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2014年10月 8日

 記事のカテゴリー : 学界時評

●学界時評【近世】2014.1-2014.6●井上泰至[防衛大学校教授]

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 学界時評をお届けいたします。まもなく刊行予定の「リポート笠間57号」に掲載のものを、先行配信いたします。

 小社では「リポート笠間53号」から試みに学界時評をスタートさせました。
 時代区分・ジャンルは、上代・中古・中世・近世・和歌・日本語の歴史的研究と設定いたしました。この設定は、しかし既存の学会にあわせた時代区分をなぞっていて、近年の、時代を越境しつつある研究動向には必ずしもマッチしたものではありません。また、文学研究の範囲は歴史・美術・言語等にも広がってもいます。現時点では、こういった動向にあわせた時評の在り方の、良い答えを考えることができず、結果的に従来の枠組みをなぞることにしました。

 加えて、この時代区分のなかでお一人の評者に網羅的に論じてもらうのも限度があります。
 ですので、あくまでも「評者の目からみた」学界というものをお書きいただくことにしました。あえて網羅的であることを望んでおりません。このような趣旨でスタートしたもので、年2回、5月・11月に、リポート笠間に掲載していきます。

 これまでの時評は以下にまとめられています。あわせてご覧下さい。
http://kasamashoin.jp/jihyo.html

●以下に掲載の原稿は、編集部でインターネット向けに改行等を加えてあります。正式版は、ぜひ紙版の「リポート笠間」をご覧下さい。

※「リポート笠間」を読んだことがない方で、購読希望の方は、info@kasamashoin.co.jp宛に、郵便番号・住所・お名前をお知らせ下さい。無料でお送りいたします【送料無料・購読料無料】。
※ご購読いただいている方へ。最新刊の57号は、11/10〜30日ころには到着する予定です。

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学界時評【近世】2014.1-2014.6●井上泰至[防衛大学校教授]

 この七月、日本近世文学会の学会誌『近世文藝』が、百号に到達した。これに先んじて、上智大学大会では、通常の研究発表に加え、パネルディスカッション二件と一般をも対象とした講演・芸能実演からなる「江戸文学まつり」が執り行われ、五百名を超える会員以外の参加があり、盛況のうちに閉幕した。

 百号とその関連の企画については、編集責任者兼大会実行委員の立場として客観的な発言が出来にくいが、そこに掲載された「論文一覧・索引」からは、散文・韻文・演劇という近代的文学の枠組み、あるいは庶民文学という枠組みに入る分野の研究から出発した、近世文学研究が、大きく変貌していった実態が、自ずと俯瞰できる。新たな潮流とは、和歌・和学・漢詩文といった雅文芸、あるいは出版や絵画、はたまた伝記・文壇の研究といったところだろうか。資料の多い近世文学研究が、領域を開拓していった歴史が確認できる。

 近世文学の研究は、量を恐れない姿勢から変化・成長してきたのである。百号記念企画のエッセイ「想い出の論文」で、論文最多執筆者である濱田啓介が明かした、大坂書肆研究に取り組んだ当時の、文字通り量を恐れないその姿勢に感銘を受けるとともに、そこから小説研究に引き返すよう自らに言い聞かせたエピソードも強く印象に残った。量を恐れない姿勢も大事だが、自分の研究の位置と価値を「定点観測」するモニターの目も、量に飲み込まれないための戒めとして、等しく近世文学研究に携わる者が意識すべきものだろう。

 さて、近世文学研究のパラダイムに変更を迫るようなインパクトのある動きとしては、まずは、「問題作」中野三敏「西鶴戯作者説再考」(『文学』1月・2月号)を挙げるべきだろう。中野が講演した3月の西鶴研究会でのやりとりから推して、西鶴研究者の側では、「戯作」という言葉のもつこれまでの研究の背景を踏み越えた中野の論に違和感を持ったというのが、大方の反応ではなかったかと思う。興味深いのは、中野の主張する新しい「戯作」の枠組みそのものを問題とするより、従来の「戯作」という言葉の枠組みからこれを批判する大方の反応こそ、中野が批判する中村幸彦の「戯作」の定義に乗っかった議論ではないかという点である。中野は、中村の「戯作」の範囲も近代的枠組みに絡めとられた面があると言っているのであって、論争はそこで行われるべきなのに。

