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2013年12月30日

 記事のカテゴリー : リポート笠間掲載コンテンツ

●染谷智幸[茨城キリスト教大学教授]・十五~十七世紀、 室町―上方文学論は可能か●リポート笠間55号より公開

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リポート笠間55号・特集[近世文学研究のなかの「壁」]より、渡部泰明氏[東京大学教授]・『うた恋い。』の監修をして、を公開いたします。

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十五~十七世紀、
室町―上方文学論は可能か

染谷智幸[茨城キリスト教大学教授]

日本近世文学・日韓比較文学。著書に『西鶴小説論―対照的構造と〈東アジア〉へ の視界』(翰林書房、二〇〇五年)、『冒険 淫風 怪異―東アジア古典小説の世界』(笠間書院、二〇一二年)、『韓国の古典小説』(共編、ぺりかん社、二〇〇八 年)、『西鶴と浮世草子研究』四号(共編、笠間書院、二〇一〇年)、『日本近世文学と朝鮮』(共編、勉誠出版、二〇一三年)などがある。

 近世初期から元禄・享保期あたり(凡そ十七世紀、十八世紀初)までの文学を専門にしている研究者にとって、中世の十五・十六世紀は、単に研究対象の前というだけでは済まない重要な時代である。私は、現在進められている『浮世草子事典』(笠間書院刊行予定)の項目を執筆しつつ、そのことを改めて認識させられた。たとえば元禄十一(一六九八)年刊『小夜嵐物語』▼注(1)。これは閻魔王の発意により、釈尊二千五百回忌に因み地獄で十五日間の大赦が行われ、地獄に落ちた武士たちは源頼朝を大将軍にして地獄破りを行ったという話である。物語の結末は、事態の急変を知った閻魔王と諸王が、鬼どもと武士の一群に応戦するも敵わず、極楽の釈迦如来と阿弥陀如来の助けを借りて事無きを得、武士たちも戦を止め極楽往生する。

 周知のように、地獄については古くから物語化、説話化されてきたが(梅原猛『地獄の思想』▼注(2)等)、小峯和明や宮越直人▼注(3)によれば、中世に入り、様々な転生譚や十界曼荼羅などの影響を受けつつ地獄廻りの説話になり、さらにはそれをパロディ化した地獄破りの話に展開していったと言う。そして、その変遷過程とは人間が死後の世界をどう認識し可視化しようとしたのかの軌跡でもあると言う。とすれば、『小夜嵐物語』はそうした軌跡を踏まえて、地獄廻り・地獄破り譚を総合的に集約して見せた作品であったと言って良い。特に、源頼朝を大将軍とし▼注(4)、日本の全武士・盗賊・鋳物師・船頭等を総動員させ、閻魔王と一戦に及ぶ場面は、地獄の一大合戦絵巻であり、そのスペクタクル性と、様々な知識を挟みこんだエンサイクロペディア(百科事典)の性格は、実に見事と言う他はない。

 ところが、従来の該作評価に中世以来の地獄廻り・地獄破り譚を基にした視点が持ち込まれたことはない。『日本古典文学大事典』(岩波書店、一九八三~八五年)の該作項目では「仮名草子臭の強い作品」とし、いわゆる仮名草子(混沌)→浮世草子(成熟)という近世文学史の枠内で処理し、該作のエンサイクロペディアの性格や総合性を、未分化性と見誤っている。『小夜嵐物語』の作者にとっては、中世~近世初期の地獄・地獄廻り・地獄破り譚が視野に入っていたことは間違いないと思われるが、中世と近世の間にある「壁」によって、その視界は遮られてしまったかのようである。

