森話社、平成十八年)所収の諸論考や、右の渡辺『黙阿弥の明治維新』であった。近代の目から散切物を未熟な形式と見て批判するのではなく、これらの作品が同時代の観客に訴えかけた新鮮な魅力をすくい取る姿勢には、本書も大きく影響を受けている。また、神山は明治期の戦争劇にも光を当てている。
 先に触れた「正統」「傍流」の区分でいえば、「傍流」として位置づけられてきた、明治期の上方歌舞伎や小芝居に関しても見ておきたい。伊原の『明治演劇史』や、高谷伸『明治上方演劇史伝 上方篇』(建設社、昭和十九年)、狂言作者という自身の職を生かして多数の直話を引用した尾澤良三『女形今昔譚 明治演劇史考』(筑摩書房、昭和十六年)等は、今日の研究水準からすれば見直すべき点も多々あるものの、貴重な情報を数多く提供している。ただし、明治期の上方歌舞伎に関しては、先述の大阪における演劇改良運動に着目した小櫃万津男のような例はあるものの、近年の研究は少ない。『近代歌舞伎年表』(国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編、八木書店、大阪篇昭和六十一〜平成六年、京都篇平成七〜十七年)という基本資料が備わった今こそ、光を当てられるべき領域であろう。明治期の小芝居については、伊原以後、阿部優蔵『東京の小芝居』(演劇出版社、昭和四十五年)等があり、近年では佐藤かつら『歌舞伎の幕末・明治 小芝居の時代』(ぺりかん社、平成二十二年)等が、一次資料の活用からこの時代の小芝居の実態をより明確にしつつある。
 本書では、これら先学による成果を参照しつつ、主に台本や番付等の上演に関わる資料、新聞等の周辺資料を用いながら、考察を進めていきたい。
本書の構成
 本書は三章十四節と附録から成る。
 まず、第一章「散切物と古典」では、古典演目と、開化風俗を描いた明治期の新作である散切物の明治期東京における上演に注目し、古典演目がこの時期にどのように変容したのか、散切物のなかにどのような形で在来の古典の要素が摂取され、どういった効果を生み出したのかを探る。第一節では、五代目菊五郎が自らの家の芸である「四谷怪談」を明治五年に演じた際の演出に注目する。第二節では、黙阿弥の最初期の散切物「東京日新聞」を取り上げ、そこに同じ興行の一番目に上演された時代物の登場人物の面影が投影されていることを論じる。第三節では、それ以降の黙阿弥の散切物においてもさまざまな形で古典からの摂取が見られ、その結果として従来ない登場人物の造形が成し遂げられたことを示す。第四節では、西洋の小説を翻案した人情噺をさらに黙阿弥が歌舞伎化した作品を取り上げ、そこに見える革新性や上方での改作上演との相違点等について論じる。
 第二章「戦争劇と災害劇」では、初期には団菊らも出演し、明治期の歌舞伎のなかで無視することのできないレパートリーでありながら、今日あまり顧みられることのない戦争劇および災害を描いた作品について見ていく。第一節では、上野戦争を描いた黙阿弥および門弟竹柴其水の作品について考察する。第二節では、其水が日清戦争時に執筆した作品に注目し、其水が黙阿弥から継承した要素や、芝居をとりまく環境の変化等について述べる。第三節では、災害を描いた芝居の変遷を紹介し、災害劇と戦争劇の共通点について論じる。
 第三章「上方劇壇と「東京」」では、従来言及されることの少ない明治期の上方劇壇(特に大阪劇壇)に注目する。第一節では、明治初期の大阪劇壇で「東京風」の名の下に行われた諸改革の実態を明らかにする。第二節では、上方初演の散切物を取り上げ、東京の散切物との違いを論じる。第三節では、明治初期に上方で活動し、東京にも移り住んだ狂言作者佐橋富三郎について紹介する。第四節では、桜田門外の変を扱った作品に注目し、明治維新期の事件の劇化に対する態度の東西差を論じる。第五節では、明治期大阪の歌舞伎と新聞の関係について見ていく。第六節では、明治期に上方で出版された役者評判記について紹介し、その出版意図等を考察する。第七節では、東京にありながら「上方的」な要素を多く取り入れた劇場であった春木座について論じる。
 附録「東京都立中央図書館加賀文庫蔵『合載袋』――明治期狂言作者の手控え――」は、明治期の狂言作者三代目勝諺蔵が残した手控えの翻刻および解題である。この時期の狂言作者がどのような事柄に関心を持ち、どういったものを狂言の材料にしようとしていたのかが窺える資料である。
 以上の考察を通じて、明治期歌舞伎の全貌を、従来より少しでも明確な像を持ったものとすることを目指したい。
【注】
▼注[1] 明治初期までの江戸・東京の劇場では、客席に張り出す形で付舞台が設けられるのが普通であった。上方(京坂)の劇場では、近世期から近代のプロセニアム形式に近い形の舞台が用いられた。
▼注[2] 兵庫県豊岡市の永楽館で、平成二十二年十一月五日〜十日に行われた「永楽館大歌舞伎」の記者発表(同年八月六日)における六代目片岡愛之助の発言。「歌舞伎公式総合サイト 歌舞伎美人」平成二十二年八月十八日付の記事による(平成二十七年七月十日閲覧)。
▼注[3] ただし、『明治演劇史』が扱うのは、明治改元から団十郎、菊五郎が没する明治三十年代後半までである。伊原は『団菊以後』(正続二冊、相模書房、昭和十二年)でこれ以後の時期について記している。
▼注[4] しかし、伊原は『明治演劇史』の中で「傍流」の劇場や役者、狂言作者等についてもかなりの紙数を割いており、そこには今日でも他で得ることのできない貴重な情報が少なからず含まれていることも確かである。このほか、比較的早い時期の通史としては、秋庭太郎『東都明治演劇史』(中西書房、昭和十二年)がある。
▼注[5] 「中村宗十郎の演劇改良とその理念」(『日本演劇学会紀要』第六号、昭和三十八年一月)、「大阪演劇改良会とその周辺」(『日本演劇学会紀要』第八号、昭和四十一年六月)。
▼注[6] 黙阿弥に関する研究の状況については、吉田弥生『黙阿弥研究の現在』(雄山閣、平成十八年)が参考となる。また、早稲田大学演劇博物館編『没後百年 河竹黙阿弥――人と作品――』(早稲田大学演劇博物館、平成五年)は黙阿弥研究の基礎文献というべきものである。