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2013年1月25日

 記事のカテゴリー : リポート笠間掲載コンテンツ

●エッセイ●塩村耕「朝鮮本古典籍返還の件を機に書物について考える」【リポート笠間53号・掲載】

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リポート笠間53号(2012.11刊)に掲載されたエッセイを公開していきます。
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エッセイ●
塩村耕「朝鮮本古典籍返還の件を機に書物について考える」

塩村 耕[名古屋大学大学院文学研究科教授]▼『古版大阪案内記集成』(和泉書院、一九九九)、『近世前期文学研究―伝記・書誌・出版』(若草書房、二〇〇四)、『こんな本があった!江戸珍奇本の世界』(家の光協会、二〇〇七)等。

 二〇〇六年七月に東京大学附属総合図書館の所蔵する「朝鮮王朝実録」類四十七冊がソウル大学校に寄贈され、二〇一一年一二月には宮内庁書陵部の所蔵する「朝鮮王朝儀軌」類八十一部百六十七冊と『(増補)文献通考』等六十九部一千三十八冊が「日韓図書協定」に基づき韓国政府に引き渡された。戦後、長らく両国の間にくすぶり続けてきた文化財返還問題に、ここ数年で大きな進展が生じたのだ。小稿は、これらの措置の是非について論じようとするものではない。ただ、これが通常の器物だったならば、これほどには気にならなかったはずなのに、書物だとどうして違和感を覚えるのだろう。そこから、少し書物について考えてみたい。

 ここでいう「書物」とは、作られてから少なくとも百年以上を経た古書を指している。新しいものを含めて、すべての書物を一括りにして考察すべきところなのだが、そうはいかない。現代作られている書物の大部分は、大量消費財と化しており、財貨としての価値が古書と比較にならない。紙質も製本方法もあまりに脆弱で、僅か百年後の保存すら考慮に入れておらず、「時間と空間を超えて情報を伝達する具」という、書物の担うべき文明史的機能の半分を失ってしまっているからだ。

 そのことは残念だが、われわれの文明の必然なのであり、誰かが悪いわけではない。そもそも書物の歴史を概観すると、書物の価格すなわち一文字あたりの単価は太古の昔より、基本的に右肩下がりで推移してきた。写本から版本へ、版本の中でも古活字版から整版へ、そして近代になり再び活字版へ、更に現代のコンピュータ印刷へと、すべての技術改革はそれを下げるために行われてきた。その行き着く先が電子書籍やネット上の文字情報で、一文字の単価は限りなくゼロに近づいた。つまり、「世の中に安い書物を提供したい」という、人々の明らかに善なる努力は、結果的に書物から「時代を超えて情報を伝達する」機能を奪い去ってしまった。このことは、文明の継続性にとって大きな危機となるはずで、みんながもう少し考えないといけない問題だと思う。

 話を戻すと、さまざまな文明史的使命を負って残された書物(つまり古書)にとって、重要なのは活用されることで、内容や価値を吟味し、その情報を公開し、必要な場合には複製を拵えて人々と共有し、そういった活用を通して死蔵を避け、永久保存を図らなければならない。つまり、書物にとって最も幸せな状態を最優先させるという、書物本位の考え方が、書物を取り扱う上で肝要なことではなかろうか。この「死蔵を避ける」というのは書物にとってとりわけ重要な事柄で、そこが通常の文化財とは異なる点である。古人がそこに籠めたメッセージを常に発信し続けることこそが、書物の書物たる所以なのであって、それを止めた「死蔵」はまさに書物の「死」を意味するだろう。

 以前、古文書関係の文化財保存の専門家による講演で、古文書類は厳密に現状を維持保存すべきで、補修等による改変を加えるべきではないという主張を聴いたことがあるが、書物については、その意見に賛成できない。書物はメッセージを発信できるよう、適切に閲覧に供されるために、最低限の補修の手を加えるべきだと思う。現に、過去にそのような古人たちの手当てを経て、多くの書物は現代に残されているのだから。

 さて、書物の命は悠久であるだけに、その時どきの状況に応じて居場所を替えることが常だ。まるで足が付いているかのように動きたがる。そして、書物が移動することは必ずしも悪いことではなく、そのおかげで本国では滅びたテキストが、価値観を異にする他国で保存されるのはよくある話で、フェイル・セーフの理にもかなっている。

 望ましい事態は、所蔵主が替われども、上記のような意味で書物が大切に保管されることである。戦乱状態以外の平時には、通常、書物の移動は経済原則に従い、最も高い金額を支払う人の手に落ち、それは書物の価値を最も高く認める人であることが多く、問題は少ない。また必ずしも経済原則によらずとも、その書物を最も熱心に愛し求める人の手に渡ることが多く、これも同様だ。「政治」とは、経済原則をはじめとする世の中の自然の流れに逆らうことを意味するが、総じて書物を政治的に移動させるのは望ましいことではない。さまざまな人間の思わくよりも、書物の都合を優先させて政治的な配慮が行われることは、一般には考えにくいからである。冒頭に述べた違和感の由来を考察すると、おおよそ以上のようなことになる。

 もっとも、たとえば韓国国立中央図書館の提供する韓国古典籍総合目録システム(http://www.nl.go.kr/korcis/)など、韓国古典籍のデータベースサイトを見ると、国として自国の古典籍を大切にしてゆこうという意気込みが看取出来る。これらのサイトが優れているのは、画像だけでなく書誌情報や本文テキストを連動させている点で、これに匹敵するようなサイトは、日本には残念ながら、ない。今回の古典籍返還は、あるいは書物にとっては慶賀すべき事態なのかもしれない。が、そのことが、現代日本における書物をめぐる文化状況の浅薄さや書物愛の少なさ、その背景にある古人の軽視、を浮き彫りにしているとも言え、そう考えると、もはや違和感どころではない、いらだちを覚えるのである。

【附記】
①私は朝鮮の古典籍にも文化史にも門外漢だが、西尾市岩瀬文庫の悉皆調査の過程で、朝鮮本古典籍二百七十点余りを見た(同文庫の書誌データベース参照)。調査の際に『朝鮮図書解題』(大正八年刊)、『古鮮冊譜』(昭和十九〜三十二年刊)や『朝鮮人名辞典』(昭和十三年刊)、また朝鮮独特の漢語に手厚い『朝鮮語辞典』(大正九年刊)といった工具書より裨益を得た。これらの編纂実務にあたった戦前の日本人たちに、朝鮮の古典籍や伝統文化に対する深い敬愛の念が存在したことは、何びとも疑い得ないだろう。

②画像だけの古典籍データベースは学問にとって両刃の剣で(『斯道文庫論集』四十六輯所収拙稿参照)、また地方の文庫に存亡の危機をもたらすので、反対だ。詳細な書誌と本文テキストこそが望ましいコンテンツであり、文化国家たるには不可欠の学術基盤であることを強調しておく。この点で国文学研究資料館の尽力を期待したい。


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