« 異類の会例会・三浦億人氏「お伽草子『鼠のさうし』の形成について」(2013年6月25日(火)、青山学院大学 総研ビル5階 14502教室) | メイン | 植民地文化学会2013年度総会(2013年7月6日(土)・7日(日)、早稲田大学) »

2013年6月24日

 記事のカテゴリー : 新刊案内

●錦 仁「和歌を超えて、時代を超えて」【説話文学会五十周年に寄せて】

このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote Share on Tumblr LINEで送る

7月に刊行する、説話文学会編『説話から世界をどう解き明かすのか 説話文学会設立50周年記念シンポジウム[日本・韓国]の記録』に収録されたエッセイを公開いたします。

70698_k.jpg

ISBN978-4-305-70698-0 C0095
定価:本体2,800円(税別)
A5判・並製・カバー装・564頁

--------------

エッセイ●説話文学会五十周年に寄せて
和歌を超えて、時代を超えて

錦 仁


1947年生まれ。所属:新潟大学。専門分野: 中古・中世文学。主要編著書:『中世和歌の研究』(桜楓社、1991年)、『浮遊する小野小町』(笠間書院、2001年)、『東北の地獄絵』(三弥井書店、2003年)、『小町伝説の誕生』(角川書店、2004年)、『金葉集/詞花集』(明治書院、2006年)、『なぜ和歌(うた)を詠むのか―菅江真澄の旅と地誌』 (笠間書院、2011年)、『聖なる声―和歌にひそむ力』(三弥井書店、2011年、編著)、『都市歴史博覧 ―都市文化のなりたち・しくみ・たのしみ』(笠間書院、2011年、編著)『中世詩歌の本質と連関(中世文学と隣接諸学)』(竹林舎、2012年、編著)、『宣教使 堀秀成―だれも書かなかった明治』(三弥井書店、2012年)など。


日本論としての国文学
 和歌研究者のNさんが近寄ってきて、「錦さん、なぜ和歌を詠むのか、結論は出ましたか」と言う。親しい間柄なので思わず笑ったが、軽い皮肉を含んでいる。拙著『なぜ和歌(うた)を詠むのか─菅江真澄の旅と地誌』(二〇一一年三月十五日、笠間書院)をからかったのである。穿った感じの書名だったかもしれないが、それなりの理由があった。

 真澄(一七五四〜一八二九)は生涯、膨大な量の和歌を詠んだが、まったく評価されていない。よく読んでみると下手な歌人だとは思えない。優美な詞づかいの中に柔らかい感性がほの見えて、わるくないな、と思える歌が多い。そう思う人は多いはずだ。

 しかし、柳田國男はたった一首、しかも飛びっきり下手くそな、儀礼的な歌をつかまえて、真澄の歌には一首たりとも感心するような歌はない、と断じた。これは柳田一流の戦略であったろう。真澄の旅日記や地誌は、歴史資料に記されない地方の農民たちの生活を事細かに記録しているという。そうした真澄の著作を民俗学の先蹤として高く評価しようとすると、その反対側にあると言えなくもない貴族的なもの、都的なもの、すなわち和歌を詠みながら旅をし地方の農民の生活を記録したという、真澄のその部分が目障りになったのではないか。

 真澄が和歌を詠まなかったら、より純粋な農民生活の記録になるわけで、民俗学の始まりを告げるものとして高く評価できる。真澄を知らぬ人に民俗学とは何かを具体的にイメージさせられる。そのための戦略ではなかったか。

 和歌を残してくれなければよかった。なぜあんなに多量の和歌を詠み残したのか。なぜ和歌を詠みながら農民生活を見て歩いたのか。以後、これが真澄に対する民俗学側の一般的な理解となり、真澄の和歌を論じる人はあらわれなかった。一方、国文学側では、真澄の著作は民俗学の第一級資料ということで研究の対象にしなかった。民俗学、国文学と分離して言挙げする必要はないが、真澄の和歌を論じること、真澄を歌人として見ることは両者ともほとんどなかったのである。

 真澄の旅日記・地誌を考えるとき、なぜ和歌を詠みながら農民の生活を記録したのか、を問わなければならない。これは和歌の根源の問題であり、必須の課題である。答えをいえば、そもそも江戸時代において、本居宣長をもちだすまでもなく、和歌と民俗は離反し対立するものではなかった(講演「和歌と民俗─菅江真澄『いなのなかみち』の方法」伝承文学研究会、二〇一二年九月一日、於・学習院女子大学)。民俗学は和歌を詠む真澄を嫌ったが、和歌の研究者はなぜ真澄を無視するのか。真澄の存在を知らないわけではあるまい。こういう歌人も和歌研究の視野に入れてよいのに、闇の向こうに追いやって近寄らない。私に近寄って愚問を呈するより、真澄に近寄って素直に疑問を呈してみるべきだ。真摯な答えが聞こえてくるだろう。

