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2014年10月31日

 記事のカテゴリー : 新刊案内

●『太平記』国際研究集会編『『太平記』をとらえる』第一巻(笠間書院)

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11月下旬の刊行です。

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『太平記』国際研究集会編
『『太平記』をとらえる』第一巻(笠間書院)

ISBN978-4-305-70761-1 C0095
A5判・並製・カバー装・236頁
定価:本体2,800円(税別)

 『太平記』は、南北朝期の四十年に及ぶ戦乱をともかくも描ききった、文字どおり希有の書である。しかし、四十巻という膨大な分量をもつことや、これに取り組む研究者が少ないことなどから、依然として基本的な部分での研究課題を積み残している。
 『太平記』研究になお残る課題を少しずつでも解明することをめざし、『『太平記』をとらえる』を全三巻で刊行する。本書はその第一巻である。
 第一巻は、第一章「『太平記』における知と表現」、第二章「歴史叙述のなかの観応擾乱」、第三章「神田本『太平記』再考」の三章を設け、六篇の論文と四篇のコラムを収録。執筆は、北村昌幸/森田貴之/長谷川端/山本晋平/ジェレミー・セーザ/小秋元段/兵藤裕己/長坂成行/和田琢磨/阿部亮太。巻末には六篇の論文の英語・中国語・韓国語の要旨も収載。
 二〇一三年八月十八日(日)・十九日(月)に東京の法政大学で開催された「二〇一三年度『太平記』研究国際集会」での研究発表をもとにした論集です。

【例えば『太平記』研究では、表現の基底や挿入説話の典拠に依然不明な問題が多く残されている。また、同時代の争乱を描いた『太平記』は、眼前の情報をどのように収集し、記事化していったのか。これらの問題を明らかにすることは、『太平記』の成立論・作者論に新たな局面をもたらすことになるだろう。諸本研究にも課題は多く残されている。古態とされる伝本を再吟味することによって、私たちの『太平記』のイメージは少なからず修正を迫られるはずだ。加えて、これらとはやや次元を異にする問題であるが、国際化・情報化の進む研究環境のなかで、国内外の研究者がどうネットワークを構築し、課題を共有して解決に導くかについても、考えてゆかなければならない時期にさしかかっている。こうした様々な課題に少しずつ挑むことにより、つぎの時代の研究基盤を準備したいというのが、本シリーズのねらいである。】...はじめにより

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■著者紹介

○編者
『太平記』国際研究集会

http://www18.ocn.ne.jp/~koa/26301.html

[執筆者]

北村昌幸(きたむら・まさゆき)関西学院大学文学部教授
研究分野○中世文学・軍記物語 著書等○『太平記世界の形象』(塙書房、二〇一〇年)、「等持院百首雑歌考」(『人文論究』六〇―一、二〇一〇年)など。

森田貴之(もりた・たかゆき)南山大学人文学部准教授
研究分野○和漢比較文学 著書等○「『太平記』と元詩─成立環境の一隅─」『國語國文』第七六巻第二号(京都大学文学部国語学国文学研究室、二〇〇七年二月)、「『太平記』の漢詩利用法─司馬光の漢詩から─」、『國語國文』第七九巻第三号(京都大学文学部国語学国文学研究室、二〇一〇年三月)、「『唐鏡』考─法琳の著作の受容─」『台大日本語文研究』第二〇期(國立臺灣大學日本語文學系、二〇一〇年一二月)など。

長谷川端(はせがわ・ただし)中京大学名誉教授
研究分野○中世軍記物語 著書等○『太平記の研究』(汲古書院、一九八二年)、『太平記 創造と成長』(三弥井書店、二〇〇三年)、『新編日本古典文学全集 太平記』全四巻(小学館、一九九四〜九八年)、『太平記を読む 新訳』第四・五巻(おうふう、二〇〇七年)など。

山本晋平(やまもと・しんぺい)同志社大学大学院博士後期課程
研究分野○日本近世思想史 著書等○「『太平記秘伝理尽鈔』における楠木正成の死―「謀」と「道」の間で―」関西軍記物語研究会編『軍記物語の窓 第四集』(和泉書院、二〇一二年十二月)、「『太平記秘伝理尽鈔』の「理」―合理的思惟の論理と構造―」『軍記と語り物』四九(二〇一三年三月)、「『太平記秘伝理尽鈔』における「謀」―「道」との関わりから―」『文化学年報』(同志社大学文化学会)六三(二〇一四年三月)など。

ジェレミー・セーザ(Jeremy A. Sather)ミドルテネシー州立大学准教授
研究分野○軍記物語、太平記 著書等○The Myth of Peace: Taiheiki and the Rhetoric of War(博士論文)。

小秋元段(こあきもと・だん)法政大学文学部教授
研究分野○日本中世文学・書誌学 著書等○『太平記・梅松論の研究』(汲古書院、二〇〇五年)、『太平記と古活字版の時代』(新典社、二〇〇六年)など。

兵藤裕己(ひょうどう・ひろみ)学習院大学文学部教授
研究分野○日本文学・芸能 著書等○『太平記〈よみ〉の可能性』(講談社学術文庫、二〇〇五年)、『琵琶法師』(岩波新書、二〇〇九年)、『平家物語の読み方』(ちくま学芸文庫、二〇一一年)など。

長坂成行(ながさか・しげゆき)奈良大学名誉教授
研究分野○中世軍記文学 著書等○『伝存太平記写本総覧』(二〇〇八、和泉書院)など。

和田琢磨(わだ・たくま)東洋大学文学部准教授
研究分野○太平記・室町軍記 著書等○「近世における軍記物語絵巻の一様相──『平家物語絵巻下絵』『根元曾我物語絵巻』『楠公一代絵巻』─」(『絵が物語る日本 ニューヨーク スペンサー・コレクションを訪ねて』三弥井書店、二〇一四年)。「『太平記』「序」の機能」(『日本文学』六一︲七、二〇一二年)など。

阿部亮太(あべ・りょうた)法政大学大学院博士後期課程
研究分野○日本中世文学 著書等○論文 「古活字本『保元物語』編者考─『壒囊鈔』を用いた評論群を中心に─」(『文学・語学』第二〇七号、二〇一三年)など。

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■ご予約・ご注文は版元ドットコムで
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-305-70761-1.html
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【目次】

はじめに―新たな研究基盤の構築をめざして▼小秋元段

1●『太平記』における知と表現

1 『太平記』の引歌表現とその出典 ▼北村昌幸
 1 はじめに
 2 引歌表現の概観
 3 『古今集』および『新古今集』との関係
 4 八代集抄出本利用の可能性
 5 名所歌集利用の可能性
 6 おわりに
 『太平記』の引歌典拠一覧

