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2014年11月 6日

 記事のカテゴリー : ホームページ紹介, 新刊案内

●近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(3)

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小松英雄氏の近刊(11月21日刊行予定)『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』の冒頭から1章を毎日すこしずつ公開していきます。
本書の詳細はこちらから。

小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』(笠間書院)
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http://kasamashoin.jp/2014/10/post_3029.html

なお、本書について、刊行記念イベントを開催いたします。

開催日時:2014年11月15日(土)19:30 ~
ジュンク堂書店 池袋本店
タイトル「内外の専門学者が気づいていない 日本語運用の巧妙なメカニズム」

●公式サイトはこちら
http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=7066

ご来場、お待ちしております。要申し込みです。

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近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(1)はこちら。

近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(2)はこちら。

国語は日本語と同義ではない 
 契沖(1640-1701)や宣長など、近世の国学者が研究対象にした言語は、最優秀民族である我々日本人の、世界に冠たるヤマトの国のことばであった。言語を心の鏡として彼等がほんとうに知りたかったのは、鏡に映った〈やまと心〉であった。明治期以後、ヨーロッパにおける言語研究の、そして、後にはアメリカ言語学の影響を受けつつも、近世国学の流れを濃厚に留めて受け継いできたのが現今の国語学である。

 ヨーロッパにおける言語研究には長い歴史があり、言語を研究する学問領域をよぶ名称も変わってきているが、現在、客観的立場で言語を研究する領域は言語学(linguistics)とよばれている。客観的立場と表現したことを日本の現状に合わせて言い換えるなら、先祖代々大切に守ってきた由緒正しい世界一のオラが村、という感覚を捨てて、ということである。

 そういう感覚は、日本に限ったことではない。東アジアの例は読者も見当が付くであろうから、保守的と考えられているイギリスの状態を見てみよう。

 最初の本格的英語辞典の編者サミュエル(Samuel) ジョンソン(Johnson)(1709-1784)は、「言語(language)」の項をふたつに分けて、(1)を、人間のことば(speech)、と定義し、(2)を、つぎのように定義している 

他の諸言語と明確に区別される社会的統一体の言語 (The tongue of one nation as distinct from others.)

 イギリスも島国であるが、一国土(country)、一言語と認識しているわけではなく、その言語が他と明確に違うことを国(nation)とみなす条件にしている。すなわち、国家(country)の内部で言語を異にする地域的統一体のそれぞれが、ジョンソンのいう国(nation)なのである。現に、英語(English)のほかにウエールズ語も公用語であるし、そのほかにいくつもの言語があるので、単一民族、単一言語、単一国家、という日本人の感覚とは明らかに違っている。硬く表現する場合、クニでは権威がないし、一字の漢語は落ち着かないので、中国語でも「国家」とよぶが、筆者はこのよびかたを好まない。なぜなら、言語学の対象は、それが研究者の母語であっても、多くの言語のひとつとして客観化して捉えた言語でなければならないからである。

 国語は日本語と同義ではない。イギリスはもとより、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアなどでも公用語は English であって、日本の「国語」に相当するよびかたはないし、他国の言語を使用しているという意識もない。スイスでは、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロマンシュ語を公用語にしており、スイス語はない。同じ理由で、カナダ語やインド語などもない。 

 日本では日本語以外の言語をすべて外国語とよんでいるのは、日本が単一民族、単一言語、単一国家であるという、現実に合わない思い込みに基づいた捉えかたをしているからである。「外語」には、その含みがないが、一部の教育機関で「外国語」の略称に使われている程度である。

 〈国語〉は英語の national language に当たると説明されることがあるが、イギリスをはじめ、英語圏ではどの国でも English とよんでおり、国語教育に相当する科目もない。

「日本語」とは、世界の諸言語のひとつをさす名称であって、特別の情緒で色づけされておらず、指示的意味(denotation)(外延)しかもっていない。それに対して「国語」のほうは、〈我々日本民族の、輝かしい歴史と伝統とがしみこんだ優秀な言語〉という含み(connotation)(内包)と不可分である。日本国民という語はあるが日本国語とは言わない。なぜなら、国語とは、日本人が日本語をさす場合にだけ使う語だからである。ちなみに、韓国にも国語という語があり、韓国語学会もあるが、その起源がどこにあろうと、内包は日本語の場合と同じである。近年では、ハングルが世界でもっとも科学的(scientific)な文字であることが国際的に認められたという理由で国家の誇りとなり、韓国語をもハングルとよぶような、すなわち、日本に当てはめれば日本語をカタカナとよんで通じるような異常な状態にまでなっている。NHKのハングル講座ではハングルだけでなくコリア語も教えている。