 個人的には、今日の武家物研究の枠組みを作った中村の「武道」「武士道」観も、戦後思潮を受けた「偏向」があるというのが、私の立場である(「井原西鶴『武道伝来記』論の前提を疑う」『第37回国際日本文学集会会議録』3月)ので、西鶴研究の側からも、「読み」の提示をするばかりでなく、「枠組み」の再検討を経た研究を待ちたい。その意味で、指針となる可能性が高いのは、西鶴小特集の観もある『上方文藝研究』11(7月)の濱田啓介「外濠を埋めてかかれ」だろう。一つ一つの話の読みもさることながら、量を恐れず、西鶴の作品間の、あるいは他の作者の関連作品との「比較・通観」を行うこと。はたまた、西鶴は作品ごとに自ら課題を課して説く人であるとの視点から、その「伝達営為・様式」等を見定めつつ、「読み」の議論をしていくことこそ、今大切であるということになる。

 ひるがえって比較的「若い」研究分野である漢詩文の場合、未開拓の資料も多く、今期それを突破した大きな収穫が多かった。まずは、合山林太郎『幕末・明治期における日本漢詩文の研究』(和泉書院、2月)。上は大臣から下は農民漁村の青年までが詠んだ、天保末年から明治後期までの漢詩を、政治の季節であるこの時期のモチーフである、歴史や政治への批評の視点から論じたり、従来顧みられなかった非写実の世界を詠んだ漢詩世界の問題を掘り起こしたりした点が重要。この先には、ロバート・キャンベルが、学会講演で取り上げた、画中の美人に寄せる詩・言説と近代文学の問題、はたまた日本近世文学会賞を獲った山本嘉孝「山本北山の技芸論」(『近世文藝』99、1月)がテーマとした性霊説の位置づけとの関連など、さらには漢詩文と地続きにある、近代的編成を取り始める明治20~30年代の文学研究の始発や新文学の開発、特に子規との関係など、大きな問題が控えている。

 合山も漢詩の倫理的な機能や思想との関連に目配りするが、この時代の大立者頼山陽の史論評価を「尊王論者」から「体制の統治理論家」へと一八〇度変更しようと目論んだ濱野靖一郎『頼山陽の思想』(東京大学出版会、2月)も、思想史の知見ながら逸することができない。既にこの見方は、野口武彦によって提出されていたが、『通議』を核に詳細に跡付けた点がお手柄。今後は、政治論の核ではないゆえに通俗性を持った『日本外史』の受容・誤読や、取材源たる軍書・史書からの偏差についての追究が、特に文学研究側からは期待される。これまた、中野三敏の言う江戸の倫理の常識の線をどこに見定めるのかという問題意識と切っても切り離せない。

 その模範例を挙げれば、一般書ではあるが、揖斐高『江戸幕府と儒学者』(中公新書、6月)こそ、量を恐れず、量に飲み込まれず、を地でいった待望の書であろう。既に鈴木健一に同様の発言はあったものの、林家にまとわりつく、御用学問といったマイナス評価を、広範な調査から覆すことに駄目を押した仕事として永く記憶されるべきである。人間のドラマを見ない思想史研究には飽き足らないとの言にも、心から賛意を表したい。かつて、林家の詩を題材に近世文学会で発表されたある研究が、「御用学問」の林家たるゆえに中村幸彦によって否定的に評価されたような風は、今日なくなったことこそ学界の進歩といえよう。

 もちろん中村幸彦の仕事は、没後15年以上になる今日でも、生きた言葉として指針ともなっている。武藤元昭『人情本の世界』(笠間書院、4月)を読んでその思いを強くした。内容的に言って人情本の核となる天保期のそれを対象としたものとして今日望みうる達成がここにある。冒頭武藤が、評者もかかわった『人情本事典』を、「様式」の観点からその対象を文政期に絞ったことに疑義を呈されている点、耳が痛いが、中村幸彦以来追究されてきた人情本成立の問題の一経路として「様式」の問題を認めつつも、春水人情本が開いた地平こそが人情本の本質であることを忘れるべきではないとの見方も、「様式」の追究にのみ偏しがちな後期小説研究の一傾向への注意喚起であろう。と同時に、それはやはり中村幸彦が古典大系注釈その他で展開した天保期人情本への読みの枠組みを基本としていることも間違いない。