2 『太平記』テクストの両義性
―宣房・藤房の出処と四書受容をめぐって―▼森田貴之

 はじめに〜「忠臣不事二君」の論理
 1 『太平記』における忠臣論〜万里小路宣房の場合〜
 2 『太平記』の忠臣論〜万里小路藤房の場合〜
 3 『孟子』の王道理想観と『太平記』
 4 『太平記』の理想〜伍子胥と藤房〜
 5 おわりに〜『太平記』の終末部の論理

コラム 「桜井別れの図」に思う ▼長谷川端

コラム 新井白石と『太平記秘伝理尽鈔』に関する覚書▼山本晋平
 1 新井白石と『理尽鈔』との接点
 2 『読史余論』の建武行賞記事をめぐって

2●歴史叙述のなかの観応擾乱

1 下剋上への道―『太平記』に見る観応擾乱と足利権力の神話―
▼ジェレミー・セーザ
 はじめに
 1 『太平記』という「エピステーメー破裂」の伝達装置
 2 下剋上への道―「ヘテロトピア」としての『太平記』―
 3 『太平記』に見る観応擾乱と「草創の不発」
 おわりに

2 『太平記』巻二十七「雲景未来記事」の編入過程について▼小秋元段

 1 はじめに
 2 巻二十七の異同の概要
 3 巻二十七の本文異同にかかわる主な先行研究
 4 「雲景未来記事」の位置と評価
 5 神田本・西源院本の古態性に対する疑問
 6 諸本の検討
 7 吉川家本の検討
 8 むすび

●コラム 『太平記』の古態本について▼兵藤裕己

3●神田本『太平記』再考

1 神田本『太平記』に関する基礎的問題 ▼長坂成行
 1 はじめに、研究史の紹介
 2 伝来について
 3 書誌的事項の補足
 4 二重・三重・四重の符号について
 5 巻十七について
 6 巻三十二の双行表記をめぐって
 7 結びにかえて

2 神田本『太平記』本文考序説―巻二を中心に―▼和田琢磨
 はじめに
 1 研究史概観
 2 仁和寺本『太平記』の検討
 3 神田本本文と他系統本文
 4 まとめと課題

●コラム 天理本『梅松論』と古活字本『保元物語』
―行誉の編集を考える―▼阿部亮太

□外国語要旨

英語▼ジェレミー・セーザ訳
中国語▼鄧 力訳
韓国語▼李章姫訳

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【全文掲載】

はじめに―新たな研究基盤の構築をめざして
◉小秋元段


 軍記・説話・お伽草子を中心とした近年の中世散文の研究は、寺院資料や絵画等を活用し、作品成立の背景と享受・流伝の様相を追究する方面に、大きな成果をあげている。作品研究を第一義とした時代には、これらは「周辺領域」と見なされていた。だが、数々の貴重な研究成果により、文学作品を成り立たせ、流布させる背景が徐々に明らかになってきた。

 こうした進展がある一方で、作品論であれ、考証的研究であれ、「作品」そのものを対象とする研究が停滞するようであっては、文学研究は貧弱化するだろう。ここにとりあげる『太平記』は、南北朝期の四十年に及ぶ戦乱をともかくも描ききった、文字どおり希有の書である。しかし、四十巻という膨大な分量をもつことや、これに取り組む研究者が少ないことなどから、依然として基本的な部分での研究課題を積み残している。

 こうした状況を省みて、私たちは『太平記』研究になお残る課題を少しずつでも解明することをめざし、『『太平記』をとらえる』を全三巻の予定で上梓することとした。例えば『太平記』研究では、表現の基底や挿入説話の典拠に依然不明な問題が多く残されている。また、同時代の争乱を描いた『太平記』は、眼前の情報をどのように収集し、記事化していったのか。これらの問題を明らかにすることは、『太平記』の成立論・作者論に新たな局面をもたらすことになるだろう。諸本研究にも課題は多く残されている。古態とされる伝本を再吟味することによって、私たちの『太平記』のイメージは少なからず修正を迫られるはずだ。加えて、これらとはやや次元を異にする問題であるが、国際化・情報化の進む研究環境のなかで、国内外の研究者がどうネットワークを構築し、課題を共有して解決に導くかについても、考えてゆかなければならない時期にさしかかっている。こうした様々な課題に少しずつ挑むことにより、つぎの時代の研究基盤を準備したいというのが、本シリーズのねらいである。

 第一巻にあたる本書では、第一章「『太平記』における知と表現」、第二章「歴史叙述のなかの観応擾乱」、第三章「神田本『太平記』再考」の三章を設け、六篇の論文と四篇のコラムを収録した。

 戦後の『太平記』研究では、その文学的評価の問題とかかわり、作者の思想・構想がまず熱く論じられた。それはやがて登場人物論へと展開し、多彩な論考を生みだしていった。これらの論により、『太平記』が全巻を通じて何を、どう描こうとしたのかの輪郭は見えてきた。だが、作品研究の面では特に表現研究において、目立った成果が現れなかった憾みがある。本書巻頭の北村昌幸氏「『太平記』の引歌表現とその出典」は、『太平記』が『定家八代抄』や『歌枕名寄』のごときアンソロジーを駆使して、和歌的表現を作りあげていったことを論じるものである。『太平記』と和歌との関係を扱った数少ない論考であり、作者の文学環境と表現の生成を究明する基盤的研究となっている。一方、漢籍を扱う森田貴之氏「『太平記』テクストの両義性―宣房・藤房の出処と四書受容をめぐって―」は、『太平記』における漢籍を典拠とする表現に、宋学の立場と重なる作者の思想が底流していることを説く。『太平記』の拠る儒書は古注本であることから、作者が宋学の影響をどこまで受けていたかは、従来必ずしも明確にはされてこなかった。その意味で森田氏の論は、この問題に正面から取り組んだものといえる。

 戦後の『太平記』研究で著しく進展を見せたものに、諸本研究があげられる。長谷川端氏・鈴木登美惠氏の優れた基礎研究は、後進を裨益してきた。近年では、後出の伝本に関する専論も揃いつつある状況だが、置き去りにされた問題も少なくない。その一つが神田本である。神田本は一九七二年に、久曾神昇氏・長谷川端氏による解説を付して影印として刊行され(汲古書院・古典研究会叢書)、以来、その本文を安心して研究の俎上にのせることができる状況となった。だが、それにもかかわらず、神田本の研究は書誌のうえでも本文のうえでも、部分的なものに止まるものがほとんどで、本格的な考察がなされないまま今日にいたっている。したがって、本書が長坂成行氏・和田琢磨氏による二篇の神田本の論考を収載できたことは、大きな特色をなす。長坂氏「神田本『太平記』に関する基礎的問題」は書誌的な考察で、神田本の伝来を明らかにしたうえで、本文中の符号類の意味等について新見を提示する。和田氏「神田本『太平記』本文考序説―巻二を中心に―」は本文研究を中心とするもので、神田本の本文が後出本と一致する面をもつことを指摘するほか、切り継ぎ部分の本文の精査を行い、神田本を扱う際に顧慮しなければならない様々な点を指摘する。なお、小秋元「『太平記』巻二十七「雲景未来記事」の編入過程について」も神田本を中心に巻二十七の本文の考察を行ったものだが、つぎに述べるジュレミー・セーザ氏「下剋上への道―『太平記』に見る観応擾乱と足利権力の神話―」とともに観応擾乱期を描く本文を対象とすることから、第二章にこれを配した。

