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2015年9月14日

 記事のカテゴリー : 新刊案内

●『太平記』国際研究集会編『『太平記』をとらえる』第二巻(笠間書院)

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10月上旬刊行予定です。

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『太平記』国際研究集会編
『『太平記』をとらえる』第二巻(笠間書院)

ISBN978-4-305-70762-8 C0095
A5判・並製・カバー装・228頁
定価:本体2,800円(税別)

 『太平記』は、南北朝期の四十年に及ぶ戦乱をともかくも描ききった、文字どおり希有の書である。しかし、四十巻という膨大な分量をもつことや、これに取り組む研究者が少ないことなどから、依然として基本的な部分での研究課題を積み残している。
 『太平記』研究になお残る課題を少しずつでも解明することをめざし、『『太平記』をとらえる』を全三巻で刊行する。本書はその第二巻である。

 第二巻は、第一章「『太平記』における説話の淵源と機能」、第二章「『太平記』に描かれた「歴史」」、第三章「神田本『太平記』―本文の探求―」の三章を設け、六篇の論文と四篇のコラムを収録。執筆は、張 静宇/森田貴之/佐伯真一/金木利憲/北村昌幸/長坂成行/大坪亮介/小秋元段/和田琢磨/大森北義。巻末には六篇の論文の英語・中国語・韓国語の要旨も収載。「二〇一四年度『太平記』研究国際集会」での研究発表をもとにした論集です。

【例えば『太平記』研究では、表現の基底や挿入説話の典拠に依然不明な問題が多く残されている。また、同時代の争乱を描いた『太平記』は、眼前の情報をどのように収集し、記事化していったのか。これらの問題を明らかにすることは、『太平記』の成立論・作者論に新たな局面をもたらすことになるだろう。諸本研究にも課題は多く残されている。古態とされる伝本を再吟味することによって、私たちの『太平記』のイメージは少なからず修正を迫られるはずだ。加えて、これらとはやや次元を異にする問題であるが、国際化・情報化の進む研究環境のなかで、国内外の研究者がどうネットワークを構築し、課題を共有して解決に導くかについても、考えてゆかなければならない時期にさしかかっている。こうした様々な課題に少しずつ挑むことにより、つぎの時代の研究基盤を準備したいというのが、本シリーズのねらいである。】

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■著者紹介

○編者
『太平記』国際研究集会

[執筆者]

張 静宇(ちょう・せいう)北京外国語大学北京日本学研究センター博士課程
研究分野○中世文学・中日比較文学 著書等○「『太平記』と呂洞賓の物語」(軍記・語り物研究会第四〇四会例会発表、二〇一五年一月二十五日)など。

森田貴之(もりた・たかゆき)南山大学人文学部准教授
研究分野○和漢比較文学 著書等○「『太平記』と元詩─成立環境の一隅─」『國語國文』第七六巻第二号(京都大学文学部国語学国文学研究室、二〇〇七年二月)、「『唐鏡』考─法琳の著作の受容─」『台大日本語文研究』第二〇期(國立臺灣大學日本語文學系、二〇一〇年一二月)、「女主、昌なり─日本中世における則天武后像の展開─」『論集 中世・近世の説話集と説話』和泉書院、二〇一四年など。

佐伯真一(さえき・しんいち)青山学院大学文学部教授
研究分野○中世日本文学・軍記物語 著書等○『戦場の精神史─武士道という幻影─』(日本放送出版協会二〇〇四年)、『平家物語大事典』(共編。東京書籍二〇一〇年)など。

金木利憲(かねき・としのり)明治大学文学部兼任講師
研究分野○日中比較文学・書誌学
著書等○「藤原定家『奥入』所引の漢籍─『白氏文集』を中心として」『白居易研究年報』第十号(勉誠出版、二〇〇九年十二月)、「『太平記』に見る『白氏文集』本文の交代 ─旧鈔本から版本へ」『アジア遊学』Vol.‌140(勉誠出版、二〇一一年四月)、「宮内庁蔵那波本『白氏文集』巻三・四(新楽府)の書き入れについて」『白居易研究年報』第十四号(勉誠出版、二〇一四年一月)など。

北村昌幸(きたむら・まさゆき)関西学院大学文学部教授
研究分野○中世文学・軍記物語 著書等○『太平記世界の形象』(塙書房、二〇一〇年)、「筑紫合戦と『太平記』」(『中世の軍記物語と歴史叙述』所収、竹林舎、二〇一一年)など。

長坂成行(ながさか・しげゆき)奈良大学名誉教授
研究分野○中世軍記文学 著書等○『伝存太平記写本総覧』(和泉書院、二〇〇八年)、『穂久邇文庫蔵太平記〔竹中本〕と研究(下)』(未刊国文資料刊行会、二〇一〇年)など。

大坪亮介(おおつぼ・りょうすけ)大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター研究員・神戸松蔭女子学院大学非常勤講師
研究分野○中世文学・軍記物語 著書等○「『太平記』における北条氏の治世─大尾記事との関わり─」(『國語國文』第八十一巻第八号、二〇一二年)、「公武関係の転換点と大内裏─『太平記』の大内裏造営記事をめぐって─」(神戸説話研究会『論集 中世・近世説話と説話集』(和泉書院、二〇一四年)など。

小秋元段(こあきもと・だん)法政大学文学部教授
研究分野○日本中世文学・書誌学 著書等○『太平記・梅松論の研究』(汲古書院、二〇〇五年)、『太平記と古活字版の時代』(新典社、二〇〇六年)など。

和田琢磨(わだ・たくま)東洋大学文学部准教授
研究分野○太平記・室町軍記 著書等○『『太平記』生成と表現世界』(新典社、二〇一五年)など。

大森北義(おおもり・きたよし)愛知淑徳大学非常勤講師
研究分野○中世軍記文学 著書等○『『太平記』の構想と方法』(明治書院、昭和六三年三月)。「『太平記』始発部の歴史叙述と合戦記」(『古典遺産』六三号、平成十六年三月)。「『太平記』の『文学』と楠木正成」(『軍記と語り物』第五一号、平成二七年三月)など。

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【目次】

はじめに―作者の文学史的環境と政治的・社会的環境を明らかにする▼小秋元段

1●『太平記』における説話の淵源と機能

1 『太平記』巻三十八「大元軍事」と宋元文化▼張 静宇
 1 はじめに
 2 大元の老皇帝の夢
 3 西蕃の帝師
 4 刲股納書
 5 おわりに

2 『太平記』と弘法大師説話―引用説話の射程―▼森田貴之
 1 はじめに
 2 巻一二「大内裏造営の事」神筆説話
 3 巻一二「神泉苑の事」請雨説話

●コラム 『太平記』の「良将」に関する覚書▼佐伯真一
 1 軍記物語の合戦と「将」
 2 『太平記』の「良将」と「名将」
 3 『太平記秘伝理尽鈔』における「良将」

