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2014年11月11日

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●近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(6)

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小松英雄氏の近刊(11月21日刊行予定)『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』の冒頭から1章を毎日すこしずつ公開していきます。
本書の詳細はこちらから。

小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』(笠間書院)
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http://kasamashoin.jp/2014/10/post_3029.html

なお、本書について、刊行記念イベントを開催いたします。

開催日時:2014年11月15日(土)19:30 ~
ジュンク堂書店 池袋本店
タイトル「内外の専門学者が気づいていない 日本語運用の巧妙なメカニズム」

●公式サイトはこちら
http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=7066

ご来場、お待ちしております。要申し込みです。

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近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(1)はこちら。

近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(2)はこちら。

近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(3)はこちら。


近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(4)


近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(5)


中国語の音節構造
 日本語の基底である和語の音節構造の基本は単純の極致ともいうべき CV、すなわち、ひとつの子音(Consonant)にひとつの母音(Vowel)がその順で結びついた形であるが、日本語の語彙に大きな比重を占める漢語のもとになった中国語漢字音は一語が一音節なので、和語の対極ともいうべき複雑な音節構造をもっており、つぎのように IMVF/T という式(formula)で表わされる。ただし、日本語にも、母音だけの音節があるように、V と T 以外の構成要素は、すべての漢字の音に必ず全部そろっているとは限らない。

I......Initial consonant 頭子音
M......Medial 介音
V......main Vowel  中心母音
F......Final consonant 末音(またはE......Ending)
T......Tone 声調

 たとえば、「東」字の音[tuŋ1]は、I=t、M=ゼロ、V=u、F=ŋ、T=1(平声・低平調)でtuŋ1 となる。筆者自身、学部学生のころから中国漢字音に関心をいだき、ある水準までは到達できたが、いちばん厄介だったのはひとつひとつの漢字の声調を覚えることであった。その後、この分野から遠ざかるにつれて、まず声調があやふやになって口に出すのが億劫(おっ くう)になり、数十年を経た現在、残っているのは理論だけである。覚えるのに苦労した順に忘れてゆくことがわかった。ただし、具体的場面では、声調や子音の有気、無気の別など、かなりデタラメでも、ある程度は通じることを付言しておく。

 日本語が和語だけであった段階に鎖国をしておけば、こういう厄介な言語に苦しめられずに済んだし、漢字を際限なく覚える必要もなかった。しかし、CV 型の音節では、区別する音の種類を増やしたり、アクセント体系を複雑にしたりしても、現実に使用する言語としてはおのずから限界があるし、和語だけで語彙を増やしたらバカ長い多音節語が増えて、伝達の媒体として役立たなくなるので、音節構造を複雑化せざるをえなくなったであろう。

 外来語は侵入してくるのではなく、必要な語を選択して取り入れるのである。

 ダイアモンドの鉱脈が見つかれば、どんな奥地や砂漠のなかでも鉄道を敷設するのと同じように、大きなメリットがあれば、言語の障壁を乗り越えて高い文化を吸収しようとするのが人間である。古代の日本でも、早い段階では一部の人たちが中国の言語や文字をナマで習得し、多くの人たちは中国語話者と接触せずにそれを学んだはずである。漢字は形(字形)、音(語形)、義(意味)という三種の要因をそなえているが、中国語話者と接触する機会がない大多数の人たちが正確に覚えなければならないのは〈形〉と〈義〉とであって、〈音〉は日本語話者どうしでつうじるだけで十分であった。

 漢語の語形について考えるためには、音声学や音韻論をひととおり身につけていないと、なにがなんだかわからなくなる。ただし、ここで漢字音に深入りしたら先に進めなくなるので、さしあたり、中国語の音節構造がたいへん複雑であることだけでも頭に入れておいていただきたい。

