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2015年12月10日

 記事のカテゴリー : リポート笠間掲載コンテンツ, 学界時評

●プロジェクト人魚・日本ハイジ児童文学研究会主催・シンポジウム「高畑勲の〈世界〉と〈日本〉」○兼岡理恵(千葉大学)●リポート笠間59号より公開

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リポート笠間59号より、プロジェクト人魚・日本ハイジ児童文学研究会主催・シンポジウム「高畑勲の〈世界〉と〈日本〉」○兼岡理恵(千葉大学)、を公開いたします。

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※冊子版『リポート笠間』59号掲載分には誤りがあり、ここに公開しているのは「訂正版」になります。(2016.1.18編集部記)

プロジェクト人魚・日本ハイジ児童文学研究会主催・シンポジウム「高畑勲の〈世界〉と〈日本〉」○兼岡理恵(千葉大学)


日にち 二〇一五年九月一日(火)
高畑勲さんへのインタビュー
[インタビュアー]加藤敦子(都留文科大学)
兼岡理恵(千葉大学)


 生まれて初めて買ってもらったレコードは、アニメ『アルプスの少女ハイジ』だった。レコードプレーヤーがある父の書斎に忍び込み、一人で何度も何度も聞いた。同じ頃、日曜夜に欠かさず見ていたテレビアニメは『サザエさん』、そして『世界名作劇場』。その『名作劇場』シリーズの中でも、とりわけ好きだったのが『赤毛のアン』だった。これらの作品を作ったのが「高畑勲」という人だ、ということを知ったのは、もうずっと後、大人になってからだ。高畑勲―『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』などのテレビ作品をはじめ、『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『ホーホケキョ となりの山田くん』、そして最新作『かぐや姫の物語』と、数々の優れた長編アニメ映画を手がけた、日本が世界に誇るアニメーション監督の一人である。

 その高畑氏に、まさかインタビューする機会に恵まれるとは...『赤毛のアン』の台詞を借りて言えば、まさに「ああマリラ、夢のようだわ!」という心境であった。その機会とは、シンポジウム「高畑勲の〈世界〉と〈日本〉」(二〇一五年九月一日、於:東京理科大学、JSPS科研費二五三七〇三七四助成事業)。本シンポジウムは、筆者(兼岡)もメンバーである「プロジェクト人魚」(複数の言語圏の文学・文化を対象とする研究者による共同研究プロジェクト)と、ヨハンナ・シュピーリ『ハイジ』に関する資料の収集と情報の交換を主な活動とする「日本ハイジ児童文学研究会」(以下、「ハイジ研」)の共催によるものである。開催の契機となったのは、同プロジェクトによって開催した過去二回の『ハイジ』に関する国際シンポジウム(「シュピーリと『ハイジ』の世界」、二〇一五年三月十五日、二〇一四年三月二十七日)において、アニメ『アルプスの少女ハイジ』が、日本はもちろん、世界における『ハイジ』普及に、いかに絶大なる影響を与えたか、ということが改めて浮き彫りになり、それではその演出者である高畑氏を招聘できないか、と「ダメ元」で依頼したところ、「ハイジ研」のちばかおり氏をはじめとする各氏の尽力により、開催が実現したのである。シンポジウムは、「プロジェクト人魚」メンバーである田中琢三(フランス文学・お茶の水女子大学)の総合司会のもと、第一部では高畑氏の作品に関わる研究発表(中丸禎子〈北欧文学・東京理科大学〉、西岡亜紀〈日仏比較文学・立命館大学〉)、第二部は高畑氏を迎えての公開インタビュー(インタビュアー:加藤敦子〈近世文学・都留文科大学〉、兼岡)という構成で行われた。

 そしていよいよシンポ当日。そもそもインタビューには事前打ち合わせが必須だが、インタビュアーである我々二人と高畑氏はもちろん初対面、またシンポ開催直前も、簡単な自己紹介をした程度で、正直、「大丈夫だろうか...」と一抹の不安が心をよぎった。しかし第一部終了後の休憩時間、高畑氏が自分の作品について「細かいところを色々こだわって作っている」とおっしゃるのを聞き、ここぞとばかり「はい、私、『かぐや姫の物語』の中で一番感動したのは、貴公子達の裾の扱いでした!」と、褒め言葉になっているのかどうなのか怪しいことを、ファン魂炸裂で力説した。それに対して「あ、そうですか」と、少し高畑氏の顔がほころんだような気がし、続けて「そう、たとえばかぐや姫が使っている織機、どうやって織るのか分からないから色々調べたんですよ、そうしたらすごいことに気づいたんですよ!」と、以下、地機と高機の違い、福岡・沖の島遺蹟出土の国宝「金銅製雛機」(非常に精巧な織機のミニチュア)は、「金銅高機」という名称で展示されることが多いが、実は地機であると気がついたこと、などなど...失礼を顧みずにたとえれば、まるで子どもが大好きな恐竜について話すように、実に生き生きとした表情で語るその姿は、とても御歳八十にならんとする方には思えない。そうこうしているうちに、第二部インタビューの時間となった。