 歓迎すべきことに、近年、海外においても、『太平記』研究を志す若手研究者が現れている。本書では米国ミドルテネシー州立大学のジェレミー・セーザ氏の寄稿を得た。セーザ氏の論はフーコーやジラールの理論を用いて『太平記』を読み解くもので、日本の研究者から見るといささか理論に偏重していると映る面があるかもしれない。しかし、欧米の先端的な研究者が『太平記』をどう読むのかについて、我々は無関心であってよいはずはない。ともに語りあうことを通じて、新たな課題を発見する可能性があるからだ。例えば、セーザ氏の論では、『太平記』は王権分裂や下剋上による急速な社会変動に対する絶望と不安感の「伝達装置」として、その文学的意義が注目されている。こうしたとらえ方には我々も学ぶべきものがあるとともに、「王権」や「鎮魂」といった概念をめぐっては、双方の議論をさらに尽くし、その内実を厳密にとらえることによって、新たに見えてくるものもあるのではないかと感じるのだ。

 本書に収められた六篇の論考は、二〇一三年八月十八日(日)・十九日(月)に東京の法政大学で開催された「二〇一三年度『太平記』研究国際集会」での研究発表をもとにしている。二〇一三年度より三年間、私ども(小秋元〈研究代表者〉・長坂・北村・和田・森田)は科学研究費補助金に採択され、年一回の研究集会を開催することとしたのである。その際、海外の若手研究者を発表者やコメンテーターとして招き、国内外の研究者の交流を図ることを心がけた。いうまでもなく、セーザ氏はそのときの発表者である。

 また、本書には長谷川端氏、兵藤裕己氏、山本晋平氏、阿部亮太氏に寄稿していただいたコラムを収載することができた。四氏にはこの研究集会に参加し、二日間にわたる熱心な議論に加わっていただいた。ご多忙のなか、本書のために執筆の労をおとりくださったことに、衷心より感謝申しあげたい。

 加えて、本書の巻末には六篇の論文の英語・中国語・韓国語の要旨を収めている。これにより、海外の研究者が『太平記』研究に少しでも関心を抱いてくだされば、望外の幸せである。英語版はジェレミー・セーザ氏、中国語版は鄧力氏、韓国語版は李章姫氏のお手を煩わせた。鄧氏と李氏は現在、法政大学大学院博士後期課程に所属している。記して御礼申しあげる。
 本書が世に送りだされ、多くの方々を『太平記』研究にいざなうことができれば、これほど嬉しいことはない。

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□外国語要旨

英語▼ジェレミー・セーザ訳
中国語▼鄧 力訳
韓国語▼李章姫訳


ABSTRACT

Taiheiki's Poetic Expressions and Their Origin
Kitamura Masayuki

Taiheiki's prose often includes parts of old poems. Annotated works indicate that the greater part of those poems is found in imperial anthologies. In particular a high percentage of them come from Kokin Wakashū and Shin Kokin Wakashū. There is a clear difference in the frequency of poems included from the six collections beginning with Gosen Wakashū up through Senzai Wakashū and the thirteen collections following Shin Chokusen Wakashū. From these differences we can clearly see the internal workings of the work's production, such as what references fostered the poetic sensibility of Taiheiki's author.
I begin by establishing the hypothesis that Taiheiki's author had Kokin Wakashū and Shin Kokin Wakashū close at hand. However, in actuality there are points of discrepancy in episodes that ought to have used Shin Kokin Wakashū. Hence, it is doubtful whether Taiheiki's author actually referred directly to the original. From there, my second hypothesis is that those references came from Hachidaishū Shūkasen, which had a biased policy toward recording. Interestingly, Fujiwara Teika's Teika Hachidaishō on one hand recorded over five hundred poems from Kokin Wakashū and Shin Kokin Wakashū respectively, while on the other recorded but twenty to two hundred from the other six poetry collections. This is indicative of Taiheiki's tendencies regarding poetic references. While we cannot prematurely conclude that Teika Hachidaishō was used at the time of Taiheiki's authoring, it is entirely possible that similar documents will lead us to Taiheiki's poetic expressions.
Furthermore, aside from Hachidaishū excerpts, we can posit that the author also consulted poetry collections of famous places. Thus there are cases where two adjacent poems in Utamakura Nayose are at the same time reflected in a series of episodes in Taiheiki. Like Teika Hachidaishū, we cannot confirm that Utamakura Nayose was present when Taiheiki was written, but if we can glimpse its influence through a detailed analysis, a part of the literary environment surrounding Taiheiki's author will become clear.

Taiheiki's Dual Notions of Loyalty :
On the Service and Retirement of Sadafusa and Fujifusa,
and the Reception of the Four Books
Morita Takayuki

I will examine episodes about the service of these two courtiers via reception of the Four Books to elucidate the dual nature of loyalty in Taiheiki.
In war tales, the phrase "a loyal follower does not serve two lords" serves as the ideal for loyalty. Nevertheless, in the chapter 5 episode of Taiheiki "The Matter of Sadafusa," an altogether different argument is developed using Chinese legends to contextualize Sadafusa's actions following Go-Daigo's exile to Oki Island. Here, eremitic attitudes such as that of Boyi and Shuqi are rejected, while the attitudes of Guan Zhong and Baili Xi, who transferred their service to despots such as Duke Huan of Qi and Duke Mu of Qin, are validated. We are thus led to Sadafusa's second service in the court of Emperor Kōgon and the conclusion that "a loyal follower does not necessarily choose his lord."
On the other hand, there are places where the eremitic attitudes of Boyi and Shuqi are validated, such as in chapter 13, "The Matter of Fujifusa's Retirement," wherein Fujifusa (the son of Sadafusa) retires after losing confidence in Go-Daigo following his rejection of Fujifusa's remonstrance. The actions of Boyi and Shuqi, and thus Fujifusa, are praised. From this perspective the actions of both father and son should be at odds, but Taiheiki judges both in a positive light.
Guan Zhong and Baili Xi are both dealt with in the Four Books, and the above episodes are related to Taiheiki's understanding thereof. For example, Mencius' ideal of the "imperial way" (ōdō) has strongly influenced Taiheiki. In particular, the chapter 1 episode "The Matter of Emperor Go-Daigo" rejects despotism. If we presuppose this understanding of Mencius, it should be that Sadafusa's actions, which are based in the actions of Guan Zhong and Baili Xi, should be rejected as supporting despotism. In other words, while chapter 5 appears to support Sadafusa, in the broader context, we can read it as not entirely supportive of his actions.

