学界時評【中古】2014.1-2014.6●陣野英則[早稲田大学教授]

 学界時評をお届けいたします。まもなく刊行予定の「リポート笠間57号」に掲載のものを、先行配信いたします。
 小社では「リポート笠間53号」から試みに学界時評をスタートさせました。
 時代区分・ジャンルは、上代・中古・中世・近世・和歌・日本語の歴史的研究と設定いたしました。この設定は、しかし既存の学会にあわせた時代区分をなぞっていて、近年の、時代を越境しつつある研究動向には必ずしもマッチしたものではありません。また、文学研究の範囲は歴史・美術・言語等にも広がってもいます。現時点では、こういった動向にあわせた時評の在り方の、良い答えを考えることができず、結果的に従来の枠組みをなぞることにしました。
 加えて、この時代区分のなかでお一人の評者に網羅的に論じてもらうのも限度があります。
 ですので、あくまでも「評者の目からみた」学界というものをお書きいただくことにしました。あえて網羅的であることを望んでおりません。このような趣旨でスタートしたもので、年2回、5月・11月に、リポート笠間に掲載していきます。
 これまでの時評は以下にまとめられています。あわせてご覧下さい。
http://kasamashoin.jp/jihyo.html
●以下に掲載の原稿は、編集部でインターネット向けに改行等を加えてあります。正式版は、ぜひ紙版の「リポート笠間」をご覧下さい。
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学界時評【中古】2014.1-2014.6●陣野英則[早稲田大学教授]
 昨年秋以降、複数の歴史研究者と情報交換をする機会が重なった。日本・東アジア・西洋の古代もしくは中世を専門とするベテランたちが、人文学Humanitiesの現状を憂い、近代の学問・研究の成り立ちを検証したのちに新たな人文学を構想したいという思いを共有している。たしかに十九世紀後半の国家Nationとむすびついた人文学の各専門分野をそのままにしておくことは、もはや正当化しえないだろう。これまで、「国文学」という学問についての検証の例もいくつかある。しかし、ひとつの専門分野だけの話ではない。人文学の根本をささえてきた概念・術語などの検討はもちろん、近代の人文学がどう編制されたのかということを総合的にとらえた上での構想を要すると、歴史家たちから教わった。
 そうした体験とシンクロするように、今年上半期とその前後一ヶ月の間に、人文学と文学研究のこれからを考えさせられる複数の文献にふれた。順不同で列挙すると、①吉見俊哉・北野圭介「《対談》来るべきカルチュラル・スタディーズのために」(『思想』1081、5月)、②河野至恩『世界の読者に伝えるということ』(講談社、3月)、③Wiebke Denecke, Classical World Literatures: Sino-Japanese and Greco-Roman Comparisons. New York: Oxford University Press: 2013. ④染谷智幸・ハルオ・シラネ・小峯和明「《座談会》トランス・アジアの文学」(『文学』隔月刊15・3、5月)、⑤田中康二『本居宣長』(中央公論社、7月)、以上五点である。個々についてのコメントを簡略に付す。
 一九九〇年代後半の日本で一時的に流行したカルチュラル・スタディーズは、早々に「軽スタ」などと揶揄された。旧来の社会学の一種に過ぎないという見方もあっただろう。①は、日本の牽引者であった吉見に北野が鋭く問いかけつつ、日本での流通が上澄みだけであったことをおさえる。その上で、文化Cultureという概念を根本から見なおし、人文学を批判的にとらえなおす際にカルチュラル・スタディーズが有効であることを示している。②の新書では、「世界文学」研究からみた日本文学、また海外の比較文学研究と日本研究がわかりやすく解説されている。あらためて日本文学・文化を専門としない(日本語の原文を読まない)比較文学研究者の論考と向きあう必要性を痛感させられた。日本国内の古典文学研究では決して出てこないような発想が期待されるのである。少し前になるが、例としては『平安文学の古注釈と受容 第三集』(武蔵野書院、’11・5)所収のV・ヘニチュック論文(緑川真知子訳)がある。一方、同じ比較文学研究でも③の著者は、古代ギリシア語、ラテン語、中国語、そして古文・漢文をふくむ日本語(ほか多数の言語)が堪能である。その研究内容は、書名が示すとおり、中国・日本(和漢)の古典文学と、西欧古典とヨーロッパ諸言語の文学、それぞれの関係を比較するものである。真にglobalな比較文学が、私たちの接する分野で実現している。④は、朝鮮の文学を積極的に関わらせようとする試みを示す。たとえば染谷により、仮名文字の誕生から『源氏物語』までの二、三百年と、ハングル成立から『癸丑日記』『閑中録』など宮廷女性の文学が出てくるまでの二、三百年との比較が、七百年の時の開きがあるためか、まったくなされていないことが指摘される。「比較の方法論」をこれから鍛える必要があろう。⑤はこれまでの宣長学が文学研究と思想研究に分かれてしまっていたことを批判し、「文学と思想の巨人」という副題をつけている。
 いろいろと変わる必要はある。とはいえ、古典文学研究が全面リニューアルを要するとはおもわない。二者択一の問題ではないからだ。人文学の見なおし作業、また新たな動向にも積極的に関わりつつ、他の専門分野がもっていない考証方法など、守るべきは守るしたたかさを失わないようにしたい。差し替えではなく、足し算をイメージしよう。
