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2013年7月25日

 記事のカテゴリー : 新刊案内

●竹谷長二郎[著]大越雅子[改訂]『田能村竹田 画論『山中人饒舌』訳解』(笠間書院)

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9月上旬刊行予定です。

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竹谷長二郎[著]大越雅子[改訂]
『田能村竹田 画論『山中人饒舌』訳解』(笠間書院)
ISBN978-4-305-70699-7 C0095
定価:本体2,500円(税別)
A5判・上製・カバー装・288頁・口絵1頁付き

『山中人饒舌』を抜きにして、江戸絵画を語ることはできない。
江戸時代後期の文人画家、田能村竹田(たのむらちくでん)が東洋芸術の真髄を語る、
不朽のエッセイ、全文全訳。
中野三敏氏[九州大学名誉教授]、河野元昭氏[東京大学名誉教授]、推薦。

【本書は、画論といっても、抽象的な理論を並べたものではない。百則の短文を、前後、あるいは脈絡をもち、あるいは関係なく、絵画の本質を論ずるかと思うと作品の批判をし、絵画の歴史を語るかと思うと作者の人物を写すというように、随筆風に綴ったものである。そして随処にみえる絵画に対する高い識見と深い洞察とは敬服に堪えないものがある。本書を読むことによって「南画のいかなるものか」を知ることができ、恰好の南画概論ということができる。
 本書のすぐれている点は、内容だけでなく、それを表現する文章にある。和臭のそしりはまぬがれないにしても、簡潔でしかも滋味溢れる文章は、一読三嘆の妙がある。本書は画の理論として解するだけではなく、文学として味わうべきものである。......本書解説より】

【カバー】
田能村竹田
桃花流水図
(天保3年)1832
大分市美術館蔵(OITA ART MUSEUM)

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【著者紹介】
竹谷長二郎(たけたに ちょうじろう)
明治43(1910)年東京に生れる。翰墨を娯しみ、著述(江戸明治期の文人の漢詩文及び画論について)を事とする。平成24(2012)年2月28日没。
主要著書
竹田荘師友画録訳解(笠間書院)
原本現代訳「江戸繁昌記」上・下(教育社)
文人画家田能村竹田―「自画題語」訳解を中心に(明治書院)
頼山陽書画題跋評釈(明治書院)
文人画論―浦上春琴「論画詩」評釈(明治書院)
武元登々庵『行庵詩草』研究と解釈(笠間書院)

大越雅子(おおこし まさこ)
昭和18(1943)年東京に生れる。
早稲田大学文学部国文学科卒業。斯文会会員。
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■ご予約・ご注文は版元ドットコムで
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-305-70699-7.html
または、直接小社まで、メ―ルで info@kasamashoin.co.jp ご連絡いただいても構いません。またはこちらのフォ―ムで、購入希望としてご連絡ください(書名・冊数・お名前・ご住所・電話番号を明記してください)。
http://kasamashoin.jp/mailform.html
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【目次】