 「様式」に偏することなく、舌耕・絵画・出版・艶本・演劇等との関係という量を恐れない研究姿勢と、武藤のような人情本の本質である春水の天保期の人情本の魅力を掘り起す「あだ」論のような目配りを我々は忘れてはならないのである。若い世代では、小林ふみ子『大田南畝 江戸に狂歌の花咲かす』(岩波書店、4月)こそは、南畝にとって「狂歌」「狂歌師」とは何だったかを、正面から逃げずに取り組んだ論考。源内や秋成のような近代の自我に照らして理解しやすい存在ではない、南畝の近世的な「狂歌師」を演じる生き様をしなやかにとらえている。

 さて、読本の研究こそは、近年「様式」や「読本的枠組み」をキー・ワードとした研究が中心だったが、復刊なった『読本研究新集』(6月)は、新出『著作堂旧作略自評摘要』の小特集を企画し、内容に切り込んだ好論文、木越俊介「詐術としての読本」、洪晟準「『月氷奇縁』自評について」が並ぶ。さらには、丸井貴史「白話小説訓読考」のような今後の展開を期待させるものから、田中則雄「大江文坡における思想と文芸」のような長く引用されるはずのもの、さらには高木元「江戸読本の行方」のような、在外の資料に対して読本研究がどう開いていくかといったタイムリーな提言まで、ワイドレンジなラインナップで、読本研究では世代の橋渡しが上手くいっていることを感じさせる復刊だった。

 吉丸雄哉ら三重大学の国文学関係研究者が束になって、地域の文化資源を掘り起し、現代的な視点や、海外からの関心まで視野に入れて紹介した『忍者文芸研究読本』(笠間書院、4月)は、企画の勝利と言えよう。忍者研究会編の『忍者の教科書』(笠間書院、1月)とセットであったことも重要で、かつて現代教養文庫の『江戸の戯作絵本』シリーズが、戯作研究の裾野を大きく広げたこと思えば、読本とテキストのパッケージこそ、新分野の開拓には必須であることが改めて認識できる。

 演劇関係については、絵画や文芸との「比較・通観」を目指した総合的研究をまとめた『図説 江戸の「表現」』(八木書店、3月)が出色。中でも原道生「近世芸能の表現」は、「芸」の本質論として熟読玩味を要する扇の要のような論文であった。個人的には、6月、「近松の会」に参加させて頂き、内山美樹子・日置貴之とともに軍記との関係についてシンポジウムを行い、意見交換をさせて頂き、私はもちろん演劇側にも得るところが多かったという反応を少なからず頂いた。同様の企画が、絵画は無論のこと、浮世草子、読本、人情本など各ジャンルの専家となされることが待たれる。中村幸彦らが築き上げた工房の各部屋で積み上げられてきた知見を交換しあうことからも、外濠は埋まっていくのではなかろうか。

 その意味では、『国語と国文学』5月号の特集「近世後期の文学と芸能」の諸論は面白かった。個人的には、合巻の歌舞伎化の実態とその時代相を描いた、佐藤かつら「『釈迦八相倭文庫』の劇化をめぐって」を一番興味深く読んだが、この論文に限らず、芸能と文学が相互乗り入れする、この時代の俗文芸のあり方が捉えられた論が並び、かつて文化・文政期に時代を絞り、小説・演劇・俳諧を別々に捉えたような視点を払拭したあたり、これまた絶妙の編集企画がもたらした成果と言えよう。

 個別の論文では、倉員正江「『貴言為孝記』に見る『東照宮御遺訓』の顚化」(『語文』148、3月)が断然面白かった。教訓の皮をかぶった越後騒動や福島正則の改易をめぐっての「政道論」。この一筋縄ではいかない写本世界や随筆もまた、分野を超えた知見による検討を要する「大海」である。

 紙数が尽きたが、俳諧関係については、『俳句年鑑』(KADOKAWA、12月刊行予定)の「俳文学界の一年」を執筆予定なので、それに譲りたい。


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