●コラム 『太平記』に残る漢籍受容の足跡―『白氏文集』の本文系統について―▼金木利憲
 1 日本文学と『白氏文集』
 2 『太平記』所引『白氏文集』の本文系統
 3 結論

2●『太平記』に描かれた「歴史」

1 『太平記』における諸卿僉議―南朝の意思決定をめぐる諸問題―▼北村昌幸
 1 はじめに
 2 後醍醐天皇と諸卿僉議
 3 後村上天皇と諸卿僉議
 4 南朝関連情報の窓口
 5 おわりに

2 高師泰の枝橋山荘造営をめぐる脇役の周縁―『太平記』注解補考(三)―▼長坂成行
 1 はじめに
 2 菅在登殺害事件
 3 菅在登出詠の法楽和歌
 4 大蔵権少輔重藤について
 5 上杉重能の最期をめぐって

●コラム 『太平記』と仁和寺―天正本系の一増補箇所から―▼大坪亮介
 はじめに
 1 天正本系の増補箇所
 2 高野山一心院と仁和寺
 3 高野山一心院主・仁和寺勝宝院主の法脈と日野僧正頼意
 おわりに

3●神田本『太平記』―本文の探求―

1 神田本『太平記』本文考―巻十六を中心に―▼小秋元段
 1 はじめに
 2 神田本本文の基底─玄玖本との比較から─
 3 神田本巻十六の古態性
 4 神田本の古態性に対する留保
 5 巻十五後半について
 6 むすび

2 室町時代における本文改訂の一方法―神田本『太平記』巻三十二を中心に―▼和田琢磨
 1 はじめに
 2 双行形式本文の状態
 3 神田本巻三十二の底本
 4 まとめ

●コラム 『太平記』巻一巻末の増補記事―〈もう一つの歴史叙述〉の可能性―▼大森北義
 はじめに
 1 矢代論について
 2 〈もう一つの歴史叙述〉
 3 『太平記』における異文の位相

□外国語要旨

英語▼ジェレミー・セーザ訳
中国語▼張静宇訳
韓国語▼李章姫訳

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【全文掲載】

はじめに―作者の文学史的環境と政治的・社会的環境を明らかにする
◉小秋元段

 『太平記』の作者はどのような環境に身を置いていたのだろうか。和漢の古典に精通し、その詞章を自在に作品内にとりこむことのできた作者の文学的環境は、いかなるものであったのか。全国に展開する争乱状態と政権中枢の権力闘争を、どこまで広く、深く知りうる政治的・社会的環境にあったのか。これは、この作品を読む多くの人が抱く疑問に違いない。

 こうした根本的な疑問に答えるべく、『太平記』研究は地道な歩みをつづけてきた。例えば、作者の文学的環境を考える際に、注目されるものの一つに漢籍がある。『史記』本紀、『白氏文集』新楽府、『明文抄』をはじめとする和製類書、『和漢朗詠集』注釈書や『孝子伝』と、作者の机辺にあった書物は少しずつ明らかにされ、やがて『三体詩』『詩人玉屑』などの宋代流行の詩論詩集まで、作者の繙読するところであったことが究明された。だが、果たして作者は中国の同時代的文化にどこまで通じていたのであろうか。増田欣氏、森田貴之氏に先駆的な研究はあるものの、この分野の本格的な解明は今後に委ねられている。

 その意味で、この『『太平記』をとらえる』第二巻に、張静宇氏の論考「『太平記』巻三十八「大元軍事」と宋元文化」を収載できたことは大きな喜びである。張氏は「大元軍事」をとりあげ、「字謎」「西蕃の帝師」「岳飛伝」などの切り口で、本話が宋元代の文化・伝承を大きく反映するものであることを明らかにした。もともと典拠すらわからず、『太平記』作者の捏造かとも見られかねなかった本話が、荒唐無稽な作り話では決してなかったことが、張氏の論により知られるのである。後述するように、本書は国際研究集会の成果をまとめたものである。このような研究に私たちがめぐり会えたのも、研究の場を世界に開いたからだとひそかに考える。

 本巻は、第一章「『太平記』における説話の淵源と機能」、第二章「『太平記』に描かれた「歴史」」、第三章「神田本『太平記』―本文の探求―」の三章から構成される。六篇の論文と四篇のコラムを収載した。

 第一章「『太平記』における説話の淵源と機能」では張氏の論文と、森田貴之氏の「『太平記』と弘法大師説話―引用説話の射程―」を収めた。森田氏の論は、巻十二の「大内裏造営の事」「神泉苑の事」をとりあげる。「大内裏造営の事」において弘法大師の神筆説話とそれにつづいて菅原道真伝が語られる構成に、小野道風・菅原道真が大師の後身であったという伝承からの影響を指摘するとともに、「神泉苑の事」における守敏呪詛への批判が、第一部において呪詛を行った文観へ向かい、その背後にいる後醍醐天皇をも批判する機能をもつと説く。説話間のつながりの意味と、説話が隠しもつ役割を深く掘りさげて読み解くことの重要性を感じさせる論考である。

 第二章「『太平記』に描かれた「歴史」」には、北村昌幸氏「『太平記』における諸卿僉議―南朝の意思決定をめぐる諸問題―」、長坂成行氏「高師泰の枝橋山荘造営をめぐる脇役の周縁―『太平記』注解補考(三)―」を収めた。北村氏の論は、後醍醐・後村上という南朝の二人の天皇の意思決定に関する叙述を分析し、その叙述には作者なりの意図の反映があることを指摘する。そして、それらの叙述の前提として、作者が南朝の情報を比較的正確に把握していた可能性があることに論及する。長坂氏の論は、巻二十七「執事兄弟奢侈悪行事」に登場する菅在登と大蔵権少輔重藤の伝を追うものである。これまで見すごされてきた在登の政治的立場と、今日ではその名が全く埋もれてしまった大蔵権少輔重藤の素性を明らかにした点で、『太平記』の解釈に資するところが大きい。これら北村氏・長坂氏の論考は、冒頭に述べた、作者の政治的・社会的立場を知るうえでも貴重な視点を提示している。