口絵 田能村竹田「自画像図」出光美術館蔵

まえがき
改訂にあたって

凡例
解説 著者田能村竹田について
   「山中人饒舌」について

山中人饒舌
序―篠崎小竹
序―角田九華
上巻
引(小序)
一  南画未だ興らず
二  南画の胎動―雪渓と慶山
三  南画の興隆
四  市気を去る
五  己れの為にす
六  書画は小道
七  狩野派・雪舟派の流弊
八  漢画の諸派
九  当代漢画と狩野・雪舟二派
一〇 漢画の衰退
一一 万巻の書を読み万里の路を行く
一二 大雅の名声と実力
一三 大雅の洒落―書と画
一四 大雅の風竹の迫力
一五 大雅の書画の鑑定―画の三種
一六 大雅と蕪村―逸筆と戦筆
一七 大雅と蕪村―正と譎
一八 蕪村の画―名声と実力
一九 蕪村の減筆法
二〇 蕪村は大雅に及ばず
二一 大雅における欽するもの―人品風格
二二 人の好尚は同じからず
二三 京派の花鳥画
二四 応挙の「晩秋野草図」
二五 呉春の「秋江双鳬図」
二六 篤古の人―春嶽
二七 気韻は学ぶべからず
二八 軒冕の才賢―増山雪斎
二九 二石(竹石・介石)の特長
三〇 凌岱・蕪村・大雅の門下たち
三| ただ知る地下の李梅渓
三二 文晁と月仙(僊)
三三 馬孟熙を惜しむ
三四 絵画と風土―竹洞
三五 辺雪居の臨撫―伝摸移写
三六 夙夜の生活と芸術
三七 浦上玉堂―酔中の天趣
三八 浦上玉堂―三可三称
三九 大原呑響
四〇 張瑞図の墨竹
四一 大麟の脱俗
四二 僧松丘の詩と画
四三 張潜夫の清節
四四 黄檗僧(大鵬・来鳳)の画
四五 月仙(僊)の画―人物
四六 恢応の画―古怪絶俗
四七 玉翁・玉■の画―竹
四八 維明・雪村の画―梅
四九 玉洲の画―蘭
五〇 祖仙の画―猿

下巻
五一 栲亭の画竹
五二 栲亭蔵の明清書画
五三 忘るる能はざる名跡
五四 淇園・平洲の画―書巻の気
五五 題 画 の 詩
五六 題画詩の長さ
五七 題画の詩余
五八 蓬島の風流
五九 台山の画―生拙
六〇 俊傑に遇はず
六一 天王寺に登らず、蒹葭堂を訪ふ
六二 蒹葭堂の人と芸術―自娯と酣古
六三 高寸田の恩恵
六四 米山人の知遇
六五 沈南蘋の渡来
六六 渡来の清人―伊孚九・李随安・江稼圃
六七 閨秀画家―氷仙(僊)
六八 宮本武蔵・大石良雄の画―俗習無し
六九 己れの画を溺愛す
七〇 真山に対するに如かず
七一 玩物喪志
七二 真価を知らずして毀誉す
七三 自ら高しとする者
七四 先進に従はん
七五 絵画の効用―仁者は寿を楽しむ
七六 絵画の効用―神(心)を暢ぶるのみ
七七 作る者と観る者と
七八 個性と気と
七九 画の種類と詩の体
八〇 文章の作法と画の体
八一 伝神―心を写す
八二 形似を越えるもの
八三 詩画一致
八四 形似を忌む
八五 画を観るは画を作るよりも難し
八六 古画を学ぶ―日々維新
八七 古画の妙処
八八 衣皺の描法
八九 点苔の描法
九〇 意は筆先に在り
九一 未だ之れを思はざるなり
九二 考拠・規矩なき画
九三 見せかけの枯淡狂逸
九四 題材でなく人品
九五 微茫惨澹を妙境となす
九六 心小にして胆大
九七 静にして健
九八 無修無証の境地
九九 自家に脚を立つ
一〇〇 画と画論の起源
跋―呉北渚
跋―後藤松陰

あとがき
改訂版あとがき
人名索引
改訂参考文献
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【推薦文】

改訂版「『山中人饒舌』訳解」を祝う ● 中野三敏[九州大学名誉教授]

 竹谷先生の「『山中人饒舌』訳解」が改訂版として出るという。洵に時宜を得た処遇と喜ばしい。先生は、極めて深く田能村竹田に親灸された。又、その知友武元登々庵や山陽・春琴等の著書の訳解も上梓されている。そうした文人の行藏に深く共鳴された営為である事は、今更言うを俟たぬ。
 時宜を得たとは何を以て言うか。それは今ほど日本人の生活感が、こうした詩書画三絶の境地から遠ざかった時代はあるまいと思う反面、近代が忘れ去った精神や、その歪みに関しては極めて敏感にならざるを得ない現状があるからである。
 先生の憶いは、日本人の凡てに、貴方がたの御先祖は、こうした現状とは違って、辺幅を飾らぬ精神世界を御持ちだったのですヨと、仰言りたいのかもしれぬ。再言する。洵に時宜を得ているのではなかろうか。
 聞けば、その御息女の御一人は、竹田の縁続きの方と結ばれていらっしゃるという。御息女の御二人に手伝われての改訂版は、詩書画の三絶ならぬ、著者の志と時宜と人との三絶というべきかもしれない。

