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2014年12月 2日

 記事のカテゴリー : リポート笠間掲載コンテンツ

●木越 治・「まほろばの会」のことなど●リポート笠間57号より公開

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リポート笠間57号より、木越 治・「まほろばの会」のことなど、を公開いたします。

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「まほろばの会」のことなど

木越 治(上智大学教授)

近世文学。著書に、『秋成論』(ぺりかん社、一九九五年)、『講談と評弾』(編著、八木書店、二〇一〇年)、『秋成文学の生成』(編著、森話社、二〇〇八年)などがある。


 『源氏物語』の全巻読破をめざす「まほろばの会」を金沢ではじめたのは平成六年(一九九四)年一月のことである。

 それまで、北陸古典研究会の仲間たち七、八人と金沢市の生涯学習講座のひとつとして古典文学講座を十年以上続けており、そのなかで、『源氏物語』の各巻を分担する機会があった。その準備のため、与謝野源氏や『あさきゆめみし』等を利用して『源氏物語』全巻になんとか目を通し、主要登場人物もほぼわかるようになってきたので、ぜひとも原文で全部読み通してみたいと思うようになっていた。大学の講読テキストに使ったこともあるが、半期ごとに受講生がかわる大学では一巻全部を読み通すことさえできないので、この古典講座の参加者約百名くらいに、『源氏物語』を原文で全巻読破する講座をはじめようと思うので参加しませんかと呼びかけたところ、三十人近い希望者があったので開始することにしたものである。

 金沢市の公民館の自主サークルという位置づけで、当初は本多町館を利用していたが、二〇〇七年以降は現在の彦三館に移っている。

 原則として毎月第二・第四土曜日午前10時~12時まで、テキストは小学館版新編古典文学全集1~6。各巻の最初は概説的な話をすることが多かったが、おおよその心づもりとして、一回にテキスト八頁を読むくらいのスピードを心がけていた。途中、私の在外研究で半年ばかり中断したが、平成二十二年(二〇一〇)九月末で全巻を読み終えた。まる十六年かけたことになる。
 参加者に唯一課しているのは原文を全員で音読してもらうこと、それ以外は、ほぼ、私ひとりでしゃべっていることになる。

 当方の準備としては、原文の通読と現代語訳及び頭注・補注の確認、他に、玉上琢弥氏の『源氏物語評釈』(全巻評釈本としてはこれが一番気に入っている)や至文堂版の巻別解説本(こちらは十年目くらいから利用できるようになったはず。ただし、巻ごとにかなり出来不出来があるのが難である)の当該部分を通読し、問題点・説明項目の把握などにつとめることが中心である。この他、よく読んだものとしては、有斐閣の「講座源氏物語の世界」シリーズ、橋本治の本、丸谷才一・大野晋の対談本『光る源氏の物語』などがある。

 前日の金曜日の夜数時間をこの準備にあてることにしていたが、なにかの都合でこの時間帯に予定が入るのが一番困った。出張などで金曜の夜に帰るしかないときは、旅先に何冊か持参し電車の中などで読むこともあったし、飲み会と重なったときなどは翌朝早起きして準備することもあった。ただし、勉強した内容を一晩寝たあとで話すのと、当日の朝準備しただけで話すのとではやはり違うもので、後者の場合は、どこか余裕のない話し方になっていたような気がする。
 また、『源氏物語』は参考書も研究書もむやみに多いので、最初のうちこそまめに買ったり目を通したりしていたものの、そのうち、気になるものだけに限定するようになった。ただ、受講者から、ときどき、新刊の本について感想を聞かれることがあり、そういうときは、とりあえず目を通して感想を言ったり、ときには、参加者の質問に触発され、調べたことを次回にプリントしていくというようなこともあった。

 ただ、こういう講座では、専門家向けの研究書や研究論文をいくら読んでも、受講者にとってどういう意味があるか、というところまで解説を付したうえで話さないと意味がない。そういう点からすれば、学会のホットな問題(cf.青表紙本の問題など)をそのまましゃべってもしようがないことは多いわけだが、それでも、単にテキストを読むだけでは変化に乏しくなるので、数回に一回は、いろいろな話題を選んでプリントを用意したものである。いまでもよく覚えているのは、二千円札が出たとき、そこに使われている『源氏物語』絵巻について解説プリントを作ったときである。これには多くの関心が集まり、二回分かけてくわしく解説した。公民館の職員の方からも、余ったプリントをくださいと言われたのを覚えている。