 日本の場合、高校までの教科名は「国語」であり、「国語」をコントロールしている公的機関は文化庁の文化審議会国語分科会(旧国語審議会)である。外国語の話者に日本語を教えるのは「日本語教育」であって「国語教育」ではない。

 国語というよびかたの背景には、単一民族、単一言語、単一国家という、現実に合わない排他的な思い込みがある。日本人らしく振る舞いなさいとか、さすがは日本人だとか、日本人の底力などという表現は、日本民族が他の諸民族よりも優れているという共通理解を前提にしている。多くの日本人は、日本語が特殊な言語だと思い込んでいる。というよりも、教育の効果で、そのように思い込まされており、日本語ブームがそれに一段と拍車をかけた結果になっている。ただし、日本人の特殊性は誇るべきものなのに、ナントカ人は特殊であると言えば警戒や敬遠の対象である。 

 言語がどこで生まれたかについては、多元形成説もあったが、現在では、西アフリカで形成された言語が世界に広まったという考えが支配的である。そうだとすれば、地域ごとに分化したことになるから、特定の言語には、さらにそのもとがあって、現実にはたどることが困難であっても、すべての言語は西アフリカにたどり着くことになる。どれほどの名犬でも、とりえのない駄犬でも、祖先をたどればオオカミにたどり着くようなものである。そのことを考えずに、言語の歴史を川の流れに見立ててさかのぼり、そのもとを確かめるのに全力を傾けたのは、そのように明確に意識していたかどうかはわからないが、天上の高天原に代わるべき日本人の発祥の地を地上に求めたからである。その地を確認しようと考えたのは、日本語が比類なく傑出した言語であり、日本民族が世界で稀に見る繊細で優秀な、すなわち、その意味で特殊な民族であることを確実に裏付けないと気が済まなかったからである。それは、日本語の研究者ではなく、国学者の思考回路の持ち主だからであった。大野晋と本居宣長とが言語について驚くほどそっくりの考えかたをしていることは、「音便」について検討するⅣ章で、実例に基づいて確認する。

 特定の言語と特定の民族とを不可分に捉え、その祖先を特定しようとすること自体が研究の方法として成り立たないが、成果に期待をかけた大衆は、そのことを知らなかった。

すべての言語が同じようにすばらしい
 日本語とジャングルに住む種族の言語と、どちらが優れているかと尋ねたら、ほとんどの日本人は日本語と答えるであろう。しかし、どちらも同じというのが正解である。語彙の総量にどれだけの差があろうと、その言語共同体のメンバー間の情報交換が正確かつ迅速に行なわれているなら、それで十分である。いちいち調査するまでもなく、同一言語共同体のなかで情報交換が円滑にできない言語など存在しないからである。本論に入るまえにそのことを確認しておく。俗にいう未開社会の言語でも、文明が進めばそれに見合う語彙を加え、複雑な表現を発達させる潜在力(potential)を確実にそなえている。日本語も、その道をたどって現在に至っていることが、本書を読んでいくうちに納得していただけるはずである。 

 異種の言語間にあるのは、優劣ではなく、体系をどのように運用して情報を伝達するかという方式の違いである。同系の言語なら、その差は親縁関係が近くなるほど小さくなる。遠縁になっても、似たような体系を似たように運用していると想定される。しかし、日本語はそういう言語が見当たらない孤立した言語だというのが世界の関連学界の主流であるといってよいであろう。

 日本語が特殊な言語であることは、教育によって植え付けられた共通理解であり、日本語が比類のないすぐれた言語であることを国民の誇りにしたがっているからにすぎない。漢字、平仮名、片仮名を使い分け、同じ漢字でも漢音と呉音とでは語形が異なり、そのうえ、音と訓とがある。こんなに複雑な言語を自由自在に運用できるのは日本人以外にないと自慢してみても、日本語学習者は辟易(へき えき)するだけである。これは教育行政が取り組むべき緊急の課題であるが、日本語そのものよりも、主として文字による伝達手段の問題である。なぜなら、民族主義が先鋭化すれば、独自の日本(ニッポン)文字を作ってそれに切り替えることも可能だからである。もとより、そういう社会になったら息が詰まるし、日本にそのようなことが起こる可能性はゼロであろうが、前節で触れたように、行政が文字体系の切り替えを全面的に実行し、独自の文字体系に権威ある名称を付け、言語までその名称で国家の誇りとしている例もないわけではない。現在の複雑きわまる日本語の書記様式までひとくるめにして日本語をほめたたえる日本語バンザイ、ニッポンバンザイの人たちには、国際的感覚が身についていない。医薬品と同じように、効能があれば副作用がある。副作用に気づかずに乱用すると取り返しがつかなくなる。