 第三章「神田本『太平記』―本文の探求―」では、本シリーズを通じてのテーマである神田本の研究にかかわる二論考、小秋元「神田本『太平記』本文考―巻十六を中心に―」と、和田琢磨氏「室町時代における本文改訂の一方法―神田本『太平記』巻三十二を中心に―」を収めた。小秋元の論は、諸本の異同の大きい巻十六をとりあげ、神田本の古態性とその留意点を指摘するものである。和田氏の論は、玄玖本系・永和本系の本文を併記する神田本巻三十二を扱ったもので、その底本の存在を想定し、そこからいかにして神田本が書写されたかを丹念に考察したものである。第一巻に引きつづき、神田本を集中的に検討することにより、最重要伝本と認識されていながら、真に考察される機会の乏しかった同本の位置が、少しずつ明らかになってくるものと思われる。

 以上六篇の論考は、二〇一四年八月十九日(火)・二十日(水)に東京の法政大学で開催された「二〇一四年度『太平記』研究国際集会」での研究発表をもとにしている。また、コラムを執筆してくださった大森北義氏・佐伯真一氏・大坪亮介氏・金木利憲氏は、この研究集会に参加し、熱心な議論に参加してくださった方々である。本書のために興味深い記事を寄せてくださったことに、御礼申しあげる。そして、前巻同様、本書には英語・中国語・韓国語の要旨も掲載した。翻訳の労を執ってくださったジェレミー・セーザ氏、張静宇氏、李章姫氏にも感謝したい。

 本書が少しでも多くの人の目に触れ、これからの『太平記』研究の展開に寄与できれば幸いである。

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□外国語要旨

英語▼ジェレミー・セーザ訳
中国語▼鄧 力訳
韓国語▼李章姫訳

ABSTRACT


Taiheiki' Chapter 38 "The Matter of the Great Yuan Army" and Song-Yuan Culture
Zhan Jingyu

Taiheiki quotes the long Chinese tale of "Daigen ikusa no koto 大元軍事." In this tale, Taiheiki explains that Hosokawa Yoriyuki, like the Yuan Emperor, uses wisdom to defeate Hosokawa Kiyouji so easily.
However, when looking at "The Matter of the Great Yuan Army" from the perspective of historical fact, there is a large discrepancy with the battle between Yuan and Southern Song whose source has not yet been elucidated. First, the translation of "sheep" in this episode resembles the "Yume ni yōkaku wo nuku 夢拔羊角" episode in chapter 10 of the Song dynasty period work Higa 埤雅. During the Song dynasty, people were fond of linguistic riddles called "Character Riddles (jinazo 字謎)," which became quite popular. I believe that their popularity during the Song and Yuan dynasties is reflected in Taiheiki. Next, the phrase "Jōten no shita, ichijin no ue 上天之下、一人之上" in this episode closely resembles "Kōten no shita, ichijin no ue 皇天之下、一人之上," which appears in "佛祖歴代通載and勅修百丈清規. There are no examples of this phrase outside of its use during the Yuan dynasty, and Yuan title of "imperial teacher (teishi 帝師) was gained posthumously from Kublai Khan himself. That a phrase particular to the Yuan dynasty was used in Taiheiki likely reflects a relationship between Yuan culture and the creation of the episode "The Matter of the Great Yuan Army." At the end of this tale there is an episode where a character cuts open his thigh to hide a letter inside. In fact, in the Song dynasty work 鄂國金佗稡編, there is also an episode where the Song general Yue Fei uses the same tactic in the battle with the Jin dynasty. The story of Yue Fei spread throughout the populace as an oral narrative (kōdan 講談) and was quite well known. It is highly probable that the tale of Yue Fei was brought to Japan by someone who heard the tale this way.
In Japan's Middle Ages those who were knowledgeable about the Song and Yuan included Gozan monks coming to and from China, Zen monks fleeing China, and merchants. In all likelihood Taiheiki's author created the "The Matter of the Great Yuan Army" episode by adding personal touches while referring to information presented by such individuals.


Taiheiki and Kūkai Setsuwa--The Range of Setsuwa References
Morita Takayuki

In chapter 12 of Taiheiki, setsuwa featuring Kūkai appear in the two episodes "Daidairi zōei no koto 大内裏造営の事" and "Shinsenen no koto 神泉苑の事." I examine the characteristics of these setsuwa and discuss the way in which Taiheiki uses them.
First, in the setsuwa at the beginning of "The Matter of Constructing the Imperial Palace," Kūkai predicts the burning of the imperial palace by writing on the Ōtenmon gate. Kūkai is not the only one to appear in this episode, however: Ono Michikaze also makes an appearance. Regarding this point, one imagines in the background of this setsuwa the existence of the "Kūkai--Ono Michikaze--Sugawara Michizane" setting that appears in the "Kitano Tenjin Engi" episode narrated at length in the original Kitano Tenjin Engi setsuwa. Here we can see a precise intention running throughout the two episodes.
Next, there is the long passage in "Shinsenen no koto" whose subject is the comparison of the austerities of Kūkai and the early Heian period monk Shubin. There are a number of variants of this setsuwa in other collections and tales about Kūkai, but the one in Taiheiki concludes with the passage "Jyuso, shodokuyaku, genjyaku, ohonnin呪詛諸毒薬、還着於本人" from the Lotus Sutra--its marked characteristic is where it closes in on the world of Lotus Sutra commentary. Further, when we elaborate upon it with language outside of setsuwa quotes that criticize spells and maledictions, it also functions as a criticism of Go-Daigo, who used Monkan and others to perform maledictions against the Kantō. In chapter 13, which narrates Buddhist blessings due to the construction of the Shinsenen and chapter 12, which along with 13 lines up as political criticism, the episode "Shinsenen no koto" can be read as portents of the fall of the Kenmu Restoration.
Taiheiki's setsuwa quotes, regardless of whether they appear inside or outside a particular section or chapter, are connected to a variety of other points in the narrative, either clearly or secretly. I seek a reading of Taiheiki that elucidates those connections.


