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2014年5月 8日

 記事のカテゴリー : 新刊案内

●井上泰至・田中康二編『江戸文学を選び直す 現代語訳付き名文案内』(笠間書院)

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6月上旬刊行予定です。

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井上泰至・田中康二編『江戸文学を選び直す 現代語訳付き名文案内』(笠間書院)
Newly Selected Classics in Early Modern Japanese Literature
ISBN978-4-305-70735-2 C0095
A5判・並製・カバー装・204頁
定価:本体1,800円(税別)

今、江戸文学の「古典」として取り上げるべきものは何か。
新たに「古典」を掘り起こすとしたら、どういうアプローチがありえるのか。
挑戦的、挑発的に実践する、現代語訳付き名文解説。

時代を越えて読み継がれ、それぞれの時代の価値観の中で読み替えられ、常に新たな外套をまとって我々の前に姿を現す「古典」を、既存の古典文学全集とは違う「古典」を、新たに汲み取り、光を当てる。

執筆は、井上泰至、川平敏文、一戸 渉、田中康二、高山大毅、勢田道生、池澤一郎、木越俊介、佐藤至子、日置貴之。

【江戸文学といえば、庶民の文学、というレッテルは、未だに高校の教科書レベルでは固定化してある。そして、小説・俳諧・演劇という三分類から、代表作者と作品を選び、これを特権化してきた。しかし、それは近代の眼から見てすくい上げやすいものを焦点化してきたのではなかったか?
 近代の文学に対する目そのものが問い直されている時代、豊富な作品のある江戸文学から、見逃され、忘れられてきたものについて問うことは、文学への新たな見方を教えてくれるものになりはしないか? もっと言えば、近代の価値観に欠けているものを、認識させてくれることにつながるのではないか?
 それまでの時代よりも、江戸時代に多くの古典たるべき作品の候補があるということは、それだけ多種多様な、日本語による文章の試みが行われ、名文が残されてきたことを意味するわけで、そうした日本語世界の言葉の森を一般にも知らせることが、私たちの急務なのではないのか?】...本書「序」(井上泰至)より

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■編者紹介

井上泰至(いのうえ・やすし)
1961年生、防衛大学校教授。博士(文学)。 
著書に、『雨月物語の世界』『江戸の発禁本』(角川選書)、『恋愛小説の誕生』『秀吉の対外戦争』(共著)(笠間書院)、『サムライの書斎』(ぺりかん社)、『子規の内なる江戸』(角川学芸出版)などがある。

田中康二
(たなか・こうじ)
1965年生、神戸大学教授。博士(文学)。
著書に、『村田春海の研究』『江戸派の研究』(汲古書院)、『琴後集』(明治書院)、『本居宣長の思考法』『本居宣長の大東亜戦争』(ぺりかん社)、『国学史再考』(新典社選書)などがある。

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ご予約・ご注文は版元ドットコムで
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-305-70735-2.html
または、直接小社まで、メールでinfo@kasamashoin.co.jpご連絡いただいても構いません。またはこちらのフォームで、購入希望としてご連絡ください(書名・冊数・お名前・ご住所・電話番号を明記してください)。
http://kasamashoin.jp/mailform.html
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【目次】

序◉我々は江戸文学の魅力を本当に汲み取れているのだろうか?▼井上泰至

Ⅰ サムライの文学の再評価

1 戦国武将伝のベストセラー○熊沢淡庵『武将感状記』▼井上泰至

○要旨
戦国武将のカリスマは、
どのような意図のもとに書物化されるのか。
そこを洗い出してくると、
熊沢蕃山や頼山陽といった
平時にも波瀾万丈の一生を送った、
ただの書斎派ではない人物が浮かび上がってくる。
また、平時の緊張感の無さや鬱屈が、
こういう書物を歓迎する素地だったことも見えてくる。
どういう切り口と文章が、そこでは効果的だったのか。
縮こまらない男たちの物語の生命と魅力を探る。

 1 敵に塩を送った真意―現実的武士道
 2 義のヒーローへ―『日本外史』
 3 平時に武士道を忘れないために―『武将感状記』の成立環境
 4 勇者への道
 5 三杯の茶―人材登用の「眼」
 6 天下取りに後れてきた男―管理者の心得
 7 軍国の季節の修養書
 8 縮こまりたくない男(女)たちへ―現代文学との交差

