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2015年2月24日

 記事のカテゴリー : お知らせ

●田中優子編『日本人は日本をどうみてきたか 江戸から見る自意識の変遷』より、「はじめに──今『日本人が日本をどうみてきたか』を考えることの意義」全文掲載!

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3月刊行の田中優子編『日本人は日本をどうみてきたか 江戸から見る自意識の変遷』より、「はじめに──今『日本人が日本をどうみてきたか』を考えることの意義」を全文掲載いたします。是非、お読みください!

●本書について詳しくはこちら
http://kasamashoin.jp/2015/02/post_3170.html
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今「日本人が日本をどうみてきたか」を考えることの意義


 田中優子◉法政大学総長


 本書は、法政大学・国際日本学研究所を拠点としておこなっている文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業 「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討─〈日本意識〉の過去・現在・未来」のなかの一グループである「研究アプローチ1・〈日本意識〉の変遷─古代から近世へ」の成果の一部を書籍化したものである。
 このグループは「古代から近世へ」とあるように、研究会やシンポジウムにおいては、古代、中世、そして近代のことも含めて研究をおこなってきた。研究は、国号の問題、東アジアとの関係、日本にとっての東北・沖縄、地図から考える領域意識、図版類に見える日本人・外国人イメージなど、多岐にわたった。本書に収められた論文はそのほんの一部であり、また多くは、近世(江戸時代)を舞台にしている。それは、グループの中心メンバーが近世文化の専門家であることも理由のひとつだが、近世文化は古代・中世の日本観を受け継ぎ、それを育てていったこと、そこから近代のナショナリズムにつながる思想も出現した、という事情もある。
 近世は多様な日本イメージのるつぼであり、流れ込み、流れ出ていった湖のようなものである。ここから出発して、さらなる展開が可能だと考えている。

人々が国を意識するとき

 ところで「国」だが、国家の存亡にかかわる国難ともいうべき非常事態下では、人々が国を強く意識する。そのとき人は、過去の事件を想起するものだ、と横山泰子は書いた。日常生活で日本人が日本国を意識することはあまりないだろう。しかし大震災やさまざまな天災、原子力のような深刻な事故、とりわけ戦争とそれに類するテロが起これば、「国」が意識にのぼってくる。それは日本だけでなく、近代国家を形成してしまった世界中の国民の「業(ごう)」ともいえるものだ。
 国家形成は民族対立を乗り越えるためのものであったはずだが、同時に国民としての利権を囲い込もうとする保守的な態度を生み出した。戦争でもないのに隣国とのちょっとした不和が国家主義的な感情をあおり、身近な外国人の存在が一部の人々の不平等感を激高させる。そのもとで外国について、また日本について感想を述べる膨大な書籍は刊行されても、「日本人自身が日本をどう考えてきたか」という問いは、なかなか発せられない。日本という対象、それを表現する日本人、それを分析する日本人、という重層的な関係を設定するには、それぞれの思想と方法が試されるからであろう。本書はその困難な作業の出発点である。
 本書で問題にしようとしているのはデータに基づく事実でもなければ、あまりにも多様な日本人の性格を一言でまとめることでもない。自分で自分をどう語ってきたか、という言説の全体像である。しかし全体像とは言っても、本書は近世(江戸時代)を中心にしている。そういう意味では偏っている。が幸いに近代国家がなかった近世では、それぞれの言説を「自虐」とか「自慢」という言葉で互いに攻撃する習慣はなかったので、そういう無駄な議論をしなくても済む。さらにいえば、すでに書いたように、近世文化は、古代・中世の日本観を受け継ぎ、近代のナショナリズムをも選択肢のひとつとして用意した。そこにいかなるものが多層的に存在したのか確認しておくことは、近代が国家形成の際に何を選び何を捨てたのか、確認する「よすが」となる。今、私たちはいかなる日本を選び取っているのか、それを考えることにもなるのである。
 