日本語の日本語らしさ 
 日本語独自のすばらしい運用のしかたを解明するのが本書の主題であるが、あとで詳しく説明するように、言語には、それぞれの言語共同体(language community)における円滑な意志疎通を図るために、その言語体系を効率的に運用する精妙な仕掛(device)が組み込まれている。どのような仕掛がどのように機能しているかは、それぞれの言語ごとに異なっており、日本語と同じ仕掛が組み込まれた言語が存在することは指摘されていない。孤立した言語であるから、言語を効率的に運用する仕掛も独自である。

 右に仕掛とよんだのは device の訳語である。言語学では装置と訳しているが、可視的でない対象を装置とよぶことは日本語になじまないので仕掛とよぶことにする。    

 筆者の考える日本語の特色とは、一般に強調されている美点や美徳ではなく、日本語の体系を効率的に運用する仕掛の独自性と、その運用の実態とのことである。どの言語にもそれぞれ独自の体系があり、それを運用するために都合のよい仕掛があって、言語共同体内の円滑な意志伝達を可能にしているのであるから、個々の言語のあいだに優劣の順位などあるはずがない。

 本書では、そういう仕掛に焦点を絞った場合に浮かび上がる日本語独自の諸事象に注目し、それらのダイナミックな運用のメカニズムを解明することに主眼を置く。

 全能の神によるグランドデザインに基づいて組織だてられたとしか思えないほど、それらの体系は整然と機能している。筆者は、かつて、日本語に潜在するそういう仕掛の巧みな運用を見いだして興奮したが、冷静になったら、これほど精妙なメカニズムの存在とその運用のありかたに気づかずに日本語研究に携わっていたセンスの鈍さが情けなくなった。間違いのもとは、日本語の体系の運用を動的(dynamic)に捉えずに、整然たる静的(static)体系の美しさに見ほれていたからである。筆者の表現が大げさすぎると感じた読者がいても無理はない。なぜなら、筆者が気づいた、日本語だけにしかない運用のメカニズムがどういうものかをまだ説明していないからである。 
 「吾(あ)が仏、尊し」という古い諺があった。ほかの人たちの持仏と違って、自分の持仏はたいへん尊い、という意味である。筆者の説明がそのようにしか受け取られないとしたら心外であるが、多少とも針小棒大の嫌いがあるとしても、たいへん重要な事実の指摘であることは疑いない。
 全能の神を引き合いに出したが、結論を先に述べておけば、そのように巧妙な日本語運用の仕掛のもとを作ったのは、原日本語の話者たちの集団的選択であり、そして、文明の発達に連動して今日までその機能をアップデイトしつづけてきたのは、その時代、その時代の日本語話者たちの集団的選択なのである。集団的選択とはどういう意味であるかは、具体的検討の過程で説明する。

動態としての日本語
 日本語を世界の諸言語のひとつとしてその動態を子細に観察すると、これまで見過ごされてきた、情報伝達の媒介としての日本語を円滑に運用する仕掛が見えてくる。

 『万葉集』は日本人の素朴な心を詠んでいると感じるのはよいが、その当時の日本語が言語として未発達であったと考えるのは思い違いである。なぜなら、当時の日本語にも、その社会の人びとの意思疎通が円滑に行なえるだけの仕掛が組み込まれており、それを運用していたに違いないからである。これは、いつの時期のどの言語にも当てはまることであり、古代日本語が例外だったはずはない。

 自然に囲まれて素朴な生活を送っている人びとは、もっぱら手振りなどで情報伝達を行なっているのだろうと推測するのは当然でもあろうが、実際に調査したら、たいへん複雑な文法組織をもっていたというのは、かつてヨーロッパの言語学者たちが驚きをもって確認したことであり、未開民族未開言語という常識は通用しなくなっている。

 日本社会の仕組みが複雑になるにつれて、言語の仕掛もそれに連動して更新されつづけ、現在の日本語になっている。仮に地球に大変動が生じて、文明の産物がことごとく破壊され、生き残ったのが数百人程度の集団だけになってしまえば、語彙は急速に収縮し、小さな規模の語彙を効率的に運用するのに適した仕組みに変わるはずである。非現実的ではあるが、そういう極端な事態を想定してみれば、八世紀の日本語が未発達の言語の単純素朴さを濃厚にとどめていたという前提で考えるべきではない。当時の書記様式が発達の初期段階にあったことは確かであるにしても、道具としての文字や書記様式が文明の進展に連動して発達するのは当然である。

