« 聖徳大学オープンアカデミー特別公開講演会「『新版評伝 与謝野寛・晶子』を完結して」講師:逸見久美氏(平成24年10月13日(土)) | メイン | 東西学術研究所研究例会「東アジアの学芸、宗教と泊園書院」(平成24年10月13日(土)、関西大学 児島惟謙館) »

2012年9月21日

 記事のカテゴリー : ホームページ紹介

●西澤美仁「西行学界時評・2011」を公開(西行学会編『西行学 vol.3』より)

このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote Share on Tumblr LINEで送る

まもなく刊行される、西行学会編『西行学 vol.3』より、2011年を対象に「西行学」にかんする時評を行った、「「西行学」界時評・2011」を公開いたします。
現在、西行をとりまく状況がどうなっているのかをまとめたものです。
ぜひお読み頂ければと思います。
(ちなみに2009年の時評はこちら。2010年の時評はこちら。)

また、お願いです。
西行学会では、「西行」に関する情報を求めています。情報がございましたら、ぜひ学会事務局宛にご一報いただけないでしょうか。メールの場合はこちらまで( saigyodensho@yahoo.co.jp )。郵便物等の場合は以下の住所までお送り下さい。よろしくお願いいたします。

〒102-8554 東京都千代田区紀尾井町7-1 上智大学文学部国文学科 西澤美仁研究室内 西行学会事務局

最後に。
西行にご関心のお持ちの方へ。ぜひ、会員になりませんか。以下のページでご案内しております。よろしくお願いいたします。

http://kasamashoin.jp/saigyo.html

それでは時評をどうぞ。

----------------

 二〇一一年は千年に一度という震災の年であった。果たして、八月の夏期休暇中に都内で学会を開催することは困難な状況となり、予定していた駒澤大学を急遽、東京電力管轄外になる長野県の上田女子短期大学に会場変更して、第三回大会を開催した。中西満義氏、坂口博規氏をはじめ、両大学の関係者の方々には大変にお世話になりました。この場を借りて改めてお礼申し上げます。

 会場は変更したが、プログラムの方はほぼ予定どおりに行うことができた。講演は信州大学名誉教授滝澤貞夫氏「信濃の歌枕と西行」、山本健二氏「西行歌遍路─バリトン歌手山本健二がうたう西行─」の二本、非会員の方々であるが、地元信州の歌枕との関連について第一人者に語っていただき、また、音楽への越境にしばし陶酔の時を送ることができた。研究発表は、中西満義「西行伝承伝播の一側面─名所図会のさるちご問答をめぐって─」、木村康夫「在地伝承と西行法師─那須野が原に残る西行伝承の一考察─」、宇津木言行「西行の聖地「吉野の奥」─道教・神仙思想と修験道の習合に注目して─」の三本。和歌と伝承が絡み合う西行ならではの世界を、それぞれ独自の角度から語っていただいた。シンポジウムは「西行の作歌と思想形成の場」をテーマに、小田匡保「地理学から見た西行の大峰修行」、萩原昌好「西行の融通念仏と東山の聖」、深津睦夫「西行の伊勢神宮詠について」の三本のパネリスト報告を司会の坂口博規氏に捌いていただいた。詳細は本号掲載予定なので論評は割愛する。

 前年と同様、大会の直前に『西行学』第二号が刊行された。第二回の新潟大会を中心に、講演記録、シンポジウム記録、研究論文が掲載されたが、更に加えて、海外での研究集会を西行学会が後援するという新企画の記録も一部掲載された。

 それぞれ前号の時評にすでに簡単な紹介をしてはいるが、講演いただいた五味文彦氏は講演記録「西行とその時代─西行の生涯の時期区分を通して─」から更に展開して、『平家物語─史と説話─』(一九八七、十一・平凡社選書)、『平清盛』(一九九九、一・人物叢書・吉川弘文館)で自家薬籠中となった清盛伝を重ね合わせ、「いわば清盛に伴奏させて西行に歌わせるという形の西行伝ができあがった」(拙稿書評(日本経済新聞二〇一二年一月八日付))。『西行と清盛』(二〇一一、十一・新潮選書)である。西行和歌は年代のわからないものが多く、それに基づいた西行伝は断片的にならざるをえないものがある。そこで、歴史の表街道を歩み続けた清盛を対照させて、その街道を時折交差する西行伝に照明を当てた、ということのようである。後述する大河ドラマでも主役を張る清盛に伴奏させるのは、清盛をワキ僧に見立てていることになり、ワキのよく似合う西行が、今回はシテに抜擢されたようでなんだか心地よい。

 さて、拙稿書評では「注目すべき新説」を四点に絞った。第一、西行の厳島参詣を高野入山以前と指摘すること。厳島参詣は、仁安年間の白峯訪陵時より「一昔前」とあるだけで、高野入山以前とも以後とも明記されないが、この新説では、清盛の厳島神社造営に先行する可能性を秘めることになる。その可能性は清盛の厳島信仰に西行が影響を与えた可能性でもあって、まずありえないとは思うが、事実なら意味深いものになる。

 第二に、伊勢移住・高野下山の原因を、清盛のクーデター(後白河院鳥羽幽閉)への失望と断じたこと。高野入山の契機も忠盛・清盛による高野大塔再建活動への参加であった(後述する五来重説)と目されるから、入山・下山がともに清盛との関係となって平仄が合う。樋口大祐『変貌する清盛─『平家物語』を書きかえる─』(二〇一一、三・歴史文化ライブラリー・吉川弘文館)などが説くように、清盛への評価はクーデターや福原遷都によって一八〇度転換したようであり、西行の清盛評価も同様であったと考えることができれば、三十年間拠点とし続けた高野山を捨てるだけの理由として説得力を持つであろう。因みにその点はほぼ同じころ私も思い付くことがあって、拙稿「西行」(『平清盛ガイドブック』二〇一一、十二・新人物往来社)に指摘したし、「山の西行・海の西行」(上智大学国文学科紀要二九、二〇一二、三)にも言及した。ただ、所謂「円位書状」の執筆年代を治承三年(一一七九)三月十五日とする五味説は新説で、その十二日後の二十七日に、日前宮造営の賦課免除に関わる下文案が出ているのを根拠とする。書状には、一山をあげて清盛に報恩せよ、とあったが、クーデター以後では親清盛、親平家を促す政治的な発言になりかねない。従うべきか。もっとも、平家の悪行、悪人清盛にはあまり拘泥せず、治承三年のクーデターこそは日本で最初の武家政権である「福原幕府」の成立に他ならないとする立場もある(本郷和人『謎とき平清盛』二〇一一、十一・文春新書)。

