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2014年11月 4日

 記事のカテゴリー : ホームページ紹介, 新刊案内

●近刊・小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』冒頭・序章・1章公開(1)

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小松英雄氏の近刊(11月21日刊行予定)『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』の冒頭から1章を毎日すこしずつ公開していきます。
本書の詳細はこちらから。

小松英雄『日本語を動的にとらえる ことばは使い手が進化させる』(笠間書院)
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http://kasamashoin.jp/2014/10/post_3029.html

なお、本書について、刊行記念イベントを開催いたします。

開催日時:2014年11月15日(土)19:30 ~
ジュンク堂書店 池袋本店
タイトル「内外の専門学者が気づいていない 日本語運用の巧妙なメカニズム」

●公式サイトはこちら
http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=7066

ご来場、お待ちしております。要申し込みです。

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【お読みになるまえに──母語再訪への誘い】

 日本語の特色は? とアンケートをとったら、母音の響きが美しいとか、礼儀正しく、相手への思いやりがこもっているとかいう答えが大半を占めるであろう。それらは奥ゆかしい民族性の反映として日本人の誇りとされているが、みずからの経験から帰納した特色ではなく、学校で繰り返し習ったり、本で読んだりして植え付けられた知識の受け売りにすぎない。しかし、そういう評価を独善的だと批判したりすると、おまえはそれで日本人のつもりなのかと厳しい批判を受けるに違いない。そこで、本書では、民族主義で母国語をとらえた壮大な研究が客観的評価に値する結果を、事実上、なにも残せずに、シャボン玉のように消えてしまった、たいへん残念な事例を指摘するととともに、日本語を民族主義から切り離して、世界の諸言語のひとつとして捉えなおし、日本語だけにしか認められないきわめてユニークな言語運用の例について、それらがどのように機能しているかを動的に観察してその機微に迫り、母語である日本語の、そして、人間にとっての言語のすばらしさを解明してみることにする。

 長い間、独りよがりの日本語論の温床になってきた、そして、現在もなお強固に根を張っている伝統的国語学から脱却して、グローバル時代の実り多い言語研究に移行するためには、日本語が稀にみる特殊な言語であって、日本人特有の繊細な感性でしか理解できないという理由づけのもとに排除してきた近代言語学の方法を取り入れれば、手応えのある成果が得られることを、実例に基づいて確認してほしいというのが筆者の願いである。

 純専門書は別として、本書のように、専門家だけでなく一般の人たちにもぜひ読んでほしいと希望して書く準専門書には、ふたとおりの書きかたがある。多数派のAは、教えてあげよう型、少数派のBは、いっしょに考えてみよう型である。A型の著作は、読者が内容を理解すれば著者も読者も満足して終わりであるが、B型は、書いてあることを読者自身も考えて、知識を身につけるだけでなく、著者の説明に満足せずに新しい解釈を思いつき、嬉しさを味わうこともできる。筆者は、物事を簡単に割り切ることのできない性格なので、準専門書はB型の本しか書いたことがない。しかも、慎重に書いているつもりなのに出来上がりは完璧に程遠いので、ゆっくり噛んで、すぐには呑み込まないという姿勢で読んでいただければ、数々の知的な楽しみを味わうことができるはずである。身近な母語をこれほど効率的に運用して毎日の生活を送っていることに気づいたなら、筆者と同じように、母語の魅力に取りつかれてしまうはずである。

 腕時計や懐中時計に、機械の動きが透けて見えるスケルトン(骨格)タイプがある。裏蓋近くに高速で往復回転するゼンマイ仕掛けのテンプ(テンポ調整装置)があり、大きさの異なる歯車の歯と歯とを噛み合わせてつぎつぎと回転させながら、その動きを長針、短針、秒針に伝えて、刻々と時を刻んでゆく様子をつぶさに観察することができる。
 
 言語を音韻、文法、意味、語彙などのカテゴリーに分けて、音韻論(phonology)、文法論、意味論(semantics)、語彙論などを独立させ、相互の連絡なしに研究している現状は、時計の部品をそれぞれの関心に応じて研究しているようなものである。言語の役割は情報の伝達であるから、話し手は、伝えたい情報を、①有限の言語音で構成された音韻体系に基づいて組み合わせた語形に特定の意味を結び付けた語句(phrase)を、②その言語の文法規則に合わせて文の形に配列しながら発話して相手に届けなければならない。言語の運用を機械時計の動きにたとえたのは、音韻、文法、意味その他もろもろの要因が密接不可分の一体として機能しなければ情報の伝達が成り立たないことを理解してほしかったからである。どんな時計でも、複雑に構成された機械の歯車を順次に回転させて行き着く先は同じ時刻であるが、それぞれの言語がいくつもの独自の歯車を経て行き着くのは、個性的な仕様(specification)を反映した個別の言語である。そうだとしたら、日本語特有の歯車の組み合わせは、どのような特色をもつことばを作り出しているのであろうか。