 筆者がこれまでに確認できた事柄は、まだその一端に過ぎないであろうが、すでにわかった範囲だけでも、日本語の運用に関わるこれほどまでに大切な事実が、どうして今まで見過ごされてきたのだろうと不思議に思えてくる。

 見過ごされてきた理由のひとつは、国語学専門の研究者が数え切れないほどいるのに、言語学の方法に基づいて日本語を研究する日本語話者が、これまできわめて少なかったことである。国語学者は気づかなくても、日本語を研究する外国の言語学者が気づきそうなものであるが、自然科学と違って、言語について、そういう常識が無条件には当てはまらない。

 幼児期から自然に身についた母語は、すべてが自然であり、当然でもあるために、これは不思議だ、不可解だ、と立ち止まって考える機会はめったにない。リンゴが落ちる現場を日常的に目にしていても、物体の運動について解くべき問題をかかえている人物でなければ、どうして、どのリンゴも直下にしか落ちないのだろうなどと考えたりしないのと同じことである。

 日本語話者でない言語研究者が日本語独自の言語現象を見ても、それを言語学の既存の枠のなかで理解して、その独自性にはなかなか気づかない。たとえば、日本語に[タ]と[ダ]との使い分けがあることには気がつくが、自分の母語と同じように、[ta]の子音は無声破裂音で、[da]の子音は有声破裂音だとしか捉えない。しかし、日本語の場合には、それらの子音が後接する母音と一体になった音節単位で〈清音〉と〈濁音〉という二項対立のセットになっていて、日本語の運用に大きな役割を担っている。そのことにはなかなか気づかないし、日本語話者による研究を参照しても、母語話者としてあたりまえのことが注目すべき日本語の特色であることに気づいていないので、どこにも何も書かれていない。清濁についての詳しい検討は、Ⅲ章まで待っていただきたい。 

国語学と日本語学
 日本語関係の学会は、限られた領域のものを含めてたくさんあるが、専門的研究だけでなく、日本語についての啓蒙書や、学術とは縁遠い日本語本を書いている人たちの多くも「日本語学会」に属しており、組織の運営にも関わっているので、以下に記すような現状にあることを知っておくことは、日本語に関心をもつ多くの人たちにとって参考になるはずである。 

 昭和初期から「国語学会」という名称の全国学会が活動を続けてきたが、創立六十周年に当たる二〇〇四年に日本語学会と改称した。国語学の伝統を守ろうと主張して改称に反対し、脱退した骨のある会員もいたが、古くさくなった名称を嫌った看板の掛け替え程度に理解して反対しなかった会員が多数を占めていた。若い世代には、現代語の研究が日本語学で、古代語の研究が国語学だと思っている人たちも少なくない。著書の奥付に専門分野を日本語学、国語学、と併記して、基督教とキリスト教とを併記するのと同じことだという程度にしか認識していない人たちも少なくない。筆者は学会名の改称が話題になるずっと以前から、学会の体質改善を提唱してきた。

 国語学が、我が国の言語についての研究であるのに対して、筆者がかねてから提唱してきた日本語学は、日本語を世界の諸言語のひとつとして定位し、近代言語学の方法に基づいて研究する領域である。方法は言語学そのものなのに、日本語学という名称の「日本」を盾にして言語学との厚い壁を温存したのでは意味がないので、過渡的名称だと考えている。

日本語特有の体系運用の仕組み  
 日本語を構成する諸要因を日本語話者がどのように運用して情報を円滑に伝達しているかを具体例に基づいて解明し、国語学では盲点になっていた、日本語がもつ大切な諸機能の存在と、それぞれの機能がどのように運用されているかを以下の各章で提示する。

 このように前置きすると、それは敬語に関することに違いないとか、文法に関わる事柄だろうとか、あるいは、言語(linguistic)類型論(typology)に問題を広げて、膠着(こう ちゃく)語とかSOV型とかいう観点から他の諸言語との類似や共通性を指摘するつもりではないかなどと想像するかもしれない。しかし、筆者が本書で企てているのは、他言語との比較のもとに日本語の特性を明らかにすることではなく、日本語を円滑に運用できているのは、どのような仕掛が体系に組み込まれているからであることを浮き彫りにすることである。日本語と同じ仕掛をもつ言語はほかになくても、それぞれに独自の仕掛があるからこそ円滑に運用できているはずなので、言語間に優劣の差があるはずはない。仕掛とよんでも可視的物体ではないから、その実体を突きとめるには、この言語がこのように運用されているのは、体系にこういう仕掛が組み込まれているからだと推定することになる。その仕掛は、運用されていない状態では機能を発揮しないから、現実に運用されている場を観察してその特性を明らかにする。

続きの(4)はこちら。


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