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2014年6月11日

 記事のカテゴリー : 新刊案内

●和田敦彦『読書の歴史を問う』第8章◉電子メディアと読者、を全文公開

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和田敦彦『読書の歴史を問う』・第8章◉電子メディアと読者、を全文公開いたします。
2014年7月上旬刊行予定です。

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本書の詳細は以下をご覧下さい。

http://kasamashoin.jp/2014/06/post_2951.html
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-305-70736-9.html

また、2014年07月19日(土)19:30 ~より、ジュンク堂書店池袋本店にて、刊行記念トークイベントがあります。お時間がございましたら、ぜひご来場ください。きっと面白いトークになります!

和田敦彦×大橋崇行
「読書の歴史の問い方~何のために問い、何が分かるか~」

→無事終了いたしました。以下動画公開中です。(2014.7.29)

○ジュンク堂書店Podcastでも公開中です。
http://junkudo.seesaa.net/article/402803664.html

では以下、ぜひご一読下さい。
電子図書館の成り立ちという問題や、研究者がシステムに関心を持つということ、函と知の問題、いずれもいままで流通していない言説が多いと思います。

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第8章◉電子メディアと読者

【電子化され、流通するテクストが、現在の読書環境を大きく変えている。読者への書物の流れは、それまでの単線的な流れとは異なる関係におかれ、一つの書物が異なるいくつもの場で、複数の読者と同時につながりあう状況が生まれている。だが、この読書状況をとらえる際にも、書物と読者とがどうつながり、それまでのつながりの何がかわっているのかをとらえていくことが鍵になっていく。】

1 電子化された書物

 近年の書物のデジタル化、そしてインターネット上でのその公開は、書物が読者に「たどりつくプロセス」を大きくかえるものとなった。物理的な書物にとっては、それが占める場所こそが読者との接点となっていた。しかし、それら書物がデジタル化され、一度に無数の場で、不特定の読者との関係が生まれていく。

 物理的な書物と、デジタル化されたその書物とは、どれほど同じように見えても、もはや同一の書物ではない。その書物は新たな読者とのつながり方、接点をもち、場合によっては新たな読み方や意味を帯びる全く別種の書物といってもよい。これら書物の急速な増加は、書物の役割や意味そのものを、さらにはそれら書物を土台として成り立ってきた知の土台そのものをも大きく変えている。本書で目を向けてきた書物が読者にいたる流れ方や、書物と読者のつながり方の大きな変化がそこにはある。

 物理的な意味では、国境を越えて最大規模の日本の書物が海外に流れていったのは占領期である。しかし、電子化された書物が作りだした読者への流れを視野に入れれば、最近の一〇年こそ、もっとも多くの日本の書物が国内外を含めて流通した時期であることは間違いない。そしてこの状況は、さらに拡大、持続してもいる。

 国立国会図書館の近代デジタルライブラリーが無償で提供する書籍は現在三五万点に及んでいる(図39=近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/)▼注(349)。これほど大規模でなくとも全国の公共図書館、大学図書館や博物館、資料館で書籍や雑誌、文書の電子化、公開が進んでいる。日本で出された学術論文にしても、三〇〇万件を超える論文本文を収録したデータベースが、国内外で日常的に利用されている▼注(350)。有料で提供されている電子書籍やデータベースを加えれば、これまで図書館や書店で接していた書物とは比較にならないほどの膨大な書物が、世界各地の読者とつながることができるようになっていることになる。

 国内にある日本語の書物ばかりではなく、逆に海外にある日本の書物もまたデジタル化が進められている。大規模なプロジェクトでは二〇〇四年にはじまったグーグルブックス図書館プロジェクトがあげられよう。ハーバード大学やミシガン大学、オックスフォード大学などの大学とグーグルが提携し、大学図書館の蔵書をデジタル化していくプロジェクトであり、その後も参加大学を増やし、二〇〇七年からは慶應義塾大学も加わっている。このうち、ミシガン大学はすでに日本語蔵書全体のデジタル化を終えており、著作権の切れた書籍についてその公開もなされている▼注(351)。

 近代デジタルライブラリーの場合、公開されているのは原則として著作権保護期間の切れた書物である。戦前に没した著者の書物が中心となり、明治期刊行の書物が大部分を占める。明治期の刊行物は、近代デジタルライブラリーの公開以前には、読者にとってはなかなか接することのできない希少な文献だったわけだが、現在では、国内のどこからでもインターネットを介して容易に閲覧できる文献へと変化している。国内外で学術機関が電子化し、公開している書籍はこれら明治期、あるいはそれ以前の書物が圧倒的に多い。

 書物と読者との関係からすれば、ここ十年というのは、明治期やそれ以前の古典籍が史上最大の再生を果たし、地方都市や海外を含め、遠くの読者とそれら書物とのつながりが生まれた時期なのである。もしも文学史というものが、読者の前に現れた小説について記述するものであるとしたら、現代の文学史はこれら過去の膨大な書物が押し寄せてきた未曾有の時期として描かざるを得ないだろう。