2 近世〜戦前における「知」のスタンダード○室鳩巣『駿台雑話』▼川平敏文

○要旨
戦前(一九四五年以前)、
教科書の定番だった書物がある。
『駿台雑話』だ。
著者の室鳩巣は儒学者ながら、達意の和文を駆使して、
儒学の神髄から文学の好尚まで幅広く語り尽くす。
まさしくそれは、
近代に引き継がれた江戸の「名著」であった。
しかし戦後その評価は一転。文学史から忽然と姿を消す。
鳩巣が本書で本当に語りたかったことは何か。
また本書の本当の魅力はどこにあったのか。
これまでにない角度から炙り出す。

 1 「忠義」のゆくえ
 2 朱子学の逆襲
 3 鳩巣と和歌

Ⅱ 江戸版「日本の古典」への扉

3 和漢という対―近世国学史の隘路―○荷田春満『創学校啓』▼一戸 渉

○要旨
「国学の四大人」の筆頭、荷田春満。
彼が晩年に幕府へと
国学の学校創設を願ったという漢文が
『創学校啓』である。
近世国学の古典でもあったこの文章は、春満没後、
同族の荷田信郷が出版した家集『春葉集』(一七九八年刊)
の附録として公にされたが、
かつて資料としての真偽をめぐって
論争が行われたこともあり、
その評価は今日まで揺れ動いている。
従来看過されてきた当該漢文の表現と様式を読み解き、
かつ『春葉集』という書物内部での
位置づけを探ることで、
『創学校啓』を新たな視角から捉え直す。

 1 『創学校啓』の来歴―聖典化と偽造説のあいだで
 2 上表文としての『創学校啓』―読むための前提
 3 『春葉集』における位置①―荷田信郷の「改竄」?
 4 『春葉集』における位置②―和漢の位相をめぐって

4 擬古文再考―「文集の部」を読み直す○村田春海『琴後集』▼田中康二

○要旨
かつて擬古文と称するジャンルがあった。
それは近世の国学者が
主に平安朝の物語や随筆の語彙や文法に倣い、
その文体を模倣して執筆した一連の文章を指す。

国学者は古典研究をするかたわら、
和歌を詠み、擬古文を創作した。
近代以降、擬古文はある時期まで
古典文学全集の常連であり、古典学習の花形だった。
それがいつの間にか消えた。

 1 古典文学の引用により成り立つ文―王朝物語や日記を想起
 2 文体を駆使して和文を構成する春海
 3 村田春海の和文論―和文における「記事」と「議論」の両立
 4 擬古文成立史―擬古文は国学者が創造した
 5 擬古文享受史①―近代以降の擬古文研究の流行
 6 擬古文享受史②―戦後の擬古文研究の衰退

Ⅲ 漢文という日本文学の多様性

5 古文辞派の道標○荻生徂徠『絶句解』▼高山大毅

○要旨
江戸中期の漢詩は、
李攀龍・王世貞に代表される明代古文辞派の
強い影響下にあった。
この古文辞派流行を惹き起したのは
儒学者の荻生徂徠である。
彼が李攀龍らの詩に注釈を施した『絶句解』は、
江戸中期の漢詩理解の格好の道標となるだけでなく、
古典を読み、選ぶことを考える上で、
大きな手掛かりとなる。

 1 「夜色楼台図」と古文辞派
 2 文学の制度設計
 3 『絶句解』の注釈法
 4 解釈の実例
 5 「婉曲」の愛好
 6 和歌表現との類似
 7 『絶句解』の応用
 8 文学評価のつづら折り

6 歴史人物のキャラクター辞典○安積澹泊『大日本史賛藪』▼勢田道生

○要旨
神武天皇から南北朝合一まで、
日本史上の様々な人物を論評する
『大日本史賛藪』。
儒教的倫理に基づいて人物を毀誉褒貶する同書は、
歴史人物のキャラクター辞典としての
性格を持ち、
近世後期から明治初期にかけて、
盛んに受容された書物であった。
しかし、近代的な史学や文学から否定された同書は、
その倫理面が肥大化し、
ナショナリズムに結びつけられてゆくことになる。

 1 『大日本史賛藪』の概要と成立過程
 2 毀誉褒貶と人物イメージ
 3 忠義の人・新田義貞
 4 新田義貞は忠臣だったのか
 5 義貞はなぜ忠臣とされるのか
 6 『大日本史賛藪』の影響
 7 『大日本史賛藪』の近代

7 美術批評漢文瞥見○薄井龍之「晴湖奥原君之碑」と『小蓮論画』▼池澤一郎

○要旨
薄井龍之の遺した詩文の中から
埼玉県熊谷市龍淵寺に現存する「晴湖奥原君之碑」と
『小蓮論画』の数条とを引用紹介する。
前者は明治期に
富岡鉄斎を凌ぐほどの声価を獲得していた
閨秀文人画家奥原晴湖の伝記文学にして、
美術評論としての内容を備え、
後者は漢文による日本美術通史にして、
歯に衣着せぬ鋭利な美術評論と
見なすことの出来るものでありながら、
従来ほとんど文学史、美術史が
等閑に附して来たものである。