心から推薦する ● 河野元昭[東京大学名誉教授]

 竹谷先生には高校時代、漢文を教えてもらった。それは受験のための漢文ではなく、すばらしい中国文化へのいざないであった。先生が僕の父と中学時代同級だったことも、不思議な縁だった。
 その後先生は、田能村竹田の研究に情熱のすべてを傾け、『山中人饒舌』に訳解を加えて、『竹田画論』を出版された。言うまでもなく『山中人饒舌』は、日本の画論の白眉、読むたびに感を深くする。それまで、わが国の画論は中国画論の焼き直しか、教条的なもの、逆に首尾一貫せざるものが多かった。
 ところが、すべて竹田の実体験から発した『山中人饒舌』には、竹田でなければ語れない美学があり、しなやかにしてぶれることのない批判精神があり、確固とした画史認識がある。そこに通奏低音のように流れているのは、「精神の到らざるを患う」という絵画に対する本質的理解である。日本の画論は竹田によって完成し、竹田に終わったと言っても過言ではない。『山中人饒舌』を抜きにして、江戸絵画を語ることはできない。
 しかし、やはり現代人にとって、漢文で書かれた『山中人饒舌』はむずかしい。先生は読み下し文と語注のほかに、口語訳をつけてくれたのである。これによって、『山中人饒舌』はぐっと身近な画論となった。
 近世美術史を学ぶもの、それに興味をもつもので、『竹田画論』のお世話にならなかった人はいないであろう。文人画について考えるとき、必ず私も書架から取り出してきたものである。大学の演習でもずいぶん使わせてもらった。とくに忘れがたいのは、一九八九年、北京日本学研究センターの演習である。
 残念なことにその後絶版となり、コピーを用いるしか途はなかったが、このたび校訂を加えて再刊されることになった。こんなうれしいことはない。心から推薦する次第である。

【まえがき】

 江戸時代の南画家田能村竹田の「山中人饒舌」は、画論であるとともにエッセーである。その論は、南画ひいては東洋芸術の真髄を語り、その文は、漢文の小品文として極めてすぐれたものである。本書が幕末から明治にかけて多くの人に愛読されたことは故なきことではない。ところが南画と漢文の衰退とともに一般からは忘れられていた。それが昭和四十年に、岩波書店の日本古典文学大系の「近世随想集」に収められ、たやすく読めるようになったことは喜ばしいことであった。しかし依然として国文学者、中国文学者の本書に対する関心は少ないようである。一方美術研究者は研究の参考にする程度で、この漢文の名文を味読するなどということはないらしい。

 本書がこのような状態であるのは、国文学と中国文学との谷間、広くは文学と美術との谷間にあるためである。これは研究のセクト化した現代においてやむを得ないことであろう。しかし実はこの二つの接点であるところにこそ本書の価値がある。

 今日東洋の美は、日本人からも世界の人びとからも注目されてきている。しかしその理解のされ方に至ってはまことにおぼつかない気がする。このときにあたって、東洋美の本質を説いた「山中人饒舌」は、 改めて読まれる必要があると思う。これが本書の訳解を試みたゆえんである。

【改訂にあたって】

 本書を、故竹谷長二郎が出版してから、三九年の月日が経ちました。その間沢山の方に読んでいただき、父は大変喜んでおりましたが、初めての本格的な著作であったため、精緻を欠き、誤植も少なくないことを大変気にかけておりました。

この度、改訂版というお話をいただき、この機会に長年の懸念を正し、前回、「未詳」として逸しておりました出典や人物をほぼ明らかにいたしました。

 改訂にあたっては、主として父自ら訂正した手元本に基づき、その後の著作「文人画家田能村竹田―「自画題語」訳解を中心に」(明治書院 昭和五六年)などで試みておりますものなどを照会、集約して修正いたしました。さらに、いくつかの箇所で、現代の言い回しにより近づける努力をいたしました。