The Road to Gekokujō:
The Kannō Disturbance as Seen in Taiheiki
and the Myth of Ashikaga Authority
Jeremy A. Sather

Many of Taiheiki's episodes were written with those from Heike monogatari as a model. Accordingly, it is useful to consider Taiheiki and Heike monogatari as a pair when interpreting the former. For instance, Taiheiki's author appears to have used the Heike monogatari's depiction of the Genpei Wars as a structural model for the Genkō Disturbance. Taiheiki portrays the Genkō Disturbance up through chapter 11, and sees the conflict in terms of Genji versus Heike, with the Ashikaga playing the role of the former and the Hōjō the latter. Additionally, chapters 12 through 21 the conflict between Ashikaga Takauji and Nitta Yoshisada mimics that of Minamoto no Yoritomo and Kisō Yoshinaka. In short, Heike monogatari provided Taiheiki's author with a ready-made structural model for depicting the Nanbokuchō age.
This paper is comprised of three parts. First, I analyze Taiheiki as a vehicle for the expression of unease and despair toward the transformation of imperial authority that occurred throughout the fourteenth century. Second, I use the French philosopher Michel Foucault's theory of heterotopia as a means of interpreting the term gekokujō that characterizes Taiheiki's narrative after chapter 26, otherwise known as the Kannō Disturbance arc. In part 3 I argue that that narrative, which appears to be a mythical origin story of the Ashikaga shogunate, fails to establish that origin in the way that Heike monogatari did for the Minamoto. I conclude that for Taiheiki's author, the peace that Taiheiki portends will not arrive until the heterotopia that is the realm of gekokujō is reversed and the traditional imperial order restored. In this way Taiheiki became a catalyst that helped regenerate the myth of imperial authority, which continued to provide the ideological basis for conflict throughout Japanese history.

Concerning the Incorporative Process of "Unkei Miraiki"
in chapter 27 of Taiheiki
Koakimoto Dan

There are a variety of discrepancies between Taiheiki variants regarding the presence or absence of the Chapter 27 episode "Unkei Miraiki," which foretells the development of the Kannō Disturbance, as well as the order in which this episode appears. It does not appear in the Jingū chōkokanbon or Genkyūbon variants. In the Kandabon and Seigenin'bon variants it appears at the end of the chapter, while in others it appears at the midway point, before the episode "Sahyōei no suke, Moronao wo chū sen to hossuru koto." In the typical view, Jingū chōkokanbon is considered the oldest form while variants like Kandabon were created at a subsequent stage; other variants evince the final form.
However, there is one point of concern when reading "Unkei Miraiki" in the Kandabon format. In the dialogue between Tarōbō and Unkei where Myōkitsu Jisha is a topic he is called the "priest of Son'un." However, no explanation for this title is given. This is difficult to understand, and if, beginning with this episode, Kandabon is a revised text, then it would seem likely that there would be some previous explanation as to why Myōkichi Jisha is called "priest of Son'un."
In the chapter 26 episode of the Kikkawakebon variant, "Myōkitsu Jisha no koto," there is a section that includes the following passage: Myōkitsu "built a temple at the location called Ichijō Horikawa Son'un Bridge." If this is correct, it is natural to understand the "priest of Son'un" as Myōkitsu Jisha. Is it possible that the first variants to be revised using "Unkei Miraiki" had this explanation? Kikkawabon is not representative of old form variants (kotaibon), but its prose is the same as Jingū chōkokanbon's chapter 27. From this we can postulate that Kikkawabon inherited the format of a variant whose revisions began with "Unkei Miraiki." Moreover, Kikkawabon's "Unkei Miraiki" is placed before "Sahyōei no suke, Moronao wo chū sen to hossuru koto." Accordingly, originally "Unkei Miraiki" was placed before this episode, and it is entirely plausible that it was included at the origin of the Kannō Disturbance narrative in order to foretell its entire development. We cannot see the Kandabon format, which places the episode at the end of the chapter after the Jōwa Gonen Disturbance, as the original.

Basic Problems Concerning Kandabon Taiheiki
Nagasaka Shigeyuki

The Kandabon manuscript copy was published around the end of the Meiji period, and a facsimile followed in 1972. Of the forty chapters only 26 are extant, and as a result there is some hesitation in calling it the authoritative version. And yet it is often quoted as if it were. Compared to other variants, the following characteristics are evident: first, it was copied at a relatively early stage, perhaps during the mid Muromachi period; second, the text is peculiar enough to make one think it was in fact a draft; third, it contains cut and paste (kiritsugi) additions, variances, and annotations from related variants. Even though these conditions exist, there has not been enough work done on this text, other than the following: Suzuki Tomie has dealt with issues such as the two categories of chapter 32 and its combinatory versions; Hasegawa Tadashi has indicated areas cut-and-paste in detail through the facsimile's bibliography; and Suzuki Takatsune has an essay based on markings in the text.
In this paper I consider the following basic issues: 1) when Kandabon was copied, its handwriting, and transmission; 2) contrapositive marks; 3) two-fold, three-fold, and four-fold marks; 4) corrective annotations; 5) and marks of actual names of listed characters. The number of lines and height of the characters in each work are not uniform, and there are a large number of notes in the margin. At first glance, in form Kandabon appears sloppy, but its contrapositive notes and annotations concerning the variations of even one or two characters suggest that a great deal of care was taken toward content and detail. In addition, the existence of Eiwabon copy and the two categories of chapter 32 provided a reason for me to examine it alongside earlier research. I consider the manner in which Kandabon was copied while comparing it with Eiwabon and Jingū chōkokanbon variants. I believe that we can see the production of a revised hybrid version, and the intention guiding the compilation of extant variants that were slightly different from the creation of mixed prose versions.

Introductory Thoughts on Kandabon Taiheiki :
Concerning Chapter 2
Wada Takuma

This paper proposes to reexamine Kandabon Taiheiki, which is representative of old form variants (kotaibon). It has not been the subject of any real analysis since Kyūsojin Hitaku and Hasegawa Tadashi's "A Bibliographical Introduction to Kandabon Taiheiki." I will point out a number of problems with the oft-researched chapter 2 in order to assemble preceding research as a foundation for future inquiries. This essay is an initial attempt to grapple with the following question: to what degree does Kandabon possess the characteristics of old form variants?
In part 1 I collate previous research on Kandabon and verify the importance of the following issues, namely, that cut-and-paste additions (kiritsugi), originating in Tenshōbon line, were performed. It is possible that texts in which these splices are absent preserve the old form and can be called the "original Kandabon." In part 2 I examine Ninnajizōbon, which is a fragment consisting of chapter 2 only. It has been observed that Ninnajibon is close to Kandabon, but heretofore this claim has not been extensively studied. I make clear that parts of Ninnajibon and Kandabon bear similarities and some parts do not; there are also parts effective for comparison with Kandabon. In part 3 I separate Kandabon into its original and cut-and-paste variants and then elucidate their special characteristics. Words and sentences not included in kotaibon texts of a different lineage, such as Jingū chōkokanbon and Seigen'inbon, instead align more closely with later variants such as Bonshunbon and Kikkawakebon. Additionally, cut-and-paste variants are typically considered part of Tenshōbon lineage, but even in Mōrikebon and Tenshōbon lineages there are characteristics that have much in common with Nojiribon. In part four I summarize the above and discuss remaining issues.
(ジェレミー・セーザ訳)


