« 蘇芳のり子『マルグリット・デュラス 《幻想の詩学》』(せりか書房) | メイン | 岩佐美代子『為家千首(ためいえせんしゅ)全注釈』(笠間書院) »

2016年2月18日

 記事のカテゴリー : 新刊案内

●伊藤慎吾編『妖怪・憑依・擬人化の文化史』の序文「異類の出現する時─本書の手引き」全文と索引PDFを公開しました

このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote Share on Tumblr LINEで送る

2月16日に刊行した、伊藤慎吾編『妖怪・憑依・擬人化の文化史』の序文「異類の出現する時─本書の手引き」全文と索引PDFを公開します。
ぜひご一読下さい!

なお、本書の詳細は以下でご覧頂けます。

70797_k.jpg

●伊藤慎吾編『妖怪・憑依・擬人化の文化史』(笠間書院)
http://kasamashoin.jp/2016/01/post_3507.html

●索引PDFダウンロードはこちら
http://kasamashoin.jp/blog/70797_sakuin.pdf
-----------


異類の出現する時──本書の手引き


伊藤慎吾


     1

  古池や蛙(かはづ)とびこむ水の音

 芭蕉の名句中の名句と称されるものだから、ご存じの方も多いだろう。この句については数多くの先人達が数えきれないほど解釈を施し、鑑賞の手引きを示してきた。ところが、この句を「考物(かんがえもの)新題」として、次のように読み換えた子供がいる。
 
  台所道具一つ

 なんと名句が謎々となってしまった。古池に蛙が飛び込んだ時の音(擬音語)がキッチン用品の名称に等しいのだそうだ。これを作ったのは、東京は麹町(こうじまち)に住む小山内薫君である。時に明治二七年(一八九四)三月。児童向け月刊誌『小国民』に掲載された。
 ところで後に劇作家として名を馳せた人物に小山内薫(一八八一〜一九二八)という人がいる。出身は広島市だが、明治一九年(一八八六)に東京府麹町区富士見町に移り住んでいる。薫の妹岡田八千代は後に少年時代の薫を回想して次のように述べている(『若き日の小山内薫』古今書院、一九四〇年)。

  兄は小学校の高等科へ行く頃から、よく「小国民」だとか、「少年世界」?とか、さう言つた少年の読物になつて居た雑誌へ投書してゐた。

 同じ時期、同姓同名の子供が同地に住んでいたということは考えにくいから、恐らく「古池や」の謎々を投稿した薫少年は後の薫先生なのだろうと思う。

     2

 子供の発想力にはしばしば驚かされるが、わび・さびの境地にある蛙の飛び込む音からキッチン用品の名前を連想するのも奇想というべきだろう。生き物を生き物として、現象を現象として認識することが観察者として、また芸術の鑑賞者として在るべき姿勢であるとすれば、その枷(かせ)を填(は)められていない子供には観察・鑑賞よりも創造・表現の担い手として時代や社会的な制約を離れて得られる発想があるように思う。
 猫の群がるさまを猫の集会とみたり、闇夜に眼から光を放つ黒猫に怪異をみたりする。生き物としての生態はいざ知らず、猫たちの社会を想像して何か相談ごとをしているとみなし、あるいは猫に妖力があるものと信じて化け猫出現と恐れる。猫の行動や生態から、時として人間のような猫のメルヘンチックな社会生活を心に思い描き、あるいは霊的能力を備えた猫と判断して妖怪とみなす。方向性としては異なるものの、どちらも異類として猫を捉えていることに変わりはない。
 このように、生き物を生き物としてだけではなく、それ以外の価値や性格を重ねていく。ここに人間の文化・社会に組み込まれた異類が立ち現れる。
 こうした経験的な想像力によって、言葉に紡ぎ出されて目撃談、噂話、都市伝説、怪談、さらに怪異小説やマンガ、ドラマといった物語が生まれ、また言語や絵画、工芸、映像、パフォーマンスとして表現される。その結果、生き物以上の性格付けがなされた異類が広まり、定着していくわけだ。