 こうして書いてくると、この講座のために、どうやら私は、大学の授業以上に真面目に準備していたようである。

 ただ、言い訳するつもりはないが、いまの大学では、こういうふうに二時間まるまるしゃべりっぱなしという授業形態を取ることはまずないし、許されることでもない。講義科目であっても、こういう形式だと授業評価で確実に×がついてしまうからである。だから、小テストをしたり、プリントを用意したり、あるいは、中間レポートを課するなどのことをして、その時間の内容を受講生がどの程度理解しているかを把握し、授業に触発されて学生が自発的に勉強するようになるよう工夫している。そのぶん、一回の授業内容が少なくなることは避けらず、「まほろばの会」のように、テキスト八頁を毎回読みつづけるというような授業をずっと続けることは不可能になっている。その意味でいうと、こちらは、受講生というよりも、私自身のための講義であるといえるかもしれない。実際、私が『源氏物語』全巻を読みたいために始めた講座だったのだから、趣旨にかなっているわけではあるが......。

 もっとも、我々が学生であった頃にはそういう授業はいくらもあり、興味のある内容のものは熱心に聞いていたことを思うと、この講座は、そういう学生時代のよき思い出を、受講者と共有したいがために続けているのかもしれない、とも思われてくるのである。

 ただ、長年、教師を続けていると、これは絶対にうける、という話題のひとつやふたつはあるものだが、同じ受講生を相手に十年以上も講義を続けていると、そういうネタは完全に尽きてきて、いつも、新しい話題を見つける努力が必要になってくる。ときどき、あ、この話は、前にもしたことがあったな、と思うときが、自分でいちばん反省するときである。あとで、参加者に聞くと、「そうでしたか? 前にしてましたっけ?」という反応であることも多く、同じ話をしてもそんなに厭がられるわけではないようなのだが、自分があまりいい気分にならないので、できるだけ、新しい話題を選ぶようにこころがけている。

 それと、『源氏物語』にしろ、『伊勢物語』にしろ、最初から最後まで、均等にすべてがおもしろいというものではないので、おもしろくないところで、どれだけ興味を失わずに話していけるか、─別の言い方をすれば、なんとか興味の持てる材料を見つけて話せるか─が大切なのだと思っている。

 別に、この講座に限ったことではないが、自分がおもしろいと思わず、単に義務でしゃべるようになってしまっては終わりなので、いつまでも、おもしろいと思う気持ちを持ち続けることが、なによりも大切なことなのだと思っている。

 講義の合間には、いわゆる無駄話も交えるわけだが、一番喜ばれるのは、大学のこととか学生に関する話である。大学の教室で話すにはさしさわりあるような話を披露することも多いが、具体的な例をここに書くわけにはいかないのが残念である。

 平成二十二年(二〇一〇)四月から私は東京に移ったが、金沢での「まほろばの会」自体は現在も続けている(いまは月一回)。『源氏物語』を読み終えたあと、今年三月までは自分の専門である『雨月物語』を読んでいたが、この四月からは『伊勢物語』を読むことにした。『雨月物語』を読んでいた三年余の間に参加者がだんだん減っていき、最後の頃は二十人を切るくらいになってきて心配したが、『伊勢物語』に切り替えたとたん、参加者が倍増して四十人近くになったのはびっくりした。

 勤務先の上智大学にも、コミュニティ・カレッジという市民向け講座があり、『雨月物語』で二回開いたが、三回目のときは開講規定にある一〇人の受講者が集まらず、開くことができなかった。

 その一方、私の金沢での経験を聞いた東京の知り合いの方が、「ぜひ東京でも『源氏物語』を読む会をやりましょう」と、あちこちに声をかけてくださり、昨年十月から、高田馬場駅前にある新宿区戸塚地域センターで、『源氏物語』講座を開いている。こちらは、最初からすんなり二十人近くの参加者があり、一年を経過したいまも漸増傾向にある。

 こういう経験からすると、連続的に開催可能な古典講座の内容というのはかなり限定されるような気がする。当面は、六〇代以上の女性が受講者の中心になる、ということを勘案すると、やはり王朝女流文学を中心に選んでいくしかないのかな、とも思う。このあたりの事情は、戦後日本の古典文学教育のあり方をそのまま反映している、と言ってしまいたい誘惑にかられる。(後注参照)

 が、そうでない例も一、二知っているので、あるいは、これは、教える側の傾向が参加者を選んでいるかもしれない、とも思ってみたりする。近世小説を専攻しているとはいえ、案外に、自分は、王朝女流文学を好きなのでは、と思い直したりしているところであるが、ただし、こちらで、研究論文を書きたいとはさらさら思わない。生涯一読者であることの幸せを味わい続けたいからである。

 文部科学省の指導要領をはじめとする公式文書等に明記されているわけでもなんでもないが、第二次大戦後の日本の古典教育における最終的な到達点(=古典読解能力の目標点)は『源氏物語』を原文で読めるようになることである、という暗黙の前提が存在している。それをもっともよく反映しているのが大学入試問題であるということは、高校・大学で古文教育にたずさわっている教員ならば誰しも認めるところではないかと思われる。


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