 第三に、一品経勧進を待賢門院ではなく、西行自身のために行ったとし、第四に、西行の後継者は後鳥羽院であるという。父康清の夭逝を否定し、売官の一種である成功には依らず、父による内舎人申請(十五歳)、兵衛尉譲功(十八歳)があった、という点なども従来の西行伝を大きく覆す可能性を秘めている。秘めているが、『山家心中集』が『山家集』より先に成立したとする発言など、重版時にでも大幅な改訂が行われるはずで、いくらか粗忽の感が免れない。

 因みに、前記『平家物語─史と説話─』も再刊された(二〇一一、十・平凡社ライブラリー)。文学作品を歴史資料として扱うための手続きが明示された画期的な研究と高く評価される。『平家物語』がどのような史料を用い、どのような文学的意図を以て作品化されたか、を諸本の相違に対する弾力的な目配りを背景に、『平家物語』が語る「歴史」を聞き届けようとするものであった。それに比べると、『西行と清盛』は『山家集』等の文学的意図に対する読み込みは充分とはいえないようである。『古今和歌集』をカノンと仰ぐ和歌文学は、言語自体が権威主義的なために確かに取り付きにくいが、久保田淳編『西行全集』(一九八二、五・日本古典文学会)や寺澤行忠『山家集の校本と研究』(一九九三、三・笠間書院)、『西行集の校本と研究』(二〇〇五、二・笠間書院)の成果を生かした資料性の検討をお願いしたい。西澤・宇津木言行・久保田淳『山家集・聞書集・残集』(二〇〇三、七・和歌文学大系・明治書院)も参考にしていただければと思う。

 なお、五味氏の『後白河院』(二〇一一、四・山川出版社)にも、索引によれば西行は八例検出できる。『梁塵秘抄』を活用しつつ後白河院を描くが、山木幸一『西行和歌の形成と受容』(一九八七、五・明治書院)など、西行和歌を歌謡との関係で捉えた研究史に対する言及はない。

 講演記録はもう一本。山田昭全「西行晩年の思想と信仰」。前号にも触れたが、西行が晩年に重源や文覚、明恵と交流し、東大寺復興に助力したのは、「自足の境地を追求した行為」ではなく、「鎮護国家、興隆仏法という大義を実現するために興した運動」であったという。和歌即法楽、和歌即陀羅尼という「思想と信仰」を史上初めて西行が抱き得たという発言に対しては今後も波紋が広がろうが、和歌によってしか自己表現しなかった西行を、さらに慈円や長明といった西行の後継者たちと比べてみても、仏教者としてのあり方を問い続ける重要な視点になるであろう。なお、同論文は現在刊行中の山田昭全著作集第四巻『西行の和歌と仏教』(二〇一二、七・おうふう)に早速収録された。一九八七年に明治書院から刊行された同名著書に増補されたことになる。同書委細については、次号の時評に取り上げられることになろう。

 西行と伊勢の神道思想との関連や和歌陀羅尼観との関連を考察するには、中世全体を視野に入れた、より大局的な視点が必要であろう。伊勢神宮に関わる中世神道・中世日本紀を体系的に論じた待望の書、伊藤聡『中世天照大神信仰の研究』(二〇一一、一・法蔵館)が出た。冒頭(緒言)にある研究史の概観がすでにすこぶる有益であるが、西行に対し極めて慎重で、抑制された考察が展開される。千載集に入集した

  深く入りて神路の奥をたづぬれば また上もなき峯の松風

を引いて、神路山=内宮=天照大神を大日如来の垂迹・化身と観念していること、とともに、伊勢両宮を金胎両部とは見ていないことに注目する。後者もすでに、『東大寺要録』『太神宮諸雑事記』『三角柏伝記』『中臣祓訓解』といった先行あるいは同時期成立の諸書に説かれているからである。また、その金胎両部説を語る『西行物語』には、第六天魔王譚が語られるが、周知のように、『沙石集』や通海『太神宮参詣記』と説話を共有する関係にある。「西行が聴聞した観音についての説法」として語られる『撰集抄』巻八巻末話に観音の誓願(「一人不成二世願...」)が引かれるが、これも出典未詳ながらやはり多くの中世文学作品に共有されている、といった具合にである。果たして西行は、伊勢神官たちから神道思想を教授されたのであったか、そのあたりから疑ってみる必要がありそうだ。重源や明恵との関わりで論究された山田氏への直接的な批判の言は同書には見られないが、『沙石集』に示される「和歌陀羅尼観」は慈円の「三国言語(梵漢和)同一説」を経なければ成立し得ない、との発言は、その慎重な姿勢をよく示し得ている。

 さらに、西行の子として知られる隆聖にも一節が設けられて詳述される。天照大神と二間観音(天皇の念持仏)との習合について、醍醐寺三宝院流・理性院流の法脈を受けた隆聖が、二間観音如意輪説を天台の慈円に伝授したのだという。隆聖には、父西行と同時期に高野に入山していたことが確認されるのみでなく、齢五十にして伊勢神宮に一千日参籠したともいう。西行出家以前の出生とすると、隆聖は西行とは二十三年以下の年齢差、慈円より十四年以上年長となる。五十歳になって、ということは、西行没後の可能性が高い。西行の高野山や伊勢神宮との関わりを考察する際の新しい視点になるかもしれない。

 また、伊藤聡編『中世神話と神祇・神道世界』(二〇一一、四・中世文学と隣接諸学・竹林舎)も刊行され、原克昭「『元長参詣記』略解─現場で披かれる「中世日本紀」─」には『元長参詣記』の翻刻があり、西行参宮記事も見える。

 明恵については、その和歌と仏教の全体像に肉迫しようという労作、平野多恵『明恵─和歌と仏教の相克─』(二〇一一、二・笠間書院)が出た。三部構成の内、第二部が「西行から明恵へ」に充てられる。「明恵の西行思慕」「交叉する和歌と思想」「『明恵上人伝記』の「西行歌話」─『伝記』編者による増補─」の三章を立てて、西行との関連を重視する。明恵の和歌は、第一に母方の叔父上覚に学んで、仁和寺文化圏の影響下に出発し、第二に西行ら隠者歌人への憧憬・傾倒を表明し、第三についには和歌と仏教との融合がはかられ、和歌即真言観のもと、「菩薩として詠む」意識により、宗教性と誹諧性の濃厚な独自の和歌に達したという。西行との関連で鍵を握るのは、やはり『明恵上人伝記』の「西行歌話」で、同書、同歌話の後補性を立証し、『沙石集』や『三五記』との同質性を見出して、三者の同時代性を指摘する。そしてその立場から、「この和歌即真言観は、西行自身が語ったというより、むしろ中世という時代が西行に語らせた和歌観だった。西行及び明恵の中に和歌即仏像・和歌即真言に結びつくような思想があったからこそ、この和歌観は『伝記』の中に取り入れられたのだ」と結論する。西行説話に対する国文学的アプローチとして極めて正統的なものと評価できよう。