 中国語は英語に似ているなどと俗間に言われているが、「我愛你」、I love you. と、語順がどちらもS(主語)・V(動詞)・O(目的語)型だという程度のことであって、英語の音節を式として一般化することはできないし、中国語の音節構造が複雑だというなら、英語のほうは乱雑で図式化などとてもできない。

 日本語には十一世紀末までに五列十行の〈五十音図〉が作成されており、中国では七世紀初頭に、韻で分類した韻書『切韻(せつ いん)』が編纂され、後に、それを表にまとめた《韻図》が作られている。〈韻〉とは IMVF/T の末尾、F/T の部分をさす。代表的な韻図のひとつ『韻鏡』は横二十三行、縦十六列の四十三枚の表で構成されている。たった五列十行の表に収まる五十音図とは比較にならない。ただし、体系的にブランクになる欄のほかに偶発的(accidental)にブランクになっている欄も少なくない。

 日本語話者にとって大切なのは、中国語からの借用語に基づく漢語でも、英語に基づく外来語でも、日本語とたいへん異なる音節構造と語音配列則の特徴をとどめているので、できるだけ和語の音韻体系になじむ形に近づけても、もとの言語の特徴が歴然と残るので、和語か漢語か、それとも、英語その他、ヨーロッパの諸言語からの借用語かを高い確率で反射的に判別できる。あとであらためて取り上げるが、そのことは、日本語を効率的に運用するうえでたいへん大きなメリットになっている。

 コリア語は日本語なみに漢語を取り入れているが、固有の語と漢語との音節構造が重なっているために、日本語のように直覚で判別するのは困難である。民族主義が高揚して漢字を捨て、世界に誇るハングル専用にしたことによって生じる文化文明の停滞は時間の推移につれて深刻になる恐れがある。そのことを真剣に憂慮する人たちが少なくないことを筆者は直接、間接に知っているが、国粋主義の時流に逆らうことには限界があることを痛感させられる。日本にはそれとまったく同じ問題は生じないが、美しい日本語の幻想に浮かれて外来語を毛嫌いし、行政がそれを後押ししたりすると、日本語の運用効率を著しく損なう危険が生じる可能性があることを認識すべきである。

 日本の場合には、中国語からの借用語を漢語として手なづけ、その類型に基づいて独自に作った漢語をも含めて和語とならぶ日本語として認識しており、一方には英語からの借用語を美しい日本語を破壊するカタカナ語として観念的に毛嫌いする風潮がありながら、必要な語、有用な語は適宜に取り入れているので、隣国と同じ深刻な問題を抱える状態に陥るおそれはないが、地名人名が野放し状態になっており、音と訓とだけでなく、わけのわからない無理な読みかたまで無秩序に入り乱れているので、友人知人でも、下の名前の読みかたに自信がない場合がしばしばある。こういう状態はきわめて異常だという認識をもっている人はほとんどいない。中国語も、簡体字を普及させているのに地名人名が治外法権になっていることは日本と同じである。ただし、原則として一字にひとつの読みかたしかない分だけ、はるかにマシである。漢字に音と訓とがあることを日本人の知恵として自慢しても、副作用を放置すると収拾がつかなくなる。

聞こえない[ッ]・聞こえる[ッ]
 仮名を覚えたての幼児が、「とてもおいしかたです」と書くと、母親が、「ここに〈っ〉を入れなきゃ」、と注意するが、こどもはその意味がすぐには理解できない。なぜなら、オイシカツタなどとは言わないからである。母親が、もういちど、「ここに小さい〈っ〉を書くのよ」と教える。[カ]と[タ]との間にはなにも聞こえないが、幼児には日本語の感覚がすでに身についているので、[tsu]ではないが、そこに一音節のナニカがあることは感じ取っているので、この戸惑いは短期間で解消する。なぜなら[ッ]とはアレのことだと覚えてしまうからである。母親自身も幼時にそれと同じ過程で[ッ]を覚えたことなど記憶していない。

