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2013年10月 2日

 記事のカテゴリー : 新刊案内

●今関敏子『仮名日記文学論 王朝女性たちの時空と自我・その表象』(笠間書院)

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10月中旬の刊行予定です。

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今関敏子『仮名日記文学論 王朝女性たちの時空と自我・その表象』(笠間書院)
ISBN978-4-305-70708-6 C0095
定価:本体9,500円(税別)
A5判・上製・カバー装・450ページ

どうしても書き残したいという熱烈な意思が、新しい表現を生み出す。
10世紀後半から14世紀中葉にかけて、女性作者たちは、自己を素材にして多彩な作品を残した。
彼女たちは、限られた時空で何を信じ、何に価値を見出し、置かれた状況と自己をどのように捉え、どのように生きたのか。仮名日記文学はその自己表象の一つである。
個々の作品だけではなく、中古と中世を区切るのではなく、平安期から南北朝にかけて続いたひとつのジャンルとして捉え、仮名日記文学に向き合う。

【文学史上、同じ現象は二度と繰り返されない。類似点や共通項はあっても、それぞれの時代のジャンルはきわめて独自である。ひとつのジャンルの生成と消滅は、その背景である政治・社会・制度・文化体系に密接に関連している。同じ社会構造・文化構造も再現されることはない。ひとりの人間の自我構造も、生きた時代の文化と制度に規定される。限られた時空で何を信じ、何に価値を見出し、置かれた状況と自己をどのように捉え、どのように生きたか。仮名日記文学はその自我表象のひとつである。
 個々の作品だけではなく、また、中古と中世を区切るのではなく、平安期から南北朝期にかけて続いたひとつのジャンルとして捉え、向き合う必要性を痛感する。
 本書では、王朝女性たちの生きた時空、制度、背景に培われた自己認識、その表象としての仮名日記文学を論じる。......はじめにより】

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【著者略歴】
今関敏子(いまぜき・としこ)
日本文学研究者。川村学園女子大学教授。帝塚山学院大学等を経て現職。1990年度サンパウロ大学客員教授。著書に『中世女流日記文学論考』(和泉書院、1987)、『校注弁内侍日記』(和泉書院、1989)、『〈色好み〉の系譜―女たちのゆくえ』(世界思想社、1996)、『『金槐和歌集』の時空―定家所伝本の配列構成』(和泉書院、2000)、『信生法師集新訳註』(風間書房、2002)、『旅する女たち―超越と逸脱の王朝文学』(笠間書院、2004)、『実朝の歌―金槐和歌集訳注』(青簡舎、2013)、共著書に『中世文学研究』(双文社出版、1997)、『成熟と老い』(世界思想社、1998)、単編著書に『中世日記・随筆』 (日本文学研究論文集成13)(若草書房、1999)、『涙の文化学―人はなぜ泣くのか』(青簡舎、2009)、共編著書に『はじめて学ぶ日本女性文学史[古典編]』(ミネルヴァ書房、2003)などがある。
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■ご予約・ご注文は版元ドットコムで
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-305-70708-6.html
または、直接小社まで、メールで info@kasamashoin.co.jp ご連絡いただいても構いません。またはこちらのフォームで、購入希望としてご連絡ください(書名・冊数・お名前・ご住所・電話番号を明記してください)。
http://kasamashoin.jp/mailform.html
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【目次】

はじめに

序 章 仮名日記文学の流れ
第1章 自我と時間

  第1節 《自我》の表象 仮名日記文学と自伝
  第2節 《時間》の表象 解体と組み換え
  第3節 『たまきはる』冒頭部の時間認識と回想 昔と今
  第4節 『弁内侍日記』のコスモロジー 宮廷讃美の時間
  第5節 『弁内侍日記』における「今日(けふ)」 『中務内侍日記』と比較して
  第6節 『弁内侍日記』における時間認識と自我
第2章 夢の表象
  第1節 旅寝の夢 その1 勅撰集覊旅歌の類型
  第2節 旅寝の夢 その2 紀行にみる類型と独自性
  第3節 『更級日記』の夢 作品空間と存在把握
  第4節 『たまきはる』の夢 本文と奥書以降
  第5節 『建礼門院右京大夫集』の夢 象徴と比喩
  第6節 『うたたね』の夢 時空認識と虚構
  第7節 『とはずがたり』の夢 作品展開と精神の軌跡
第3章 涙の表象
  第1節 『蜻蛉日記』の涙 精神の変容と軌跡
  第2節 『讃岐典侍日記』の涙 号泣から詩的表現へ
  第3節 『とはずがたり』の涙  衣・身体性に関連して
第4章 制度と表現
  第1節 『弁内侍日記』にみる危機感と表現
  第2節 『とはずがたり』の達成 家と女をめぐって
  第3節 『とはずがたり』の通過儀礼 語られぬ背景
終 章 自己を語ることの意味