 日本の書物のデジタル化と公開が急速に進み、その数を増しているということは、読者が膨大な書物と自由につながりあう環境が生まれているということなのだろうか。確かに、これまで遠く離れ、しかも希少であった過去の書物に対して、読者が近づきやすい環境は生まれている。その一方で、このことは電子化されにくい書物や、電子化されていてもアクセスしにくい書物がそこにあることも明瞭に示してくれる。

 読書における不自由さ、制約がどう生まれ、どう変化しているかを、読書の歴史をとらえるうえでの重要な視座としてきた。ではこうした電子書籍や、デジタル・ライブラリーが作りだしている読書環境と、それが生み出している読書の不自由さに対して、どのようにアプローチしていけばよいのだろうか。それには、まず具体的に、読者がうまく書物にたどり着けない事例から見ていけばよいだろう。ここでは特に学術情報の事例をとりあげて考えてみたい。

 大学で学び始めたばかりの一年生の、基礎的な授業での実際にあった事例である。その学生は児童雑誌『赤い鳥』についての論文を集め、それらを論じるという目的をもっていた。その学生はまず教わったとおり論文検索用データベース(CiNii)を検索し、一八四件の『赤い鳥』についての論文のリストを手に入れた▼注(352)。しかしこれでは多すぎると思ったその学生は、その論文をさらにどうやって絞り込むか。

 データベースの検索窓のすぐ下に、データを絞り込むためのオプションがもうけられている(図40)。それはこのデータベース上で論文本文が読めるか、そうでないかによる絞り込みである。そしてこの学生は、そこで本文が読める論文だけに絞り込んだ。結果は劇的で、論文数はいっきに二八本にまで減り、学生はそのうちから「読みやすそうな」論文を五つ選んで内容をまとめ、めでたく作業は完了した。ちなみにこの学生が選んだ五つの「論文」なるもののうち一つが書評、三つは大学院生の学会発表要旨だった。むろん、一年生は、真剣にこれらを立派な「論文」と思っていた。

 まともな論文にこの学生がたどりつけなかった理由はいくつか考えられる。結論から言えば、日本文学研究の領域では、まともな論文の多くがまだ電子化されていない、ということが原因となっている。しかし学び始めた学生はそのようなことは分からない。論文にたどりつけないのは論文が電子化されていないというより、そもそも『赤い鳥』についての論文自体があまり書かれていないのかもしれない。あるいは電子化されていても、そのデータベースに登録されていないのかもしれない。たまたまそのデータベースに障害があったのかもしれないし、利用者の資格や、端末の状態がその原因となったのかもしれない。

 水道から水が出ない理由は、蛇口にあるかもしれないし、水源に、あるいはその間のどこかにあるのかもしれない。どこに問題があるかを知るにはどうすればよいだろう。水が手もとにいたるまでのルート、プロセスをはっきりとさせて、それをいくつかの部分に分けて、どこにその原因があるかを調べていけばよい。読書の歴史をとらえる際の基本的な手順、つまりその書物(論文のデータ)が読者に「たどりつくプロセス」をとらえることが、ここでもやはり有効なのである。

 ここでの電子図書館とその読者の事例で言えば、この読者に「たどりつくプロセス」は、さらに大きく二つに分けることができよう。論文を収めた書物が電子化され、データベースの形となっていくプロセスと、それが読者にサービスとして提供されていくプロセスである。前者には、電子図書館の情報の母体、つまりデータや、それを整理するためのメタ・データ、そしてそれを利用に供するための電子図書館のインターフェイスを含めておこう。後者には、それらのデータと読者との間に介在するもの、すなわち通信インフラや端末の機材、さらにはそれらを提供するサービスを含めることができよう。簡単に言えば、書物が読者に「たどりつくプロセス」を、書物が電子化されデータベースとなるプロセスと、それが読者に提供されるプロセスとに分け、さらにそれらを細分化して考えればよいのである。

2 データベースのリテラシー

 先ほどの『赤い鳥』の場合、その原因は、論文は豊富にあっても、いまだ電子化されているものが少ない、つまり電子図書館のデータのなりたちに問題があった。だがこの学生は、論文が電子化されているもののみに絞ってしまった。しかし、もしも代表的な論文や入門者向けの論文が優先的に電子化、公開されていたならば、この学生の選択は効果的だったかもしれない。ただ、少なくとも二〇一四年現在の日本の人文科学領域では、電子化、公開されているということと、論文の質とは無関係な場合が多く、その改善にむけての取り組みも進行中の状況にある。

 つまり、電子図書館やこうしたデータベースをうまく使うには、そもそも何を、どれだけ、どういう基準で電子化し、公開しているのかという範囲を知ること、そして、そのデータがどういう偏りや空白をもっているのかを理解しなければならない。言い方を変えれば、電子化されている書物をうまく使うには、実は電子化されていない書物についての知識が重要なのだ。こうしたデータベースの範囲や偏りについての理解、いわばデータベース・リテラシーが必要だし、それを提供する側も、自らの限界と制約を読者に気づかせる工夫が必要となろう。