 [ニッポン]の[ッ]を単独には発音できない。[ni]のあとに続く[p]を予期して唇を閉じ、そのまま呼気を解放しないでいると喉頭の緊張を感じ取ることができる。ニッポンの[ッ]は喉頭が閉鎖したまま持続するので何も聞こえない。

 耳に聞こえない一音節相当の時間の空白になぜ[ッ]を当てるのだろう、いったい、いつ、だれが、そんな方式を考え出したのだろうと疑問をいだくことは、まずないし、そんなことを知らなくても、日本語社会で日常生活を送るうえでなんの不自由もない。「か」や「ほ」の仮名の右上に点を二つ付けるとなぜ[ɡa]や[bo]になるのかなども同様である。〔『日本語の音韻』〕

 呼吸をしていても空気の存在を意識しないのと同じように、ことばも、日常生活では何と言おうかなどといちいち考えずに口を衝いて出るのが正常の状態である。日本語ブームの後遺症として、日本語神経症にさせられて、「踏切注意」は誤りで、「電車に注意」が正しいのではないかと本気でお伺いを立て、文法の専門家らしき人物がもっともらしい解答をしたりしているのは愚の骨頂である。日本語を言語学の立場から研究して適切なアドヴァイスをするためには、ことばを使っているだけではなかなか気づかない諸事象を捉えて解析できる能力がなければならない。なによりも、それぞれの事象を日本語の体系のなかに位置づけて事柄の本質を解明する必要がある。

 日本語が特殊な言語であるとか、他の諸言語よりも一段と優れた別格の言語であるとかいう根の深い俗信を捨てなければ日本語のほんとうのすばらしさを理解することはできないことを、本書を読み進むにしたがって悟っていただきたい。

 日本語など掃いて捨てるほどありふれた言語だなどと筆者は毛頭考えていない。それどころか、その魅力に取りつかれて何十年も過ごしてきた人間である。ただし、そういう魅力は他の諸言語にも同じようにあるはずであって、諸言語のあいだにランクなどはない。人間にとって言語はかけがえのないすばらしいツールなのだということを読者に理解してほしいと願っているだけである。

 促音についてはすでに説明したが、詰まる音という呼び名のほうが日本語話者には感覚的に理解しやすい。[tsu](中世末まで[tu])とは似ても似つかない音を[ッ]で表記していることにはどういう根拠があるのであろうか。こういう事象を研究する領域を音素論(phonemics)という。ニホンのンは[n]、ニホンマツのンは[m]、ニホンゴのンは[ŋ]、ホンヤのンは鼻母音というように、多くの言語で区別して使われる鼻音を日本語では聞き分けないで同じ音として認識し、〈撥音〉または〈はねる音〉とよんでいる。

 日本語話者の耳が鈍感だからではなく、人間は、区別する必要のない違いを聞き分けずに運用する能力を備えているからなのである。英語のcoming, goingをカミング、ゴーイングとグを付けないと[ŋ]であることを認識できないのはそのためである。はるか以前のこと、アメリカでタイ料理をご馳走になったとき、細くて黄色い不思議な野菜が入っていたので、名前を尋ねたら、ヤンコンですという。ちょっと戸惑って、なんだ、ヤング(young)コーン(corn)かと、頭のなかで[ɡ]を補って理解したことを覚えている。英語を話しているつもりで、一瞬、母語の耳に切り替わっていたのである。母語の根強さを痛感した一瞬であった。

 どの言語も、効率的に運用しやすいように体系づけられている。本来、人間の脳は複数の言語を話すようにはできていないのであろう。原始社会ではそれでよかったが、グローバル化が進むと、こういう問題が必然的に生じることになる。本書で音素論をまともに扱う余裕はないが、言語音の運用を理解するうえで不可欠の知識である。現今では、音素論を独立の領域とせずに、言語音に関わる研究を統合して音韻論(phonology)とよんでいる。〔『日本語の音韻』〕