Discussions among Nobles in Taiheiki--
Problems Surrounding the Southern Court's Decision-making
Kitamura Masayuki

When important decisions arose that had ramifications for the direction of the Nanbokuchō Wars--such as when Ashikaga Tadayoshi or Niki Yoshinaga sought to join the Southern Court--it was natural for discussions to occur among the Southern Court nobility. Taiheiki records the process by which such decisions were made. However, on the other hand, there are also episodes that give the impression of how individuals like Go-Daigo or Go-Murakami pushed things forward without discussion. The problem of whether Taiheiki describes discussions among nobles or imperial dictatorship concerning historical turning points provides us an important angle from which to think about Taiheiki's narrative methodology.
However, we must first question whether Taiheiki's author had accurate information about the Southern Court's decision-making process. The result of recording information as historical fact, in the case of discussions among nobles or imperial dictatorship, is that they are not representative of Taiheiki's author's originality. Unfortunately there is a dearth of information about the historical facts surrounding the Southern Court, but it is possible to allow that Taiheiki's author had to some degree accurate information about the Southern Court.
In Tenshōbon Taiheiki, which has its own particular episodes, there are examples of nobility whose ranks do not match their rank at the time of specific events; rather, the ranks are those that came later. Nevertheless, in variants considered "old versions (kotai-bon古態本)," there are passages such as "Tōin udaishō Saneyo was still saemon no kami Tōin udaishō Saneyo imada saemon no kami 洞院右大将実世公いまだ左衛門督にておはせしが" where the text records the individual's office at the time. During the Nanbokuchō Wars, there were capital dwellers such as the Daigoji temple priest Bōgen who passed back and forth between the two courts. Perhaps Taiheiki's author had contact with such individuals? The next issue for study is whether that had any relationship to the fruitless peace discussions of the Jōwa and Kannō years.


Information Regarding the Supporting (waki) Role
in the Episode of Kō no Moroyasu's Edahashi Villa
Nagasaka Shigeyuki

Taiheiki's basic stance is to place actual historical individuals as minor characters appearing only once. By searching diligently for the lineage of minor characters that have typically been overlooked, it is possible to clearly grasp Taiheiki's narrative intent. In the works of recent historians such as "Sakaguchi Tarō, Hada Satoshi, Kumagai Takayuki, and Ikoma Takaomi, new discoveries and revisions of historical documents show us a great deal of how to connect with a text. From the side of literature research, it is standard to engage with a text based on impartiality and close reading.
In chapter 27, "Shitsuji kyōdai shashi akugyō no koto 執事兄弟奢侈悪行事" records in detail their evil acts. There, Moroyasu steals the lands on which the grave of Kitano chief Kan Arinori 菅在登 ancestors in Higashiyama Edabashi had rested in order to build a mountain villa. In this paper I examine the two following topics related to this episode: first, Moroyasu, thinking that Kan is the author of a satirical verse, embarks on a plan to have Kan murdered. In the Tenshōbon Taiheiki variant this episode is recorded, but the connection with this episode is expressed vaguely. I consider the meaning of differences in the narrative while taking into account Arinobu's history.
Furthermore, Moroyasu recalls daigongen shōsuke Shigefuji 大蔵権少輔重藤 and Komi Gen Sahyōemon no Jō 古見源左兵衛衛門尉, both of whom sympathized with a laborer toiling away at the construction site, and makes them work hard for an entire day. Those who saw this criticized the two, saying "it would be better to die than to endure shame (haji wo mimu yori wa shine kashi恥を見むよりは死ねかし)." Why are the two individuals who have sympathy for the suffering criticized when in fact Moroyasu's evil acts should be criticized? From court diaries and documents of the time, we can confirm that Shigefuji was a member of Ashikaga Takauji's mother Seishi lineage, the Uesugi family. I posit that perhaps this has something to do with the criticism. I also discuss the way in which Taiheiki portrays the Uesugi--specifically Uesugi Shigekazu, who is thought to be Shigefuji's cousin and who fought with the Kō during the Kannō disturbance, died cruelly while in exile.

Thoughts on Kanda-bon Taiheiki--Chapter 16
Koakimoto Dan

There is a need to carefully examine the nature of Kandabon Taiheiki's classification as "old version." When comparing it to the Genkyū-bon Taiheiki, except for a few particular variations, there is a great deal of commonality evident between the two texts. Chapters 16 and 32 are worth studying for the variations evident throughout each. Here I take up chapter 16 and examine the nature of its "old version" classification.
First, when looking at chapter 16 in terms of whether [a specific variant] has certain episodes or not, there are cases where the Genkyū-bon text has episodes that the Kanda-bon does not, and [cases where] the Kanda-bon is extremely simplified. In those episodes present in the Genkyū-bon text but not in the Kanda-bon, it can be judged from the duplication of the prose that the Kanda-bon's passages came first.
Also, at the level of prose, compared to the Genkyū-bon text the Kanda-bon maintains a simpler format. Detailed prose in the Genkyū-bon text, in most cases, is recognized to center on dialogue, not on story development. This indicates that the Kanda-bon came first, and that the body of the Genkyū-bon text was amended later.
However, we cannot say that the entirety of the Kanda-bon is representative of old versions. The body of chapter 16 in the Kanda-bon has much in common with the Tenshō-bon. When compared to the Tenshō-bon, we see that there are places thought to have been abbreviated at a later stage. In short, compared to the Tenshō-bon, unique and simplified parts of Kanda-bon prose cannot be said to represent the oldest version of the text; concerning chapter 16 specifically, we can identify the oldest prose in those parts the Kanda-bon and Tenshō-bon have in common.
The above tendencies begin in the chapter 15 episode "Munakata Daigūji Shōgun wo iretatematsuru koto 宗像大宮司将軍を入れ奉る事." In variants in the "Otsu (otsu 乙)" classification, this episode marks the division between chapters 15 and 16. Taking this into consideration, it is likely that the original chapter 16 began from the aforementioned episode.

One Method of Textual Revision in the Muromachi Age--Kanda-bon Taiheiki's Chapter 32
Wada Takuma

The Kanda-bon Taiheiki (hereafter referred to as Kanda-bon) was copied sometime during the latter half of the fifteenth century (around the time of the Ōnin War). Its chapter 32 has an extremely rare format. One of its characteristics is that the textual style of the Genkyū-bon and Eiwa-bon lines are present, as well as parts whose style is identifiable as originating in variant texts. Because of that, thought his has been scrutinized often, we see that most attention has been paid to texts of the Eiwa-bon line when assessing research on the topic. Nevertheless, it is possible that such research is not sufficient for understanding aspects of Taiheiki's textual revision during the Muromachi age.
In this paper, I consider chapter 32 in my attempt to elucidate the method of Kanda-bon Taiheiki's copyist and what sort of text he tried to create. From this effort, I believe we can know in detail aspects of Taiheiki' variant texts and prose throughout the Muromachi period. It may be that the Kanda-bon copyist did not have ready access to Genkyū-bon or Eiwa-bon line texts. The copyist likely created prose such as that in chapter 32 based on copied versions of those texts. In this paper I would like to explore this supposition through a general examination of texts, paired text format, and annotations.