 この学生が目的の文献にたどりつけなかったのは、データベースの成り立ちのみではなく、そのインターフェイスにも理由がある。論文を調べるメインの検索窓の、そのすぐ下に「電子化されている、されていない」という選択肢があれば、その手順こそが次に行うべき選択だと考えてしまう利用者もいよう。つまりインターフェイス上の電子化されている、されていないという選択肢のこの「位置」は、次にこれを選択すべしという「価値」と取り違えられる危険性がある。商用の検索サイトでは一番上、あるいは一ページ目に表示されたものを利用者が選んでしまう傾向が生まれるが、こうしたディスプレイ・バイアスの一種とも言えよう。▼注(353)

 人文科学の研究領域では、最新の研究成果のみが重要なのではなく、むしろ過去に明らかになった事例の蓄積こそが重要であり、古い論文の利用価値も高い。それをカバーするためには膨大な過去の論文の電子化が必要だが、その作業はまだ途上にあり、研究領域ごとに進行状況はまちまちで、しかも年ごとにその状況が変わりつつあるのが現状である。

 では、『赤い鳥』の学生はどうすればよいのだろうか。これら現在の電子資料や各種データベースを初学者が活用する際に、意外に役に立つのは教員の「昔はこうやって調べた」という説明である。こうした便利なツールがなかった時期に、ではどうやって論文や資料を集めていたか。こうした話は得てして昔の苦労話や懐旧談のように思われがちだが(そして単にそうなる場合もある)、実際には情報を集め、選別する際の効果的な手順や戦略が豊富に含まれてもいる。

 『赤い鳥』の場合、昔ならまず昨年度出た論文を集め、さらに少しずつ年度をさかのぼって集めていた。別に新しい論文がよいというわけではなく、まともな論文なら通常はそれまでの研究の総括や批判を含んでいるし、主要な雑誌やそれらが置かれた書架に接しているうちに、次第にそれまでの研究状況が分かってくる。別にそうしたかったというよりも、主要な論文のタイトルは年度ごとに『国文学年鑑』という冊子体で刊行されていたので、そうするしかなかったのである(図41=図41 国文学研究資料館の『国文学年鑑』)。だが、こうした手順がイメージできていれば、いきなり一八四件という数にとまどうことなく、例えば過去五年で絞り込んで、とりあえずそれらが掲載されている雑誌の書架へと向かう、ということもできるだろう。

 教育や研究に携わる側からすれば、今日の電子情報や各種データベースは確かに「便利」だが、そう思うのは、便利でなかった時期の調べ方が自身の心身に刻み込まれているからなのである。最初からそれらのツールを与えられた初学者や電子図書館のはじめての利用者たちにとって、そもそもそれは「便利」なものでさえない、いやむしろとまどわせさえするものなのだ。情報環境は、決して単なる右肩上がりの成長をしているわけではない。得たメリットも大きければ、その便利さや簡略さゆえに見過ごされるようになったことも少なくない。

 こうした事例からも分かるように、電子図書館は、その含む書物自体のデータと同じほどに、その書物についての情報、つまり目録情報や検索のインターフェイスが重要な役割を果たすこととなる。そこに欠陥があれば、たとえ情報が含まれていても、それが見えない、あるいはそこにたどりつけないことになる。電子化された目録と検索システムが一般化している現在、その目録データが、物理的には存在しているはずの図書館の蔵書を見えなくしてしまう事態も起こっている。海外の日本語蔵書を調査していた折には、所蔵していてもこうした理由から見えない、たどりつけない大規模な蔵書がある事例も珍しくなかった。海外では日本語図書を目録化するための人出や予算はどの機関でも大きな負担となる。

 米国のノースウェスタン大学の場合、戦前には日本語図書を収集し、日本学にも力を入れていたが、現在では日本学への関心は薄く、日本語を扱える図書館スタッフもいない。このため、その目録も電子化、公開されるにいたっておらず、閉架書庫に配架されたまま、所蔵されていること自体が外からは見えなくなってしまっていた▼注(354)。海外では最大の日本語図書を所蔵し、管理スタッフを抱える米国議会図書館でさえも例外とは言えない。近代の書物でも、特に戦前の書物は、占領期に大量に増えたまま、複数冊を一つにまとめて記録したり、電子化されずに冊子体の目録のままにとどまっているものもある。▼注(355)

 今日の学術情報データベースは、自然科学はもとより、人文科学の領域でももはやなくてはならない存在になっており、書物や論文を探すときにそれらを用いることが必須となっている。これらは、単に補助的な道具や役に立つ道具というレベルを超え、学問の基盤となりつつある。それらを利用するのみではなく、その用い方や限界、特性をまずもって身につけ、あるいは教えていかなければ、どの研究領域でも初歩的な段階で混乱を招くことになる。青い鳥ならぬ『赤い鳥』を探していた学生は、その入り口で早々に道に迷ってしまうことになるのだ。