摘 要

《太平记》的引歌表现及其出典                   
北村 昌幸

  《太平记》经常取古歌的一节进行创作。注释书指出这些古歌大多出自敕撰和歌集。尤其是《古今和歌集》与《新古今和歌集》收录的和歌比重较高。《后撰和歌集》《千载和歌集》等六部和歌集,与《新勅撰和歌集》之后的十三代集的利用频率被认为有明显的不同。从此差别可看出,《太平记》作者的和歌教养究竟来自哪些文献,并能窥探作品成立的内情。
  第一,《太平记》作者手持《古今和歌集》与《新古今和歌集》这一假说是成立的。不过从实际情况来看,使用《新古今和歌集》的记事还有值得商榷的地方,主要对作者是否直接参照于原典这一问题持有怀疑。于是脑中浮现第二个假说,会不会是参照以精选采编而成的八代集秀歌撰呢?颇有意思的是,藤原定家编撰的《定家八代抄》在《古今和歌集》与《新古今和歌集》中各选取了五百多首,而从其他六部敕撰歌集中只选取了两百首到二十首不等。这样的收录状况与《太平记》的引歌倾向是吻合的。虽然不能即刻判定《太平记》作者在执笔时有无直接参照《定家八代抄》,但可充分设想是否有同类型的文献对《太平记》的引歌表现起诱导作用。
  另外,还可推定除八代集的摘要本外,《太平记》也参考过名所歌集。因为《歌枕名寄》中接连两首的和歌同时也在《太平记》的记述中一并出现。收录众多类书的《歌枕名寄》与《定家八代抄》一样,目前还不能断言其为《太平记》的参照文献,需要通过进一步分析存真去伪,才能阐明《太平记》作者所处文学环境的一隅。

《太平记》的两面性
―围绕宣房、藤房的进退与四书的影响          
森田 贵之

  围绕《太平记》公家二人的仕途进退的记事,从四书影响的角度出发,探讨《太平记》拥有的两面性。
  军记物语中有如"忠臣不侍二君"这类描绘理想忠臣的语句。不过在《太平记》卷五"宣房卿之事"中又展开了不同议论。在那一卷中围绕后醍醐发配隐岐后万里小路宣房的进退,引用中国故事进行讨论。否定了以伯夷叔齐为代表的隐士态度,而肯定齐桓公与秦穆公的再出山的行为,同时欣赏助霸业的管仲、百里奚的态度。并针对宣房再次出任光严朝廷官职一事,得出"忠臣不能选君"的结论。
  而另一方面,作品中又有称赞伯夷、叔齐为代表的隐者态度的描写。在卷十三"藤房卿遁世之事"中,宣房之子与藤房对不纳谏言的后醍醐非常失望而决定遁世。议论宣房时否定了伯夷、叔齐的行动,但却称赞了藤房的遁世。万里小路儿子的行动,在理论上应该是相背的,但《太平记》对其两者都采取了积极的评价。
  在这些讨论中所提及到的伯夷、管仲等人,均为四书之中的人物。上述两章节,都和《太平记》理解的四书有关。特别是《孟子》中否定霸道的王道思想对《太平记》有着巨大影响。具体来说,在卷一"后醍醐天皇御事"中能举出批判后醍醐"霸道"的例子。假设以《太平记》这样理解《孟子》为前提的话,作为宣房行动理论基础的管仲、百里奚的行动应当作为支持霸道的行为给予否定才是。换句话说,在卷五的记事中,虽表面上支持宣房,但从全体文脉来看,能读出并非全面肯定宣房行动的深意。

下克上之道
―从太平记看观应之乱与足利权力的神话     
杰里米・萨瑟

  太平记中有很多情节是以《平家物语》为背景创作,因此把握好《平家物语》与《太平记》之间的平行关系,对理解《太平记》是大有裨益的。太平记作者似乎把《平家物语》中的源平之争概念化成元弘之乱。这也就是所谓的源平交代论。
  前11卷描写元弘之乱,把足利看作源氏,把北条视作平家。从12卷到21卷,基于源赖朝与木曾义仲的栋梁之争,作者又构建了足利与新田的斗争。总之,《平家物语》为《太平记》作者认识南北朝时代提供了框架。
  本论由三部分构成。第一部分首先考察《太平记》,把其作为14世纪对王权秩序颠覆而产生的不安全感的传达装置。第二部分使用法国哲学家米歇尔・福柯的"异位空间"的概念,分析从卷26开始下克上的原因。第三部分,从卷26开始的观应之乱下克上的表现来看,说明为什么作品让室町幕府的建立以失败告终。结论是,后醍醐王权与足利尊氏相争的结果让王权分裂为积极与消极两个局面,太平记的理想是王权统一的王权秩序,但这一"太平"却没有到来。前25卷是下克上之道,卷26以后是下克上的世界。因此,我认为太平记是两部构成说。

关于《太平记》卷二十七"云景未来记事"的编入过程
小秋元 段

  卷二十七"云景未来记事"是预言观应之乱的记事,围绕这段叙述的有无以及顺序的先后,各传本大不相同。该记事在神宫徴古馆本、玄玖本中没有记载,神田本、西源院本放在卷末,而其余诸本是放在卷中"左兵卫督欲杀师直之事"之前。一直以来的见解认为,神宫徴古馆本的形态最为古老,而神田本次之,其余诸本为最终的形态。
  但深读神田本"云景未来记事"时,存在一个值得注意的地方。记事中的太郎坊与云景的问答中有一个话题是关于妙吉侍者之事,妙吉被称为"村云之僧"。但有关这位村云之僧"是指妙吉之事,在神田本的本文中未作任何说明。仔细思考的话这是个不能解释的地方,如果作为第一本增补"云景未来记事"的传本的话,应提前对"村云之僧"指妙吉之事进行说明才对。
  另外,吉川家本卷二十六的"妙吉侍者事"里,有"一條堀川村雲橋ト云所ニ寺ヲ立テ"的记述,由此自然得知,"村云之僧"指妙吉之事。在最初增补"云景未来记事"的传本里,不是应该在本文中加入这样类似的说明吗?虽然吉川家本并非为最古老的形态,但其卷二十七作为校准的本文与神宫徴古馆本等古态本相同。由此推测,吉川家本的"云景未来记事"才是继承了首次增补该记事的本文。并且吉川家本的"云景未来记事"是放在"左兵卫督欲杀师直之事"之前,这样编排是因为编者认为"云景未来记事"作为预言了观应之乱爆发后所有事件展开的记事而被增补。而将此记事放置卷末,叙述完贞和五年政变之后增补的神田本等,并不能见到原本的形态。