摘 要

《太平记》卷三十八〈大元战争故事〉和宋元文化                   
张 静宇

  在《太平记》卷三十八引用了一个比较长的中国故事--〈大元战争故事〉。该故事之所以被引用是为了说明细川赖之如大元帝师一样,使用知谋轻松地将细川清氏消灭。
  但是,从历史事实来看,〈大元战争故事〉和大元、南宋之间的战争有很大的出入,其出典也未弄清。首先,该故事中对'羊'的解释和宋代《埤雅》卷十〈梦拔羊角〉等比较相似。到了宋代,被称为'字谜'的猜字游戏被一般人所喜好,成为一种社会风尚。接下来是该故事中'上天之下,一人之上'的语句和《佛祖历代通载》、《敕修百丈清规》等书籍中的'皇天之下,一人之上'十分相似。此语句只在元朝被使用,是元朝帝师从元世祖忽必烈得到的谥号。元代独特的语句被《太平记》所接受或许反映了〈大元战争故事〉的创作和元代文化的关系。在该故事最后有割开大腿之肉将文书藏于其中的轶话。实际上在宋代的《鄂国金佗稡编》等书籍中记载了南宋大将--岳飞在和金国打仗中使用了'刲股纳书'的计策。岳飞的故事以说书的形式在民间流行,被很多人知晓。在宋元时代,岳飞'刲股纳书'的故事有可能由接触到说书的人传到日本,从而被《太平记》所接受。
  在日本的中世,毫无疑问熟知宋元信息的是担任入宋﹑入元的五山僧,从中国亡命而来的禅僧们,以及往来于中日之间的商人们。《太平记》的作者很可能是根据这些人所提供的信息,自由地创作了〈大元战争故事〉。


《太平记》和弘法大师故事
―引用故事的范围         
森田 贵之

  《太平记》卷十二〈营建皇宫故事〉、〈神泉院故事〉两个章节中引用了以弘法大师(空海)为主人公的故事。关于这些故事,笔者探讨了其特征,论述了《太平记》中故事引用的方法。
  首先,〈营建皇宫故事〉开头的内容是弘法大师通过在门额上挥毫写字预言皇宫的火灾。在该故事中不仅是大师,小野道风也出场了。如果注意此点,能够设想该故事的背景是将〈弘法大师--小野道风--菅原道真〉三者联系在一起,此设定在《北野天神起因》诸本中能够看到,《北野天神起因》是附带于本章节之后篇幅较长的北野天神起因故事的出典。在〈营建皇宫故事〉中能够看到整个章节严密的构成意识。
  接下来,〈神泉苑故事〉主要的主题是弘法大师和守敏僧都之间的斗法,篇幅较长。该故事在其它故事集和弘法大师传中也有类似的故事,但是在《太平记》中该故事的最后以《法华经》中'咒诅诸毒药,还着于本人'的语句结束,且和《法华经》的注释书比较接近,具有显著的特征。并且,在将批判这种'诅咒调伏'的语句向引用故事外部深入探讨之时,即便在同样的卷二十中,这种'诅咒调伏'的语句也起着对后醍醐天皇的批判,批判他重用文观等人诅咒关东幕府灭亡。神泉苑修造的利生故事在卷十三被讲述,在政道批评记事并列的卷十二中,此〈神泉苑故事〉看似有些孤立,但是却能读出和其它章节一样预示了建武新政的崩溃。
  不论是在引用的章节,还是在卷的内外,《太平记》中引用的故事或明或暗地和故事中的各个地方联系在一起,这就要求我们在阅读作品时要解明这种联系。


《太平记》中诸卿评议
―围绕南朝决策的诸问题     
北村 昌幸

  左右南北朝内乱的重要转机来临之际,如足利直义和仁木义长投降南朝之际,南朝一方常常采用公卿合议来决定。《太平记》对其过程迸行了毫无疏漏的记述。然而另一方面,作品中也有另外一种记述方式,即通过后醍醐天皇以及后村上天皇的独断,事情被强制推行。历史上的转机在诸卿评议和天皇独裁的两种类型中,以何种类型进行描述呢?在考虑《太平记》的叙述方法之际,这一问题为我们提供了有意义的视点。
  但是,以此视点在论述作品之际,需要首先追问的是对南朝合议决定的过程,《太平记》作者是否获得了正确的信息。如果历史事实的信息被如实记载,无论是诸卿合议还是天皇独裁,《太平记》的作者都不能自由创作。遗憾的是围绕南朝一方的史实考证十分困难。或许可以承认至少《太平记》的作者在某种程度上获取了南朝一方的正确信息。
  在天正本《太平记》独自改写的记事中,能够看到南朝公卿的官位非事件发生当时的官位,而是事件发生以后的官位。然而,如'洞院右大将实世公还是左卫门督',古本中存在能够正确地把握南朝任免官职的一节。在南北朝内乱期,往来于南北朝之间的醍醐寺的房玄等是通晓南朝一方信息的京城人。或许《太平记》的作者也和那些信息往来的场所相关。这和毫无结果的贞和·观应年间和平交涉的场所有何关联,笔者将在今后继续探讨。


高师泰营建枝桥山庄之事中的小人物
―《太平记》注释补充考察(三)
长坂 成行

  只登场一次的人物之中,也有实际存在的历史人物,这是《太平记》的基本姿态。通过细心地探寻从来被看漏的配角的身世,能够更加精确地把握叙述意图,这是笔者对作品的预测。最近中世史的研究者,如坂口太郎氏、羽田聪氏、熊谷隆之氏、生驹孝臣氏等人对历史史料的发掘和重新审视对解读作品大有裨益。文学研究的常规做法是对章节细心仔细的阅读来逼近作品的意图。
  卷二十七〈执事兄弟奢侈恶行故事〉集中记述了高师直兄弟的恶行。其中,有一故事讲述了师泰抢夺了北野长者菅在登父祖以来的坟地--东山枝桥的土地,并建造了山庄。本稿讨论的是和本段相关的以下两件事:师泰认为讽刺建造山庄的匿名诗歌的作者是菅在登;师泰指使人暗杀菅在登。天正本记述了师泰谋杀在登,然而和讽刺建造山庄的关联却比较模糊。笔者综合考虑在登的经历等,考察了叙述不同之处的含义。
  并且,在建设现场,同情苦役的大藏权少辅重藤和古见源左兵卫卫门尉因师泰的命令被叫回,终日被强制驱使。见此情形之人弹指非难二人'与其受辱,不如死去'。原本应该非难的是师泰的恶行,为何会非难同情苦役的二人,这是笔者疑问的发端。关于古见不详,但从当时公家日记文书来看,大藏权少辅重藤是足利尊氏兄弟母亲--清子的娘家上杉氏一族之人,或许可以推测这样的叙述和其相关。进一步说,上杉家在观应搅乱之际和高氏一族对立,可能是重藤从兄弟的上杉重能在流放途中死亡,笔者也将《太平记》中的上杉氏一并论述。


