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2013年11月22日

 記事のカテゴリー : 学界時評

●学界時評【中世】2013.1-2013.6●藤巻和宏[近畿大学准教授]

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 学界時評をお届けいたします。まもなく刊行予定の「リポート笠間55号」に掲載のものを、先行配信いたします。

 小社では「リポート笠間53号」から試みに学界時評をスタートさせました。
 時代区分・ジャンルは、上代・中古・中世・近世・和歌・日本語の歴史的研究と設定いたしました。この設定は、しかし既存の学会にあわせた時代区分をなぞっていて、近年の、時代を越境しつつある研究動向には必ずしもマッチしたものではありません。また、文学研究の範囲は歴史・美術・言語等にも広がってもいます。現時点では、こういった動向にあわせた時評の在り方の、良い答えを考えることができず、結果的に従来の枠組みをなぞることにしました。

 加えて、この時代区分のなかでお一人の評者に網羅的に論じてもらうのも限度があります。
 ですので、あくまでも「評者の目からみた」学界というものをお書きいただくことにしました。あえて網羅的であることを望んでおりません。このような趣旨でスタートしたもので、年2回、5月・11月に、リポート笠間に掲載していきます。

 これまでの時評は以下にまとめられています。あわせてご覧下さい。
http://kasamashoin.jp/jihyo.html

●以下に掲載の原稿は、編集部でインターネット向けに改行等を加えてあります。正式版は、ぜひ紙版の「リポート笠間」をご覧下さい。

※「リポート笠間」を読んだことがない方で、購読希望の方は、info@kasamashoin.co.jp宛に、郵便番号・住所・お名前をお知らせ下さい。無料でお送りいたします【送料無料・購読料無料】。
※ご購読いただいている方へ。最新刊の55号は、12/6〜13日ころには到着する予定です。

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学界時評【中世】2013.1-2013.6●藤巻和宏[近畿大学准教授]

 もう五年も前のことだが、当時の勤務先で日中の歴史学者らと共同で「僧伝のアジア」というシンポジウムを企画したことがある。その中に「往生の十五夜」というタイトルの報告があったのだが、シンポジウム案内を見たある研究者から、「これは西行についての報告ですね。主題を隠すのは感心できません」と言われて驚いた。この報告は、日本と中国の往生伝を題材とし、日本の中世以前の往生伝には八月十五日の往生記事が圧倒的に多く(釈迦入滅の日とされる二月十五日がこれに次ぐ)、日時を記さない中国往生伝とは顕著な傾向の相違が見いだせるというデータの比較から説き起こし、近世に至る往生記事の変容を論ずるという内容であり、その研究者の思い込みは的はずれであったのだが、「往生」と「十五夜」というキーワードから「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」を連想し、西行についての報告に違いないと信じて疑わない、あまりにも狭い視野と独善的な態度に私は衝撃を受けた。「日本」「中世」「文学」「和歌」...等という、自分の専門に縛られたきわめて限定的な"世界"しか持ちえない人間の存在を改めて思い知ったのであるが、これを、この研究者一人のこととして我々は笑うことができるだろうか。程度の差こそあれ、誰しもまずは自分の専門領域の知識から対象を見てしまうことは不可避であろう。問題は、それを当然のことと開き直るか、そういう視野を反省し自分の見ているものが世界のどのあたりに位置するのかを常に意識しようと努めるか、ではないだろうか。この差は非常に大きなものとして研究者の仕事に現れてくる。

 この時評は「日本」「中世」「文学」を対象としたものである。しかし、そうした範囲それ自体を独立したものと捉えるのではなく、「日本」以外の地域・言語圏、「中世」以外の時代、「文学」以外のジャンル...といったものと連続しているその一角と位置付けることにより、積極的に相対化してゆきたい。