 1 大正年間に綴られた漢文は「大正文学」たりうるか?
 2 大正漢詩文を江戸文学に組み入れる
 3 美術批評としての墓碑銘―「晴湖奥原君之碑」を読む―
 4 『小蓮論画』を読む

Ⅳ リニューアルされる俗文芸の読み

8 西鶴武家物・解法のこころみ○井原西鶴『武道伝来記』『武家義理物語』▼木越俊介

○要旨
近年、その評価をめぐって
激しく議論が交わされている西鶴の武家物。
それはとりもなおさず、
作品に新しい光が当てられているわけで、
歓迎すべきことである。
西鶴の小説は常に読みの歴史とともにあった。
武士の世界を描いた諸編には、
いかなる魅力があるのだろうか。
また、こんにちの我々が面白く読めるとすれば、
なぜなのか。
いまこそ、読み手が束になって西鶴作品にかかることで、
この古くて新しい問題に真っ正面から応えていきたい。

 1 選び直されてきた武家物
 2 歩く火燵の怪
 3 犬と臆病と武辺
 4 虚(戯)につけ込むハナシ
 5 死に至るハナシ
 6 土中の死体
 7 秘すれば漏れる
 8 絶望的なまでに伝わらないハナシ
 9 読む戦略を選び直す

9 二人の男の「復讐」と「奇談」○山東京伝『安積沼』▼佐藤至子

○要旨
『安積沼』は他の京伝読本に比べて
翻刻される機会が少なく、
作品としての評価も高くはなかった。
物語は二つの筋立てからなり、
両者にほとんど接点のないことが
構成上の欠点とされてきた。
だが、それは本当に欠点なのか。
角書の「復讐奇談」に着目して読み直す。
また、文体における和文的要素について、
『奥の細道』との関わりという観点から再評価する。

 1 『安積沼』の概要
 2 京伝読本の翻刻状況
 3 戦前までの評価
 4 作品研究の深まり
 5 「復讐奇談」としての『安積沼』
 6 『安積沼』の文体と『奥の細道』
 7 読本をどう書くか

10 「選び直され」続ける歌舞伎○河竹黙阿弥『吾孺下五十三駅』『三人吉三廓初買』▼日置貴之

○要旨
河竹黙阿弥の代表作としてよく知られ、
今日もたびたび上演される『三人吉三廓初買』に対して、
初期作品である『吾孺下五十三駅』は
近年再注目されるまで長らく
「忘れられた」存在であった。
しかしながら、初演時の評判や再演の状況を見ていくと、
むしろ当初の評価としては
後者の方が人気を博していたことが窺える。
両作品の上演史や評価の変遷を辿ることで、
歌舞伎の作品が時代によって
「選び直される」過程を示す。

 1 黙阿弥と小団次
 2 『三人吉三廓初買』
 3 『吾孺下五十三駅』
 4 上演史と作品の評価
 5 文学史の中の歌舞伎

跋◉かくして江戸文学の「古典」は選び直された▼田中康二

執筆者プロフィール

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【序文全文掲載】

序 
◉我々は、江戸文学の魅力を本当に汲み取れているのだろうか?▼井上泰至

 日本料理が無形文化遺産に登録されたように、世界が日本の食文化に魅せられている。来る東京オリンピックでは、是非日本文化の「粋」と言える和食の数々で「お・も・て・な・し」をしてもらい、世界の人々に日本を深く知ってもらいたいものである。
 その和食は、四季の移ろいを前提にした、多様で豊かな食材を、人工的な手を加え過ぎず、その本来の味を引き出す「思想」に基づいている。そんなことを考えさせてくれる名文に、辻嘉一の『味覚三昧』(中公文庫、一九七九年)がある。裏千家の茶懐石料理の達人にして料理研究家の食のエッセイ集だ。

海の中層の岩礁の多いところを好むタイは、海魚の王とたたえられるだけに、色調も姿も立派で品位の高い魚であり、しかも、すべての料理に適し、クセ味がなく、歯触りも固からず軟らかからずで、タイ以上の魚は見あたりません。