 初版で父は、原文の一〇〇の改行に、オリジナルのタイトルをつけ、「章」としておりましたが、今回、「則」と改めました。さらにタイトルの一部も、よりわかりやすいものに変更いたしました。また上欄の篠崎小竹の評言について、新たに付け加えた箇所がございます。
 大変拙いものではありますが、リニューアルした「田能村竹田画論『山中人饒舌』訳解」を楽しんでいただけましたら、この上ない幸せでございます。

 平成二五年夏 改訂者しるす

【解説】

著者田能村竹田について

 田能村竹田、名は孝憲、字は君彝、幼名を磯吉、十二歳で玄乗、二十四歳で行蔵(堯蔵とも書く)。竹田はその生地竹田をとった号である。居宅を竹田荘・墨荘といいその室に花竹幽窓、緑苔窩、補拙廬、雪月楼、秋声館などと名づけ、それらを号として用いている。ほかに九畳仙史、九畳外史、九峰衲子(いずれも九重山よりとる)、随縁居士、紅荳詞人、六止草堂、三我主人、藍渓釣徒、藍渓狂客、西野小隠などの号がある。

 竹田は、安永六年(丁酉・一七七七)六月十日(旧暦)、豊後国直入郡竹田村(今の大分県竹田市)に生まれた。藩は岡藩で、藩主は中川侯、七万余石の外様大名である。竹田の先祖上野介某は、摂津国(大阪府)河辺郡田能村の領主で、その子杢左衛門は、岡藩主の祖中川清秀に仕え、賎ケ嶽の戦で難に殉じた。同族に田能村吉右衛門というものがあり、備前(岡山県)池田侯に仕え、禄一千石を食んでいた。吉右衛門の子休庵は、かつて同族が岡藩に仕えていた縁故で備前から豊後の岡藩に来て、医をもって中川侯に仕えた。休庵の子碩庵、その養子碩庵、その子玄仙、その養子碩庵と、代々藩医であり、竹田はその碩庵の次男として生まれた。母は同藩士水島氏の女で、名を萩野という。竹田の兄周助が竹田十八歳のとき死去したため、竹田が医業を継いだ。しかしかれは医業を好まず、専ら経学詩文に心を傾けたので、寛政十年二十二歳のとき、医を廃して藩校由学館に出仕して学問を専攻することを命ぜられ、竹田は学者として立つこととなった。

 彼がいつから絵画に志したかは明らかでないが、十六、七歳のころ岡藩の画員淵野真斎・渡辺蓬島らに学んでいたようで、二十歳のときには、竹田社・米船社という詩画の会に入っている。竹田の地は、竹田の生まれた安永六年ごろ、備前岡山の画家淵上旭江が来て、南宗画を紹介し、真斎・蓬島らに教えていた。旭江は望月玉蟾の門、大西酔月に学んだ人で、その画は沈南蘋風の画だという。

 寛政十年、竹田は由学館出仕の命についで、藩儒医、唐橋君山が総裁として編集していた「豊後国志」の御用掛を命ぜられ、これから資料探訪のため藩内を巡るとともに編集に従事する。享和元年(二十五歳)、この「国志」を幕府に納める準備のため江戸に赴くことになり、途中大阪に木村蒹葭堂を、大津に紀梅亭を訪ねている。江戸では、古屋昔陽・岳東海に学問を学んだ一方、谷文晁を訪ねて画法を問うた。翌年帰藩。

 享和三年(二十七歳)、父・碩庵が没し、家督を相続する。翌文化元年(二十八歳)、「豊後国志」編纂の業が成ったので、竹田の仕事も一段落をした。この年熊本に行き、高本紫溟・村井琴山らを訪ねて教えを乞う。このころから竹田の研究は、経学よりも詩文風流の方面に傾斜してゆく。「填詞図譜」の稿はこのころすでに作られていた。