分節、〈モーラ(mora)〉、または〈拍(はく)〉
 あくびや悲鳴、あるいは、鳥や動物の鳴き声と人間のことばとの大きな違いは、分節(articulate)して、すなわち、音節で区切りながら発話されることである。一般に、音節は、母音だけで、あるいは、一個の母音と一個またはそれ以上の子音とを結合して形成される。ちなみに、〈子音〉とは consonant の訳語である。conは〈~といっしょに〉、sonant は〈母音〉。合わせて、〈母音と結び付いて発音される音〉という意味である。たとえば、語として con/so/nant は三音節、vow/el は二音節である。

 それぞれの言語によって音節の形成のしかたはさまざまである。前述したように、中国語は一語が一音節で IMVF/T の構造であり、英語では street も strength(力(ちから))も母音がひとつでそのほかは子音であるから単音節語であるが、英語に音節構造の一般式(formula)はない。日本語にも英語にも[s]、[t]、[r]はふつうに使われているが、日本語に子音の連続はない。ただし、①母音だけの音節は CV のC がゼロであると見なす。②[ja](ヤ)、[ju](ユ)、[jo](ヨ)の音節頭の半母音[j]は C とみなす。③拗音(よう おん)音節[kja](キャ)、[kju](キュ)、[kjo](キョ)の[j]は、独立性がないので[kj]で C とみなす。[j]は中国語の介音(M)に当たる。母音で終わる音節を開音節、子音で終わる音節を閉音節とよぶ。ちなみに、strength は CCCVCC で一音節の閉音節である。ng[ŋ]と、th[θ]とは二字で書くがどちらも単音である。

 外国語として学習されることの多い先進諸国の言語と比較すると、CV という単純きわまる構造の音節を基本とする日本語は特殊な音節構造をもつ言語のようにみえるが、たとえば、ハワイ諸島の島名や地名などを見ると、オアフ島、ワイキキ、ヒロ市など、その一帯には簡単に仮名に置き換えられる地名がたくさんある。カメハメハ大王などという人名も日本語話者には楽に記憶できる。ハワイ語がほぼ東端になるオーストロネシア語族は太平洋からマダガスカル島にまで広がっている。だから日本語の源流はオーストロネシア語族なのだという主張は短絡であるとしても、古い時期に、それらの言語の話者たちと濃厚な接触をもっていた可能性は否定できないであろう。ただし、(CV)n (nは1以上の自然数)を主とする言語はオーストロネシア語族に限らない。南北アメリカ大陸には原住民族の言語に由来すると思われる(CV)n の地名が少なからずあるし、ラテン語系のイタリア語、スペイン語、ポルトガル語などにも(CV)n の語形がとても多い。

 筆者が、導入的なこの章で音声学や音韻論(phonology)の初歩的な知識を確認し、特に日本語の音節がCVという単純すぎてすぐにでも発達に行き詰まりそうなみすぼらしい構成の開音節であることを強調したのは、次章以下で取り扱う清濁の二項対立や連濁、音便など、日本語独自の音節運用が、そういう救いのなさそうな音節構造の弱点を逆に利用して発達したものであることや、単純な音節構造であったからこそ、複雑な音節構造の漢語や英語などからの借用語を大量に導入しても同音衝突を回避して豊富な語彙を効率的に運用できるのだということをあらかじめ指摘して、日本人の、ではなく、知恵のあるヒト(ホモ サピエンス)のすばらしさを再確認しながら読んでほしいからである。

和語の語音配列則
 英語には日本語の[キャ]や[キョ]などの音がないので、東京は[tokio]、京都は[kioto]になる。そのうえ、日本語は sing-song accent という別称があるように、歌を歌うような高低(pitch)アクセントであるのに対して英語は強弱(stress)アクセントであり、東京も京都([io]は複合母音になる)も第一音節を強く発音するので、日本語とかなり違った印象になる。ロシア語には日本語の拗音と同じ音があるが強弱アクセントである。