 こんな調子で、一流の料理人にして、食材とその調理法を研究しつくした人間の眼を前提に、平明な文章で「記述」と「議論」が語られ、読むにつれ御腹が減ってくる。そればかりか、食材と料理同様、日本語の本来もっていた豊かさを実感させてくれる名文だ。漢字漢語・和語・カタカナを駆使して品位を下げず、「ざわり」でなく「触り」、「硬く」でなく「固く」、「柔らか」でなく「軟らか」と、表記の多様さを踏まえつつ、的確な字を選んで、さりげなく綴っていく。「教訓」も忘れない。戦後の農薬を使った量産・均一化を戒めてこうも言う。

 あらゆるものが土より生まれ、土の恩恵によって成長し、やがて土に帰る宿命をもっていることを忘れてはならないと思います。

 野菜も魚類と同様に、新鮮であることが最も大切なことで、刻々に鮮度は落ち、味わいもさがります。三里四方の野菜を食べておれば、延命長寿まちがいなし―といわれた昔を考え、できるだけ、近在の季節折々の旬の野菜を求める努力を忘れてはなりません。

 こういう文章のモデルは、「正統」的な近代文学にも、「王道」をゆく平安文学にもない。本書の序文を、江戸文学に造詣の深かった石川淳が、わざわざ「夷斎學人」と名乗って書き、その冒頭には江戸時代の随筆的風土記『雍州府志』「土産門」を挙げているように、江戸文学の、それも小説・詩・演劇の近代的「文学」ではない「文章」に、その源流は求められる。江戸文学の研究も、教科書に載る古典も、「文学」にその精力を集中して光を当ててきた。我々は、江戸文学の魅力を本当に汲み取れているのだろうか?
 そもそも「古典」とは何なのか? 長く読み継がれるべき模範的な作品とはどういうものなのか? 江戸文学とその研究の歴史は、それ以前の文学のそれから見ればはるかに浅い。我々は本当に江戸文学の中から「古典」を選び得ているのだろうか?
 本書は、こういう問いかけに応じて、今江戸文学の「古典」として取り上げるべきものは何か、新たに「古典」を掘り起こすとしたら、どういうアプローチがありえるのかを、執筆者それぞれの関心に応じて呈示して頂いたものである。
 本書に示された名文・価値観・読みの更新とその背景は、文学への新しい見方を教えてくれるし、日本語で書く文章の多様性と可能性を再認識させてくれる。
 もう少し具体的に、本書における「古典」を選ぶ基準について話をしよう。江戸文学といえば、庶民の文学、というレッテルは、未だに高校の教科書レベルでは固定化してある。そして、小説・俳諧・演劇という三分類から、代表作者と作品を選び、これを特権化してきた。しかし、それは近代の眼から見てすくい上げやすいものを焦点化してきたのではなかったか?
 近代の文学に対する目そのものが問い直されている時代、豊富な作品のある江戸文学から、見逃され、忘れられてきたものについて問うことは、文学への新たな見方を教えてくれるものになりはしないか? もっと言えば、近代の価値観に欠けているものを、認識させてくれることにつながるのではないか?
 それまでの時代よりも、江戸時代に多くの古典たるべき作品の候補があるということは、それだけ多種多様な、日本語による文章の試みが行われ、名文が残されてきたことを意味するわけで、そうした日本語世界の言葉の森を一般にも知らせることが、私たちの急務なのではないのか?
 さらに、詳しく、本書に収められた十編の編成から、各論の問題意識を明らかにしよう。

 江戸時代は、二百六十年余りの平和が続きながら、東アジアでも特異な武士の政権であった。彼等社会に責任を持った階層の、価値観とそれを他の階層まで浸透させた文章群を問うことは、江戸の実態を明らかにする視点として有効であるばかりでなく、集団的な意識や、社会的責任といった問題を文学が正面から扱ってはいけないのかという今日的な問題を我々に問いかけるであろう(Ⅰ井上・川平稿)。
 江戸時代はまた、漢学を知的世界の中心に据えたことを意識しながら、日本の古典を発見しようとした時代である。それを担った国学者は、日本語で学問をする意味、日本語で記述と議論をする方法を問うている。文化の中心から周縁に位置し続ける「日本」が、普遍性を持つ外来文化を受け入れつつ、どう学問をするのかといった今も変わらない問題がここには潜んでいる(Ⅱ一戸・田中稿)。
 その江戸時代の学問の中心であった漢学は、どういう価値観を詩文・歴史・芸術に見出したのか。漢文という東アジア世界共通の古典語を、独自に日本語として組み入れ、かなり一般に浸透させた江戸時代の、教育プログラムや古典選定の方法、あるいは日本の歴史を秩序や倫理から読み直す意匠、さらには自然と馴致した世界観・価値観を背景とする美の世界。それは、日本語表現の豊かさと、近代科学や近代的個我の価値を問い直すことにもなろう(Ⅲ高山・勢田・池澤稿)。
 最後に、こうした江戸当時の本流の文学とその価値観に照らした時、いわゆる庶民の文学はどう再評価すべきなのだろうか? また、そうした庶民の文学の、生命を持った古典化とはどうなされていくべきなのだろう? それは勢い、特権化された作家の文学の中から、評価されてこなかった作品に新たな魅力を見出し、古典が古典として立つ条件を顧みることへと繋がってゆくはずである(Ⅳ木越・佐藤・日置稿)。