 シンポジウム記録は充実している。池田和臣「伝西行筆「未詳歌集切」の問題点と年代測定─西行自詠自筆の可能性─」に研究史および問題点が要領よく整理されており、炭素半減期を用いた科学的方法による検討も行われ、「西行自詠自筆の可能性」が提示された。百首歌の草稿と判断される以上、「自詠自筆」すなわち、和歌の作者と古筆切の筆者が同じであることは確実で、作者すなわち筆者は、「伝西行筆」とされてきた一連の「古筆類」(の一部)の筆者であり、藤原俊成との親交がある能筆家である、という点までは、まず十全に論証された、と解される。そして筆者すなわち作者が「西行という可能性を無下に否定することはできない」というのが池田氏の結論である。大胆かつ繊細な卓論であるが、ここまで周到に追究してなお確証を得られないとなると、逆に一層慎重にならざるを得ない気がしてくるのは私だけであろうか。四十七首もの新出資料となると、『残集』三十二首を上回る極めて豊富な規模である。九十九%西行であっても、残りの一%を等閑にできないのは、大量の新出和歌が一気に認定されれば、西行研究史の中でも画期的な発見になるからであるが、と同時に「伝西行筆」の古筆切もまた一気に「西行筆」の認定を得ることになって、書道史にとってもそれ以上に画期的な発見になるであろうからである。

 別府節子「伝西行筆の古筆」は、西行真筆の和歌懐紙や「伝西行筆」とされてきた一連の「古筆類」を、筆跡鑑定によって「同筆」「同じ書風」「似た筆跡」などに分析する。その結論は、池田氏より慎重な姿勢で「西行自身の可能性」を指摘するにとどまる。

 中村文「伝西行筆未詳歌集切の和歌史的位置─平安末期の歌壇状況から─」は、同時代の歌壇状況と対照して、四十七首の同時代性を明らかにする。平安末期の歌壇状況や清輔・俊成らの和歌観を視野に入れながら、和歌表現の検討を行って、藤原俊成の擬作(晴儀のための作り置き)と推定する。和歌表現が俊成のものに近いことはすでに池田氏の指摘にもあり、衆目の一致するところでもあろうが、この作者と伝西行筆筆者とが同一人物になることを念頭に置けば、作者俊成説はどうにも成り立ちようがない。なお、中村氏には「「伝西行筆未詳歌集切」私注(上)」(埼玉学園大学紀要人間学部篇一一、二〇一一、十二)にさらに詳細な考察がある。

 研究論文三本のうち、山村孝一「西に行くこと─義清(西行)出家と四天王寺─」、ジャック・ストーンマン「西行のうちなる芭蕉─西行歌に於ける俳諧イマジネーション─」は、大会での研究発表をもとにしたもの。昨年の時評に譲って割愛する。なお、ストーンマン氏には、「中世和歌に於ける二次的自然と野性的自然─西行・寂然の「山里」贈答歌を中心に─」(アジア遊学一四三、二〇一一、七)もあるが、ほぼ同工。「環境という視座─日本文学とエコクリティシズム・二次自然と野生の自然─」という特集に対応して、「山」と「山里」との対照を設定する。吉野山や高野山のような信仰の山を、「野生の山」「野性的自然」と見ることには違和感があるが、「二次的自然」である「山里」との対照をみようという視点は、今後の展開の可能性を持つと言える。研究発表いま一本の荒木優也「月に鳴くほととぎす─西行「月前郭公」歌の解釈─」は本号に掲載。

 新たに平田英夫「西行の恋歌論─女人を恋慕する聖者のモチーフをめぐって─」を掲載する。ここには「西行の和歌と説話」という問題設定に対する最も明るい視野があるが、論は、

  はるかなる岩のはざまにひとりゐて 人目思はでもの思はばや

には「岩山で苦行する」「聖者と女人をめぐる禁忌の恋物語」が設定されている、と読むことから開始される。『源平盛衰記』などに説話化される西行が、すでに西行和歌に内在されていたことを証してゆく平田氏ならではの一連の手法で、これまでの和歌文学研究の方法それ自体を完全に相対化してしまうだけの迫力がある。御裳濯河歌合・宮河歌合さらには恋百十首を引いて、「魔道に堕ちた聖人伝承」という物語の系列の中に、西行自身が自らの恋歌を落とし込もうとした、組み込もうとしたことを証し、あるいはそのように恋歌を詠もうとさえしていた地点まで証し立てようとする。その手際は鮮やかで、中世文学史の中に西行恋歌がまさしくそのようなモチーフとして成り立ち、登場したことが位置付けられている。おそらくこの仮説は成り立つに違いない。

 ただ、ただただその上で、西行自身がそうした物語を踏まえて詠歌した、という位相は、俊成や定家が『伊勢物語』や『源氏物語』を取って詠んだものとはやはり異なっていて、西行和歌の持つ物語性について、議論の余地は残されている気がする。

 やや突飛な例を引くことになるのかも知れないが、横山秀夫『半落ち』(二〇〇二、九・講談社。二〇〇五、九・講談社文庫)に用いられた警察用語、取調用語に、「向けて調べる」という概念がある。被疑者が語り出す物語、を待ちきれずに、取調官が物語を用意してしまうことをいうが、「落とし場所を決めておくこと」すなわち「先に結論ありき」で臨むことそれ自体は取り調べの常套であるというからそれとは違い、誘導尋問は違法であろうからもちろんそれとも異なり、ちょうどその中間にあたると考えていいようだ。平田氏の読む「西行の恋物語」に、「向けて調べる」などという私自身も使い慣れない概念をぶつけてみたのは、西行和歌の読者の目を駆使して作者の表現意識を探り出さんとするあまり、表現意識(どのように詠まれたか)が読者の目(どのように読まれたか)に振り替えられてしまった感があるからである。もちろん、両者は同じであっていいし、多くは同じであろう。しかし「参考歌」に指摘される(久保田淳後掲『新古今和歌集全注釈』)