 こうした中世と近世の「壁」は、物語・説話・小説のみならず、多方面に渡る問題である。たとえば戯曲・演劇。今から二十年以上も前の、しかも私自身の話になって恐縮だが、かつて近松門左衛門の『出世景清(しゅっせかげきよ)』(貞享二〔一六八五〕年、大坂竹本座初演)に登場する遊女阿古屋(あこや)を、中世の舞『景清』の遊女阿古王像の脱皮と見ずに、中世と近世初期上方のそれぞれの遊女を廻る社会的背景から捉え直し、阿古王像に中世独自の形象(特に所知を廻って寺家雑掌(ざっしょう)等との訴訟に及ぶ傀儡子(くぐつ)〔前田家所蔵実相院及東寺宝菩提院文書、一二四九年〕・白拍子〔光明寺文書、一三三〇年〕等の遊女像からの影響)を見出し、再評価を試みたことがあった(「阿古王と阿古屋(上・下)」茨城キリスト教大学紀要三〇・三一号、一九九〇・九一年)。廣末保がその名著『近松序説』(未来社、一九五七年)で示した世話悲劇成立の視点(阿古王像から阿古屋像への変化の中に日本的な悲劇の成立を見る視点)に真っ向から異を唱えたのであった。拙論の評価は今措くが、その後気を付けて戯曲・演劇論を見るものの、中世と近世の「壁」を越えてダイナミックに展開されるものはあまり目につかない。もちろん、中世から近世へと繋がる資料を基にしている論考は多いが、軸足は中世か近世のどちらかにあり、中世から近世への連環を重視したものは少ない▼注(5)。こうした「壁」から見失われるのは中世から近世、特に室町から近世上方へ受け継がれた自由奔放でリアル、かつ人間臭さに溢れた文芸世界である。たとえば先の阿古王と阿古屋にしても、両者形象性の違いはあるが、男性・社会・政治に対して鋼のような逞しさと狂おしいまでの情欲を表出している点は同じである。こうした世界は文運東漸して江戸に文化が移ってからは、器用にソフィストケートかつ概念化され失われてゆく。そのような歴史を鳥瞰した時、舞『景清』も『出世景清』も頼朝(鎌倉、関東)を対抗軸にした奈良(大仏供養)、京都(清水坂)という上方(関西)を舞台にした作品群であったことが俄かに思い起こされてくるのである。

 こうした傾向は、散文・演劇以外の韻文、周辺諸学を巻き込んだ文化論にしても恐らく同様だろう。たとえば応仁の乱等によって全国、特に西日本に飛散した王朝文化は、地方の文芸復興と連歌の隆盛を引き起こし、それは元禄期の芭蕉にまで繋がって行く。この連歌→芭蕉という骨太の連環は、近年廣木一人が「貞門・談林を含めて、芭蕉を連歌史の中に位置づけ」る視点から新たに問題を提起していて興味深い▼注(6)。廣木の指摘は、この中世から近世へ繋がる連衆意識と、それを支えた合議的なヨコの連携意識の広がりに、改めてスポットを当てることになると思うが、それはともかく、ここにも中世と近世の「壁」が今まで立ちはだかって来た歴史を強く感じさせる。

 要するに中世と近世という区切りが諸悪の根源で、これをさっさと無くしたい。とは言え、ただ真っ平らにすれば良いというものでもない。そこで、応仁の乱前後から元禄・享保辺りまでを一貫して捉える、室町―上方文学論を少々提唱してみたいのである。これは言うまでもなく、十八世紀後半から明治以降まで続く、江戸―東京の文化論に対抗してのものでもある。あちらは一極集中の中心―周縁型、形而下よりも形而上が好きで、何事にも洗練を尊び、ナショナリズムを高揚させ世界を相手にしている。こちらはバラバラの拡散型で、形而下好き、何事にもリアルな人間性を尊んで、契約・合議型の封建性を軸にアジアを相手にしているといった具合である。

 この対比は、大雑把で何やらご都合主義の匂いもするが、室町―上方が分散型でアジアを相手にし、江戸―東京が一極集中で世界を相手にしているという違いは、文化・文学のみの問題ではない。江戸時代の政治のしかも頂点においても同様であった。既に拙著『冒険 淫風 怪異―東アジア古典小説の世界』(笠間書院、二〇一二年)の第1部「東アジアとは何か―光圀の媽祖(まそ)、斉昭(なりあき)の弟橘媛(おとたちばなひめ)」でも紹介したが、この違いは水戸藩を代表する二人の藩主、元禄期に活躍した徳川光圀(一六二八~一七〇一)と、幕末に活躍した斉昭(一八〇〇~一八六〇)の意識の違いに明確に表れている。周知のように斉昭は西欧列強への備えから尊皇攘夷を唱えたが、光圀はアジアの海神である媽祖を藩内の要衝に祀って船舶の安全を祈った。また、斉昭は徹底した神道信奉、廃仏論者で藩内の寺院改革を推し進めたのに対して、光圀は儒仏道と神道の四教一致、融和論者であった。

 また、この室町―上方がアジアを相手にしているというのは、中世と近世の「壁」を考える上でも重要な問題を提起する。というのは、日本でこそ意味を持つ(否、持っていた)中世と近世の区分であるが、日本の周囲である東アジアに目を転じてみれば、この区分はほとんど意味を持たないからである。それは国が違うのだから当たり前とも言えるが、中朝と日本、隣国であることもあって様々な影響関係が複雑に絡み合い、その点を注視すればするほど、日本の中世近世の歴史区分がさして意味あるものに思われなくなって来る。 