 前項で指摘した street や strength の[str-]などのように、個々の音を比較すれば同じであっても、それぞれの言語によって他の音との結合のしかたが同じではない。どういう音をどのように組み合わせて語を形成するかはそれぞれの言語ごとに決っている。そういう組み合わせの規則がその言語の〈語音配列則(phonotactics)〉である。内容をまったく理解できない外国語を聞いて、ドイツ語だとか、フランス語だとか、中国語だとか、コリア語だとか判別できたり、中国語の方言のようだと推定したりするカギは、いろいろあるが、それぞれの言語の語音配列則の特徴によるところが大きい。 

長母音と短母音との中和
 和語はCV音節を基本にしているので、和語で作られた俳句や和歌なら、指を折りながら音節数を確かめることができる。漢語も、一字の音を一単位とみなして、以心伝心、雨天順延、天真爛漫、商売繁盛と、指を折ることができる。しかし、たいていの言語には、子音の鈴なり(cluster)や二重母音が随所に含まれていたりするので、そのような数えかたはできない。日本語で数を順に数えると、イチ、ニー、サン、シー、ゴー、のように、どれも二音節分の長さになる。電話番号などもサンゴーニーハチになる。
 
[タカキヤマ(高き山)]の高さを強調するのに[カ]の母音を任意に延ばすような表現のしかたなら文献時代以前からふつうだったであろうが、現代語の[ト(取)ル]と[トー(通)ル]とのように、短母音と長母音とを意味の違いで使い分けるようになったのは、すなわち、長母音と短母音とがセットとして音韻体系に組み入れられたのは、およそ十六世紀から十七世紀にかけて、[au]が、欠伸(あくび)が出そうなときのようにすこし口の開きが大きいオーを経て、現在と同じ、狭い[オー]になり、また[eu]は、直接、現在と同じ[オー]に変化して、すなわち、カカウ(書かう)も、やはり、欠伸口の[オー]を経てカコーになり、また、キヨウ(着よう)のヨウは直接にヨーになったためである。これら一連の変化は和語だけでなく漢語にも生じて、その分だけ中国語原音との距離が大きくなっている。

 五十音図の枠外にある促音、撥音、長音は国語学では特殊音節とよばれて別扱いになっている。促音、撥音と違って、長音は、音韻変化によって新しく生じた音素であるという事情があって、特に外来語では、ビルとビールとのように確実に機能している場合と、そうでない場合とがある。

 コンピューター(computor)、コンディショナー(conditioner)など、英語のスペリングが or または er で終わる外来語は、末尾に長音符号を付ける伝統があったが、近年はそれをつけない書きかたも多くなり、一九九一年の内閣告示「外来語の表記」では、「慣用に応じて「ー」を省くことができる」となっている。自然に口にしてみると、長母音とも短母音ともつかない中途半端な長さである。それは、このような語形では、語末が長母音でも短母音でも意味の識別に無関係なので、対立が中和(neutralize)されるからである。筆者の感覚では、コンピュータときちんと切ると寸足らずに感じ、意識してコンピューターと延ばすと冗長に感じる。ただし、短い語形の場合は、文脈があっても、バッタ(batter)と書くと虫を連想するし、ピッチャ(pitcher)と書くと雨降りのような感じになるので長音符号が不可欠である。ただし、口頭なら中和された半端な長さで伝達に支障はない。要するに、 語形(word form)ではなく、片仮名の綴りだけの問題である。

 外来語の長母音には、もうひとつ顕著な特色がある。それは、縮約される場合に優先的に削除されてしまうことである。ロケーション(location)・ハンティング(hunting)(映画撮影に適する場所探し)∨ロケハンなどは相当古い和製英語のようである。現今でも、パーソナルコンピューター∨パソコン、エアーコンディショナー∨エアコン、エンターテインメント(entertainment)(娯楽)∨エンタメ、スマートフォン∨スマホのような縮約形が自由に作られて普及している。CV音節で置き換えると長くなり過ぎるための縮約であろう。もとの英語に長短母音の使い分けによる意味の識別がないので、延ばそうと縮めようとコチラの自由である。