  いかならん巌の中に住まばかは 世の憂きことの聞こえこざらむ(古今・雑下952)
を合わせ読めば、憂き世から脱却するために山中に隠栖しようという古今歌を恋に転じたものと知られ、そのこと自体から発生する物語性にまずは注目すべきであろう。自己の現実や体験をそのまま詠むのではなく、古歌との関連で恋の思いを詠むことで、恋を思う私は、私でありながら古歌の私と重なってゆくのであって、読者は作者の意図をそのように読み解くことになる。「はるかなる岩のはざまにひとりゐ」る私が、西行自身ではなく、「世の憂きこと」から脱却するために「巌の中に住」もうとした私かもしれないと考え、その私が「人目思はでもの思はばや」と脱却の理由を語るに及んで、「世の憂きこと」とは「人目」のことであったかもしれないと感じることになる。どんな「巌の中」にいてもなお、生きている限り、「世の憂きこと」は聞こえてはこようが、ひょっとしたら聞こえてこない「巌」があるかもしれないと夢想する古今歌の夢想にのっかって、その「巌の中」すなわち「はるかなる岩のはざま」で自分は「もの思ひ」だけに浸りきるんだ、と詠み上げるのが「恋に転じた」という意味であり、そこに西行を感じる、のがおそらく一般的な解釈であろう。が、平田氏の読みはさらにそこを突き抜けて、夢想する西行自身を、物語の主人公として演出する、もうひとりの西行が表現されている、と読んでゆくのである。

 西行説話・西行伝承から西行和歌を読み返してゆくような方法は、後述するように、結果的には私・西澤も行っているのであって、「越境する西行」を読み解こうとする「西行学」的な方法でもある、と感じてはいる。だからこそ微妙な方法的な相違点が気になって仕方がないのかもしれない。

 たとえば本年は、矢澤由紀「『御裳濯河歌合』二十四番の本文及び典拠についての一試案─西行の恋歌と『源氏物語』─」(中央大学国文五四、二〇一一、三)のような成果もあった。「西行の恋歌」が『源氏物語』を踏まえて詠作されたというのである。平田氏は二〇一二年三月には『御裳濯河歌合・宮河歌合新注』(新注和歌文学叢書・青簡舎)を上梓している。当該番について、西行恋歌の一般的傾向として「何らかの物語性」を認め、かつ新古今撰者たちもそれを期待していた、とするがその前に(ちょうど十二ヶ月前に刊行された矢澤論文を検討する余地はなかったかも知れないが)、具体的な典拠についての配慮が必要ではなかったか。後述する塚本邦雄氏の提言とともに、和歌生成の場における作者の表現意識それ自体をまずは見極めるべきであろう。

 そういう意味では、宇津木言行「西行歌の特殊語彙─海洋民俗語「とどひ」の発見─」は、創刊号の「西行のことば─民俗語・職掌語・宗教語に注目して─」に引き続き、地道ではあるが、創作意識そのものの解明に寄り添った作業と目される。

 なお、五月女肇志『藤原定家論』(二〇一一、二・笠間書院)もこの問題に絡んでくる。同書は藤原定家の和歌表現を中心に論じられるが、随所に西行への言及がある。中でも「第三編 改作論」の第三章に「『宮河歌合』考」がある。同歌合の全伝本を精査し、系統を確認した上で、先行表現との関連についても朴訥なまでに丁寧に拾いまくる、という姿勢が徹底されているように見えながら、平田氏の「西行両自歌合構想に関する一試論─「流れいでて」の歌を中心に─」(国文学研究一三一、二〇〇〇、六)を引き合いに(同論文では同時代の神道書との関連を具体化して、西行和歌の神祇思想を浮彫にする)、「西行・定家の意識ではなく、この歌合の享受論に広げて考えていく方が有効であると稿者は考えるのである」と述べるのは、まさしく平仄が合わない。単なる接続語の誤用か校正ミスかもしれないが、「(後出系統である)中央大学本に従うのは、躊躇される」「慎重でありたい」という全体的な文脈とも齟齬する。引用文にも誤植が介入していそうなので、これ以上の言及は避けたいが、すっきり理解しやすいから後出本文なのかもしれず、作者(ここは一応は定家であるが、ことは西行にも波及する)の真意はその後出本文によってより一層明確になったのかもしれない、という永遠のテーマに逢着してしまう。

 一昨年夏にエストニアのタリン大学で行われたシンポジウム記録から、近本謙介氏による総括「研究集会「時代の転換期の宗教と文学─西行・慈円を視座として─」開催の経緯と報告」と講演記録「西行の文学史の再評価にむけて」、西澤の基調講演「西行と慈円」、阿部泰郎氏の講演要旨「西行から慈円へ─何が受け継がれたのか、神祇法楽和歌をめぐりて─」、さらにはタリン大学のアラリ・アリク氏による特別寄稿エッセイ「歌の心を追求しながら─西行のエストニア語訳に向けて─」を収録。アリク氏は二〇一二年に『山家集』のエストニア語訳を上梓したという。

 二年ほど前の二〇〇九年七月号を以て休刊となった学燈社の『国文学・解釈と教材の研究』に続いて、至文堂の『国文学・解釈と鑑賞』も二〇一一年十月号を以て休刊となった。文科省や大学当局の文学部軽視の波が、国文学の研究者や学生たちの書籍離れにまで及んだということらしい。学生たちばかり叱るわけにはいかない。進んで購入して繰り返し読み続けたくなるような魅力的な論文や特集を、研究者も提供し得なくなった、ということなのだから。私の書架にある『国文学・解釈と鑑賞』の「乱世の歌人・西行と定家」(一九七六、六)は、変色したセロテープのはがれた跡も痛々しくぼろぼろになっている。ちょうど卒論を書いていたころの刊行で、何回読み直したことか。一つの時代が終わったことは確かであるが、とはいえ、もちろん大いに自戒を込めて言うのではあるが、ファストフードの店でどんなに修業を積んでも一流のシェフにはなれないのである。これは国文学滅亡の予兆なのではなく、より本格的な国文学の時代を招来するために必要な通過点であったと思いたい。私たち日本人にとって、学際化・国際化の拠点が「日本学」であることは言うまでもないが、その中核を担った歴史を持つ国文学は、時代の変遷とともにいかにさまざまに変容しようとも、そのまた中核部分については変容のしようがないのである。国文学を捨てるときは私たちが日本を、あるいは日本人を捨てるときである。

