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2014年11月 7日

 記事のカテゴリー : ホームページ紹介, 新刊案内

●近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(4)

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小松英雄氏の近刊(11月21日刊行予定)『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』の冒頭から1章を毎日すこしずつ公開していきます。
本書の詳細はこちらから。

小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』(笠間書院)
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http://kasamashoin.jp/2014/10/post_3029.html

なお、本書について、刊行記念イベントを開催いたします。

開催日時:2014年11月15日(土)19:30 ~
ジュンク堂書店 池袋本店
タイトル「内外の専門学者が気づいていない 日本語運用の巧妙なメカニズム」

●公式サイトはこちら
http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=7066

ご来場、お待ちしております。要申し込みです。

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近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(1)はこちら。

近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(2)はこちら。

近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(3)はこちら。

翻訳不能な国語学の用語
 学校文法を思い出せばわかるように、国文法の用語には難解な漢語がきわめて多く、それが文法嫌いを量産している。古代中国由来のような語感であるが、十九世紀のヨーロッパの学者が中国語には文法がないと判断したぐらいであるから、それらは国産、すなわち、近世の国学者たちによる造語である。国文法は難しいので、ほとんどの生徒に嫌われるようであるが、何よりも問題なのは用語の意味を説明されても理解できないことである。動詞の活用形の名称で、説明なしに意味がわかるのは、終止形と命令形ぐらいであろうが、それらに後接する助動詞があったりするので、わけがわからなくなる。「行か=ない」の「行か」の部分が否定形ならわかるが、未然形だと教えられても、「未然」の意味がわからない。「已然形」の「已然」はさらに難解である。未(いま)だ然(しか)らず、已(すで)に然(しか)り、のセットなのに、活用表では、なぜか大きく離れている。わからないままひたすら暗記するほかはない。

 学校教育を根城に命脈を保っている国文法の有用性を疑問視する声が大きくなって、いずれ退場する日が来れば、これらの用語も姿を消す運命にあるが、国語学の用語のなかには、どうしてもわかりやすく言い換えることができないものがいくつかある。いわゆる敬語も、根本から考えなおす必要がある用語のひとつである。たとえば、つぎのような場面を想定してみよう。

画廊で、みすぼらしい風体の人物が小さな絵の前からいつまでも動かないので、ほかの客は見ることができない。係の女性が笑顔で近寄り、深々とお辞儀したあとで、男に話しかけた。
 お気に召しましたようで、まことにありがとうございます。お客様、お目が高くていらっしゃいますね。新進のおかたで、まだお名前が売れておりませんので、今ならこのお値段でお買い上げいただけますが、いずれ...... 
客は、最後まで聞かずに無言で立ち去った。

 女性は敬語を連発して邪魔な客を追い出している。この寸劇は即興であるが必ずしも珍しくない手口であろう。係の女性は、この客を尊敬していないし、客のほうも、女性が自分を偉い人間だと思ったとは受け止めていない。場違いだったと気づいて逃げだしたので何事もなく収まっている。

 敬語というのはこのように偽善的名称だから改称しようなどと言ったら、日本人の美徳を象徴する美しい日本語を否定するのかと、本気で罵倒されかねないが、日本民族(の誇り)と日本語とを切り離さなければ日本語運用の実体は把握できない。自画自賛の敬語を御破算にすれば、人間関係のありかたを覆うポライトネス(politeness)や語用論(pragmatics)がすでに歴史をもっている

 社会言語学の用語としての politeness は、もっぱらことばづかいが対象である。適切な訳語がないので翻訳せずにカタカナ語で通用している。右の作例は、尊敬するとかしないとかいうことではなく、聞き手のメンツを潰さない言いかたであるから、消極的(negative)ポライトネスに当たる。メンツは中国語「面子(めん つ)」に由来しており、英語では face と訳されている。それに対する積極的ポライトネスとは、話し手の社会的地位を聞き手に認識させて両者の関係を確立しようとすることばづかいである。語用論という pragmatics の定訳は誤解を招きやすいが、具体的場面に即したことばづかいについての研究である。