神田本《太平记》本文考
―以卷十六为中心
小秋元 段

  神田本《太平记》的古老程度问题有必要进行慎重地详细调查。和玄玖本比较,神田本的本文除了特定的异同之外,基本来说共通的部分很多。在这其中,神田本和玄玖本卷十六和卷三十二异同较大,应该引起关注。在此,笔者以卷十六为例来探讨神田本古老程度的问题。
  首先,以记事的有无来注意卷十六的话,会发现神田本中没有的记事在神宫微古馆本中存在,神田本在诸版本中可以说是最简略的本文。神田本中没有的,神宫微古馆本中有的记事之中,也能看到有词章的重复,所以可以判断神田本的本文先产生。
  此外,即便在词章的水平,和玄玖本相比,神田本保留有简略的形态。玄玖本中详细的词章在很多情况下和故事的展开没有关系,可以认为是以台词为中心。这或许显示了神田本先产生,玄玖本的本文是后来增补的。
  但是,很难说神田本的所有本文都很古老。卷十六神田本的本文和天正本共通。和天正本比较,神田本也有在以后阶段省略本文的地方。也就是说,对于天正本来说,神田本中单独简略词章的部分不能说是神田本最古老的,关于卷十六,能够指出的是神田本和天正本共通的部分是最古老的本文。
  神田本所显示的以上的倾向从卷十五〈宗像大宫司加入将军一方之事〉就已经开始。在乙类本中,从本章段开始划分为卷十六。考虑到这些,或许本来的卷十六是从〈宗像大宫司加入将军一方之事〉开始的。


室町时代本文修订的一个方法
--以神田本《太平记》卷三十二为中心
和田 琢磨

  神田本《太平记》(以下简称神田本)是在十五世纪后半期(应仁之乱前后)抄写的版本。其卷三十二是非常珍贵的本文。其特征之一是玄玖本系统和永和本系统的本文是以双行形式写入,有能够确认异本本文的部分,因此,之前也没少引人注目。整理研究史就会发现之前是注重永和本的本文,但为了理解神田本,以及室町时代《太平记》本文修改的情况,之前的研究还不能说十分充分。
  在本论文中,关于神田本的抄写者以什么样的方法,欲创作出什么样的本文,我想通过对卷三十二本文的探讨来考虑。从此入手,我想能够具体地知道室町时代《太平记》异本、异文形成的情况。神田本的抄写者手头不一定有玄玖本系统本文和永和本系统本文。以那些被抄写的书为基础,或许神田本的抄写者创作了卷三十二那样的本文。我想通过综合探讨本文以及双行形式本文、注释等来论证这个推定。

(張静宇 訳)


요지


『타이헤이키(太平記)』권 38 '대원제국의 전쟁(大元軍事)' 과 송원(宋元)문화
초 세이우(張 静宇)

 『타이헤이키(太平記)』 권 38에는 '대원제국의 전쟁(大元軍事)' 이라는 장문의 중국고사가 인용되어있다. 이 고사는 호소카와 요리유키(細川頼之)가 대원제국의 제사(帝師)가 그랬던것처럼 지략 을 사용해해 호소카와 키요우지(細川清氏)를 쉽게 멸망시킨 것을 설명하기 위한 것이다. 그런데 이 '대원제국의 전쟁' 기사는 역사적인 사실로 볼 때 실제 대원제국의 대남송전쟁과는 크게 모순되는데다가, 아직 이에 대한 출전도 밝혀지지 않았다.

 먼저, 이 기사의 '양'에 대한 해석은 송대의 『비아(埤雅)』 권 10 '몽발양각(夢拔羊角)'등과 유사하다. '자미(字謎)'라고 불리는 글자를 맞추는 수수께끼는 송대에 일반 사람들에게 많은 인기를 끌었던 당시 사회의 취미였다. 『타이헤이키』의 이 자미에의 관심은 송원(宋元)시대의 취미를 반영하고 있는것이라 추측된다. 다음으로, 이 기사에 쓰인 '상천지하 일인지상(上天之下 一人之上)'이란 어구는 원대의 『불조역대통재(佛祖歴代通載)』 『칙수백장청규(勅修百丈清規)』 등에 있는 '황천지하 일인지상(皇天之下 一人之上)'과 매우 흡사하다. 이러한 어구를 원나라에서만 사용한 예는 없고, 원나라의 제사가 세조 쿠빌라이로부터 얻은 시호다. 원대의 독특한 어구를 『타이헤이키』가 수용하고 있는 사실은 바로 '대원제국의 전쟁' 기사 창작과 원 문화와의 밀접한 관계를 반영하고 있는 것은 아닐까. 마지막으로, 이 기사 말미에는 허벅지 살을 갈라 문서를 숨기는 에피소드가 있다. 송대의 『악국금타졸편(鄂國金佗稡編)』 등에는 남송의 무장 악비(岳飛)가 금나라와의 싸움에서 '규고납서(刲股納書)'라는 계략을 이용한 것이 기록되어 있다. 악비의 이야기는 강담(講談)으로 민간에서 유행했으며 많은 사람에게 알려졌다. 악비의 '규고납서'이야기는 송, 원나라에서 강담을 접한 인물에 의해 일본에 알려져 『타이헤이키』에 이용되었을 가능성이 있는 것이다.

 일본 중세시대 송, 원의 정보에 밝았던 이들은 송과 원을 드나들었던 오산승(五山僧)이나 망명을 위해 중국으로부터 방일한 선승(禪僧)들, 그리고 일본과 중국을 왕래한 상인들이었다. 『타이헤이키』의 작자는 이들로부터 제공된 정보를 참고하는 동시에 자유로운 창작을 거쳐 '대원제국의 전쟁'을 창작했을 가능성이 높다고 할 수 있다.


『타이헤이키(太平記)』와 홍법(弘法)대사 설화
―인용 설화의 사정거리―
모리타 다카유키(森田 貴之)

 『타이헤이키(太平記)』권 12에는 '다이다이리(大内裏) 조영' '신센엔(神泉苑)' 이란 대목에 홍법대사(弘法大師)(쿠카이:空海)를 주인공으로 하는 설화가 인용된다. 이들 설화에 대해 그 특징을 검토하고 타이헤이키의 설화 인용 방법에 대해 논했다.