 さて、その『国文学・解釈と鑑賞』最後の西行特集「花と月と漂泊の歌僧・西行」が三月に出た。二十人の研究者による西行論文が並び、「西行研究の動向と展望─最近一〇年を中心に─」(宇津木言行)「西行研究文献目録抄」(林雅彦・金任仲)が付される。巻頭に久保田淳「西行の歌と信仰」。釈教歌・神祇歌の所在を家集から確認する。まだ存分に読み解かれてはいないという苦言とともに。次いで萩原昌好「西行の仏教的世界」。前年の「西行の和歌と求道」(十文字国文一六、二〇一〇、三)の再論で、融通念仏との関わりが強調される。本号に掲載されるシンポジウム報告とも重なるところが多い。林雅彦・金任仲「西行終焉の地─弘川寺をめぐるアルバム(抄)─」は、弘川寺と同寺の「西行記念館」の宝物の紹介。終焉の地がどこかは取り敢えず論外とされるのは残念。

 なお、小松庸祐「日本人の心のふるさと・神と仏の物語─第六回・歌僧・西行─」(大法輪七八・九、二〇一一、九)にも西行記念館の紹介記事がある。
 大場朗「西行と天台─西行歌と霊山同聴法華─」は、『山家集』八六〇・八六一、

  つらなりし昔につゆもかはらじと 思ひ知られし法の庭かな
  いにしへに洩れけんことの悲しさは 昨日の庭に心ゆきにき

の解釈に関わるもの。西行以前に確実に広まり、西行自身も知っていた公算が高い「霊山同聴法華」という天台思想をここでも踏まえていると指摘する。日野西眞定「高野山における西行の業績」は、西行が蓮華乗院で企画した長日談義が、今も金剛峯寺で内談義として年中行事化されて残っていることを指摘し、行事内容を紹介する。ただ、五来重氏の「西行=高野聖」説を無批判で受容するのはたいへん危険である。

 因みに、その五来重『高野聖』が再刊された(二〇一一、六・角川文庫)。角川新書(一九六五、五)、『増補=高野聖』(一九七五、六・角川選書)、『聖の系譜と庶民仏教』(二〇〇七、十二・五来重著作集第二巻・法蔵館)と読み継がれた。角川選書に付された各種索引も再録されていて、文庫本にしては使いやすい。『五来重著作集』(二〇〇七、十〜二〇〇九、十二)刊行が刺激になってか、五来氏の著作は文庫化が進んで、これが十冊目。内、角川文庫は七冊にのぼる。江戸末期成立の『紀伊続風土記』のために高野山が編纂した『非事吏事歴』は、蓮華谷別所聖人明遍を以て高野聖の濫觴とするが、氏は、明遍や新別所大仏聖人俊乗房重源、法燈国師心地覚心といった全盛期の高野聖を中期高野聖とし、それ以前の祈親上人定誉、小田原上人迎接房教懐等とともに、西行をも初期高野聖の典型とする。その所謂「西行=高野聖」説は西行研究史上屈指の議論となった。西行は高野聖と規定し切れる存在には思われないが、高野聖的な要素が西行の重要な一面であることもまた確かであろう。説の可否に拘泥するより、高野山や高野聖に対する宗教民俗学的研究の成果を西行研究にどう活用するか、が今後の重要な課題となる。

 荒木優也「西行と華厳思想」は、仏教思想の和歌的享受を検証。和歌が仏教を取り込む回路、契機になっているという。続く平田英夫「西行の浄土思想と和歌─聖としての作歌活動をめぐって─」はそれを受けるように、「西行の臨終イメージ」「演劇性」「パフォーマンス」に言及し、「唱導的要素」著しく、火葬や納骨にも関わっていたことを指摘する。「説経や唱導の中で用いられる」「死出の山」などの「言葉は、西行にとって歌ことばとしてあるだけでなく、時代の浄土思想の中で歌による唱導や説経のために用意された言葉として使用されているのである」ことから、西行は「そのような時代のエネルギーを吸収する能力を持った歌人であった」という。確かに、そのように和歌に残していこうとする作意を、掛け値なく西行自身に認めなくてはならないであろう。

 山本啓介「西行と吉野山」は、西行の吉野山歌を概観。下西忠「西行と高野山」は久安四年(一一四八)の頼長高野登山に際し、『台記』記事に西行の名が見えないことを以て、五来重氏の説く西行高野入山久安五年説の補強とする。従うべきであろう。さらには、崇徳院近臣教長が西行和歌の影響下に高野山に惹かれて行く様を描き出す。ただし、西行下山の理由に教長の死を想定するのはかなりな危険水域であるし、東大寺復興をいうのは確実にそれを超えている。一品経和歌懐紙また然りである。

 坂口博規「西行の大峰修行」では、峯中での月輪観修行を確認する。家永香織「西行と熊野への旅─熊野関連歌の解釈を中心に─」は、西行の熊野詠をその実景性に注目しながら概観する。小林幸夫「西行草庵の地」は、近世期に書かれた神宮文庫所蔵資料を多く用いながら、伊勢での西行伝承の形成に言及する。西行和歌に内在する神道思想を伊勢両部神道が掘り起こし、それを継承した室町期の連歌師達が、宇治神路山に西行谷の伝承地を形成したのはその形象であろうという。氏一連の論考の結論が見えてきたようだ。

 中西満義「西行の陸奥への旅」は、二度にわたる陸奥行脚はいずれも「時間を遡及する旅」であったという。中で「信夫の奥」に注目するのは流石に鋭いと思う。確かに西行はここでかなりの時間を使っている。距離を示すにも「信夫の里」を起点として数えている。それはしかし、抽象概念としての「奥」への関心でもなければ、故郷への報告に適確な表現性を備えていたわけでもなかったであろう。下高野東大寺の西行伝承が語るように病を得たのかも知れないし、逗留先の寺院で修行に励んでいた可能性も否定できないが、『奥の細道』などにも見えるように、ここは佐藤氏の一族の拠点でもあったのであって、目崎徳衛氏が家族親族への意識を和歌表現から捨象したと指摘したところの、『山家集』からは切り捨てられた、西行のもうひとつの拠点なのではなかったか、と推測される。出家直後に伊勢に下ったように、西行には信夫に下る必要があったと見るべきであろう。