 本書によって、研究者が新たな文学史を志向することになれば、それはもちろん有難い。が、それ以上に、本書で紹介された作品群を読んでみたいという一般読者や、教えてみたいという中等教育の先生が現れることの方が、大切であると思う。それが古典を立てるという古典学者の一番大切な仕事の今の形だと思うからである。

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■著者紹介(掲載順)

井上泰至(いのうえ・やすし) ※編者
一九六一年生、防衛大学校教授。博士(文学)。 
著書に、『雨月物語の世界』『江戸の発禁本』(角川選書)、『恋愛小説の誕生』『秀吉の対外戦争』(共著)(笠間書院)、『サムライの書斎』(ぺりかん社)、『子規の内なる江戸』(角川学芸出版)などがある。

川平敏文(かわひら・としふみ) 
一九六九年生、九州大学准教授。博士(文学)。
著書に、東洋文庫『近世兼好伝集成』(平凡社)、『兼好法師の虚像 偽伝の近世史』(平凡社)、共著に、『東アジアの短詩形文学 俳句・時調・漢詩』(アジア遊学一五二、勉誠出版)などがある。

一戸 渉(いちのへ・わたる) 
一九七九年生、慶応義塾大学斯道文庫准教授。博士(文学)。
著書に、『上田秋成の時代 上方和学研究』(ぺりかん社)、三弥井古典文庫『春雨物語』(三弥井書店、共編)などがある。

田中康二(たなか・こうじ) ※編者
一九六五年生、神戸大学教授。博士(文学)。
著書に、『村田春海の研究』『江戸派の研究』(汲古書院)、『琴後集』(明治書院)、『本居宣長の思考法』『本居宣長の大東亜戦争』(ぺりかん社)、『国学史再考』(新典社選書)などがある。

高山大毅(たかやま・だいき)
一九八一年生、東京大学大学院人文社会系研究科研究員。
論文に、「高揚と不遇―徂徠学の核心―」(『大航海』、新書館、第六七号)、「説得は有効か―近世日本思想の一潮流」(政治思想学会『政治思想研究』第一〇号)、「水足博泉の統治構想―徂徠以後の「礼楽」論」(東京大学中国哲学研究会『中国哲学研究』第二七号)などがある。

勢田道生(せた・みちお)
一九八〇年生、日本学術振興会特別研究員、皇學館大学非常勤講師。
論文に「『南方紀伝』・『桜雲記』の成立環境―『桜雲記』浅羽成儀作者説をめぐって―」(『国語国文』第七八巻第一一号)、「津久井尚重『南朝編年記略』における『大日本史』受容」(『近世文藝』第九八号) などがある。

池澤一郎(いけざわ・いちろう) 
一九六四年生、早稲田大学教授。博士(文学)。
著書に、江戸漢詩選二『儒者』(岩波書店、共著)、日本漢詩人選集五『新井白石』(研文出版)、『江戸文人論』(汲古書院)、新日本古典文学大系 明治編『漢文小説集』(岩波書店、共著)、『雅俗往還』(若草書房)などがある。

木越俊介(きごし・しゅんすけ)
一九七三年生、山口県立大学准教授。博士(学術)。
著書に、『江戸大坂の出版流通と読本・人情本』(清文堂書店)、三弥井古典文庫『雨月物語』(三弥井書店、共編)などがある。

佐藤至子(さとう・ゆきこ)
一九七二年生、日本大学教授。博士(文学)。
著書に、『江戸の絵入小説』(ぺりかん社)、『山東京伝』 (ミネルヴァ書房)、『妖術使いの物語』(国書刊行会)などがある。

日置貴之(ひおき・たかゆき)
一九八七年生、白百合女子大学専任講師。博士(文学)。
論文に、「三遊亭円朝「英国孝子之伝」の歌舞伎化」(『近世文藝』第九五号)、「「会津産明治組重」考―其水の日清戦争劇にみる黙阿弥の影響―」(『国語国文』第八二巻第二号)、「黙阿弥「東京日新聞」考―鳥越甚内と景清―」(『国語と国文学』第九〇巻第九号)などがある。