 たとえば中国では、日本の中世から近世への転換期は明の最盛期の真っ只中であった。周知のように、十七世紀中盤の明清交替によって東アジアは激動の時代を迎えるが、中国では清の時代になってからも暫くは、明文化中心の時代が続いた。すなわち、時代区分的に言えば、日本の中世近世の区分けより、室町―上方の区分けで言う、十七世紀末、十八世紀初頭までをひとくくりにする方が、中国の歴史と上手く合う。たとえば、一五世紀~十七世紀末まで日中は様々な直接的交流があった。その交流経路は多岐に亘り全てを示し得ないが、代表的なものを挙げれば、十五世紀の禅僧、十六世紀の貿易王・王直(おうちょく)と平戸、自由都市としての堺・博多を中心にした東アジア・日明の大交易、十七世紀の朱印船交易、隠元(いんげん)・木庵(もくあん)などの黄檗(おうばく)僧、並びに朱舜水・心越禅師などの渡日文化人たちの活躍等々。かつて竹内好は『日本とアジア』(筑摩書房、一九九三年)において「江戸の市民文学は明末の市民文学なしには考えられない。芭蕉、西鶴、馬琴みなそうだ」(五三頁)と述べていたが、まさにその通りなのである。

 また韓国では現在、朝鮮時代を文禄慶長の役で前期後期を二分する時代区分を取っているので、日本の中世・近世とほぼ重なるが、朝鮮の十六世紀が李滉(イファン)(退渓、一五〇一~七○)、李珥(イイ)(栗谷、一五三六~八四)という空前絶後の二大儒学者を生み出したことが象徴するように、文化的に極めて充実した時期であった。その文化の多くが、文禄慶長の役(壬辰倭乱)で日本に多く流れ込むと、十七世紀の日本はコリアンインパクトとでも言うべき多大な影響を、文学のみならず思想・出版技術・芸術(主に陶磁器)に渡って受けることになった。すなわち、日本の十七世紀は、朝鮮の十六世紀なくしては成り立たないとも言えるのである。

 もとより、こうしたことを声高に叫んでも、実際に中世と近世の「壁」、あるいは日本と東アジアの「壁」を乗り越える研究自体が出てこなくては意味がない。しかし、私の周囲だけを見ても、そうした動きがここかしこで顕著になり始めているのは実に頼もしいことである。たとえば二〇一一年秋に韓国の高麗大で行われた日本近世文学会。日本から百二十人もの会員が大挙してソウルに乗り込み、韓国の日本文学研究者と研究交流を図ったのであった。また二〇一二年冬には説話文学会が同じく韓国の祟実大で韓国日語日文学会との合同学会を開き、日韓のみならず中国・ベトナムの研究者とも研究交流を図った。また、二〇一一年の冬には、日本の青山学院大学(日本文学科主催)で国際シンポジウム「日本と〈異国〉の合戦と文学」が開かれて、日本の中世と近世そして日韓の「壁」を越えた軍記軍書関連の研究会が行われたが、ここから飛び火して、二〇一三年の夏には韓国ソウル大の奎章閣(けいしょうかく)にて「武将伝シンポジウム」が開かれた。韓国の古典(韓国文学)研究者と日本古典研究者が通訳を交えて一堂に会し、公的かつ本格的に議論したのは恐らく初めての試みではなかったか(この成果は近々勉誠出版からアジア遊学シリーズの一つとして出版される予定である)。私もこのシンポジウムの末席に加えさせていただいたが、日韓の武将伝・軍記に関する意識の違いが浮き彫りになり、極めて興味深かった。また、この席には中世の軍記研究と近世軍書研究を精力的にすすめている佐伯真一、井上泰至が居たが、二人の中世・近世を越えての話は極めて面白く、新しい時代の到来を実感した。

 加えて特筆しておくべきことは、岩波書店の『文学』において日本の十六世紀が特集されたことであろう(二〇一二年九・一〇月号)。この特集の画期性は、執筆陣が中世・近世文学の「壁」を飛び越えただけでなく、仏教学、思想史、外交史、経済史、美術史など人文社会学のあらゆる「壁」を越えて学際的であった点である。小峯和明は巻頭言において十六世紀を「叢生(そうせい)の文学史」と名付け、この未だにカノン化されていない時代に多角的なアプローチを期待した。先にも述べたように、十六世紀の中国と朝鮮は様々なカノンが林立した成熟の時代であり、十六・十七世紀を中心にそうしたカノンが日本に雪崩れ込み、新たなカノンを生み出すとすれば、十六世紀の日本の叢生は、東アジアの叢生であったとも言える。