 これまでの話を整理すると、まず電子図書館と読者の問題をとらえるために、まず電子図書館の成り立つプロセスと、そのデータが読者に提供されるプロセスとに分けて考えた。このいずれのプロセスにおいても、読書の制約、限界が生まれうる。その制約や限界をとらえるためには、それぞれのプロセスが、どのようにできているかを理解することが有効である。簡単にいえば、その電子図書館の書物が、いつ、どこにあった書物を、どれだけデジタル化しているのかをまずはとらえる必要がある。電子図書館が、どのような資料をどれだけ電子化し、どのように提供しているのか。こうした電子図書館やデータベースの成り立ちを知ることが、その制約や限界を知るためには有効なのである。

3 電子図書館の成り立ち

 デジタル化され、インターネット上で公開されているデータベースは多種多様だが、ここではおもに、既存の雑誌や書籍をデジタル化し、提供している電子図書館を対象にして考えていきたい。ある電子図書館のもっている傾向や限界、特徴を知るには、その電子図書館がいかにできたのか、という成り立ちを知ることが役に立つ。つまりその電子図書館の過去、歴史情報が有効なのだ。

 ここで引いたのは、ミシガン大学が所蔵し、電子化して提供している古典籍である(図42)▼注(356)。米国内でも有数の日本語図書館として知られるミシガン大学アジア図書館の日本語蔵書は三〇万冊に及ぶ。ミシガン大学は、グーグルと連携したプロジェクトで、すでにすべての日本語蔵書を電子化している。ミシガン大学は、著作権の切れた書籍のデータを電子図書館ハーティトラストを通して提供しており、この書物もその一つである。

 ミシガン大学の日本語図書館は、創設当初からすぐれた書誌研究と並行して構築されてきており、基本的な学術文献を丹念にそろえてきた図書館でもある。ただ、それは近代の書物に関してであり、日本の古典籍については意識的に収集してきたというよりも、運良く手に入った書物によって構成されている。ここに引いた書物の蔵書印は「鎌田共済会図書館」とある。この鎌田共済会図書館旧蔵書が、古典籍の主要な部分となっている。

 香川県の坂出市にあった鎌田共済会図書館は大正期から地域の図書館として活発な活動を展開しており、早くから地域の郷土資料に関心を向けてその収集や紹介をも行っていた。現在では鎌田共済会郷土博物館として、それら資料の保存、提供を行っている。ミシガン大学は、占領期に鎌田共済会図書館のおよそ二万冊に及ぶ蔵書を買い取っており、この古典籍はそこに含まれていたものである。▼注(357)

 つまりミシガン大学が提供している電子図書館は、古典籍について言えば、香川県の地域の図書館が戦前収集していた、かなり特殊な書物群なのである。このように電子図書館が提供できる範囲、限界や傾向は、その蔵書の歴史によって大きく影響を受ける。だからこそ、こうした成り立ち、歴史情報が、データベースの活用には有用なのだ。

 例えば近代デジタルライブラリーは、国立国会図書館の蔵書をもとにしている。明治期の刊行図書を広範に含んではいるが、国立国会図書館に所蔵されていない図書は当然含まれない。どのような大規模な電子図書館とはいえ、その母体となる蔵書がもっている性質や限界を反映する。明治期の刊行図書の場合、国立国会図書館が収集してきていない書物も多い。そのため近代デジタルライブラリーを用いる際には、そこに含まれていない書物を探すことも必要となる。

 電子図書館の書物に向かうとき、そこに含まれる書物と読者との接点を作り出す仕組み、つまり書物についてのデータ、目録情報の形こそが読書の際に大きな役割を果たすこととなる。読者とのつながり方がそれによって作り出されていくという点で、電子図書館の検索システムは図書館の形そのものを変えるほどの意味合いをもっている。近代デジタルライブラリーの場合、目録情報とその検索が読者との多様な接点を作りだしているが、この検索対象に、目録情報とともに書物の「目次」情報が加えられることで、この電子図書館は非常にユニークな図書館へと変化したといってもよいだろう。

 「目次」は、どの書物も同じルールでつけているわけではないし、精粗も書物ごとに異なり、さらには内容にそぐわない「目次」がつけられていることさえもある。したがって一般に図書館では、目録作成時に「目次」の情報を入れたりはしない。しかし、置かれた場所情報を含め、物理的な手がかりを欠いた電子図書館の書物にとって、読者がその書物にたどりつくための具体的な糸口を増やしていく工夫が必要だ。