与神田本《太平记》相关的基础问题
长坂 成行

  标题的写本早在明治末期被翻刻发行,于昭和四十七年出版影印本。不过全四十卷仅存二十六卷,作为底本使用稍显勉强,但其作为古态本经常被引用。此写本与其余诸本相比,可以看出以下特点。首先能看出书写的年代是在较早的室町中期。整体让人认为如草稿般,书写状态特别的异样。另外,保留有从亲本抄写时留下的删减增改,校异以及其他的注记等。即便留下上述线索,关于此写本的探讨仍旧不充分。专门论述此写本的有,铃木登美惠氏阐述对卷三十二两种本文一并记载,混合的问题,长谷川端氏从影印本说明文本的增补删改,还有铃木孝庸论关于本文添加符号的问题。
  本稿对①书写的时期,笔迹以及文本流布②对偶符号③二重,三重,四重的符号④有关写有"可糺"的注记⑤列举人名时,实名部分的符号等基础问题进行考察。该写本各册的行数与字高没有统一,空白处加注多,一眼看去形式显得杂乱。但从在空白加注对偶符号,一字两字的表记,用字异同加注,内容上的细节之处来看,称得上是一本十分用心的写本。在此之上,基于存有永和年间的抄写本,以及能看出两种本文一并记载的两点理由,可对先行研究进行验证并对卷三十二的本文展开探讨。与永和本,神宫徴古馆本比较中考察其书写的态度,得出结论,即该写本是在校合之后所制作的订正本,与混和形态本的成立有所不同,作者是有意识地想集成既有的本文。

神田本『太平记』本文考序说
--以卷二为中心
和田 琢磨

  自久曾神升氏,长谷川端氏「神田本太平记解题」以来,相关的深入研究甚少。本论围绕古态本代表的神田本再次进行探讨。为了今后的研究打下坚实的基础,在对先行研究进行整理分析后,以目前仍然受到研究重视的卷二为文本,指出其中若干的问题点。到底神田本具有多少"古态"性?解答此疑问便是本论的出发点。以下为各章节内容略记。
  首先第一节整理神田本的研究史,再次确认其中指出的重要内容。神田本在原本的基础上实施了嫁接,嫁接文本来自天正本系的文本,并认为剔除这些嫁接内容后的本文很好地保留了"古态",也被称为"原神田本"。在紧接的第二节中探讨仁和寺藏本(仅存卷二的残本)。先行研究有指出仁和寺本与神田本有相近的本文,但未进一步分析。因此这里要明确仁和寺本与神田本相近与不同的部分。再与神田本比较,说明其有效的部分。在第三节当中,把神田本本文分为"原神田本"本文和"嫁接"本文来考察,指出两文的特征。"原神田本"里有神宫徴古馆本,西源院本等不同系统的古态本传本中没有采用的词章,而这些词章又与之后的梵舜本,吉川家本等传本的词章有重合。另外"嫁接"本文一直都被认为出自天正本系统的本文,不过也要明白毛利家本,天正本系统当中也有与野尻本相通的特征。第四节是对以上内容的总结,并阐述今后的课题。
(鄧力 訳)


요지


『타이헤이키(太平記)』인용 와카(和歌) 표현과 그 출전
키타무라 마사유키(北村 昌幸)

『타이헤이키(太平記)』에는 종종 옛시가의 일부가 도입된다. 주석서가 지적하는 옛시가는 칙선와카집(勅撰和歌集)에 실린 것이 대부분이다. 특히 『고킨와카슈(古今和歌集)』와 『신고킨와카슈(新古今和歌集)』에 수록된 와카가 차지하는 비율은 높다. 『고센와카슈(後撰和歌集)』에서 『센자이와카슈(千載和歌集)』에 이르는 6편의 가집이나, 『신쵸쿠센와카슈(新勅撰和歌集)』 이후 13대 와카집이 이용되는 빈도에는 분명한 차이가 인정된다. 이 차이로부터 타이헤이키 작자의 와카적 소양을 키운 문헌이 어떤 것이었는지 작품 생성의 사정을 비춰볼 수 있다.

첫째로, 『고킨와카슈』와 『신고킨와카슈』가 타이헤이키 작자의 가까이에 있었다는 가설이 성립된다. 하지만 실제로 『신고킨와카슈』를 이용하고 있는 기사에는 미심쩍은 점이 있다. 『타이헤이키』 작자가 원전을 직접 참조했는지가 의심스럽다. 여기에서 제2의 가설로, 편향적인 채록 방침을 취하고 있는 8대집명가선(八代集秀歌撰)에 의한 것은 아닐까 하는 생각을 떠올릴 수 있다. 흥미롭게도 후지와라 테이카가 엮은 『테이카하치다이쇼(定家八代抄)』는 『고킨와카슈』 『신고킨와카슈』에서 각각 5수 이상을 채록하는 한편, 다른 6편의 가집에서는 2수 내지 2수 정도 밖에 채택하지 않았다. 이 양상은 『타이헤이키』의 와카 인용의 일부 경향과 부합한다. 『테이카하치다이쇼』 자체가 『타이헤이키』 집필시에 이용됐다고 속단할 수는 없지만, 동종의 자료가 『타이헤이키』의 와카 일부 표현을 유도한 것은 충분히 생각할 만하다.

또한, 8대집의 발췌본 이외에 명소가집(名所歌集)도 참조했을 것으로 추정된다. 왜냐하면, 『우타마쿠라나요세(歌枕名寄)』 중에 나란히 실린 두 수가 동시에 『타이헤이키』의 일련의 기술에 반영된 경우가 있기 때문이다. 유서가 많은 『우타마쿠라나요세』는 『테이카하치다이쇼』와 마찬가지로 현 시점에서 확실한 근거 자료로 단정할 수 없지만 자세한 분석을 통해 그 시비를 판별할 수 있다면, 타이헤이키 작자를 둘러싼 문학 환경의 일단이 드러날 것으로 보인다.