 英語の母音はそれぞれの語によって長さが一定しないが、短母音と長母音との二種にして意味の区別に役立ててはいない。そのために、英語話者は、練習して使いわけを身につけないとビルを飲んだりすることになる。

 大場さんという若い女性がアメリカに住むことになって、隣人たちに[o:ba]ですと自己紹介したが、みんな[obasan]とよぶので Ohba と書いて見せたが効果がない、とこぼしていたとのことである。彼女の下(くだ)した結論は、アメリカ人は耳が悪い、だったという。出来すぎた話のようで真偽を保証できないので、おまけを付ければ、この女性は日本語の耳で[obasan]をオバサンと聞き取って腹を立てたのであろうが、英語の耳ではオバーサンでもありえたことに気づいたであろうか。トラブルのもとは、彼女が日本の習慣のまま苗字で自己紹介をしたことであった。

 英語話者が長短の母音を聞き分けられないのは、さきに述べたように、人間が、意味の違いに役立たない音の違いを聞き分けない、というすばらしい能力を早い時期から身につけているからなのである。日本語話者が、[l]と[r]との違いを聞き分けない能力を、言い換えるなら、違いを無視する能力を完全に身につけたあとで他の言語を覚えようとすると、その貴重な能力が裏目に出て、何年経っても right と light とを聞き分けることができず、スペリングで見分けるほかなくなってしまう。

言語の運用規則  
 ことばを話す目的は相手に情報を伝達することである。そのためには、音声器官によって作り出した言語音を、その言語の独自の規則に従って組み合わせ、意味のある語句を作って、その言語の規則に従って配列し、それぞれの語を分節(articulate)しながら連続的に送り出し、受け手は、送られてきた言語音の組み合わせを、送り手と共有している運用規則に従って解読し、メッセージの内容を理解する。

 日本語では、イヌはワンワン、ウグイスはホーホケキョと鳴き、鐘はカンカン鳴ることになっているが、実際に聞いてみると、ひと続きで、明確な切れ目はない。それに対して、人間の言語は、音節を単位に、そして、語句を単位に発話される。分節とは、そのような発話のしかたをいう。

 右に言語の運用規則といったのは、それぞれの言語の語音配列則とか、語句配列の順序、その文脈に当てはまる活用形の選択など、もろもろのきまりの集合(set)である。文法書に羅列されている規則などよりもずっと広い範囲に及んでいる。日本人の感性はたいへんデリケートなので、日本語の運用規則も複雑微妙なはずだというような思い込みで臨んだりしたら、真実にみずから目を覆うことになる。

言語音の習得1 音声器官からのアプローチ
 音声学では音声器官と総称しているが、それらの器官の一次的役割は、歯は食物を噛み砕き、舌はそれをまとめて咽喉に送り、鼻腔や気管、肺などは呼吸するための器官であるから、どの哺乳類にも備わっており、人間だけがそれらの器官を、言語音を調音するために二次的に利用している。

 アーとかオーとか声を出しながら口の形を少しずつ変えたり、唇をとがらせたり、力を抜いたり、さまざまに動かしてみると、微妙に異なる無数の母音になる。 

 外国語の学習は発音から始めるのがふつうである。この音は、舌先をどこに置いて、どのような口つきで発音するというように説明されるが、口腔のどこがどのようになっているか、今、舌がどの位置でどういう形になっているかなどがわからないと、なかなか教えられたとおりの音にはならない。日本語話者はLとRとの区別が不得意だとレッテルを貼られているが、英語のRは日本語のラリルレロの子音と同じだからLのほうさえ覚えればいいと思っているのが間違いのもとなのである。