 付け足せば、私は拙著のほかに『都市歴史博覧─都市文化のなりたち・しくみ・楽しみ』(二〇一一年十一月、笠間書院)に収めた「藩主の巡覧記─仙台藩主と秋田藩主」においても、藩主がなぜ旅をしながら和歌を詠んだのか、答えを明快に出している。藩主の領内巡覧は「養老律令」の戸令に規定された国守のそれを踏襲している。和歌を詠みながら巡覧するのは、神代以来の歴史をもつという和歌を詠み、それゆえに神から与えられた領地を治める国主たる資格を有することを示すのである。小さな天皇を模倣しているといってもよい。藩主が領内巡覧記を書く背後に、松平定信の治世思想があったことも付け加えておこう。

 江戸時代の地方藩主とそれを支える文人藩士たちの和歌活動を見てゆくと、その淵源に『古今集』・仮名序の和歌思想へ回帰し、それを継承しようとする意識が色濃く流れている。そればかりではない。『万葉集』への回帰とその継承の意識も同じくらい色濃い。『万葉集』を評価したのは院政期の源俊頼であり、それを尊敬したのは古今集主義者の藤原俊成であり定家であった。そして、かれらを尊敬したのが全国の藩主であり、かれらに和歌の指導をした都の堂上歌人であった。国学者たちの和歌と思想もそうであった。

 『万葉集』への評価と『古今集』および仮名序の和歌思想への評価は、必ずしも対立・矛盾するものではない。むしろ大きな思想の流れとなって後世へと継承され、藩主たちの和歌活動を支援し形成した(「「和歌者我国風俗也」─藩主の和歌思想」〈『説話文学研究』〉第四十七号、二〇一二年七月)。

 というわけで、平安和歌や中世和歌の専門家の目が、こうした江戸時代の、地方へと広がってゆく和歌の実態と本質の解明にぜひとも必要なのである。

 さらに言えば、全国に広まった獅子踊り(ささら踊り)の由来を記す縁起書には、『古今集』の仮名序や中世の歌論書さらに経典が引用されているものがある。地方の農民が自分で書いたものではあるまい。都の寺院の僧侶などの書いた縁起書が芸能の移入に伴って持ち込まれたと思われる。それらの地方芸能文書には、斑足王(はんそくおう)説話を詳しく記すものや蚩尤(しゆう)説話のかなり古い形をとどめるものが記されている。これも中央の知識人の書いたものだろう(「東日本の在地と芸能─風流獅子踊りと修験文書」〈『在地伝承の世界【東日本】』一九九九年一月、三弥井書店〉、「伝播する和歌」〈『和歌の力』二〇〇五年十月、岩波書店〉など。ほかに「伝承資料集成」というタイトルでこの種の文書を大学の紀要に翻刻し解説する作業を続けてきた)。

 ちなみに、『平家物語』(延慶本)の清盛堕地獄説話の源泉を示す「冥途蘇生記」(温泉寺本)が山形の小さな寺院にあり、室町期の御伽草子「八ツあたのし大」が同じく山形の山深い農家にあるし、地方は説話資料に事欠かない(『東北の地獄絵』二〇〇三年七月、三弥井書店)。さらに加えると、鳥海山の裾野に番楽という民俗芸能がある。そのうちの一つ「蕨折」(わらびおり)は複式夢幻能に似た構成で、人間の愛欲をえぐりだす。演目には平家・曾我ものもあり、実に多様だ。小野小町、和泉式部、源義経の伝説もそうだが、地方に根付いたものに日本の古典が多い。資料発掘はまだまだ続く。

 こうした、和歌および和歌思想などが地方へと伝播・浸透してゆくありさまは、あたかも本歌取りのようなものであり、それと同質の精神的作業といえるだろう。〈襲ね〉といってもいい。〈写し〉〈移り〉といってもいい。単なる模倣というべきでなく、日本文化形成の特質を示している。そうやって日本の文化伝統が裾野を広くし、高く、深く形成されてきたのである。『伊勢物語』の第十四段にあるような都人の東国蔑視そのままに今もなお都の和歌にのみ心を向けてばかりいられない。それではなにも変わらない。

 真澄に返れば、歌枕を考えるとき真澄の著作はなくてはならないものだ。豊富な資料を内包している。大正年間に青森県の歌人たちが天皇の行幸に際し、地域の歌枕と新しく設定した名所を詠んで献上した小冊も、そのための資料に入れてよい。真澄はアイヌ語で五七五七七のウタを詠み、それと同じ語順で同じ意味の和歌を詠んでいる。意味のない遊びのように見えるが、その奥に、和歌のあるところすなわち日本、というほどの深い思想が秘められている(『なぜ和歌を詠むのか─真澄の旅と地誌』)。また、『百人一首』の藤原清輔の歌は、貧苦を生きる農民を励ます道歌として教えられ浸透した。和歌研究者はこういうことにも目を向けるべきだ(「藤原清輔「ながらへば」の歌の解釈をめぐって─衰退史観・尚古思想」〈『百人一首万華鏡』二〇〇五年一月、思文閣出版〉)。