 翌文化二年(二十九歳)、京都遊学の許可を得、正月出発、博多・長崎・熊本・小倉・下関を経、それぞれの地で学者文人と交流し、五月大阪に着、これから文化四年(三十一歳)十二月まで、約二年半、京阪の地に滞在する。この間、村瀬栲亭の門に入り勉学するとともに、中島棕隠・浦上玉堂・岡田米山人・上田秋成らと交遊し、一方諸名家の作品に接して学問絵画を研鑽する。帰藩後、臼杵藩士安藤氏の女さだ女と結婚し、文化五年(三十二歳)、長男太一(のち如仙)が生まれる。なお、これ以前に結婚し、一女をあげたが、その子は早く死に、その妻とは離別した。

 文化五年・六年・七年は由学館に出仕して教授するかたわら詩文絵事を楽しんだ。
 文化八年(三十五歳)、再び京阪遊歴の旅に出、途中備後(広島県)に菅茶山を訪う。大阪で初めて頼山陽に、紀州(和歌山県)で野呂介石に会い、半歳にして帰る。その年の冬、岡藩の領内で百姓一揆が起こった。竹田は二回にわたって「建言書」を藩主に上申し、藩政について意見を述べたが、容れられず、翌文化十年、退隠の願がききとどけられ、隠居を命ぜられた。竹田、三十七歳、これからいよいよ本領の詩画三昧の自適生活に入る。

 文政元年(四十二歳)、頼山陽が九州遊歴の途中、竹田に来訪。滞在すること七日、竹田は同志と連日雅宴を張った。
 文政五年(四十六歳)、杵築に遊び、「黄築紀行」を書く。
 文政六年(四十七歳)、長男太一と門人高橋草坪を伴なって東上し、頼山陽・僧雲華・浦上春琴・青木木米・岡田半江・小石元瑞、篠崎小竹ら多くの文人墨客と交遊し、京阪の地に一年ほど滞在した。

 文政九年(五十歳)、長崎に遊び、一年余り滞在し、木下逸雲・僧鉄翁らと交わるとともに清人江芸閣らと詩文書画の交わりをし、一方中国から舶載された書画によって眼識を高めた。翌十年、熊本・鹿児島を巡って帰国する。
 文政十一年(五十二歳)、以後は度々東上し、京阪の文人たちと交流した。

 天保五年(五十八歳)、大阪で大塩平八郎(中斎)と会い、意気投合した。一旦帰国、翌天保六年、東上、再び大塩平八郎と会う。七月大阪近郊の吹田村の代官、井内右門を訪い、滞留中発病、閏七月大阪中の島の藩邸に帰ったが、病勢衰えず、長男太一を竹田から呼び、太一看病のうちに八月二十九日没した。竹田、五十九歳。病中のつぎの「不死吟」が辞世となった。
「一昨不レ死又昨日。昨日不レ死又今日。今日不レ死又明日。若レ許不レ死日又日。騰々騰不レ死。踏尽之今年三百六十日。又明年三百六十日。」(一昨死せず又昨日。昨日死せず又今日。今日死せず又明日。許くの若く死せず日又日。騰々として騰つて死せず。踏み尽す之れ今年三百六十日。又明年三百六十日。)

 墓は天王寺浄春寺にあり、碑面に篠崎小竹の題した「竹田先生墓」の五文字がある。法名を「随縁院竹田補拙居士」という。郷里竹田には遺髪と歯牙を埋め、浄春寺の墓石に摸して同じく小竹の筆になる墓が建つ。

 以上年譜的に竹田の経歴を述べたのは、本書を読むためには竹田の人物と芸術の輪郭を知る必要があろうと思ったからである。右の外面的な行動で知られるように、竹田は単なる画工ではない。漢学ことに詩文について深い造詣をもつ学者である。したがって竹田の全貌を理解するためには、その詩および文を知らなければならない。竹田の著には「文集」「詩集」「逸詩文集」「自画題語前編・後編」「竹田荘詩話」などがあり、また竹田の画には、極めて気格の高い書で賛がしるされているのがふつうである。竹田の詩が大文学といえるかどうかはさておき、おおむね一応東洋芸術の理想とする詩書画三絶に達したということができるであろう。南画はこの三つを兼ねたものでなければならないのだが、それを得ているものははなはだ少ない。近代の富岡鉄斎も、気迫のある画にふさわしい賛をしているが、その賛は古書の抜き書きかそれに自己の感想をつけ加えたもので、自作の詩というのは稀である。