 世界中、どの言語と比べても、日本語ほど発音のやさしい言語はないというのが日本語話者の実感であるが、それは、言い慣れているからであって、たとえば、英語の話者が、日本語のア・イ・ウ・エ・オを共通語の話者のように発音するのは難しい。日本語のイは鋭いが、英語の[i]はずっとユルイ。ウは唇にほとんど力を入れない平唇音であるが、英語の[u]は唇をとがらす円唇音である。日本語を共通語と限ったのは、たとえば、名古屋方言のダイコンを筆者がまねてデアコに近いような発音をして土地の人に聞いてもらうと、なかなか首を縦には振ってくれない。第二音節の母音が不自然なのである。仮名のシステムは、現代東京方言に基づいており、平安時代の仮名のシステムは京都方言に基づいていることをあらためて痛感させられる。日本語は、などと気軽に一括はできない。

 近年まで、学校の英語教育は英語話者の助けを借りずに実施されており、発音には国際(international )音声(phonetic )字母(alphabet)(IPA)を発音記号とよんで使ってきた。国際という語を過信して、同じ音声字母で表わす音はすべて同じ音だと理解していた英語教師も少なくなかった。しかし、[r]を当てて表わす音はそれぞれの言語によって多種多様なので、国際音声字母で細かく区別する場合には「r」にいろいろの補助記号(diacritical mark)を付けたり、文字を回転したり、大文字にしたりと細かく区別しているが、実際の音は千差万別で〈rhotic(ローティック)〉と総称される。一筋縄で捉えられないクセモノで、ひとつの自然なクラスと見なしてよいかどうか議論の余地があるほどなのである(Philip Carr: A Glossary of Phonology. Edinburgh UP, 2008)。 

 世界中の少なからぬ言語で、他の音が[r]に移る現象があって、ロータシズム(rhotacism)とよばれている。〈ロー〉はギリシャ語アルファベットのP(ラテンアルファベットのRに当たる)。この名称はRとLとを区別する言語に基づいているが、日本語や中国語、コリア語など、その区別がない言語では、ひとまとめにしてよい。ベランメーとか巻き舌とか日本語にもさまざまの[r]があるし[l]にもなる。次章で日本語のラ行音について検討するときのためにこのことを記憶しておいていただきたい。

 特にイギリス英語では、long や miller(粉屋) などのようにLが語頭あるいは母音の直前にあるときには〈明るいL〉になり、また、Lという字を[el]と読むときのように語末にあったり、milk のように子音の直前にあるときは〈暗いL〉になるとされている。これらふたつの音は舌の位置が大きく違っており、後者は日本語のオに近い印象である。どちらになるかは音韻論的環境によって、すなわち、そのLの直前または直後にどういう音がくるかによって、反射的に選択される。舌の位置など気にせずに、英語話者の発音に耳を傾けてまねたほうが早い。個別の正確な音を継ぎ足しても自然なことばの流れにはならない

言語音の習得2 聴覚からのアプローチ
 乳幼児は、どの器官をどのようにして、などとだれにも教えてもらわない。周囲の大人たちと同じ音を出すことを覚えるだけである。上手に人間のことばを話すオームやインコがいるが、鳥には歯も唇もないから、他の器官を使って人間の声と同じ音を出している。要するに、問題は、どのようにしてその音を出すかではなく、出た音がその言語としてふつうの音であるかどうかなのである。

 筆者は幼時に、千葉県の谷津(や つ)遊園(現在はバラ園)に母とよく遊びに行った。あるとき、ベンチで休んでいると、真(ま)うしろで老人が何度もひどく咳き込んだあと、トントンと、なにかを叩く音がする。母といっしょに振り返ったら、そこにはオームの籠が吊されていたのでふたりで大笑いになったことが楽しい思い出になっている。トントンは、吸い終わった刻みタバコの灰を雁首(がん くび)から落とそうと、キセルを何かに軽く叩きつける音のまねであった。見ていたら、また大きく咳こんだあと、脚とくちばしとを使って止まり木を叩いている。どこかの老人がそのあたりに座って、咳をしながらキセルで刻みタバコを吸っていったに違いない。話し上手な大型インコのヨームなどは、人間と簡単な会話までできる。 