 こうした動きが初転法輪しているのなら、私ごときがご託を並べる必要は全くないのだが、屋上屋を架して言っておきたいことがもう一つだけある。それは、過去の研究も現在の状況と密接に絡み合っていることである。

 現在の東アジアを巡る歴史及び文化的言説の多くは、残念なことに、現在の姿を単に過去へと投影したに過ぎず、過去の文化・社会・宗教などに対する思慮に欠ける。たとえば、海の彼方の孤島・諸島がどちらの国の所属だったか、かなり古くまで遡った議論が散見される。これらはグローバリズムの悪しき影響で、海域の異域性・宗教性を全く考慮していない。蒸気機関発明後ならいざ知らず、風頼みの帆船航海は日和見風待ちが主であり、陸地から遠く離れることはあまり出来なかった。海は異域であり、畏敬の対象である故に海神の住処であり、難破船は無主のものとされたのである(「寄船慣行」黒嶋敏『海の武士団』▼注(7)等)。そこに陸地のような明確な線引きなどはなく、それは日本で言えば江戸時代までそうだったはずである。アジアの海は誰のものかと光圀に聞けば、媽祖のものと答えたに違いない▼注(8)。過去には過去、時代には時代の原理があり、それに則り人間も生きていたこと、これを明らかにすることは古典を研究する者の務めでもある。それは翻って現在を良導することにも繋がるはずで、十五~十七世紀を中心にして、国家の枠を越えた交流が、文化・文学の領域で盛んに行われたことを示す意義はそこにある。国家以前に文化や文学があったこと(否、今でもあること)、私の述べた室町―上方文学論の、江戸―東京文学論とは一味違う、可能性の中心もそこにある。

▼(1)十巻十冊。作者未詳(本作末尾に「西鶴書」とあるのは当時の西鶴本の盛行に乗った仮託)。元禄十一(一六九八)年正月、京都刊。
▼(2)梅原猛『地獄の思想』中公新書、一九六七年。
▼(3)小峯和明「死の向こう側」東京大学グローバルCOEプログラム「死生学の展開と組織化」、二〇〇六年十一月。宮腰直人「弁慶の地獄破り譚考」岩波『文学』二〇一二年九・十月号。
▼(4)中世から近世にかけて、地獄廻り・地獄破りの趣向は多々見られるが、それらは多く義経、弁慶、朝比奈義秀等、歴史上の敗者であり、御霊信仰的な背景を持っていた。しかし該作は歴史上の勝者である源頼朝を大将軍とするところ、そうした宗教的背景から離れたと解釈できるが、注3の宮腰稿によると、戦国武将の島津義久が九州大隈の地で演じさせた「弁慶炎魔王問答記」(『南浦戯言』)では既に頼朝重視の始まりが指摘されている。とすれば地獄破り譚における頼朝の系譜も中世~近世で考え合わせる必要がある。
▼(5)そうした中にあって原道生の諸論考は、近世のみならず果敢に中世世界を解き明かそうとする意欲に満ちている。たとえば昨今の「「身替り」劇をめぐっての試論」(『古典にみる日本人の生と死』(笠間書院、二〇一三年)は中世・近世を自在に往還し「身替り」劇の成立と変遷を解き明かそうとしていて興味深い。なお氏のそうした諸論考が一冊となって近く八木書店から出版されると聞く(『近松浄瑠璃の作劇法』)。近世演劇のみならず、中世演劇研究にとっても慶賀すべき出来事となろう。
▼(6)岩波書店『文学』二〇一〇年五・六月号、特集「十七世紀の文学」座談会、十七頁。なお、この折の廣木の指摘は種々示唆に富む。特に連歌=高尚、俳諧=大衆という従来の図式を御破算にしようという指摘は新鮮である。今後の議論・進化に期待したいが、この点でも明らかになるのは、従来の連歌研究(中世)と俳諧研究(近世)の「壁」である。
▼(7)黒嶋敏『海の武士団』四二頁、講談社選書メチエ、二〇一三年。
▼(8)山内晋次によれば、朝鮮通信使・冊封琉球使などは渡航する度に、海神祭を行い、媽祖や東海神(道教経典などに見える四海神の一つ)を祀ったとのことである(「近世東アジア海域における航海信仰の諸相」『待兼山論叢』四二、二〇〇八年一二月)。こうした風習は根強く、明治維新後の一八七六年の日朝修好条規の締結にともない日本に派遣された「修信使」たちも、釜山で海神祭を行ったとのことである。なお、山内によれば中国・朝鮮・日本の海は漠然とした領海・領域意識はあったと考えられるとのことであるが、もちろん、それは近代以降の国境のようなものではない。


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