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2013年3月28日

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●第三十六回 西鶴研究会◆共同討議「発熱する胡桃[テキスト]」報告(有働 裕)(2013.3.21・於青山学院大学)

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先日開催された第三十六回 西鶴研究会◆共同討議「発熱する胡桃」(2013.3.21(木)、青山学院大学 総合研究ビル 10階会議室)の有働裕氏による報告が、西鶴研究会の掲示板に掲載されました。

■西鶴研究会の掲示板
http://ihasai.bbs.fc2.com/

笠間書院のブログにも再掲載いたします。

木越俊介氏の論文「西鶴に束になってかかるには」(『日本文学』2012年10月号)に対して、篠原進氏が「発熱する胡桃―木越俊介氏の挑発に応える」と題された論文を笠間書院のブログ上に発表、話題となったものです。西鶴研究会は「西鶴研究を考える上で重要で良質な問題を多々含んでいると思われ」るとし、この共同討議を開催しました。その報告です。以下ご覧下さい。
(関連するテキストの一部がこちらに上がっていますので、ご参照ください)


第三十六回 西鶴研究会◆共同討議「発熱する胡桃[テキスト]」報告(有働 裕)

この共同討議は、『日本文学』2012年10月号に掲載された木越俊介氏の「西鶴に束になってかかるには」によって提示された問題を、西鶴研究会として正面から受け止めようとの意図で企画された。

木越氏の指摘は以下の二点に集約できよう。

①西鶴研究においては「ぬけ」のような用語が融通無碍に使用され、とりわけ西鶴を過剰に「政治的な文脈」で読もうとする傾向がみられる。
②西鶴研究においては、他の研究分野から見ればわかりやすい典拠関係が意外にも看過されており、雅文学や伝承文芸などとの関連を近世文学研究者が「束になって」追究する必要がある。

これに刺激されていくつかの反論や問題提起がウェブ上でなされたが、今回の西鶴研究は、直接討論の形でこの問題を初めて取り上げるものとなった。その話題性からか、当日は通常よりも多い五十名ほどの出席者が集まった。

まず篠原進氏から、木越論文を笠間書院の西鶴リポジトリーで取り上げた意図と、そこから広がる問題点についてのご発表があった。その論旨は、木越氏の論に対応して二つにまとめることができる。

①従来の「ぬけ」についての定義や研究から考えても、読者に対する挑発的な謎かけを「ぬけ」と呼ぶことに問題はなく、むしろこれまでの西鶴研究は西鶴に過剰な階級意識を見る時代風潮への反論として提示された中村幸彦氏「天下の町人考」を拡大解釈して、必要以上に政治性を切り捨てる傾向が強かった。「政治性」というのは校訂、否定、わざとはそれに触れないなど、すべてを含む概念なのだから、空白が多くそこをどのようなもので埋めるかによって、江戸川乱歩『D坂の殺人事件』のごとく、見る角度によって黒白が一変するような西鶴作品の特性を考えれば、そうしたさまざまな読みの可能性を狭めてはならない。

②先行研究を完璧に押さえようとするあまり、せっかくの発見を趣向レベルに埋もれさせ解釈の深化を妨げる要因となってしまう危険性がある。より重要なことは、阿部公彦氏が指摘するごとく西鶴作品における違和感や「引っ掛かり」ともいうべき、異化を引き起こすテキスト上の仕掛けに注目することである。現実に今日の読者が西鶴に興味をかきたてられるのは、そうした驚きが契機となっているのであり、業界では通用しても「発熱しない」研究者好みの研究は文学としての面白さを減じさせてしまっている。

これに対して木越氏からは、以下のような形で、先の論文の意図説明を交えた発表があった。

①西鶴研究を外側から見ていると、「ぬけ」「カモフラージュ」といったような術語の独特の用法に、仲間内だけで通用するような言語で論じているかのような閉塞感を感じる。西鶴研究に限ったことではないが、各分野で何を論じているかがわかるようなバリアフリー化の必要がある。

②解釈と結びつかない典拠研究は確かに無意味ではあるが、現在の西鶴研究者の個別の読みは、町人倫理や武家批判といった方向に向き過ぎており、違和感がある。また、執筆当時の社会状況を過度に重視するという方法は、詰るところ作品と「実作者西鶴」とを密着させて解釈を導き出すような、作家論的な方法に限りなく接近して行く危険性がある。

以上の発表の後に、手短に相互の意見確認と質疑を簡単に行ってから、出席者全員の自由討論となった。

まず口火を切ったのは中嶋隆氏で、為政者批判が当たり前に行われた仮名草子の存在を視野に入れるならば、それらをカモフラージュした西鶴作品を、出版取締令などとの関係ではなく、文芸様式上の問題として論じるべきではないか。また、西鶴作品における「ぬけ」という用法、テキストの空白、プロットの省略などは俳諧との関連で考える必要があるのでは、という見解を提示した。

これを受けた形で、しばらくは西鶴のテキストの固有性についての質疑応答が続き、馬琴の文体や「隠微」という方法などと比較してもそこに同様の整合性を見出すことは不可能で、テキストの空白をどう埋めるかは研究上必然的な課題であることなどが、西鶴研究会の会員を中心に出された。

それに対し勝又基氏は、そのことが武家批判や為政者批判へとなぜ直結していくのか、その必然性は何かを明らかにしてほしいとの強い問いかけがあった。それに対しては、杉本好伸氏から、今日の西鶴研究が政治批判などに偏向しているという事実認識が誤りであり、これまで関連性が問われなかった領域に若干踏み込んだだけでこのような強い反応があること自体に違和感があるとの発言があった。

この間、篠原氏も何度か発言したが、そのスタンスは独特であった。

「教室という最前線の戦場での学生と西鶴作品との一回的な出会いこそが重要」「学問として業界内では通用しても教室では通用しないといった、研究と現場との絶望的な乖離」といった発言に代表されるように、常に現代の読者が西鶴とどのように向かい合うかという読みの生産性・創造性ということに重きを置いているのである。

「研究の最前線」という表現には、未発表の文献を調査し学会内の数名しかその本当の価値がわからないものの調査に取り組む、というイメージがある。それを我々はどこまで相対化できるのか。イーグルトンの『文学とは何か』のどこかに、大学ではひたすら文学をつまらなく読むことばかりを繰り返してきた、といったことが書かれていたように記憶しているが、そんなことも想起された。

司会者としてこの共同討議の成果をまとめてみたい。

西鶴研究者と呼ばれる人々が、同一の手法や問題意識に極端に偏向して研究活動を行っているという認識は少なくとも私にはない。西鶴研究会という「小さな」会においてすらそのように思っている。

にもかかわらず外部からは、「原子力ムラ」ならぬ「西鶴ムラ」を形成して閉塞しているように見えるという事実が存在する。暉峻康隆、野間光辰、谷脇理史といった先人たちにどう挑もうかとそれぞれがオリジナリティを発揮したつもりであっても、つまるところ逆に取り込まれてしまってはいないか、再検討の必要があろう。

今一つは、先の篠原氏の「教室こそ最前線」という挑発的な問いかけである。これは、「西鶴ムラ」の閉鎖性を指摘した木越氏の批判に対して、それこそが「近世文学研究者ムラ」の論議ではないか、と切りかえしたともいえよう。「発熱する胡桃」を冷凍保存するだけの研究とは何か、という問いが発せられたわけである。

この二つの成果―課題は、もちろん二項対立的なものではないし、それぞれに次元の異なるものである。だが、いずれも研究者の避けて通ることのできない課題として深く認識しておく必要があるだろう。


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