 フランスに舌が極端に短いのに自然なフランス語を話す少女がいて不思議がられていたという。舌を使わなければ出せないはずの音(おん)を彼女が出せる理由がわからなかったからである。その疑問がきっかけで、ほんとうに大切なのは、どの音声器官をどのように使うかではなく、得られた音の物理的特性が目的の音と一致することである、という考えかたが生まれたと言われている。谷津遊園のこのオームはそのことを実証していた。大切なのは、出てきた音の物理的特性が、目指す音の特性と合致することであって、その音をどのようにして作り出したかが問題ではない。働いて得た報酬でも道で拾っても、一万円は一万円である。コンピューターで合成した音声でも、その言語の生得話者が理解できれば伝達は成立する。

 右のような観点から音声を研究するのが《音響音声学》(acoustic phonetics)の基本的立場である。それに対して、調音のしかたを研究するのは《調音音声学(articulatory phonetics)》である。 

言語音の習得3 どちらのアプローチが現実的か
 音声学は学習や教育の効率化を目的とする研究分野ではないので、調音音声学と音響音声学との優劣をそういう観点から評価するのは筋違いであるが、外国語を学習する場合には、耳で聞いたのと同じ音を発音できるように練習したほうが効果的である。舌を出すと扁平なので、口の中でも扁平なのだろうと思いこんでいたのではどうにもならないし、個々の音を正確に発音すると、その語句の自然な発音になるわけではない。生得話者の発話をまねれば、自然な発音になるので、どの音声器官をどのようになどと教えられるよりも能率的である。それは、本書でこれから取り上げる問題について考える際に、とても重要なことである。自分の発音のしかたを注意深く観察した経験がない読者が多いかもしれないが、日本語についていろいろと考えたり、日本語についての本を読んだりする場合、自分の口と耳とで確認しながら考えたり読んだりすると、思わぬ発見があるはずである。 
  
音韻体系は、有限の数の音を適切に配置して構築される
 前項までの検討から、①人間は食べたり飲んだり、呼吸したりするための器官を利用して、同じ言語の話者に情報を伝達するための音声を作り出していること、そして、②音声器官を操作すれば、無数に近い音(おん)を作り出せるが、反射的に聞き分けることができる音の数はずっと少ないし、円滑に情報を伝達するために必要な音の数は、それだけで十分である。発音器官の都合で他の音に、そして、他の音から、滑らかに移りにくい音は自然に回避されて音韻体系が構築される。もちろん、だれかがそのような音韻体系を考えて組み立てたわけではなく、調べてみるとそのように、効率的に運用できる体系になっている。音韻体系は、音韻変化に連動して少しずつ更新される。その過程では、近ごろの若者のおかしな発音として白眼視されるが、やがて彼らの世代が社会の中心になれば、主客が転倒する。

言語音の分類基準
 一般に分類には具体的な目的がある。四種の筆記用具がある場合。赤で書く必要があるなら、筆記用具の違いにかかわらず、赤でさえあれば一群として捉えられ、それ以外の色は無視される。消しゴムで消せるかどうかで分けるなら、芯の色と無関係に鉛筆とシャープ、それに、摩擦熱で消せるボールペンが一群になり、そのほかは圏外になる。

 必要にして十分な数の言語音をそろえて体系が構築される場合、聴覚的に紛らわしいセットを含まないことが大切であるが、そのような事態を引き起こしやすい音は、経験をつうじて回避される。次章では、そのような観点から、原日本語の特徴の成り立ちを考える。

【付言】中国の典籍から引用した第三部『金句集』も実践編であるが、ストレートな教訓である。漢文の訓読であるから、権威とともに、引用した宣教師の教養を感じさせた。

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