 「目次」を検索対象に含めるという方法は、そういう工夫として高く評価できるだろう。それによって、明治期の膨大な書物に読者がたどりついていくための新たな通路が作り上げられたといってもよい。デジタル化された書物の質や量のみではなく、目録情報や検索システムの工夫の中に、新たな読書を作りだしていく可能性があることを、この事例はよく示してくれる。▼注(358)

 電子図書館の成り立ちは、母体となる蔵書の特徴や歴史とともに、提供される目録情報の形が重要となるが、近代の書物を対象とする電子図書館と、近世以前の書物を対象とする場合とではかなり異なる問題がそこに横たわっている。近世以前の日本の書物を収める電子図書館としては、早稲田大学図書館の古典籍総合データベースが代表的なものとしてあげられよう(図43=早稲田大学古典籍総合データベース http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/)。大学の所蔵する古典籍三〇万点のすべてをデジタル化、無償公開するプロジェクトとして二〇〇四年に開始され、翌年から段階的に公開が進められている。

 近代以降に出版された書物をもとに電子図書館を作っていく際には、著作権が切れているかどうか、あるいはそれを確認するための作業が、大きな部分をしめる。だが近世以前の書物を対象とする電子図書館を作る場合、何よりの大きな問題となるのは目録の作成である。近代の書物の場合は、著者や出版社などの書物の書誌情報が規格化されており、目録の作成は比較的容易である。近代デジタル・ライブラリーにしても、その目録情報は国立国会図書館の五巻本の蔵書目録がもととなっている。▼注(359)

 しかし、近世以前の書物は、タイトル一つ目録にとろうとしても、表紙のタイトル以外に、本文の最初にタイトルが付されている場合(内題)もあれば、本文最後に付されたタイトル(尾題)、そして柱の部分に付されたタイトル(柱題)と、一冊の書物でも異なるタイトルをいくつも含んでいる場合も珍しくない。判読も容易ではなく、刊行者や書写者の情報の有無も様々である。古典籍総合データベースの場合、こうした目録の規格を作り、さらにその目録を作るスタッフからまず「作る」必要があった。とはいえ、こうした古典籍の電子図書館を作っていく際の、目録のモデルを作りだしたという点で、このデータベースの意義は大きい。

 ただ、その一方で、ここで作られた目録情報とその検索システムは、読者がそれぞれの書物にたどりつくための工夫という点では、まだ十分なものとは言いがたい。書誌情報の規格化されていない近代以前の書物は、読者が書物を探すための様々な手がかりがいっそう必要となる。刊行や書写年代でしぼったり、複数の分類やキーワード、著者やタイトルの一部、あるいは書肆名や刊行地など、その書物にたどりつくための可能性をもつ情報は様々である。

 古典籍総合データベースは、現在の所、こうした検索のための手がかりがまだ十分には作り出せていない。これら書物をうまく生かしていくためには、読者との間をうまくつないでいく工夫が必要となる。書物と読者との間をとりもつ存在、役割を、電子図書館がどのように創造し、提供していくのか。このことは、読者にいたる書物の流れが、これからどう変わっていくかを考えるうえでも重要な課題となろう。

4 読者との「あいだ」に

 これまでは電子図書館の成り立ちや仕組みについて、具体的な電子図書館の歴史を事例としてとりあげながら考えてきた。デジタル化された書物は急速に増加しており、これら書物へと読者がたどりついていくための目録情報や検索システムの重要性は、今後も高まっていくことは間違いない。しかし、電子図書館の書物にたどりつくうえでの障害は、デジタル化された書物やその目録情報ばかりではない。電子図書館が、そのデータを読者に提供するプロセスにおいても、様々な問題がはらまれている。

 ここでとりあげた近代デジタルライブラリーや古典籍総合データベースは無償のデータベースだが、有料で契約していなければ利用できない電子図書館も存在する。また、海外どこからでも利用できるというのは、あくまで通信インフラが整備され、インターネットを快適に利用できるような回線や端末があることを前提としての話である。また、情報環境を利用する側の知識や技術もそこには必要だ。電子図書館と読者は、こうした数多くの「あいだ」の存在によって媒介され、支えられている。それゆえに、この「あいだ」にどういう要素があるのかを考えていく必要がある。

 このように考えるとき、電子図書館が読者にたどりつくまでの「あいだ」をとらえ、その制約を問うということが、非常に多様な研究へと展開する可能性をもっていることがよく分かる。その地域の読者が現在おかれているこれら電子図書館の利用環境や、利用する能力の問題、さらにはそれらが地域間、あるいは世代間で格差を生んでいく、いわゆるデジタル・デバイドとその対策といった問題まで、幅広い。

 読者にいたる末端の地点、すなわち読者が操作する端末の性能や価格、あるいはその所有の有無もまたここには大きく作用する。読みやすさや操作のしやすさが、何によって生じるのか、それが端末の性能やアプリケーションによってどう変わってきたのか。紙で活字を読む場合と、画面上で読む場合との相違も、様々な角度から議論され、研究されている問題でもある。特に端末の小型化や高性能の液晶画面の普及、そして豊富な書物データとその配信サービスの盛況は、こうした読書の問題を身近なものとしているのも確かだ。