日本の華夷秩序

 近代から今日に至るまで、日本人の考える日本像の要になるのは、「華夷秩序」である。華夷秩序の起源は中国だが、むろんヨーロッパにもローマ帝国を中心とする華夷秩序はあったのであり、キリスト教を中心とする華夷秩序や白人を中心とする華夷秩序は今でも生きている。日本は中国の華夷秩序の中で「東夷(とうい)」と位置づけられ、「夷」に属した。しかしその華夷観念は日本のものとなって、大和朝廷を「華」とした蝦夷、琉球に対する日本の態度を形成した。その意味で、本書における大木康による、漢文学は外国文学ではなく日本人のなかに血肉化された学問であったという指摘や、華夷秩序のマインドセットが山鹿素行によってそのままの発想で逆転され、それが国学における日本中心主義につながった、という指摘はきわめて重要である。
 今日まで続く日本人の琉球への姿勢は、この華夷観念と無縁ではない。小林ふみ子は『琉球談(りゅうきゅうばなし)』『画本異国一覧』『翁草』などの文献が、日本文化を好み熱狂している琉球、という像を作り上げていたことを明らかにしている。それもまた、日本と中国が逆転した華夷秩序観念の現れであった。一方、ヤナ・ウルバノヴァーは、『おもろさうし』と琉歌のそれぞれの大和への態度を比較しながら、大和への反感の表現が見られることに注目している。しかし、華夷秩序が中国と東夷、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)だけで構成されていたわけではなく、それが逆転されながら複雑に使われていたように、ことは大和と琉球という単線構造だけでは解けない。内原英聡は、日本と琉球の中に幾重にも重なっている重層的な優劣構造に着目している。大和(薩摩)に支配された琉球は、そのなかの八重山や宮古に負荷を与え、さらにその内部は身分制度という構造的差別が横たわっていた。日米による沖縄の軍事基地の固定化と自衛隊の先島配備の可能性という今日の構造は、そのかつての構造の延長であると喝破している。
 「夷」は空間的に外部であり、観念的には怪物の領域である。米家志乃布は地図から日本の領域を行基図型とし、域外を架空型と分類した。横山泰子は『和漢三才図会』の「異国人物」と「外夷人物」の違いに注目し、さらにそのほかの文献を使いながら、怪物と「怪物ではない日本の私」の区別(差別)の構造が、江戸時代の日本人意識の中心にあったことを述べている。