 さて、そういうスタンスの研究者の一人として小峯和明がいる。『東奔西走―中世文学から世界の回路へ―』(笠間書院、3月)は、これまでに書いたエッセイ等の短文類を集成したものであるが、小峯のこれまでの研究を辿るだけでなく、研究者としてのスタンスを見て取ることができる。副題に示されるように、中世文学という限定的な領域を起点としつつも、常に広い世界への視線を忘れることなく、「地域」「時代」「領域・媒体(ジャンル)」の越境を指向するスタンスで、「法会」「琉球」「キリシタン」「予言」...等、種々のテーマを提示してきた小峯は、近年では「東アジア」に特に力点を置いているようである。それは、本書でも随所に示され、また、「東アジアの文学圏を求めて」(『文学』隔月刊14・3、5月)においても強く主張される。日本文学研究は一国文学史観から脱し、広く漢字漢文文化圏の中に再定位されるべきである、と。

 しかし、ここで注意すべきは、小峯の意図する「東アジア」が独り歩きして、曲解されている面もあるのではないかという点である。いまや「東アジア」は、小峯が「「また東アジアか」とうんざりする向きもあるかもしれないが」(前掲『文学』)と懸念する必要もないほど日本古典文学研究者に受け入れられており、一種の流行として定着しているといえよう。しかし、少なからぬ研究者が、「東アジア」という言葉の、「視野を広げる」という側面にのみ目を奪われているように感じる。地域を越えることにより視野を広げるというならば、すでに十九世紀末より「世界文学」という遥かに広い射程が提示されているし、比較文学研究のみならず、言語学・宗教学・思想史学...等々、種々のジャンルで比較文化論的な手法の研究も古くから進められている。要するに「東アジア」とは範囲の限定であり、「世界」よりも、「アジア」よりも、そして「仏教文化圏」よりも狭い、「東アジア=漢字文化圏」に研究の範囲を絞ることで、問題をより鮮明に浮かび上がらせるという目的もあるはずだ。それは小峯が、「もちろん比較論の観点からいえば、東アジアだけに限定する必要はなく、西洋でもアフリカでも、比較は可能であり、多角的な視座を否定するつもりはない」(小峯編『東アジアの今昔物語集』勉誠出版、二〇一二年)と言っていることからも明らかであるが、これまで日本という一言語圏、せいぜい中国→日本という一方向的な受容しか意識してこなかった研究者たちの目には、「東アジア」という枠組みの提示が、あたかもその狭い世界を広げてくれる魅力的なものと映ったのではないか。そういう意図があることも間違いないが、「限定」という側面が見落とされていることはもっと注意されるべきであろう。詳細は、説話文学会編『説話から世界をどう解き明かすのか』(笠間書院、7月)にも触れながら、次号の時評で記したい。

 なお、こうした「東アジア」論の流行とは別の文脈で、しかし結果として東アジア的な成果を示したものとして、立石展大『日中民間説話の比較研究』(汲古書院、3月)を挙げておきたい。民間説話や昔話の研究が、世界に分布する類話の存在を意識することなしに進めることができないということは、アンティ・アールネとスティス・トンプソンのタイプ・インデックス(AT分類)を引き合いに出すまでもなく常識の範囲内であり、立石も、文献資料の直接的な交渉という視点のみからは辿れない類話の世界的分布を前提としつつ、フィールドワークの成果も併せ、インド起源の説話の広がりという、東アジアをも越える伝承圏を描きだしている。ただし、インドの説話が東アジアに伝わるということ自体は昔話のみならず仏典・仏伝研究等の形でも古くから指摘されていることであり、立石著書もそうした事例の蓄積の一つと位置付けられよう。インドから東アジアのみならず、同じ説話が一方でヨーロッパにも伝播しているということでさえ、すでに一九七〇年代に「月日の鼠」説話等を例として、仏文学者の松原秀一や独文学者の小堀桂一郎らによって指摘されていた。地域を越えるということ自体に目新しさはなく、古注釈における仏典・漢籍の博引旁証にまで遡る、文学研究の伝統的手法の一つであるといってよい。

 問題は、漢字という共通メディアによる言説の交渉・共有を主に文献資料から実証する東アジア論と、文献から繋がりを辿ることよりもモチーフの分布の様相を見てゆく昔話研究とが、さらにはアメリカ派比較文学(対比研究)や、比較神話学その他の比較文化論等、地域を越える言説の共有を検証するという性質を持つ種々の研究スタイルが、ほとんど交流を持たないままそれぞれの小グループ内でなされているという学問状況ではないだろうか。地域を越えることとジャンル(および、それに基づく学的共同体)を越えることとは異なる位相にある問題であり、地域以上に越えがたい閉鎖性があるのだろう。