 우선 '다이다이리 조영' 서두 부분의 설화는 홍법대사가 현판의 휘호를 보고 다이다이리의 화재를 예언하는 내용인데, 이 설화에는 대사뿐 아니라 오노노 미치카제(小野道風) 도 함께 등장한다. 이 점에 주목해보자면, 이 설화의 배경에는 본 대목에 부연해서 기타노 텐진엔기(北野天神縁起)설화의 출전 『기타텐진엔기(北野天神縁起)』의 이본들에서 볼 수 있는 '홍법대사 ―오노노 미치카제 ― 스가와라 미치자네(菅原道真)' 이 세 명을 연결짓는 설정이 존재한다는 것을 상정할 수 있다. 여기에서 대목 전체에 걸친 치밀한 구성 의식을 볼 수 있는 것이다.

 다음으로 '신센엔'중에 등장하는 설화는 주로 홍법대사와 모리토시(守敏) 승관의 영험 겨루기를 주제로 하는 장문의 설화들이다. 다른 설화집이나 대사전(大師伝)류에도 비슷한 이야기는 존재하지만 『타이헤이키』의 설화은 그 말미가 '주저제독약 환착어본인(呪詛諸毒薬、還着於本人)'이라는 법화경의 문구로 맺어져 법화경 주석서의 세계로 근접하고있다는 것에 현저한 특징이 있다. 그리고 이 저주 조복을 비판하는 문구를 인용설화의 외부에도 부연시켜보면 권 12에도 존재한다. 몬칸(文観)등을 중용해 관동 조복을 해온 고다이고(後醍醐) 천황에 대한 비판으로도 기능하게 된다. 신센엔의 중수로 인한 이생담이 권 13에서도 등장하는등 정도비판 기사가 이어지는 권 12 안에서 이 '신센엔'은 다소 고립된 것처럼 보이지만 다른 대목과 마찬가지로 겐무신정(建武新政)의 붕괴를 전조하는 것으로 읽을 수 있는 것이다.

 『타이헤이키』의 인용설화는 인용된 대목, 권의 내외부와 상관없이 작품 속의 다양한 부분에 뚜렷하게, 또는 은밀하게 연결되어 있으므로 그 관계를 풀어가며 읽어야 한다.


『타이헤이키(太平記)』의 제경첨의(諸卿僉議)
― 남조(南朝)의 의사 결정을 둘러싼 문제―
기타무라 마사유키(北村 昌幸)

 남북조(南北朝) 내란의 장래를 좌우하는 중요한 기회가 찾아왔을 때, 가령 아시카가 타다요시(足利直義)와 닛키 요시나가(仁木義長)가 남조측에 항복하는등의 사태가 발생했을 때, 남조 측에서는 공경(公卿)에 따른 의정이 진행되기 마련이었다. 『타이헤이키(太平記)』는 이러한 경위를 놓치지않고 기록하고 있다. 그런데 다른 한편으로 고다이고(後醍醐) 천황 또는 고무라카미(後村上) 천황의 독단에 의해 무리하게 일이 추진되는 듯한 인상을 주는 기사도 발견된다. 역사상의 전환기가 제경첨의와 천황 독재라는 두가지 유형 중 어느 쪽을 따라 그려지는지에 관한 문제는 『타이헤이키』의 서술 방법을 생각하는 데에 의미 있는 시각을 제공해 줄것이다.

 다만 이러한 시각으로 작품을 논하는 데 있어서는 『타이헤이키』 작자가 남조의 의사 결정 프로세스에 대해 정확한 정보를 갖고 있었는지를 먼저 따져봐야한다. 사실로 전해지는 정보를 그대로 쓴 결과가 제경첨의 혹은 천황 독재였다면 거기에는 『타이헤이키』 작자의 창작의지라는 것이 강하게 작용하지 못할 것이기 때문이다. 안타깝게도 남조를 둘러싼 사실 고증은 매우 어려운 것이지만, 『타이헤이키』 작자가 남조의 정확한 정보를 어느 정도 입수할 수 있었다는 사실은 인정해도 좋다고 생각한다.

 텐쇼본(天正本) 『타이헤이키』가 독자적으로 개정한 기사 중에는 남조 공경(公卿)의 관위를 사건 당시의 것이 아닌 후의 것으로 기술한 예를 볼 수 있다. 그런데 고태본(古態本)에서는 반대로 '토우인 우대장 사네요공 아직 좌위문독에 계셨는데(洞院右大将実世公いまだ左衛門督にておはせしが)' 라는 기술에서 보듯, 남조 보임(補任)의 시기를 파악하고있는 듯한 구절이 존재하는 것이다. 남북조 내란기에는 두 왕조 사이를 오가던 다이고지(醍醐寺)의 보우겐(房玄)등 남조측 정보에 통했던 인물이 있었음이 알려져있다. 『타이헤이키』 작자도 이렇게 정보가 오고가는 곳과 접해있었을터이다. 그것이 결실을 거두지 못한 조와(貞和), 간노(観応)년간에 있었던 평화 협상의 장과 어떻게 관련되는지에 대한 문제는 향후 검토해야하는 과제다.


코우노 모로야스의 이타바시 산장 조영을 둘러싼 조연의 주변
― 『太平記(타이헤이키) 』주해보고(三) ―
나가사카 시게유키(長坂 成行)

 한번밖에 나오지 않는 단역도 실존인물에 의거하고있는 것이 『太平記(타이헤이키) 』의 기본적인 자세이며, 기존에 간과해온 조연의 내력을 면밀히 살핌으로 서술 의도를 보다 정확하게 파악할 가능성이 있다는 것이 이 작품에 대한 원고자의 전망이다. 최근 중세사 연구쪽에서 사카구치 타로(坂口太郎)씨, 하네다 사토시(羽田聡) 씨,·쿠마가이 다카유키(熊谷隆之) 씨, 이코마 다카오미(生駒孝臣) 씨 등 여러 연구를 통해 역사 사료의 새로운 발굴과 재검토가 작품 읽기에 큰 자문을 얻게 해 준다는 것을 알 수있다. 문학 연구쪽에서는 한 대목을 사심없이, 그리고 자세한 읽기에 기초해서 작품에 다가가는 것이 상도(常道)다.