 初出一覧
 あとがき
 索引

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はじめにより


 一〇世紀後半から一四世紀中葉にかけて、現代の視点から仮名日記文学にジャンル分けし得る作品群が出現し、隆盛を極め、終焉した。

 「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり。」に始まる『土佐日記』は、紀貫之が女性仮託によって日次で綴った仮名日記の試みであり、意表を突く、画期的な発想の転換であった。それから約四〇年後、『蜻蛉日記』が書かれる。「自己を語る女」の登場である。これ以降、南北朝期の『竹むきが記』に至るまで、女性作者たちは、自己を素材にして多彩な作品を残した。その後三五〇年の長きに渡ってあらゆるジャンルから女性作者が消え、女性文学史は空白の時代を迎える。

 文学史上、同じ現象は二度と繰り返されない。類似点や共通項はあっても、それぞれの時代のジャンルはきわめて独自である。ひとつのジャンルの生成と消滅は、その背景である政治・社会・制度・文化体系に密接に関連している。同じ社会構造・文化構造も再現されることはない。ひとりの人間の自我構造も、生きた時代の文化と制度に規定される。限られた時空で何を信じ、何に価値を見出し、置かれた状況と自己をどのように捉え、どのように生きたか。仮名日記文学はその自我表象のひとつである。

 個々の作品だけではなく、また、中古と中世を区切るのではなく、平安期から南北朝期にかけて続いたひとつのジャンルとして捉え、向き合う必要性を痛感する。

 本書では、王朝女性たちの生きた時空、制度、背景に培われた自己認識、その表象としての仮名日記文学を論じる。
 
 表題には掲げなくともすべての作品に触れつつ次のように展開する。

序章 仮名日記文学の始原から終焉までの流れを概観する。『蜻蛉日記』から『竹むきが記』に至る時代と背景を追いつつ、記憶・回想・虚構性に纏わる問題、表現形態のさまざまな変容に触れる。

第1章 書き手の「自我」把握は「時間」認識に関連する。
 仮名日記文学を自己を素材とした文学形態と捉えるならば、西欧近代の自伝に共通する。自己に眼を向ける要因が、自然からの乖離である、という点でも両者は響き合う。しかし、社会構造、文化背景の相違は看過できない。過去の時間を詳細に再現して自己を把握することを試みる西欧の自伝には、科学的・合理的・実験的な要素が濃厚である。一方、仮名日記文学は、人生のある時間、ある側面を切り取り、テーマをもって出発する文学的営為であり、虚構性の強い世界構築となる(第1節)。

 仮名日記文学は回想の文学である。渦中にあっては、その事の本質、軽重が見えない。時間の距離が必要である。記憶となった過去が回想され、回想の過程で意味づけが熟成していき、作者の経験した現実の時間は、それに従って組み換えられ、作品が構築される。この点において、仮名日記文学は虚構である。

 作品内の時間が、現実の時間そのままではないのは、表現形態の異なる作品においても同様である。『弁内侍日記』のように、逐次書き継がれたような体裁の作品も例外ではない(第2節)。

 そして時間認識は素材となる人生の側面の捉え方によってさまざまである。『たまきはる』は女房としてお仕えした女主人たちの早世と、老残の自己が対比され、作品内の時間が「昔」と「今」に分断される傾向がある(第3節)。『弁内侍日記』における作品内の宮廷讃美の時間は、直進する現実の時間ではなく、永遠に回帰する神話的時間・宗教的時間とも言い得る(第4節)。そして、頻出する語「今日」は過去も未来も包含した絶対の時間を表象する。この特徴は「今日」が直進する時間上の記念すべき点をさす『中務内侍日記』に比較すると明らかである(第5節)。現実の作者がどうあれ、作品における弁内侍は、内侍という立場を崩さず、循環する時間の住人として無私のあり方に徹する(第6節)。