「和」「武」「神国」としての日本

 小口雅史のコラムにあるように、律令制下で「大倭国」と表記されていた日本は、七五〇年代には「大和国」と表記され、そこに柔和な土地、平和な土地という意味を託した可能性がある。さらに竹内晶子のコラムで明らかなように、世阿弥は唐物の故事(物語)を「幽玄」の美意識と「平和」の強調で構成して能を創造した可能性がある。
 小林ふみ子は近世文学と文章を例示しながら、人々が言語、文字、歌、気候、人の性格まで動員して「やわらかな国」を作り上げた過程を追った。「やわらかい」姿勢は好色と結びついて色好みの文化を前面に押し出すことになり、夫婦和合をはじめとする人間関係の「和」の観念に結実する。石上阿希は春画こそが、その「和合」の精神を発揮する場であったことを明らかにしている。
 近代に入ると同時に、「和」のブランドは消滅し、「武」が日本の中心に据わった。しかしそれは実際には前近代の日本がはらんでいたものだった。金時徳は秀吉の命によっておこなわれた壬辰戦争にまつわる日本の膨大な物語類の挿絵、絵手本を整理した。そのなかには、強い日本と、日本の軍隊が平和な統治をおこなったような表現とが混在している様子が見て取れる。どちらにしても、すでに江戸時代において、日本は海外侵略の物語を消費しながら、武の国のイメージを再生産し続けていたことがわかる。
 韓京子は近松門左衛門の『国性爺合戦』を挙げ、そこに異国に対する日本の優越意識と「神国」意識が強く見られるという分析をおこなっている。それが天下太平観念と結びついていたが、それらは「武威(ぶい)」の強靱さの証として表現されていたのである。
 大屋多詠子は曲亭馬琴を挙げ、武国日本を文武両道、和漢兼学の国として描いたことに注目している。それは馬琴に限ることではなく、儒者たちの認識であった。さらにそこに、「日本魂(やまとだましい)」までもが忠孝の内容をもって組み合わされていたのであった。「和」と「武」と「神国」の観念は、近世日本で共存していたのである。
 小林ふみ子のコラムが発見しているように、武者絵というジャンルから見ると、「武」は必ずしも日本と結びついているわけではなかった。それは『水滸伝』をはじめとする中国の物語が武者絵として再構成され商品化されたことでわかる。しかしこれらの論文から見渡せるのは、「平和」が武力によって達成されている、という観念の共有であった。今日では「抑止力」という名のもとに核をはじめとするあらゆる武力が平和と結びつけられ、「積極的な平和」という名の派兵も想定されているが、これは江戸時代の天下太平の規模をそのままふくれあがらせたような構図になる。
 林久美子は金平(きんぴら)浄瑠璃に、皇室の正統性、徳川の秩序の絶対性、仏法と王法を兼ねた神国認識を見出だした。とりわけ古浄瑠璃は神おろしを含む呪術的な語りものであり、それは江戸時代になって後退したわけではなく、近松浄瑠璃や垂加(すいか)神道や富士信仰の中に受け継がれていったことがわかる。神国日本は、秩序の中心にあると信じられていた。
 神国観念は、藩の連合体であった近世国家のなかで、諸外国を意識した上で「日本」という統一体を把握するために役立っていたようだ。それは近世においては新しい発想だといえるだろう。福田安典は、脱藩して国益を生涯の仕事とした平賀源内のなかにある国学的なるものに迫った。長島弘明は、国学者でもあった上田秋成の論争や、秋成の伯父(叔父)の樋口道与(どうよ)を取り上げつつ、現代のグローバル化とインターナショナル化および文化相対主義の思想や議論がそこにあったことを指摘している。
 津田眞弓は仙台藩の事例を挙げながら、文化年間に学問所であるはずの藩校で武術がおこなわれるようになり、武士だけでなく教育による庶民の教化が始まり、地方の殖産政策と危機感を反映した物語類が増えたことに注目している。周辺海域における外国船との接触が頻繁になり、幕府や海域の大藩や輸出入に携わる商人だけでなく、庶民までもがグローバルな状況下にある日本を意識しはじめたことと関係あるであろう。
 川添裕は横浜開港期の日本において、アメリカが近代テクノロジーの象徴ともいえるリプレゼンテーションを展開したことに対し、日本側が相撲によってリプレゼンテーションをおこなったことに注目した。それはテクノロジーに対する「神国」の示威であった。その背景たる実際の生活においても、見世物をはじめとする土俗的なサブカルチャーが息づいていた。そこには、異国に対する神国としての日本の意識が見える。

国家から地域へ

 本書の全体を通観してみると、日本が華夷秩序という秩序の、文明国(中国)からの逆転写をおこなったことは、明白である。近世日本は「華」になるという目標をもっていたがゆえに、学問、思想、産業技術に至るまで見事な発展を遂げた。しかしその目標が他にずれてしまえば、さらに別のものを追いかけるしかない。今日までの日本は、中国、欧州、米国という、観念上の華に同一化することが政権の目標として自動的に設定されていたように思われる。そのために華夷構造を転写して己を華に似せ、さらにそのために「夷」を作り出すのである。
 きわめて興味深いのは、このプロジェクトで発見され、シンポジウムや展覧会としても実施してきた「和」「武」「神国」という三つの側面の共存である。これらは別々に取り出されて日本の特徴とされてきたものだが、重要なのはすべてがそろっていることである。どれもが、民族的・地勢的にも(古代)、武力集団や産業構造の面でも(中世・近世)、法的な単位としても(近世)ばらばらな各地域が、何らかの理由でひとつに結びつくための観念である。だとすると、この三つの側面を共有できる地域が日本列島各地に存在していたことになる。
 華夷秩序と「和」「武」「神国」の組み合わせがいかなる構造で構成されていたか(いるか)は、今後、日本の地域の研究に入っていくことで見えてくるのではないかと期待している。それは次のプロジェクトにつながるテーマである。そのテーマは、地域の衰退をなんとしても食い止めねばならない今日の日本にとって、未来的なテーマでもある。


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