 古筆切研究などその最たる例であろう。この間の大きな成果は、横井孝「『夜の寝覚』末尾欠巻部断簡の出現」(『王朝文学の古筆切を考える』武蔵野書院、5月)である(論文の副題を略す。以下原則として同じ)。新出の断簡一行目、一字下げで始まる「しらさりし…」が『寝覚』散佚資料にみえる和歌だと確認された。また『武蔵野文学 2014増刊春号』(武蔵野書院、5月)の座談会も横井をふくむ六名の研究者によって一連の伝後光厳院筆物語切のこと、末尾欠巻部の復元の可能性などが多角的に検討されており、きわめて有益である。
 異文・異本に関わる研究も盛んになってきた。岡田貴憲「『和泉式部物語』の表現世界」(『国語国文』83・5、5月)と、同「「神世より」歌の本文解釈」(『国語国文研究』145、6月)は、いずれも従来最善本とされてきた三条西家本『和泉式部日記』の欠文または独自異文をとりあげた好論。一連の岡田論文により、三条西家本も「和泉式部日記」という書名も見事に相対化された。同じく『国語国文研究』145に掲載された松本裕喜「『伊勢物語』六十三段「あひえてしかな」考」は、「つくも髪」章段冒頭、現代諸注が学習院大学蔵本に拠り「あひてしかな」とする箇所を「あひてしかな」と改めるべきだとする。これは広本系諸本、また定家本系の一部にもみられる異文であるが、あくまでも「み」から「え」への転訛についての丁寧な論証を軸とする。妥当な推論であろう。注釈書の底本本文に手を加えないことを良しとする考え方がある。これは奇妙である。個々の写本の本文を能う限り尊重し、みだりに校合しないという姿勢は支持できる。だが、不審な点についてさまざまな本文の揺れを推理し、校訂案を示すのも斯界の研究者にしかなしえない仕事であろう。
 『源氏物語』関係では、まず今井友子「源氏物語における末摘花の造型」(『和漢比較文学』52、2月)、山本真由子「大江千里の和歌序と源氏物語胡蝶巻」(『国語国文』83・6、6月)が周到な考証にもとづく和漢比較研究の力作であった。比較文学のさまざまな可能性について先述したが、日本の手堅い研究の積み重ねももちろん意義深い。なお、山本論文の扱う「胡蝶」巻冒頭の漢詩文引用については特に先行研究が多く、大胆な読みを示す論もある。注に挙げてはあるのだが、今回の考証から先行論の批判すべき点を明示してほしいとおもわれた。次いで、徳岡涼「「手習」巻の浮舟歌について」(『国語国文学研究』49、3月)も、先行論の多い「袖ふれし人」の解釈を示す論考で、具平親王邸の紅梅をとらえた橘正通の詩序(『本朝文粋』巻第十所収)との関わりを新たに見いだす。兵部卿でもあった具平親王と匂宮の重なりについては、より踏みこんだ考察がほしいところではある。
 助川幸逸郎・立石和弘・土方洋一・松岡智之編『新時代への源氏学』(竹林舎)は全十巻の叢書で、まず5月に三冊が刊行された。力作ぞろいだが、「1 源氏物語の生成と再構築」では、土方洋一「『源氏物語』は「物語」なのか?」が「新時代へ」向けた議論として貴重であろう。「物語とは?」または「物語文学とは?」という問いを立ててきたこれまでの源氏学の陥穽がとらえられている。『源氏物語』だけを特筆大書する傾向への批判はありうるだろうが、『源氏物語』を「物語」という容量の少ない器から解き放ち、議論することの意味は大きい。あわせて、『源氏物語』の共同制作という視座も示されており、共感する。先の徳岡論文なども当てはまるが、紫式部単独ではなくその交遊圏の人々をふくめた研究は活性化しつつあり、期待される。同叢書の「2 関係性の政治学Ⅰ」では、池田忍「平安時代の性の政治学と「紙絵」の位置」をとりわけ興味深く読んだ。紫式部の操作により『源氏物語』こそが紙絵の地位を高めたこと、またそこに政治的機能を付与したこと、さらに平安宮廷社会のジェンダーシステムと紫式部との関係などを明らかにする。「6 歴史と虚構のはざまで」では、特に森田直美「服飾による創造を読み解く」と題した「聴色(ゆるしいろ)」研究がすぐれた考証を展開した。あわせて示された、有職関係の注釈に関わる 問題提起も重要である。
 また、古注釈に関しては、日向一雅編『源氏物語注釈史の世界』(青簡舎、2月)が充実した論考十七篇を収載する論集で、大変読み応えがあった。
 後期物語では井上眞弓・乾澄子・鈴木泰恵・萩野敦子編『狭衣物語 文の空間』(翰林書房、6月)が精緻な論考計十七篇を集める。そのうち神田龍身「『狭衣物語』―物語文学への屍体愛(ネクロフィリー)=モノローグの物語―」は、回想の媒体としてのエクリチュール、独詠、立ち聞き、噂等々の分析から、パロールの実態から離れエクリチュールに究極の価値をおく『狭衣』のモノローグ世界をとらえる。さらに三谷栄一論文を受けて、『狭衣』が「六条斎院禖子内親王サロンの過往を偲ぶ記念碑的テクスト」であるとする。作者の交遊圏の問題がからんでくることで、テクスト読解の愉悦がさらなるひろがりを示すこととなった。
 歴史物語研究では陶山裕有子「歴史物語の身体」(『日本文学』63・3、3月)が、『大鏡』の語り手は道長近辺の貴人の身体性をとらえられないのに対して、『栄花物語』の語り手は道長・彰子などのまなざしの動きに語りを沿わせながら高貴な女性たちの身体を描いていると論じ、歴史物語の語り手論、かつ物語論として新境地をひらいた。
 編集部より、評者の目からみた今の学界の姿をとらえるように、との指示を受けてこのようにまとめてみたが、かなりの偏りがあり、是非ともとりあげるべき論考を漏らした可能性もあろう。また、この半年間に意義深い単行書(単著)が次々と刊行されているが、紙幅の都合でふれられなかった。学会誌などの書評でとりあげられることを念じている。