 インタビュー開始直後は、高畑氏もいささか緊張の面持ちだったが、次第に表情もほぐれ、先の「地機・高機」語りと同じく、身振り・手振りを交えつつ、アニメ、絵画、翻訳、日本文化など、縦横無尽に語って下さった。

 アニメは「絵」と「言葉」による二次元の世界によって、現実―三次元の世界をあらわす表現手段である。そこでいかに現実―リアリティに迫れるか、「本物」を表現できるか、高畑氏が徹底的に拘るのもこの点である。中でも「言葉」は、単に「意味」を伝えるだけのものではない。「言葉」を話す際の「身体性」まで、高畑氏は表現しようとする。たとえば『赤毛のアン』のアンはカナダ人だから英語を話す。すると英語を話す時の口の開け方、間、表情、身振りなどは、日本語とは当然異なる。しかしアニメでは、「英語」を話す「身体」をもつアンに「日本語」を喋らせつつ、「カナダ人」として描かねばならない。どれだけ現地の文化・風習を取材しても(ちなみに『アルプスの少女ハイジ』は、日本で初めて海外ロケハンを行ったアニメーションである)、そもそも異なる「言葉」で話す外国人に、「日本語」を話させる日本のアニメで、「本物」に迫ることは不可能だ。高畑氏はそこに『世界名作劇場』の限界を感じ、以後、日本を舞台としたアニメに拘り、その一つの完成形が『ホーホケキョ となりの山田くん』であるという。

 また日本の詩歌における「文字」の表現性について。高畑氏は掛詞と万葉仮名を例にあげ、「いとはれて」に「いと晴れて」と「厭はれて」の意味を重ねる掛詞の表現性、また「恋(こひ)」を「孤悲」とする『万葉集』の表記について、日本語の「文字」における表現の豊かさ、限られた字数の中で意味を「膨らませる」これらの「発明」について、「もうすごいですよね」と、心から感歎している様子だった。和歌にせよ俳句にせよ、文字と文字の間にある「語らないこと」「余白」「間」に、どれだけの世界が広がっているか。しかしこれは裏を返せば、受け手がそれを読み取らねば、全く無意味になってしまう。

 これに関連して、「子どもが物語を、アニメで見ることと文章で読むことの違いをどう考えるか」という聴衆からの質問に対し、高畑氏は「文章は、どんなくだらないものでも、みんな役に立つと思う」とし、「文章というのは無理してでも読まなくては」ならず、「自分の頭の中に、おぼろげならおぼろげなままでも映像を形作らなければいけない」。しかし映像やアニメは、はじめから「作り手」がイメージを押しつけるから想像力を働かせる必要がなくなる、だから自身は「文学派です」と。インターネットで少し「ググれば」、一瞬にして様々な情報や映像を手に入れ、見ることができる今の社会。そこにはまったく空想する余地も必要もない。その結果、そうした「現象」の背後にある「本質」まで考えなくなっていく...高畑氏は、次のようにも発言していた。「日本人は、眼前の現象だけを見て、本質には関心がない」。日本の政治、歴史、あらゆる事象に通じる視点ではないか。

 そして「制作したアニメーションは子どもにとって、どのようなものであって欲しいか」という質問に対しては、「図々しいですけど、一言で言ったら子どものことなんか考えてないです」「とにかく、作りたいものを作っているんですよ」。作りたいものを作る。極めて単純明快、しかし極めて難しいこと。それも単に「作る」のではない。細部の細部まで拘り抜いて「作る」。その飽くなき好奇心、倦むことなき探究心。そんな表現が陳腐に聞こえるくらい、高畑勲氏は、真の「職人」に見えた。「わかりやすい」「役に立つ」、これらの言葉が何かと持てはやされる昨今、織機について熱く語る高畑氏の姿勢は、文学研究に携わる我々にとっても、心強い支柱であると深く感じた二時間であった。


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