 佐藤明浩「御裳濯河歌合の構成と俊成入道の判」は、『御裳濯河歌合』の構成、神祇・釈教歌、俊成判に対する概観。武田元治「『宮河歌合』と定家の評」も懇切な定家判の分析。礪波美和子「西行歌の風体─「平懐の体」をめぐって─」は、西行の同時代には凡作への酷評に用いられた「平懐」という歌論用語が、後世西行和歌評に多く用いられた淵源に、定家の『詠歌之大概』を見ようとする。金任仲「西行の和歌起請─無動寺訪問を中心に─」では、無動寺詠「こぎ行く跡の浪だにもなし」を、山田昭全説に従って空観と読む。稲田利徳「西行入滅と追慕─頓阿とその周縁─」は、西行入滅地弘川寺説・双林寺説いずれも確証がない、と批判した上で、頓阿の西行追慕の形を問う。西行に多く言及するに比して、和歌での影響作は意外に少ないという。鴨長明も兼好も傾向としては似ていよう。かれらには歌人としての自負があったのではないか。藤原俊成が新進新古今歌人達に西行的表現を制したことは、塚本邦雄『非在の鴫』(一九七七、二・人文書院)などで周知の事実であろうが、和歌や歌人を意識する以上、西行和歌の呪縛からは抜け出せなかったと思しい。芭蕉のように和歌の枠から抜けてしまわない限り。

 西澤美仁「西行伝承から西行和歌へ─「鴫立沢」補説─」は、すでに何回か問題にした「鴫立沢」歌の解釈について補説する。ただし、久保田淳『新古今和歌集全注釈』(後述)が摘出する注釈史上の対立点に対応させて自説の転換を語るのは、我ながらあまりに軽率であったと思う。そうではなく、文献実証主義に基づく国文学の研究方法からは久保田説しか成り立ちようがなく、同じ立場を装って異説に付くのはその姿勢自体が誤りである。そうではなく、国文学的方法を相対化した、あたらしい西行学的方法とでもよぶべき方法によってのみ、ここは異説に付くことが可能である。和歌文学の枠組みを相対化しようとしたことを以て、そのように作者自身が仕掛けていると私は判断したのであったが、飛躍があっただろうか。証明にも説明にさえもまだまだ不十分かもしれない。「和歌の読解としてどうかという疑問もあり」(宇津木前掲展望)と批判されるのもそれ故であろう。また、説話の西行、伝承の西行との架橋を目指して、「鎌倉に入れなくなった西行」が説話から伝承へと継承されてゆく流れを、能因の嗚呼や高野山の山家と関連づけて語るが、それはそのまま「山の西行・海の西行」(前掲)へと体系化される糸口にはなった気がする。

 花部英雄「西行、親鸞の伝説コラボレーション」は、吉本隆明『最後の親鸞』(一九七六、十・春秋社)に触発されて、西行伝承を「聖人伝説」として読もうという。その成果は今後の課題のようであるが、親鸞の二十四輩巡拝と西行伝承との接点は、拙稿「長野県の西行伝承」(『西行伝説の説話・伝承学的研究(第三次)』二〇〇八、三)「四七・布引山」の三「貝原益軒『扶桑記勝』」及び七「菅江真澄『来目路乃橋』」で触れたことがある。同「信州に西行塚─海野幸氏・禰津甚平・真田信之をめぐる西行伝承生成の仮説─」(上智大学国文学科紀要二四、二〇〇七、三)の執筆時点では「柴阿弥陀堂」の存在に気付かなかった。何回か現地を訪れてはじめて、現地では周知の事実と気付くこともある。そうした意味でも、親鸞・蓮如等の真宗関連の伝承との関係は今後注目されてよい。

 本年の民俗学の収穫は少ない。ほとんど唯一の成果である、木村康夫「法師峠の事─那須野が原に残る西行伝承の一考察─」(那須文化研究二四、二〇一一、二)は、栃木県大田原市南金丸大字鹿畑の湯津上(旧那須郡湯津上村)との境界にあたる「法師峠」と、周辺に残るいくつかの西行伝承である、那須塩原市島方(旧黒磯市)の「中野の楓」、大田原市佐良土(旧那須郡湯津上村)の法輪寺にある「西行桜」、大田原市堀之内・蜂巣(旧那須郡黒羽町)の「蹴爪のない雲雀」等との関係を追求する。決定的な証拠は得られないが、渡り職人を意味する民俗語彙「サイギョウ」や木挽き歌など、那須野が原に色濃く残存した西行伝承をいくつも重ねて紹介されると、つい「法師峠」の「法師」とは西行法師のこと、と思いたくなる。なお、冒頭に「老婆が、遊び過ぎて帰ってきた孫をたしなめた詞章」として用いられた「どこでサイギョウブッテたんだい」という民俗語彙の紹介があるが、この用法は、巡礼でも物乞いでもなく、ふらふらとあちこち遊び歩く意ではないか。木村氏が丁寧に引用する花部英雄『西行伝承の世界』(一九九六、六・岩田書院)にも、該当する用例は出てこない。貴重な一例とすべきであろう。また、『黒磯市誌』(一九七五、一)に見えるという西行歌碑(西行伝承歌なので厳密には西行歌碑とはいえないが)

  尋ぬれば青葉の梢色濃く 何にもなへせぬにしきなるらん

は、西行歌碑を網羅した、岡田隆『歌碑が語る西行』(二〇〇〇、十二・三弥井書店)に出てこない。その補遺編である「西行歌碑を増補する」(『西行伝説の説話・伝承学的研究(第三次)』前掲)にもない。栃木県の西行伝承といえば、日光の戻り石(日光市稲荷町稲荷神社)と芦野の遊行柳(那須郡那須町芦野湯泉神社上の宮)が抜群に有名で、つい他を見落としかねない。本誌で菊地氏や西澤が手がけつつある文献調査だけでも、全国的規模で徹底すべきであろう。

 次に、視聴率はあんまり上がっていないというが、NHK大河ドラマ「平清盛」の話題。私は毎週見ている。放送開始は二〇一二年一月からであったが、前年から続々と「関連本」が出版された。西行についても、鳥羽院北面佐藤義清時代を清盛の親友としてクローズアップするというので、言及するものもいくつかあった。そうした中で、やはり最初に触れておきたいのは、藤本友紀作・青木邦子ノベライズ『平清盛 一』(二〇一一、十一・NHK出版)である。西行は四十年前の『新平家物語』にも登場はしたと思うが、清盛の親友という役割は与えられていなかった。清盛関連の資料には、清盛が鳥羽院北面であったことを明示する史料はない。西行と清盛との交流を明記するのは、大輪田泊で行われた清盛主催の千僧供養・万灯会を詠む『山家集』の和歌一首と、日前宮造営に関わる円位書状一通とにすぎない。いずれも五十代、六十代のものである。