     3

 古代的な心性からすれば、生き物にはすべて霊的な性格が重ねられていたことだろう。しかし今日においては、遊び相手、話し相手、ペットならぬ家族の一員と扱う風潮が強い。異類というよりは、人間の延長として認識する傾向が広まっているのではないだろうか。
 そうなると、人間と同じように犬・猫の魂はどこにいくのだろうかと考える人も増えてくる。かつては死んだら木の下に埋める、庭に埋める程度であったものが、ペット霊園に埋めるようになる。更には埋葬だけではなく、葬儀も本格化する。昭和後期には中世以来の古刹であってもペット霊園を併設する寺院が現れる時代となった。では埋葬後の魂の行方はどうか、あの世でどんな暮らしをしているのか。人間ならば年忌法要や盆行事で解決したものの、伝統的な葬儀・法事は人間に限られている。ペット葬儀がゼロ年代以降盛んになってきた。しかしペット葬儀は葬儀屋の領分であって魂の行方については分野外である。この需要には、伝統的な口寄せや祈禱師よりも、スピリチュアル系のカウンセラーが目ざとく反応して拡大していっているように思われる。ペットに限っていえば、人間の霊を呼び出すのが当然であった状況から、家族の一員であった犬・猫の霊を呼び出すことが自然に受け入れられる状況を迎えたといえるのかもしれない。
 一般的には、かつて霊的存在としての異類は生き物でありながら神霊として客体化されていたと思われる。しかし人間の家族、あるいは人間と同等に生きる権利が与えられる中、人間と変わらぬ霊魂をもった存在として、いわば疑似的な人間とみる傾向が強まった。一方、かつて暗がりに潜む妖怪であったものが、本質的にもっていた怪異を形だけ残し、人間の友達、良き隣人として変質していくようにもなる。
 日本において近代に至るまで異類の霊性を最もよく身近に見聞する機会となっていたのは、狐が人を化かすという出来事であろう。これについては、昭和一桁の人々までは見聞、時には体験した人が少なくない。地域差もあるが、「親たちは化かされたことがあるが、俺たちはない」ということを話す人もいる。私の祖母は大正一五年(一九二六)生まれ、荒川下流域で生きた人であったが、同様のことを言っていた。そういう祖母も、荒川の向こう岸に狐の嫁入りを実際に見た。たくさんの光が一方向に進んでいく様子であったという。
 異類は怪異を示すばかりでなく、人に取り憑くこともしばしば行った。今でも地方のニュースに、狐を落とすと称してクライアントに暴力を振るい、高額のお布施を要求する事件が載ることがある。異類が人に憑くことは当事者からすれば不幸なことであり、他人からすればその不可解な言動は恐ろしいものであったろう。
 と思ったら、滑稽にも映ったようである。これを文芸化したものが中世以来時々生み出された。狂言「梟山伏(ふくろうやまぶし)」は人間に憑いた梟を祓う祈禱の可笑しさを舞台化したものだ。そもそも梟が人に憑くのかという問題もあるが、あるとしても稀有なことであって、その意外性に加えて、憑いた人間が突然両手を上に伸ばしてホホーと高らかに鳴く所作の滑稽さが笑いを誘う。
 また東北では昭和前期の頃までボサマ(盲目の芸能者で琵琶法師の末裔)が語った「虱(しらみ)の口寄せ」という語り物が伝承されていた。これは人ならぬ虱を浄土からこの世に降ろして憑依した体(てい)で語るものだ。降りてきた虱は自分の最期を語った上で子孫の虱たちに教訓を垂れる。虱が人間の口を通して子孫の虱に語るという設定自体、これが真実ではなく口寄せの形式を用いたパロディであることを示している。
 昭和八年(一九三三)に岩手県盛岡市在住の民俗学者橘正一が出したガリ版刷の私家版小冊子『盛岡猥談集』は民間伝承の猥談を集めたものである。その中に次のような話が載っている。

  ある男、イタコ(市子)の所に夜這に行つて乗りかかツた。イタコ目をさまして「そんな事せば、狐つけるぞ」。 男「それでは止める」 イタコ「やめれば三匹つけるぞ」

 イタコは在地の巫女だ。そこに夜這いに行ったものの、狐を付けると脅された。だから男は諦めたのだが、すると却って「三匹付けるぞ」と三倍増しで脅されたという笑話である。では結局どうすればよいのか。オチが付いているようで付いていない気がする。藤沢美雄『岩手艶笑譚』(津軽書房、一九七四年)に類話が載っているのだが(「狐の穴」)、そちらでは三匹付けるという言いがかりの後、男がどうすればよいのか訊ねるモティーフが続いている。イタコ(本文中では「女の祈禱師」)は次のように言う。

  「この穴から、狐が出たがっているから、お前の棒で奥へ推しこめてくれ」

 いかにも猥談といったオチである。
 このように、異類の憑依もまたその出来事を滑稽な文芸として展開していく題材となってきたわけである。

     4

 さて、話が下がかってきたので、話題を冒頭の謎々に戻すことにしよう。
 私が感心することは、その発想力である。誰もが知っている「古池や」の名句。つまり普通ならば〈句〉という枠組みの中で当然のように理解しようとするところだが、薫少年はそうではなく、全く別のジャンルであるである〈謎々〉として読み換えたのだった。
 本書も多少そうした新しい発想を試みようという狙いを企画に盛り込んでいる。妖怪は妖怪、憑き物は憑き物、擬人化は擬人化と、異なる関心のもとにそれぞれを扱ってきた流れをここでガラガラポンと、一緒くたにしてみたらどうだろうかと思ったのである。この三つの術語の上位概念として〈異類〉を位置付け、その上で改めてこれら三つの要素間の関係性を問い直す契機になれば面白いだろうと願ったわけである。
 Ⅰ「変貌するヌエ」、Ⅱ「狐憑き」、Ⅲ「擬人化された鼠のいる風景」は前近代の文化の中に現代文化に通底する異類をめぐる精神や文化様式を明るみに出そうとしたもの。一方、Ⅰ「ゆるキャラとフォークロア」、Ⅱ「ペットの憑霊」、Ⅲ「物語歌の擬人化表現」は現代の文化現象に近代以前から連綿と続く文化的要素を見出そうとしたもの。そしてそれぞれの論考の前後に関連する問題をコラムとして提示してみた。
 こうして様々な現象として現れる異類と、その背後にある文化的要素を読み解いていくことが、本書の目的である。

 付記 謎々の答え。「どんぶり」!