 竹田の学問の中で、もっとも注目すべきものは填詞の研究である。填詞は単に詞または詩余ともいい、歌謡的な漢詩であるが、音調を重んじる文学なので、日本ではあまり研究されていなかった。竹田は早くからこの研究をし、三十歳で著した「填詞図譜」は名著と言われている。填詞の実作も行ない、填詞集として「清麗集」「秋声館集」「竹田布衣詞」の著がある。また和歌も詠み、花道・茶道・香道にも深いたしなみをもっていた。この方面の作には、「歌集」「瓶花論」「竹田荘泡茶説」「竹田荘茶説」などがある。

 竹田が山水の勝地である竹田に生を得たことは恵まれたことであった。おのずから「山中人饒舌」の「山中」に身を置いたのである。しかしただ山中にいただけではすぐれた芸術は生まれない。かれは、京阪の画壇ならぬ「文人サークル」と常に交渉をもって芸術を磨いた。なお「国志」編纂のため藩内を巡歴したこと、また何回も京阪に往復したことは、「万里の路を行く」(第一一則参照)南画成立の条件を自然に満たしたことになった。大自然の気と学問とを背景として、竹田の絵画は生まれた。竹田はこのように南画人たるにふさわしい人であった。南画と文人画との関係は後述(第一則参照)するが、竹田の作品こそは文人画の名に価するものである。

 戦後、絵画の面でも自由不覊を重んじる風潮があり、謹直な竹田はやや疎んぜられている。その反面、池大雅や浦上玉堂が、戦前から尊重されてはいたが、さらに大きくクローズアップされてきた。竹田には、気韻を強調する余り形似の絵画性に欠ける点がないではない。また中国の元明清の南宗画にくらべてそのスケールの小さいことも否定できない。しかし竹田の絵画は、中国南宗画の正統をふまえていると同時に、中国にはない日本独自の味わいをもっていることは認めなければならないと思う。また今日これこそが南画であるとされている大雅や玉堂の真価を、竹田はこの「山中人饒舌」で余すところなく認めてたたえていることも知らなければならない。

 「画家」である前に「人間」であること、「技の人」である前に「道の人」であること、これが南画という芸術の要求する基本的条件である。この「道」についてはこの「山中人饒舌」でしばしば説くが、竹田はこの条件にまことに忠実な人であった。そういう人であったから、かれは画家として生きるよりも、経世済民の儒教の理想を実践に移して藩のために尽くすことに生きる意義があると考えたことは確かである。それにもかかわらず文学・絵画の風流三昧に生を送ることになったのは、一つはかれの身体が弱かったこと、一つは当時の岡藩の事情がとうていかれの経綸を行うような状況でなかったことの二つによるものと考えられる。前者については、かれが、「目、常に華(花)を見、飜蝿(飛ぶはえ)珠を貫き、咫尺(二〇―三〇センチ)の外弁知する能はず。耳又能く鳴り、隠々として声有り、時に大、時に小、雷の如く蚊の如し。膿(うみ)を出すこと一日に両三次(二、三回)、或いは三四日に一次。此くの如きこと十数年......」(原漢文)と言っているように、眼と耳は相当悪かったらしい。後者については、百姓一揆のとき上申した「建言書」を読むと、その時の藩の政治は弛緩し、学問を重んじる気風などは全くなかった状態であることがわかる。もし竹田の健康と岡藩の状況がこのようでなかったならば、竹田は恐らく九州小藩の政治家として全力を傾注してその生を終えたことであろう。さらにまたかれが学問に心ひかれることがそれほど強くなかったならば、藩侯の侍医として風流を楽しみながら平穏無事の生涯を終わったであろう。しかしそのような場合には、大画家竹田はなかったことになる。まことに人間の運命は測り知ることのできないものである。