 しかるに、清盛の親友西行という起用の仕方は新機軸と言うべく、「義清、のりきよはおらぬか」と呼び出され、お茶の間に和歌を朗詠する義清の姿が大きく映し出されるのは、いくらか気恥ずかしいけれど、西行学会にとっては悪くない。ただ、嵐山光三郎『西行と清盛』(一九九二、四・集英社。二〇一二、四・中公文庫)のように、西行を主人公として押し出すならまだしも、清盛の周辺にはこんなすごい人もいた、と描くには、まわりにあまりにもすごい人が多すぎて、ある種の飽和状態のために消化不良になる。新しい武士像を清盛・義朝・義清の三者三様で描き、王家には白河院・鳥羽院・後白河院が、摂関家に忠実・忠通・頼長、という風に、三つの立場をそれぞれ三人ずつで描き分けないと多分そのすごい人たちは描ききれないのであろうが、明らかに割を食ったのは鳥羽院である。白河院の傑物ぶりを強調するあまり、鳥羽院も待賢門院もそして崇徳院も、白河院の欲望の犠牲となったのだ、にとどまってしまった。義清もこんな時代に珍しく和歌などを詠んでいる武士がいた、を前面に出した関係で、白河院から堀河院へ、さらには崇徳院から後白河院・後鳥羽院へと連なった皇室の和歌からはみ出した鳥羽院との関係を見出し得なくなったようである。ちょうど鳥羽院臨終の折に上洛したという奇跡を、西行は院との因縁と直感した。

  今宵こそ思ひ知らるれ浅からぬ 君に契りのある身なりけり

和歌を通してではない「契り」を描く余地が、右の造型からは失われている。しかしこの「契り」こそが『西行物語』を生みだし、多くの西行説話を生み出したとすれば、鳥羽院のみならず西行造型にとっては致命傷にもなる。なんとも役者の多い時代、魅力的な人物が輩出した、あるいはその魅力がよく発掘された時代だったことが、逆にこのような偏頗につながったようである。
 因みに、渡部泰明「西行はなぜ愛されたか」(文化交流研究二三、二〇一一)はその「今宵こそ」の歌を取り上げて、そこに「境界の歌人西行」を見る。前年にも「西行の旅と和歌」(『和歌の心と情景』(放送大学教育振興会))で「境界」に言及があった。『山家集』や広本系『西行物語』の第三句「思ひ知らるれ」(思い知られました(私は))が、略本系『西行物語』では「思ひ知るらめ」(思い知っているだろう(鳥羽院は))と「あたかも鳥羽院に語りかけるよう」に改変されることに着目し、改変は「生と死の境界に立つことのできる人物だという印象があった」ことの表現と読み取る。

 なお、篠綾子『蒼龍の星』(二〇一一、十〜一二、二・文芸社文庫)にも西行は登場する。清盛を主人公とした小説で、母とその姉祇園女御はともに源義親の娘と設定する。白河院の御落胤にして、平忠盛は養父、となれば、皇室と源氏の血を引く平家の嫡男、ということになる。西行は、小説化の決まり事のように待賢門院との恋に苦しんで出家する。清盛とは対照的に、和歌の力で世の中を変えようという意思の持ち主に設定されるが、何とも浮き世離れした人間に見えてしまって、清盛と同じ小説中の人物として描くのが如何に難しいかが思いやられる。それでも作品の大団円になって、西行がその和歌を以て平家の鎮魂を行うのは印象的である。

 辻佐保子『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(二〇一一、五・中公文庫)は、二〇〇四年から六年にかけて新潮社から刊行された『辻邦生全集』全二〇巻の月報に連載された夫人の辻佐保子による同題著書(二〇〇八、四・中央公論社)の文庫化。第一四巻『西行花伝』(初出一九九五、四・新潮社)に付された月報に記事が多い。主語が私なのか辻邦生なのか判然としない独特の文体で綴られる作家生前の日々がなんとも興味深く、ついつい通読してしまう。作家最晩年の想念が西行の最晩年に重ね合わされるが、続いて文庫化された『辻邦生のために』(二〇一一、十二・中公文庫)にも『西行花伝』への言及があり、『嵯峨野明月記』(一九七一、一・新潮社)を「銀の時代」と呼び、対して「金の時代」として、西行のあとに定家、後鳥羽院を主人公とした三部作が計画されていたという。表題も『定家春秋』『浮舟』と決まっていたといい、後者の主人公は実は実朝であったともいう。「あたかも彼岸への旅立ちであるかのように」「小舟にゆられ」る「恋人たち」が、「源氏物語のコンテクストから切り離され」て「唐船を海に浮かべ遠い彼の地に現実の旅をしようというより、まさにそのように船を幻の形で浮かべる」実朝の姿は、まさしく「書かれなかった西行」であり、『西行花伝』と一対のものと言ってよいようである。私のことばでいうところの「海の西行」である(拙稿「山の西行・海の西行」前掲)。「日本古典文学大系」などが、西行(『山家集』)と実朝(『金槐和歌集』)とを組み合わせるのも故なきことでない気がしてくる。作家最晩年の想念はまた、「心の闇」と表現される。『背教者ユリアヌス』(一九七二、一〇・中央公論社)や『春の戴冠』(一九七七、五新潮社)の著者が、なぜ最後に西行を選ばねばならなかったのか、出自の問題(『銀杏散りやまず』一九八九、九・新潮社)を越えて、近代日本文学全体の問題でもあるように思われる。

 二〇一二年に直木賞を受賞した葉室麟の『いのちなりけり』(二〇一一、二・文春文庫)もまた、同社単行本(二〇〇八、八)の文庫化。凜とした武士の群像が描かれ、西行和歌

  願はくは花のしたにて春死なん その如月の望月のころ
  面影の忘らるまじき別れかな 名残を人の月にとどめて
  年たけてまた越ゆべしと思ひきや いのちなりけり小夜の中山

などに接する姿が描かれる。いやもとい。武士たちが接するのではない。政治に翻弄され、常に死と向かい合って生きる武士の心意気を描くのに西行和歌がふさわしい、とは新進気鋭の直木賞作家の下した判断であったろう。

 同じく直木賞作家である渡辺淳一の『天上紅蓮』(二〇一一、六・文藝春秋)は、待賢門院璋子を主人公にした小説。末尾になって西行も登場する。

 鈴木健一『江戸古典学の論』(二〇一一、十二・汲古書院)は、「古典文学史の掉尾を飾る江戸時代の文学」を「古典学」という観点からその全体像を読み返そうという試みで、古典文学の計り知れない魅力を語りかけている。その「第三部 詩歌の古典学」の第六章に「江戸時代の和歌と西行─和歌・道心・絵画─」が配される。二〇一〇年に発表された(時評では二〇〇九年度に扱った)論文の再録である。冒頭に上野洋三『元禄和歌史の基礎構築』(二〇〇三、十・岩波書店)を引用し、近世和歌が西行を見定める視線は頓阿を評価する延長線にある、との指摘を受けて、和歌の西行と説話の西行とに分裂する西行像に対し、憧れ、心酔しながらも、その和歌については敬して遠ざけようとしたという。するとその姿勢は、結局は『後鳥羽院御口伝』以下の中世的受容と大差なかったのか。頓阿と芭蕉とはどう違うのか、というあたりが気になってしまう。西行の道心への関心、あるいは絵画という媒介が、敬して遠ざける基本姿勢を形成したと説くが、和歌の引例が多く、西行和歌との具体的関連が詳述されていて、その関心や媒介のありようについて、今後究明すべき重要課題であったことを教えてくれる。