 教育学や図書館学の領域でも、電子テキストを画面で読む場合と紙の書物を用いる場合との比較、検討が国内外を問わず数多く成されてもいる。多くの事例では、電子テキストの利便性を評価しつつも、読書においては紙の方が利用がしやすく、読む際の負担が軽いことが報告されてもいる。▼注(360)

 ただ、こうした電子テキスト、紙のテキストの読書を比較対照する実験や研究には、方法としてかなり無理もある。書物は複雑で多様なテキストからなりたっており、一冊一冊が、無数の差異をもっている。ある書物で両テキストの読書を比較、検討したとしても、それが辞書や哲学書、あるいは詩集や地図を用いた場合に同じ結果をもたらすかは分からない。▼注(361)

 こうした条件を統制し、一定の短い文字列やランダムな単語を読者に提示し、その際の反応や記憶を検討していくことも可能だが、そのように被験者の読書環境を制御すればするほど、現実の個々の読書とはほど遠い、実際にはありえないような読書環境を作り出すことになってしまう。書物の側ではなく、読者側の世代差や性差、そしてまた携帯端末を含めた情報環境との接し方の違いも影響してくる。あるいは、こうした電子書籍の受容能力には、電子メディアの読書をどれだけ自覚、意識しているかが鍵になるとする見方もある。▼注(362)

 また、情報端末の画面を含め、機器の性能は大きく変動、多様化しており、ある情報端末で紙と画面の差異を測定しても、それがどれだけ長期的に広い範囲で妥当性をもつのかは明確ではない。さらには、用いる場面や状況、用途によって、電子書籍が適している場合もあれば、書物の方が用いやすい場合もあろう。紙の書物の読書と電子テキストのそれとの比較・対照は、明確で具体的な対象と問題意識がないかぎり、きわめて漠然としたものとなってしまう。何のために両者を比較し、考える必要があるのかを明確にする必要がある。

 読書は、書物が読者へと届き、理解されていくプロセスである。そして、本書では、読書が成り立つうえで、この流れ、プロセスが何によって阻まれ、制約を受け、あるいはそこから解放されるのか、という点を重視し、問うという立場に立っている。もしも電子書籍の読書を問題にするのであれば、このプロセスがどう変わるのかが問題にされなければなるまい。例えば電子書籍の端末の性能を評価する際にも、軽さや画面の精細さ、活字の読みやすさがしばしばとりあげられるが、実はこれらの特徴そのものに価値があるわけではない。いくら画面が美しくとも、その端末で提供できる書物データに制約があれば、その端末では「読めない」ことになるのだから。

 デジタル化された書物が読者にたどりつく「あいだ」には、それを仲介する多くのプロセスが存在する。それらが、この流れをどう制約し、どのような問題がそこで生じているかを問題にしていかなくてはならないのだ。実際これは電子化された学術情報においても深刻な問題となっている。現在、論文の本文や目録情報だけではなく、様々な書物や文書の所在や目録情報は、電子化され、オンラインでの利用が主流となり、情報を探すことのできる範囲は広がり、そのための労力も軽減された。しかし、これらデータベースは、一方で高額な商品でもあり、購入できなければ利用できない。

 特に近年では、商業学術雑誌を中心に電子ジャーナルの提供サービスは寡占化が進み、多数の学術雑誌を含む大規模で高額なデータベースとして販売、契約されている。国内外で、年々値上がりするこの費用が捻出できず苦しんでいる学術図書館は数知れない。学術情報を提供する「あいだ」にあるこうした仕組みや組織に対して、それぞれの領域の研究者が十分な関心をはらってこなかったとも言えるだろう。というよりも、それは研究の外部にある出来事、サービスと見なされてきたといってもよい。

 しかし、学術情報に依存しない学問はない以上、私たちは、自分たちが用い、利用する情報自体の仕組みや成り立ち、それを提供するシステム自体に向けて、関心を払う必要があるだろう。読書に、そして書物の流れに関心をもつということは、自らのよって立つ学問領域の基盤、成り立ち、環境自体に目を向け、関心を向けることでもある。

 読書の研究は、単に文学や歴史といった限定された領域の問題ではない。このように、あらゆる学問領域において、その基盤情報そのものに目を向け、その利用、提供のよりよい環境について考えるための道筋ともなろうし、そのために連携、協力し合う領域を超えた場ともなり得るのではないだろうか。

5 「函」の役割

 デジタル化された書物と、それらが読者にいたる「あいだ」に横たわる問題について検討してきた。そこではもはや物理的な書物を収める棚、図書館といった明確な範囲や形をもった場は必ずしも必要とされなくなる。では、このことは読書をどういう行為に変化させているのだろう。逆に言えば、これら物理的な棚やそれぞれの図書館、書庫といった場は、読書においてどのような役割
を果たしてきたのだろうか。