第2章 夢の表象は、自我と時間に関連し、作品の核心に触れる手がかりとなる。夢が書かれても書かれなくとも各々の作品の特徴を浮き彫りにする。

 勅集の旅の歌には、都回帰・歌枕訪問という王朝時代の旅のあり方が旅寝の夢に投影され、望郷の詠という類型が見出せる(第1節)。散文ではどうか。旅の記に夢が書かれる場合、男性の作品における夢の記述が類型化の傾向を見せているのに対して、女性の仮名日記における夢が実に多様である点が注目される(第2節)。

 『更級日記』には、作品全体を通して多彩な夢の記述が散りばめられる。とりわけ仏師であったという前世の夢を境に夢把握に変容がみられ、夢の記述は、作者の存在把握を巧みに表象する(第3節)。

 『たまきはる』は作者が捨象した記述が本文以降の奥書に残されるという、特殊な形態の作品であり、奥書以降に重要な夢の記述があることが注目される。夢の表象は、お仕えしたそれぞれの女院の存在意義と意味連関を浮き彫りにする(第4節)。

 『建礼門院右京大夫集』には夢の記述が二例しかない。それはどちらも平資盛に関する夢であり、作品の主題である愛と死を象徴する(第5節)。

 『うたたね』には夢は書かれない。なぜなら、主人公は眠らないからである。睡眠時の夢は語られないが、比喩の夢は多い。一人称の物語とも言い得る作品そのものが、夢幻的な世界を創造する(第6節)。

 『とはずがたり』の夢は現実と密接に関連する。夢の記述なくして作品世界は展開しない。葛藤から統合に向かう後深草院二条の精神の軌跡をも夢は表象する(第7節)。

第3章 「涙」「泣く」の表象も作品の本質をむ糸口となる。語例の多い三作品をとりあげるが、それぞれに、特徴的である。

 『蜻蛉日記』では、兼家も道綱も泣くのだが、何と言っても作者自身の涙の記述が圧倒的に多い。それを辿ることは道綱母の関係性把握の変化、心情の推移、すなわち精神の軌跡と変容を辿ることに他ならない(第1節)。

 帝王の崩御を素材にしたという点で『讃岐典侍日記』は特異な作品である。悲しみに臨んで女房たちの号泣する様がつぶさに記される作品は他にない。他のジャンルを見渡しても、表現上、「涙」と「泣く」には互換性が稀薄である。『讃岐典侍日記』の場合、日が経つにつれ、「涙」の語例が「泣く」と入れ替わるように増え、詩的表現に変っていく(第2節)。

 『とはずがたり』の涙は、後深草院、雪の曙、有明の月との関係性を象徴的に表現する。「衣」に纏わる表現が多いことの意味は重い。それは制度の中の疎外者、宮中で性に翻弄された女性の身体性の表象でもある(第3節)。

第4章 人は制度に守られ、また縛られて生きる。日記作者たちも例外ではない。
 循環する時間を作品世界に造型した『弁内侍日記』であるが、直進時間に生きる不安感ものぞかれるのを看過できない。両統迭立期前夜の天皇制の危機を察知していればこそ、作品には平和な聖性が表象され得たと言えよう(第1節)。

 天皇付の女房ではあっても、内侍でもない後深草院二条の立場は実に不安定であった。家を離れ、制度から逸脱した立場にあったことに二条の苦悩は発する(第2節)。通過儀礼を生老病死に関する制度的な儀式と捉えるならば、『とはずがたり』に二条自身の通過儀礼が書かれないのも首肯できる。とりわけ、語られぬ裳着(成人式)と得度という人生の大きな節目を前提にして作品を読めば、作品執筆意図と制度から疎外された人生の独自の達成がみえてくる(第3節)。

終章 再び、仮名日記文学というジャンルを概観する。

 日本において、女性たちが自己を対象化した時期は世界的見地から見ても驚くほど早い。物語や伝承では、女性という存在が聖と賤に二極分化して造型されやすい傾向がある。これを女性たち自身が自己を語ることの、隠れた背景と考えられないだろうか。ともあれ、南北朝期の作品を最後に、ひとつのジャンルは終りを迎えたのである。


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