 本書では、従来の、動いていない時計のような静的状態の観察では専門研究者も気づかなかった、したがって、どの本にも書いていない日本語運用の特色のうちからいくつかを取り上げ、それらの働きを細かく分析する。といっても、本書の範囲で難しい理論は必要がない。不可欠なのは、学校で習った通説や定説にとらわれずに考えるナイーヴな姿勢である。

 現代日本語は、日本列島に住みついた人たちが文化・文明の進展に歩調を合わせて営々とアップデイトしてきた産物である。具体的にどういう過程を経てきたかを随所に織り込んで叙述するが、その典型的事例をⅢ章以下でくわしく取り上げ、これまでの認識を抜本的に改めることになる。


序章 母語についての共通理解を検討する
──民族主義から切り離して日本語をとらえる

ひとつのことを突き詰めて考えようとする場合には、現在、その事柄がどのように認識されているかを把握しておかなければならない。
この章では、二十世紀なかばから二十一世紀初頭まで続いた、いわゆる日本語ブームを支えた民族主義的日本語論を取り上げて、それが日本語についての社会的認識を大きく歪めてしまったことを指摘する。また、日本語研究は、日本語社会における情報伝達のツールとしてどのような要因がどのような機能を担って効率的に運用されているかを解明すべきことを提唱する。


日本語ブームの嵐が去ったあとで
 二十世紀半ばから二十一世紀初頭まで、日本社会では日本語についてさまざまの見解が国語学者や有識者といわれる人たちによって提示されて大衆の高い関心を集め、日本語ブームとよばれてマスコミにも頻繁に取り上げられたし、日本語を主題とする大衆向けの手軽な書籍が絶え間なく出版されて、日本語に対する社会的関心が急激に盛り上がった。ブームとは、しばらく盛り上がっていつのまにか消えてしまう社会現象をさすのがふつうであるのに、日本語ブームは半世紀あまりも衰えを見せなかった。自分が生まれ育ったことばはいちいち気にならないのがふつうであるから、どこかの国で自国の言語についての関心がブームになったという話は聞いたことがない。したがって、日本語ブームにはなにか特別の理由があったはずである。

 長く続いたことは確かであっても、消えてしまった泡を今さら追いかけてもしかたがないだろうと言われるかもしれないが、生まれた子供が五十歳を越えるまで続いた民族主義の濃厚なブームであっただけに、母語に対する大衆の認識が大きく歪んでしまったことを見逃してはならない。

 日本語ブームの後遺症を引きずっている読者にとっては腹立たしい叙述が以下にしばらく続くことになるであろうが、それが済んだあとには、これまでに指摘されたことのない、そして、軽薄な日本語ブームの雰囲気のなかでは問題にもならなかった、日本語独自のすばらしい運用方式を順次に紹介するので、しばらく筆者の考えかたにつきあっていただきたい。

母語
 生まれ育った環境のなかで自然に身についた言語を母語という。mother(母) tongue(言語) の訳語である。

 母語とは母国語のことだと思った読者が多いかもしれないが、右に定義したように、自分の国の言語という意味ではない。生得言語(native language)ともいう。以下には堅苦しくない母語のほうを使うことにする。母語の話し手を生得話者(native speaker)、略してネイティヴ、という。

 日本では日本語を母国語とよぶのがふつうであるが、それは、日本が単一民族、単一言語の国であると思い込んでいる人たちが圧倒的に多いためであり、どこの国でも同じことだろうと漠然と考えているからである。しかし、アメリカ語、カナダ語、ベルギー語、スイス語などという言語は聞いた覚えがない。また、事実上、アイヌ語話者がゼロになったという現実はあっても、アイヌ民族は本来的に日本国籍の日本人であるし、都市部を中心に外国籍の日本語話者が万単位で居住しているという事実もあるので、母国語という名称は少数派(マイノリティー)を無視している。本書で扱うのは言語の問題であるから、国籍も民族も関係がない。

 一般に、現在の状況を望ましい方向に変えようとする場合、まず必要なのは、現在の事態(state of affairs)がどのようになっているかを客観的に把握しておくことである。この序章はそのために費やされる。 