  私は、別に紙の書物の信奉者ではないし、物理的な書物が並んだ図書館という場所に過剰な愛着をもっているわけではない。デジタル化された書物や雑誌に抵抗感はなく、その便利さを身にしみて経験してきた世代でもある。だがそれでも強調したいのは、棚や書庫といった物理的な空間の担ってきた役割だ。これは何かを体系的に学ぶ場合、そして特にそれを学び始めた読者にとって、重要だと考えている。

 もともと学問や知は物理的な形をもったものではないし、それを図書館という「形」に整理、分類して押し込めることは、ある意味無理があるのも確かだ。けれど、分かりやすい「形」があるからこそ、私たちはそれを批判したり、発展させたり、場合によっては壊したりすることができる。カオスのような膨大な情報が、物理的な場所を占めることなく果てしなく連なった知の体系の中で何かを作り出したところで、それを評価するのも伝えるのも難しい。特に、初学者の読者にとっては、具体的な広さと物理的な限界をもった場所、いわば「函」の中で学んでいくことが、自身で研究できるようになるまでの大事な段階として機能する。

 図書館の棚はそうした「函」のよい例である。関連する研究書が棚という一定の範囲内に「見える」「並んでいる」ことが、どれだけ研究するうえで役立ってきたことだろう。研究しながら、私たちは棚を読み、棚に示唆され、教わってきた。長い時間をかけて選び、蓄積された書架は、その図書館の作り出したまさしく作品に他ならない。

 物理的な限界や、領域のはっきりしない場では、情報を位置づけたり、評価したりすることは難しい。たとえ私たちをとりまく情報に際限がなかろうとも、それを位置づけるためにはとりあえず情報の全体をイメージしなくてはならない。数千から数十万といった文献を提供するデータベースは、確かに強力なツールではある。しかし読んだ情報を評価するには他の文献を読んで比較・対照しなくてはならない。あまりに多くの文献があれば、その作業は果てしなく、全体の輪郭はつかみがたい。

 インターネット上での情報は際限なく広がり、信頼性の薄い情報や根拠のない情報を含めて互いに結びつきあい、広がっている。明確な参照軸のないままに、参照された頻度や画面上の位置といったおぼつかない手がかりが幅をきかせる。学術情報はこれら膨大な情報の、いわば参照軸や評価尺度として、これからも重要な役割を帯びることとなるだろう。

 安定した、信頼性のある学術情報を、どうやってインターネット上で提供するかが、これらの情報と読者との今後の関係を考えるうえでの課題になる。その時に、私たちはこれまでに物理的な「函」が果たしてきた役割を、今一度考え、生かしていく必要があるのではないか。書物という物理的な形、棚の空間的な配置や、書庫、図書館といった物理的な場所、空間といった枠組みが、読者に果たしていた役割について。それは確かに読書に物理的な制約や限界を作り出していたものではあるが、同時に情報に安定した場所、空間を与え、目に見える明確な輪郭を与えていたものなのだから。

 こうした物理的な枠組みの果たしてきた役割は、書籍や雑誌についてのみではなく、過去の様々な文書についても言えることでもある。デジタル化された日本の歴史文書の利用をめぐって、内外の研究者が意見交換していた折に、やはりこのことを感じずにはいられなかった。

 日本では、アジア歴史センターが、国立公文書館や防衛省の防衛研究所の所蔵する過去の公文書や歴史資料を広範にデジタル化、公開している。三千万点にのぼる文書を公開しており、今後の公文書の公開を考えるうえでも重要な機関である。二〇十一年にその開設十周年を記念するシンポジウムが早稲田大学で開催されていた。▼注(363)日本の歴史資料を利用する韓国や中国、ベルギーの研究者を交えたシンポジウムである。

 海外の研究者たちの意見は様々ではあったが、それぞれに共通した体験として、資料のデジタル化、公開が行われる以前、国立公文書館や防衛研究所に朝から足を運び、手間と時間をかけて文書にたどりつかねばならなかった「苦労」が語られた。そして膨大な一次資料が、今は海外からすぐにでも見られる「便利さ」を共通して述べてもいた。▼注(364)

 ただ、私がそうした話を聞きながら一方で考えていたのは、実は研究者にとって歴史資料を探し、遠くに足を運び、それぞれの場所におかれた文書を探す、という行為自体が、実はそれら閲覧する資料の重要性や意味、希少性をはかる大事な尺度にもなっていたのではないか、という点である。その文書の置かれた場所や保管のされ方、たどり着きにくさは、その資料の重要な歴史情報の一部分をなしている。デジタル化され、横並びに公にされた数千万点の歴史資料は、それぞれの資料がもっていた場所、読者からの距離を喪失してしまう。

 図書館や文書館、あるいはそれぞれの資料がおかれてきた場所、物理的な空間は、それらの書物や文書を物理的に支えているのみではなく、信頼性や情報の質そのものを支えてもいる。読者はそれら文書が、時を経て、その具体的な保管場所にいたったことを含めて、その資料を評価し、読んでいるのである。