 その昔、国文学者は沖縄に行った。いまも行くが、それと性質が違うとしても、沖縄以外のところも国文学の内的エリアに加えてよいのではないか。和歌の研究者が高度な文化を築き上げた都に目を向けるのは当然であるが、日本という国土の隅々に和歌の文化が浸透し花開いていたことを忘れてはならない。江戸時代が終わってまだ間もない明治十五年、秋田の能代に高名な国学者・堀秀成がやってきて、『源氏物語』に通暁している伊東さち子という無名の女性と会った。彼女は秀成の箒木巻の講義に接し、別れのときに「雨夜の品定め」をふまえた和歌を詠んで、秀成と贈答した。その歌を秀成はたいそう褒めている。山形の小さな温泉町では『古今集』の会読をしている三人の男たちに巡り逢った。こうしたことを知ると、日本はつくづく和歌に覆われ包まれた国であったと思う。

 というわけで私は、「それじゃ、Nさん、なぜ和歌を詠むのか、を考えることなく御子左家や六条藤家の歌人たちの和歌を考えてきたのですか。あなたは、どんな答えが出たのですか」と聞いた。そう言ってNさんと私は、いつもの親しさで爆笑したのであった。

ジャンルを超えて、時代を超えて
 和歌の研究者には、新たに着手すべきことがたくさんあるのではないか。その一端を述べてみたのだが、そうしたヒントはすでに二十五年も前、小峯和明の「院政期文学史の構想」(『国文学解釈と鑑賞』一九八八年三月号)に示された提言が与えてくれる。「輪切り」の文学史研究である。

 いかにして院政期文学史は可能であろうか。まず否定すべきは発端─隆盛─衰退という一般的な発展史観もしくは衰頽史観である。単線的な因果関係で編年式に作品を並べる通時的・系譜的な文学史では真の文学の動きはとらえにくいであろう。むしろジャンルの枠をはずした共時の横のつらなりから院政期の文学の時空をまるごととらえる、いわば輪切りにした断面の文学史を指向したいと思う。(傍線筆者。以下同)

 同じような提言は、同じ号で三角洋一も述べている。「私はたとえば一〇七〇、八〇年代、一一二〇年代、一一八〇年代を輪切りにした文化状況の俯瞰を、しばしば思い立ってはノートしており、いつの日か、斎藤清衛『南北朝時代文学史』(復刊、古川書房、昭47)のごとき視界を得たいものだ、と思っている」と述べ、「院政期という時代はまた、横断的にながめてみないと見えてこないものがある、そういう時代であると思うからである」(「日記・物語」)と結んでいる。

 和歌はそもそも歴史を内包し、それをおのずと体現するものとして存続してきたのだから、「共時の横のつらなり」を見るだけでは本質をとらえられない。ジャンルを超えることはもちろん、時代をも超えてみる必要がある。時代を遠く隔てて、なにが否定され、なにが継承され、説話文学をはじめ横のいかなるジャンルと関連して新たな創造を生みだしているのか、を見つめるべきだ。対象をある時代に限定し、その中の歌人に焦点を当てて、実証の限界まで突き詰めて追究する和歌研究はすこぶる有効だが、それと併行して、そういう方法と実践から離れた新しい追究を試みたいものだ。恐れずにいえば、和歌研究者は和歌を和歌からしか考えない傾向が強い。垣根を越えようとしない。

 ここでふと思う。震災後のことである。小学生が津波に呑まれて多くの命を喪った石巻市の大川小学校に、マイクロバスがやってくる。十数人の僧侶が降りてきて、慰霊碑の前でしばらく読経をする。それが終わると慰霊碑の前に集まって記念写真を撮って帰って行く。歌人の佐藤通雅が個人雑誌『路上』(一二四号、二〇一二年十一月)に報告している。子どもの死を悲しんだかと思うと、一転してその行為を誇る。でなければ写真など撮らない。

 この行為は、国文学に限らず論文や評論を書く私たちの心理構造とどこか似ていないか。作品の内容はきわめて深刻で悲しいのに、それを理解したかに見えて、心の痛みもなく離れて、実証と称する論文をものする。対象・事件を論じていながら、実は遠のいたところに論文が成立する。それがその人の業績となって積み重なる。学問の非情さ、いやらしさ。この日本の大地で起こった大災害に心の奥底ではなんのこだわりもなく都の和歌を、そして原発や政治を論じているのではないだろうか。私たち一人ひとりが問うべき課題である。

 都に花開いた和歌を尊ぶが、日本という大地に広まり各地に根付いた和歌とその思想には目もくれない。国文学というわりにはコクがない。隣接分野である民俗学・考古学・日本史学に携わる人々の震災に対する取り組み方とずいぶん異なる。今後の和歌研究や説話研究を考えるとき、脳裏の片隅に入れてよいことだろう。

 おのれはなにを見て、なにを考え、なにを発言するか。要するに、思想の問題だ。その答えは、さまざまでよい。


●グーグル提供広告