 いわゆる敬語は日本語の専売特許ではない、キッチリとは対応しないが、それによく似た言いかたはすぐそばのコリア語などにもある。

 国語学の時代遅れの用語は解体再構築の対象にすべきであるが、なかには、片仮名語を動員してもどうにもならないいくつかの用語がある。清音、濁音、音便、連濁、などがそれである。和英辞典の類を引けば、それぞれに訳語が示されているが、どれも正しい理解に基づいていない。

 清音は unvoiced consonant(無声子音)、濁音は voiced consonant(有声子音)、音便はeuphonic(ユーフォニック) change(耳当りのよい音になる変化)、そして、連濁は、筆者の手元の和英大辞典に項目がない。翻訳した人たちが、英語の音韻体系の枠組に当てはめて捉えているからである。筆者が新しい訳語を考えようとしても、これらは英語の音韻体系における子音どうしの単純なセットであるから、Ⅲ章で説明する音節どうしの二項対立である清濁とはまったく異なっており、正しく理解できれば説明することはできても、訳語は工夫できない。これらこそ、日本語にしか確認されていない独自の運用単位であり、日本語を効率的に運用するための仕掛にほかならない。

 係り結びとよばれているのは日本語の発達過程において重要な役割を担い、その役割を終えて不要になった過渡的な語法であって、清濁や連声、連濁などのように、日本語の体系が形成された段階から現在まで、そして将来にわたって使用され続けるであろうはずの仕掛として組み込まれた語法ではない。しかし、言語変化を考えるうえで注目すべきであるから、Ⅴ章で詳細に検討する。強意とか、口語的とかいう従来の安直な説明の誤りを指摘し、それに代わる、新しい、というよりも、言語史の観点からは当然というべき解釈を提示する。大野晋『日本語の源流を求めて』のなかに、タミル語との「文法の共通」にあげられた七つの項目の最後に、「日本の古典語には〈係り結び〉という現象があるが、これが古典タミル語に共通にある」と記されているが、実例は示されていない。本格的研究として公表された『日本語の形成』(岩波書店・2000)には、筆者の見落としがなければ、係り結びについての言及がない。遡って、『係り結びの研究』(1993)の終章に、「日本語のいわゆる係り結びと類似の、あるいは等質の文法的現象が、西暦紀元前後のタミル語に見出される」とあるので、すでにその時期からの考えであるが、類似とか等質とかあいまいに表現されている。著者は、どちらも膠着語であることを重視しているが、それをいうならSOV型であろう。簡単な英語の例で考えてもわかるとおり、日本語のように動詞句が文末に来る言語であることが係り結びが成立するための必須条件だからである。

日本語社会における伝達のツールとしての日本語
 アヴェロンの野生児やロビンソン・クルーソーのように、ひとりだけ取り残されたりしないかぎり、人間は社会の一員として生活しており、その社会の構成員が共有している特定の言語を媒体として相互に情報を伝達しあっている。

 言語は音声器官で調音された音波であるから、視覚でも触覚でも存在を確認することはできないが、人間が社会生活を円滑に営むために不可欠の道具(ツール)である。日本語社会の全構成員は日本語という道具を共有していることによって共同体として円滑に機能している。

 日本には古代から、ことばに霊力があるという思想があるので、道具だなどと言ったら、それを重視する人たちに叱られるかもしれないし、道具という語は、有形の器具を連想させる。英語の tool も本来は同じであるが、パソコンなどの普及にともなって無形の手段をさす用法がふつうになったので、日本語の道具のイメージを消すために、ツールとよぶ。

 これまでの日本語論のほとんどは、日本人の性向や行動規範、あるいは、それを育んだ豊かで美しい自然環境などと不可分に捉えて論じられてきたし、それが違和感なしに大衆に受け入れられている。日本人とは、日本国籍を有する人たちの総称ではなく、日本が、単一民族、単一言語、単一国家であるという不動の前提に基づいた日本民族をさしている。日本人論や日本語論は、すべての日本人が等質であることを前提にしている。政治家は、日本人は勤勉だから、日本人は器用だから、などと平気で口にするが、特定の言語の優劣や特殊性などを論じるとしたら、その言語の運用効率を中心に総合的に査定すべきである。しかし、そのような評価は、事実上、不可能であろうし、優劣の差がないことは、査定するまでもなく明らかである。

つづきはこちらから。(5)。


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