 これらの物理的な空間、いわば「函」は、書物の重要性や信頼性を補強し、その空間を通して読者の身体にそれを確認させ、教えてくれる。私たちは例えば図書館を利用するときに、いわば図書館という空間を体で読んでいるのである。重要な資料や、利用者の少ない資料が読者の手の届きにくいところに置かれていることが多いのであれば、そのたどり着きにくさ自体が、その資料の希少性や利用度を読者に伝える情報としても機能する。

 こうした物理的な「函」が、読書において果たす役割は、まだまだ幅広く考えていくことが可能である。「函」には、ある知を体系的、段階的に学んでいくための、教育的な効果が含まれている。小さな「函」には少しの書物しか入らないが、その分、個々の書物と「函」全体と関係が理解しやすい。家にある書架、小さな書店、さらには小さな公共図書館から大きな図書館、広大なデータベースへと、「函」を段階的に経ていくことは、読者がそれぞれの書物を評価したり、意味づけたりする際に有効に機能する。最初から一〇〇万冊の書物をいきなり前にした読者は、自分が目にした一つの書物が、そもそも珍しいものなのか、似たものがほかにどれだけ、どこにあるかも思い描きがたいのだ。

 書物の置かれた空間や場所の意味、それが読書の歴史の中で果たしてきた役割を、今こそ研究する必要があるのだろう。その意味で、電子図書館を理解し、評価するときに、これまでの図書館と読者との関係史や、書店と読者の間の歴史を学ぶことの重要さは、どれだけ強調しても強調しすぎることはあるまい。読書の歴史を学ぶことは、こうしたデジタル化された情報の享受やその判断、評価に、深く結びつき合っているのである。

【注】

349▼国立国会図書館「近代デジタルライブラリーについて」(http://kindai.ndl.go.jp/ja/aboutKDL.html#aboutKDL1_2、二〇一四・二・一五参照)。
350▼国立情報学研究所「CiNiiについて」(http://ci.nii.ac.jp/info/ja/cinii_db.html、二〇一四・二・一五参照)。
351▼グーグルブックス図書館プロジェクトにおける各大学の日本語蔵書デジタル化については拙著『越境する書物』(前掲)第三章「今そこにある書物」を参照。
352▼この事例は二〇一二年度の事例である。
353▼牧野二郎『Google問題の核心』(岩波書店、二〇一〇・六)、長谷川通『エアライン・エコノミクス』(中央書院、一九九七・五)。
354▼ノースウェスタン大学の日本語蔵書史については拙著『書物の日米関係』(前掲)第七章「書物の鎧」に詳述。
355▼米国議会図書館所蔵の占領期接収刊行物についてのこうした事例については拙著『越境する書物』第二章「書物の戦争・書物の戦後」に詳述。
356▼『三代集類題』(一八六八、ミシガン大学所蔵)、Hathi Trust Digital Library(http://www.hathitrust.org/)で閲覧可能。
357▼「鎌田図書館」(坂出市史編纂委員会編『坂出市史』坂出市史編纂委員会、一九五二・一〇)。現在は鎌田共済会郷土博物館となっている。
358▼松下眞也「古典籍総合データベースの構築と展開」(『早稲田大学図書館紀要』五三号、二〇〇六・三)、藤原秀之「資料保存の一助としてのデジタルアーカイブ 早稲田大学図書館古典籍総合データベースの事例を通じて」(『大学図書館研究』八九号別冊、二〇一〇・八)。
359▼国立国会図書館整理部編『国立国会図書館所蔵明治期刊行図書目録』(一巻〜五巻、一九七一・三〜一九七四・一〇)。
360▼Kang, Yen-Yu; Wang, Mao-Jiun J.; Lin, Rungtai, "Usability evaluation of E-books", Displays, Vol. 30-2, April 2009. Jeong, Hanho, "A comparison of the influence of electronic books and paper books on reading comprehension, eye fatigue, and perception, Electronic Library, Vol. 30-3, 2012.
361▼Judith Stoop, Paulien Kreutzer, Joost Kircz, "Reading and learning from screens versus print: A study in changing habits: Part1 - reading long information rich texts", New Library World, Volume 114, Issue 7, January 2013.
362▼Ackerman, Rakefet and Goldsmith, Morris, "Metacognitive Regulation of Text Learning: On Screen Versus on Paper," Journal of Experimental Psychology, vol17-1, March 2011.
363▼「アジ歴設立10周年記念シンポジウム アジ歴10周年の回顧と展望」(二〇十一・一〇・一八、於早稲田大学小野記念講堂)。
364▼アジア歴史史料センター「アジ歴設立10周年記念シンポジウム概要」(http://www.jacar.go.jp/pdf/sympo_10th.pdf、二〇一四・二・一五参照)。


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