『타이헤이키(太平記)』텍스트의 양의성
―노부후사(宣房)·후지후사(藤房)의 출전과 사서(四書) 수용을 둘러싸고―
모리타 다카유키(森田 貴之)

『타이헤이키(太平記)』에 등장하는 두 귀족들의 처신을 둘러싼 기사를 사서(四書) 수용의 관점에서 검토해 『타이헤이키』 텍스트가 갖는 양의성을 논했다. 군키모노가타리(軍記物語)에는 이상적 충신상을 나타내는 말로 '충신은 두 임금을 섬기지 않는다'는 상투적인 표현이 있다. 그런데 『타이헤이키』 권 5 '노부후사 경 (宣房卿の事)'에서는, 이러한 말과는 상충되는 논의가 전개되고 있다. 고다이고(後醍醐) 천황의 오키(隠岐) 유배 후 마데노코지 노부후사(万里小路宣房)의 처신을 둘러싸고 중국 고사를 인용하며 논쟁이 이루어지는 가운데, 백이(伯夷)·숙제(叔斉)와 같은 은둔자적 정도론은 부정되고, 제(斉)나라의 환공(桓公)이나 진(秦)나라 목공(穆公)에 재출사해 그 패도(覇道)를 도운 관중(管仲)과 백리해(百里奚)와 같은 태도가 긍정된다. 그리고 노부후사의 고콘(光厳) 천황 조정으로 재출사, 즉 '충신은 반드시 주인을 가리지 않는다'는 결론이 도출된다.

또 한편으로는 백이·숙제로 대표되는 은둔자적 태도를 칭찬하는 부분도 있다. 권13 '후지후사 경 은거(藤房卿遁世の事)'에서는 노부후사의 아들 후지후사가 간언을 들어주지 않는 고다이고에 실망하고 은둔하는 모습이 그려지는데 노부후사를 둘러싼 논의에서는 부정되었던 백이·숙제의 행동과 함께 후지후사를 칭찬한다. 마데노코지 부자의 행동은 그 논리상으로는 상반될 수 있지만 『타이헤이키』는 이 둘을 모두 호의적으로 평가하고 있는 것이다.

이런 논쟁 속에 다루어지는 백이과 관중등은 사서에 언급이 있는 인물이며 위에서 말한 두 장단은 『타이헤이키』의 사서 이해와도 연관된다. 특히 『맹자』에는 '패도'를 부정하는 왕도사상이 보이는데 이것은 『타이헤이키』에도 강한 영향을 미치고 있다. 구체적인 예로는 권 1 '고다이고 천황(後醍醐天皇の御事)'에서 고다이고의 '패도'를 비판하는 부분을 들 수 있다. 이러한 『타이헤이키』의 『맹자』 이해를 전제로 하면 노부후사의 행동의 논리적 근거로 여겨진 관중과 백리해의 행동은 패도를 지지하는 것으로 부정되어야 한다. 즉, 권 5의 기사가 표면상으로는 노부후사를 지지하지만 전체적인 맥락 속에서는 노부후사의 행동을 전적으로 지지하는 것은 아니라고 해석할 수 있다는 것이다.

하극상의 길: 타이헤이키(太平記)를 통해 보는 간오의 요란(観応擾乱)와 아시카가(足利)권력의 신화
제레미 세이자(ジェレミー・セーザ)

타이헤이키의 수 많은 에피소드는 헤이케모노가타리(平家物語)를 배경으로 쓰여있으므로 헤이케모노가타리와 타이헤이키를 평행 관계로 이해하는 것은 타이헤이키를 해석하는데 도움이 된다. 타이헤이키의 작자는 헤이케모노가타리의 겐페이 쟁란(源平争乱)을 겐코의 난(元弘の乱)으로 개념화했던 것 같다. 이것이 소위 겐페이 교체론이다. 겐코의 난을 권 11까지 그리며 아시카가를 겐지(源氏), 호조(北条)를 헤이케(平家)로 이해한다. 거기에 권 12에서 권 21까지는 미나모토노 요리토모(源頼朝)와 키소 요시나카(木曽義仲)의 동량(棟梁)다툼을 기반으로 해 아시카가대 닛타(新田)의 다툼으로 구성한다. 이처럼 헤이케모노가타리는 난보쿠초(南北朝) 시대에 대한 일반적 인식의 틀을 타이헤이키 작자에게 제공했다고 볼 수 있다.

본론은 3부 구성이다. 제 1부는 14세기 왕권적 질서의 전복에 대한 불안감을 표현하는 '전달 장치'로서의 타이헤이키를 고찰한다. 제 2부는 프랑스 철학자 미셸 푸코 의 '헤테로토피아(heterotopia)'라는 개념을 사용해 권 26이후 전개되는 하극상의 원인을 분석한다. 제 3부는 타이헤이키에 보이는 권 26에서 시작된 간오의 요란(観応擾乱)이라는 하극상의 표현이 왜 작품 상 무로마치(室町) 막부의 창건이 실패로 끝내는지에 대한 설명을 시도한다. 결론은 고다이고(後醍醐) 천황과 아시카가 다카우지(足利尊氏)의 다툼의 결과가 왕권을 '적극적 왕권'과 '소극적 왕권'의 두 국면으로 분열시켜 왕권이 통일할 때까지 타이헤이키의 이상이라고 할 수있는 왕권 질서의 '태평'이 도래하지 않는다고 맺었다. 권 25까지는 하극상의 길이다, 권 26이후는 하극상의 세계이다. 그러므로 타이헤이키의 구성을 2부 구성으로 볼 수 있다.

『타이헤이키(太平記)』 권 27 '운케이 미래기(雲景未来記の事)'의 편입 과정에 대해서
코아키모토 단(小秋元 段)

간오의 요란(観応擾乱)의 전개를 예언하는 기사 권 27 '운케이 미래기(雲景未来記の事)'에는 기사의 유무와 배열을 둘러싸고 이본간의 대폭적인 차이가 있다. 이 기사는 진구초코간본(神宮徴古館本)·겐큐본(玄玖本)에는 없고, 칸다본(神田本)·세이겐인본(西源院本)에는 권말에, 그 외 이본에는 권의 중간 '左兵衛督、師直を誅せんと欲する事(좌병위독 모로나오를 주살하고자 하다)' 의 전에 놓여져있다. 종래의 견해로는 진구초코간본의 형태를 가장 오래된 형태로 보고 칸다본과 같은 형태를 다음 단계, 다른 이본들의 형태가 최종적인 모습을 나타내는 것으로 알려져 왔다.

하지만, 칸다본의 형태로 '운케이 미래기'를 읽어 나갈 때 한가지 의문점이 존재한다. 기사 중의 타로보(太郎坊)와 운케이(雲景)의 문답 속에서 묘키츠지샤(妙吉侍者)를 화제로 삼고있는 부분 중, 묘키츠지샤는 '무라쿠모의 중(村雲の僧)'이라고 불리고 있다. 헌데 이 '무라쿠모의 중'이 묘키츠지샤를 가리키는 것인가에 대해서 칸다본 본문에서는 일체 설명이 이루어지지 않고 있다. 생각해 보면 이것은 불가사의한 것으로 '운케이 미래기'를 처음 증보하는 이본이라면 '무라쿠모의 중'이 묘키츠지샤를 가리키고 있다는 설명을 사전에 적절하게 했어도 좋았을 것이다.