民族の固有性(identity)を再確認する動き
 一九四五年、連合軍に無条件降伏したのを境に、日本国民は日本についての認識を根本的に改めざるをえなくなった。なぜなら、事実の記録だと教えられていた『古事記』(712)はただの神話になってしまい、日本人の起源は高天原(たかまがはら)にあったはずなのに、一夜にして、俗に言う、どこの馬の骨かわからない存在になってしまったからである。民衆は茫然自失の状態になり、戦火のあとが生々しく残るなかで、我々日本人とはいったい何者なのだろうという深刻な自己認識の危機(identity crisis)に陥ってしまい、天上にあったはずの日本人発祥の聖地を地上に求めなければならなくなった。それがわからないと、日本民族は世界最優秀であるという誇りを取り戻せないままになってしまう。大衆が求めたのは、由緒正しい日本民族の故郷をつきとめることであった。

『万葉集の謎』 ──日本語ブームの始まり
 敗戦から十年を経てもなお落ち着きを取り戻していなかった一九五五年、医師で歴史家でもあった安田徳太郎(1898-1983)の『万葉集の謎』(日本人の歴史1・カッパブックス)が刊行された。この著者は、『万葉集』の歌はヒマラヤの奥地に住むレプチャ族のレプチャ語でこのように解くことができるのだと、従来とは似ても似つかない驚くべき解釈をいくつも提示してみせた。それだけでなく、写真のなかの彼等の風貌や生活風習は、日本の農村そっくりであった。大衆向けの廉価版だったこともあって、同書は発売と同時に空前のベストセラーになり、『万葉集』の歌をどう教えたものやらと友人の若い高校教師が相談に来たことを覚えている。筆者自身は、ざっと目をとおして雑本と判断し、その本が読みたいという家庭教師の家のご主人に、その旨の説明をして呈上してしまったので、手元には残っていない。日本語との親縁性は英語でも説明できると、日本語と語形のよく似た英語の例を挙げて揶揄的に批判した金田一春彦(1913-2004)の軽妙な文章が一流雑誌に掲載されたりもした。

 ここで、読者に、大切なふたつのアドヴァイスをしておきたい。

 ①ある程度以上の年齢になった母語話者は、母語についてなんでもわかっていると思い込んでいるが、自由に話せることは、母語についてよく知っていることを意味しない。オックスフォード大学の言語学教授 Jean Aitchison(1938-)は、BBC放送の教養講座で、だれでも呼吸をしているが、呼吸のメカニズムは専門家でなければ説明できない、と比喩で警告している(The Language Web. Cambridge University Press, 1997)。

 ②日本語の場合、国語学の専門学者の肩書きや博士の学位をもつ人物でも、言語学の基礎知識をそなえた人物はあまりいない。ほとんどの大学の国語学専攻課程に言語学の教員はいないのがふつうである。それは、日本語は欧米の言語とまったく異質であるから、日本人が日本語を研究するうえで欧米の言語に基づく言語学の知識は不要であるという考えが支配的だったからである。

 専門家の話を理解するにはそれなりの準備が必要であるが、素人論は素人によくわかる。『万葉集の謎』が大衆の関心を集めて空前のベストセラーになったのは、その著者が言語学の素人だったので、だれが読んでもよくわかったからである。日本語ブームが半世紀あまりも延々と続いたのは、日本語を日本民族と不可分に捉えた言語学の素人による日本語論がつぎつぎと刊行されたからであった。

 大学を卒業して以来、大学に勤務したり非常勤講師として他大学に出講したりして老齢になるまで日本語研究の場に身を置いてきた筆者としては当たり障りが多いことを承知のうえでこういうことを述べる決心をしたのは、だれかが鈴を付けなければ、このような嘆かわしい状態が簡単には解消されないだろうと心配だからである。

 誤解のないように言い添えておくが、筆者はみずからを日本語研究の玄人(くろうと)と位置づけて素人論を批判しているわけではない。ただし、ズブの素人との決定的な違いは、自分の識見が正真正銘の言語研究者の足元にも及ばないことを、その道の碩学に親しく接した体験があるので骨身にしみて感じているからである。脆弱な理論にとどめをさす矛(ほこ)を研(と)いだり、理論的立場からの批判を確実にはね返せる盾を用意したりする天賦の才を筆者は授かっていないし、そもそもそういうことが好きな質(たち)ではない。ただ、対象をじっくり観察して、その奥にあるものを見とおすことに頭を絞る過程を楽しみ、導かれた帰結で日本語研究の進展にいささかでも貢献したいと念じているだけである。筆者が大切にしているのは洞察力(insight)、すなわち、見えない奥を見透す力である。

続きはこちら。(2)。


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