 권 27 '집사 형제 사치 악행(執事兄弟奢侈悪行事)'은 코우노 모로나오(高師直) 형제의 악행이 집중적으로 쓰여있다. 그 중에는 키타노초자 칸노 아리노리(北野長者菅在登)의 조상때 부터 묘지터였던 히가시야마 이타바시(東山枝橋)의 토지를 모로야스가 강탈해 산장을 짓는 일화가 있다. 본고에서 검토한 것은 이 점에 관련된 다음 두가지 사항이다. 산장짓기를 비꼰 라쿠슈(落首)의 작자를 칸노 아리노리로 알고, 모로야스는 사람을 보내 그를 암살하는 폭거를 저지른다. 텐쇼본(天正本)에는 모로야스에 의한 아리노리 모살이 기록되어 있지만 이 사건과 관련해서는 모호한 표현을 취한다. 아리노리의 경력 등을 감안하면서 서술의 차이점이 의미하는 것 등을 고찰했다.

 또 건설 현장에서 고역에 시달리는 인부에게 동정한 대장경보 시게후지(大蔵権少輔重藤)와 코미겐 좌병위 위문위(古見源左兵衛衛門尉) 는 모로야스의 명령으로 불려가, 종일 강제로 노역을 당하는 상황에 처한다. 이를 본 사람은 '창피를 당하는 것보다는 죽어버리는게 낫다'며 두 사람을 비난했다고 한다. 비난하는 것은 모로야스의 악행인데 고역을 감수한 두 명이 비난받는 것은 왜일까? 라는 것이 원고자의 의문의 시작이다. 시게후지는 당시의 공가(公家)일기와 문서로 봤을때 아시카가 다카우지(足利尊氏) 형제의 모친 키요코(清子)의 친정인 우에스기(上杉)가 일문의 인물로 인정할 수 있는데, 이러한 사정이 비판적 서술과 관계된 것은 아닌가 추측해 보았다. 또한 우에스기가 들은 간노(観応)의 요란(擾乱)때 코우노 일족과 대립하며 시게후지의 사촌형제로 여겨지는 우에스기 시게요시(重能)는 유배 후 비참한 최후를 마쳤는데 타이헤이키의 우에스기 씨의 묘사 방법도 함께 논했다.


칸다본(神田本) 『타이헤이키(太平記)』 본문고
― 권 16을 중심으로―
코아키모토 단(小秋元 段)

 칸다본(神田本) 『타이헤이키(太平記)』의 고태성(古態性) 문제는 신중히 살펴봐야 할 필요가 있다. 칸다본의 본문은 겐큐본(玄玖本)과 비교해보면 특정의 차이점을 제외하고는 기본적으로 공통되는 부분이 많다. 이러한 가운데서도 권 16은 권 32와 함께 권 전체에 있어 양쪽에 상이점이 있는 주목해야할 권이다. 본고에서는 권 16을 통해 칸다본 고태성의 문제에 대해 검토하려고 한다.

 우선 권 16의 본문을 기사의 유무 차원에서 주목하면, 칸다본에 없는 기사가 겐큐본본에 있는 경우가 눈에 띄는데, 칸다본은 이본들 중 가장 간략한 본문을 지닌다고 할 수 있다. 칸다본에는 없고 겐큐본칸본에는 있는 기사 중에는 문구의 중복도 보여 칸다본의 본문이 선행한다고 판단된다. 또 문구 차원에서도 칸다본이 겐큐본본에 비해 간략한 형태를 유지한다. 겐큐본본의 상세한 문구는 대부분의 경우 스토리 전개와 관계 없이 대사 부분을 중심으로 인정된다. 이것은 칸다본이 선행하고 겐큐본본의 본문이 나중에 증보되었음을 보여준다.

 그렇지만 칸다본 본문의 모든 부분이 고태성을 지니고 있다고 단정할 수는 없다. 권16의 칸다본 본문은 텐쇼본(天正本)과 공통한다. 이 텐쇼본과 비교하면 칸다본에는 나중 단계에서 본문을 생략했다고 생각할 수 있는 부분이 있다는 것을 알 수 있다. 즉, 텐쇼본에 대해 칸다본이 단독으로 간략한 문구를 가지고 부분은 칸다본이 최고 고태성을 지니고 있지 않으며, 권 16에 관해서는 칸다본과 텐쇼본이 공통되는 부분이 최고 고태의 본문이라고 지적할 수 있다.

 칸다본이 나타내는 이상의 경향은 권 15 '무나카타노 다이구지 쇼군을 모시다(宗像大宮司将軍を入れ奉る事)'부터 시작되고 있다. 을류(乙類)본에서는 본 대목부터 권 16으로 구분되어있다. 이러한 점들을 감안하면, 본래의 권 16은 '무나카타노 다이구지 쇼군을 모시다'부터 시작되었던 것이라고 생각할 수 있을 것이다.


무로마치(室町) 시대 본문 개정의 한 방법
―칸다본(神田本) 『타이헤이키(太平記)』 권 32를 중심으로―
와다 타쿠마(和田 琢磨)

 칸다본(神田本) 『타이헤이키(太平記)』 (이하, 칸다본)는 15세기 후반(오닌(応仁)의 난 전후)에 서사된 전본이다. 이 중 권 32는 매우 드문 형태의 본문으로 이루어져 있다. 그 특징 중 하나를 들면 겐큐본(玄玖本)계통과 에이와(永和本)본 계통의 본문이 2열 형식으로 기입되있어 이본 본문을 확인할 수 있게 된 부분이 있다. 그 때문에 지금까지 적잖이 주목되어 온 것이지만 연구사를 정리해보면 이제까지는 주로 에이와본 계통의 본문에 주목이 집중되어 온 것을 알 수 있다. 그러나 칸다본과 무로마치(室町) 시대의 『타이헤이키』 본문 개정의 양상을 이해하려면 지금까지의 연구만으로는 충분하지 않다고 생각한다.

 본론에서는 칸다본 서사자가 어떠한 방법으로 어떠한 본문을 만들어내고자 했는지에 대해 권 32의 본문 검토를 통해 생각했다. 이 작업을 통해 무로마치 시대의 『타이헤이키』의 이본, 이문 형성의 양상을 구체적으로 알 수 있다고 생각한다. 추측건대 칸다본 필사자는 겐큐본 계통 본문과 에이와본 계통 본문을 수중에 가지고 있던 것은 아닐 것이다. 그 본문이 필사된 책을 바탕으로 칸다본 필사자는 권 32 같은 본문을 만든 것은 아닐까. 이 추정을 본문 및 2열 형식의 본문, 주석 등을 종합적으로 검토해 논증해 가고자 한다.

(李章姫 訳)


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