 かくして竹田は文人として生きた。文人の生き方は、脱俗隠遁の老荘の思想に立脚するものではあるが、治国平天下の儒教の思想を否定するものではない。ことに竹田は後者を完全に棄て去ることはできなかったと考えられる。竹田の時代は、徳川幕府の封建体制に破綻が現れはじめ、内外多事になろうとする時である。かれはその時代の動きに対して無関心であり得なかった。晩年、陽明学者大塩平八郎と接近したことは、この現れとみることができる。大塩は、社会の変革を目的として乱を起こし(天保八年)、誅せられた人。竹田はこの大塩に会って「議論激発」し、しかもそれは「快意之事」(竹田が後藤碩田に与えた手紙中の語)であったという。竹田は、大塩と初めて会った翌年、南画家としては短命ともいうべき五十九歳で病没するが、その六年後「蛮社の獄」により自刄した同じ画家渡辺崋山の悲劇をおもうとき、竹田の早世が不幸であったとは軽々に断ずることはできない。

「山中人饒舌」について

 本書「山中人饒舌」は、竹田の没年天保六年に出版された。角田九華の序文の日付は前年の天保五年十月、後藤松陰の跋文の日付は「保午嘉平月念五日」すなわち天保五年十二月二十五日である。初版本の、表題のページの裏に「天保六年歳次乙未春正月刊 呉橋春刻」とあるから、歳が明けて出版されたわけである。

 ところが竹田が巻頭に書いている「引(小序)」の日付は、癸酉冬閏十一月すなわち文化十年閏十一月で、竹田三十七歳のときになる。そしてその「引」の中で「是の書十余年前に録する所」と書いているので、実際にこの書を書いたのは、十余年前の二十歳代ということになる。初稿が成って十余年後(文化十年)に一応脱稿し、それから二十二年後(天保五年)に書物になったわけである。初稿そのままということは常識的に考えられないから、三十数年の間には手が加えられているだろうということは想像される。

 本書は、画論といっても、抽象的な理論を並べたものではない。百則の短文を、前後、あるいは脈絡をもち、あるいは関係なく、絵画の本質を論ずるかと思うと作品の批判をし、絵画の歴史を語るかと思うと作者の人物を写すというように、随筆風に綴ったものである。そして随処にみえる絵画に対する高い識見と深い洞察とは敬服に堪えないものがある。本書を読むことによって「南画のいかなるものか」を知ることができ、恰好の南画概論ということができる。

 本書のすぐれている点は、内容だけでなく、それを表現する文章にある。和臭のそしりはまぬがれないにしても、簡潔でしかも滋味溢れる文章は、一読三嘆の妙がある。本書は画の理論として解するだけではなく、文学として味わうべきものである。口語訳によったのでは、とうていその妙を知ることはできない。実はこの名文を口語訳になおすことは忍びないので、訓読文の途中に括弧をして難語句だけの語釈を入れて稿を起こしたが、本書の理解のためには全文の口語訳があったほうが便利であろうと考えて、後から〔口訳〕を加えたのである。読者各位は原文(訓読文)をじゅうぶんに味読されるようにお願いする。

 本書は片々たる小冊子ではあるが、竹田の画業とともに、竹田を不朽たらしめるものである。さきにも触れたが、竹田の画については議論の余地があるとしても、本書の価値については異論をさしはさむ余地がないのではないかと思う。もちろん南画というジャンルの上に立ってのことで、この基盤を問題とすれば話は別である。

 今、小冊子といったが、その形状は縦一七・五センチ、横九・七センチで、今の新書版とほとんど同形であり、後藤松陰の「跋」でいう、いわゆる巾箱本である。これは、一般に普及しやすいハンディかつ雅趣に富んだものを作ろうという竹田の意図によるものであろう。

 なお本書はバラエティに富んだエッセーであるが、別に「人」を中心にしたエッセーがある。その書を「竹田荘師友画録」という。竹田をめぐる百四人の文人についてしるしたもの。卓抜な評語を交えつつそれぞれの芸術を語り、風格のある文人の人間像を浮かび上がらせている。この書もまた興味の津々として尽きないものがある。


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