한편, 킷카와케본(吉川家本)의 권 26 '묘키츠지샤(妙吉侍者事)'에는 묘키츠지샤가 '이치죠 호리카와 무라쿠모바시(一條堀川村雲橋)라고 불리는 곳에 세운 절'이라는 구절이 있으므로 이에 따르면 '무라쿠모의 중'이 묘키츠지샤를 가리키는 것은 자연스럽게 양해된다. '운케이 미래기'를 처음에 증보한 이본에는 이런 설명 설정이 본문 중에 이루어졌던 것은 아니었을까. 킷카와케본은 가장 오래된 형태의 본문을 전하지는 않지만 권 27의 밑바탕이 된 본문은 진구초코간본등과 같은 것이다. 이 사실로부터 킷가와케본은 '운케이 미래기'를 처음 증보한 이본의 형태를 계승하고 있는 것이 추측된다. 또, 킷카와케본의 '운케이 미래기'는 '좌병위독, 모로나오를 주살하고자 하다' 앞에 배치되어 있다. 그렇다면 '운케이 미래기'는 우선 '좌병위독, 모로나오를 주살하고자 하다' 앞에 두고 간오의 소요의 발단부에서 모든 사건 전개를 예언하는 기사로서 증보된 것으로 보인다. 이를 권말에 두고 조와(貞和) 5년의 정변을 얘기한 후에 증보하는 칸다본 등의 형태를 본래의 것으로 볼 수 없다.

칸다본(神田本)『타이헤이키(太平記)』에 관한 기초적 문제
나가사카 시게유키(長坂 成行)

표제의 사본은 일찍이 메이지(明治) 말기에 번각본이 간행되고 쇼와(昭和) 47년 영인본이 발간된, 전 40권 중 26권 정도 밖에 남아있지 않아 저본으로 사용하기에는 다소 주저된다. 그러나, 고태본으로 인용되는 경우도 적지 않다. 이 사본은 다른 전본에 비해 다음과 같은 특이한 점이 보인다. 우선 서사 연대가 비교적 오래된 무로마치(室町) 중기로 꼽히는 점, 전체적으로 초고인가 싶을 정도로 서사 방식이 매우 특이한 양상을 보인다는 점, 절계보입(切継補入), 교이(校異), 기타 주석 등 오야혼(親本)의 서사의 양상이 잔존해 있다는 점 등이다. 이러한 조건이 남아 있으나 본 사본에 대해 충분한 검토가 이루어지고 있다고 말 할수 없는 상황으로 널리 알려진게 권32의 이종 본문 병기와 혼합체의 문제를 다룬 스즈키 토미에(鈴木登美恵) 씨, 영인본 해제에서 본문의 접목 문제를 상세하게 지적한 하세가와 타다시(長谷川端) 씨, 본문에 부쳐진 부호에 대해 논한 스즈키 다카츠네(鈴木孝庸)씨의 이론이 전부라고 해도 될 듯하다.

본고에서는 ①서사의 시기와 필적, 전래에 관한 것 ②대우 부호 ③이중·삼중·사중 부호 ④'가규(可糺)'라고 써있는 주기에 대해 ⑤인명 열거에서 실명 부분 부호 등의 기초적인 여러 문제에 대해 고찰했다. 각 책의 행 수나 글자의 높이가 정돈되어 있지 않고 글자가 많은 점 등, 형태적으로는 언뜻 보기에 조잡한 것처럼 보이는 서사이지만 대우 부호의 추가, 한자 두 글자 표기를 용례자의 차이점까지 주기하는 등 내용적으로 세세한 것에도 배려가 이루어진 결과로 보이는 사본이라고도 할 수 있다. 그 위에 에이와(永和) 연간 서사한 사본이 남아있는 점, 2종 본문 병기를 볼 수 있다는 점, 이 두가지의 이유를 들어, 선행 논문을 검증하면서 권 32의 본문에 대해 검토했다. 에이와본(永和本)·진구초코칸본(神宮徴古館本)과 비교하면서 그 서사 태도를 고찰하는 이른바 교합 위의 교정본의 작성이나, 혼합체본의 생성과는 다소 다른 기존 본문을 집성하려는 의식이 엿보이는 것이 아닌가 하는 사견을 전했다.

칸다본(神田本)『타이헤이키(太平記)』 본문고 서설
―권2를 중심으로―
와다 타쿠마(和田 琢磨)

본론은 큐소진 히타쿠(久曾神昇) 씨·하세가와 타다시(長谷川端) 씨 '칸다본타이헤이키해제(神田本太平記解題)'(1972년 10월) 이후 본격적인 연구가 이루어지지 않은 고태본을 대표하는 전본인 칸다본에 대해 재검토를 가하려는 것이다. 향후 연구의 기초를 다지기 위해 선행 연구를 정리·검증한 후에 지금까지도 종종 주목을 받아 온 권 2를 들어 몇가지의 문제점을 지적한다. 과연 칸다본은 얼마나 '고태'성을 가지고 있는가. 본론은 이런 의문에 맞서고자 하는 첫 논고이다. 이하, 각 절의 내용을 약기하기로 한다.

제 1절에서는, 칸다본 연구사를 정리해 이하의 내용이 지적되고 있는 것이 특히 중요하다는 것을 확인했다. 즉, 칸다본에는 원본에 많은 접목과 보입이 이루어져 있고 그 본문은 텐쇼본(天正本) 계통 본문이다. 또한 그 접목 부분을 제거한 본문이 고태를 잘 남기고 있다고 여겨져 '원칸다본'이라고도 불리워 온 것이다. 이어 제 2절에서는 닌나지(仁和寺) 장서(권 2만 남아있는 영본)를 검토했다. 이는 닌나지본이 칸다본에 가까운 본문을 갖는다는 지적이 이루어졌으나 아직까지 제대로 검토가 이루어지지 않았기 때문이다. 여기에서는, 닌나지본은 칸다본에 가까운 부분과 다른점을 갖고 있다고 밝히고 칸다본과 비교하는데 유효한 부분도 있음을 밝혔다. 제 3절에서는, 칸다본 본문을 '원칸다본' 본문과 '접목' 본문으로 나누어 생각해 두 본문의 특징을 지적했다. '원칸다본'에는 진구초코간본(神宮徴古館本)과 세이겐인본(西源院本) 등의 계통을 달리하는 고태본 전 본에는 인정되지 않는 대목이 인정되고, 그것들은 본슌본(梵舜本)이나 킷가와케본(吉川家本)과 같은 후출 형태로 보고있는 전본의 대목과 겹치는 부분이 있다. 또, '접목'본문은 종래, 텐쇼본 계통 본문이라는 지적에 머물렀었지만, 모리케본(毛利家本)과 텐쇼본 계통 중에서도 노지리본(野尻本)과 공통되는 특징이 인정되는 것으로 나타났다. 제 4절에서는 이상의 내용을 정리해 향후의 과제 등을 논했다.
(李章姫 訳)


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