 さて、こうした学問ジャンルを越境するための試みも近年は様々になされているが、阿部泰郎『中世日本の宗教テクスト体系』(名古屋大学出版会、2月)は、「宗教テクスト」という概念から、聖典、図像、儀礼といった文字資料に限定されない宗教をめぐる種々の位相の体系的把握を目指している。名古屋大学の21世紀・グローバルCOEによる学際的な活動を起点とし、そこからの一つの発展形として阿部が目指した「宗教テクスト学」の構築は、各種公的資金による成果の中でも日本中世文学に関わる最大級のものであり、「文学」のみならず、もちろん「日本」「中世」、そして「宗教」にもとどまらない多様な区分を越えてゆくための指針としても有効な枠組みを我々に提示する。一方で、大きなビジョンは問題の拡散にも繋がりうるが、日本中世の宗教という個別の事例(それ自体は非常に特異で豊饒な世界であるが)からそれを構築してゆくことは、その基盤となる寺院調査に基づく資料や事象についての精緻な分析と併せ、実証研究の重要性を改めて思い出させてくれる。

 個別事例から構築される枠組み。そうしたスタンスは、千本英史編『「偽」なるものの「射程」―漢字文化圏の神仏とその周辺―』(勉誠出版、3月)からもうかがえる。本書は、千本がここ数年取り組んでいる「偽書」の問題を、副題が示すように、漢字文化圏における比較の要素として「神仏」という基点を設定する。偽書という問題は、もちろん神仏をめぐる事象のみで論じきれるものではないが、ここから大きな偽書論という枠組みを見据えたうえで、その中に成果をいかに定位してゆくかということが期待される。なお、本書の基盤となった科研費の報告書として、千本『東アジアにおける古典偽書の比較文化的研究』論考篇・資料篇(3月)がある。

 偽書研究における「偽」なるものへの視線は、一方で「擬」という問題とも重なる。「擬古物語」というジャンルが、笠間書院の「中世王朝物語全集」の刊行(一九九五年〜)を契機に呼称が変わりつつあるが、中島正二「「中世王朝物語」について」(『古代文学研究 第二次』21、二〇一二年)がこの趨勢に警鐘を鳴らすように、学術用語としての「中世王朝物語」の妥当性は改めて検証されなければならない。それとともに、「擬古」という語の持つマイナスイメージも、偽書論で試みられているような積極的な評価に反転できる可能性もあるだろう。

 中島も指摘するように、学術用語というものは、その成立経緯や出自の位相差は使用場面では平準化され、意識されにくい。例えば、「縁起」や「参詣」という語は一見明白な対象を指しているように思えるが、「縁起/由緒」「参詣/巡礼」等と対置させたとき、どの程度の自覚のもとにそれらの語を使い分けているのかという問いが研究者に突き付けられる。岩波日本思想大系『寺社縁起』(一九七五年)で先鞭が付けられた寺社縁起研究は、近年は日本文学研究の一領域として認知されている観があるが、徳田和夫編『中世の寺社縁起と参詣』(竹林舎、5月)は、シリーズ名「中世文学と隣接諸学」が示すように、再び諸ジャンルへと開いてゆこうとする試みであり、また同時に、「縁起」「参詣」という概念の検証をも意図している。収録論文はそれぞれに個性が強く、それゆえそうした試みが体系性を備えて成功しているとはいいがたいが、将来的な展望を見据えた書として評価したい。

 最後に資料紹介。今期も種々の新出資料が翻刻や影印として紹介された。特に注目すべきものとして、上野麻美『龍谷大学大宮図書館蔵元禄九年写『厭穢欣浄集』翻刻と解説』(舷燈社、4月)がある。酉誉聖聰の著述であり、室町期の浄土宗研究に資することはもちろん、談義注釈の場における説話利用の様相をうかがうこともできる資料である。


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