 なお、同じく鈴木健一編『鳥獣虫魚の文学史─日本古典の自然観─』には第一巻「獣の巻」(二〇一一、三・三弥井書店)に石井倫子「能「江口」の象」、第二巻「鳥の巻」(二〇一一、八)に岡崎真紀子「歌ことば「鴫の羽がき」」がある。また、鈴木健一・鈴木宏子『和歌史を学ぶ人のために』(二〇一一、八・世界思想社)にも西行への言及は多い。

 黒沢賢一『京都 街角の伝説』(二〇一一、三・本の泉社)に「西行が返歌に詰まった 歌詰橋」の項目がある。おなじみ「西行返し」の西行橋の伝承である。西野由紀・鈴木康久『京都 鴨川探訪』(二〇一一、三・人文書院)にも西行に言及がある。竹田の西行寺がわずかに図版に出てくる程度で本文には出てこない(現代人には説明は省略される)のであるが、逆に、京都の昔を語るのに西行は不可避だった証拠のようなものであろう。

 伊勢で出版される短歌雑誌『やどりぎ』に鶴崎裕雄「短詩文芸漫念筆」が連載されている。「パワースポット」(六八九号、二〇一〇、十二)、「風になびく我が思ひ─西行の歌一─」(六九六号、二〇一一、七)、「命なりけり小夜の中山─西行の歌二─」(六九九号、二〇一一、十)、「鴫立つ沢の秋の夕暮れ─西行の歌三─」(七〇一号、二〇一一、十二)、「仮の宿を惜しむ君かな─西行の歌四─」(七〇二号、二〇一二、一)、「願はくは花の下にて─西行の歌五─」(七〇五号、二〇一二、四)に西行への言及がある。弘川寺にある川田順の歌碑に

 西行上人東国行脚之詠
   年たけて又越ゆべしとおもひきや いのちなりけりさやの中山
     日本芸術院会員 川田順謹書

とあり、碑陰には

     弘川寺末葉 浄観拝識

 芸術院会員川田順大人は 昭和二十一年十月某日 天皇皇后両陛下に現歌壇の概況を御講演申し上げられし節 天皇陛下より 古来第一の歌を一首との御下問に対し 西行六十九才第二度東北行脚の際 小夜の中山での感懐歌を奏上された

 茲にこれを記念して 有縁各位の協賛により当山にこの歌碑を建立す
     昭和二十八年文化の日

とある「古来第一の歌」の真意が問われる。『平家物語』の重衡や『太平記』の日野俊基もこの西行和歌に思いを寄せて、ともに「西行の長寿を羨ましが」ったという。

 西澤美仁「外国人のための国文学必携─中世─」(二〇一一、十二・上智大学国文学科紀要別冊『日本文学・日本語学・日本漢文研究を志す 外国人研究者のための文献案内』)「(1)和歌」「6.山家集」に『山家集』『山家心中集』『西行上人集』『聞書集』『残集』『御裳濯河歌合・宮河歌合』のテキストをリストアップした。目新しい成果は何もないが、外国人のみならず、一般の愛好家に至るまで、本文研究の成果を活用していただきたいと願うばかりである。

 辻英子『在外日本重要絵巻集成』(二〇一一、二・笠間書院)は、『三田国文』四三・四五(二〇〇六、六・〇七、九)掲載の「ウィーン国立民族学博物館所蔵『西行記』の本文と解説」を再録する。影印は付されていないが、本文の全文と、系統(同書では第三類本、海田采女本等と呼ばれ、本誌前号収載の礪波美和子「『西行物語絵巻』研究史概観」では、C類とも)を同じくする続群書類従本・渡辺家本との対照表等を付した解説が施される。

 現代社会における死の問題を、日本仏教史が往生の問題としてどこまで極めたかを問う、山折哲雄『往生の極意』(二〇一一、七・太田出版)にはその第一章に『atプラス』創刊号(二〇〇九、八)の「西行と往生─断食死・今こそ死を想え、自殺を見つめよ─」を再録する。同誌に「現代の往生試論」と銘打って連載された、親鸞や蓮如、一休、宮澤賢治についての論考と合わせて一冊とする。論文については、前回の時評を参看されたい。また、「「共死」を想え─第六回・啄木と西行、滅びヘの哀惜─」(新潮45三〇・一二、二〇一一、十二)にも西行への言及がある。名著『日本人の心情─その根底を探る─』(一九八二、十・NHKブックス)に論じられた遊離魂感覚に触れている。

 三角洋一「十一〜十二世紀のさまざまな地獄絵について─文学研究の視点から─」(巡礼記研究八、二〇一一、十一)は、地獄絵を詠む様々な実例と、地獄を語る様々な経典との対照がはかられる。

 木下資一「教信沙弥往生日考─八月十五夜と阿弥陀の縁日─」(近代一〇五、二〇一一、八)は、毎月十五日を阿弥陀如来の縁日とする風習は、平安中期に成立し、平安末期から鎌倉前期までには相当程度流布していたという。その故に、

  願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ

には、二月十五日である釈迦の命日への結縁だけでなく、阿弥陀への結縁も含まれるという。

 山野宣治・田中彰・桑島正夫『西行古跡三人旅』(二〇一一、四)は、西行学会会員でもある東京農業大学グリーンアカデミー短歌部の三人が、吉野・葛城・京都を歩いて、短歌と紀行文と写真で綴った小冊子である。ユーモアあふれるなかなかの名文で、特に弘川寺でボランティアの老人に出合ったくだりの「富田林の「タイガーマスク」」はおもしろかった。境内の歌碑を案内してくれたのだという。「西行庵跡にある二首は、平成八年朝日新聞夕刊に載ったように、西行が新潟の人に出した手紙が発見されてわかったものです」とある。手鑑が手紙になったのは言い間違いか、それとも聞き間違いか。ともあれ、前掲の黒磯の西行歌碑に続いて、岡田前掲書にも増補分にも見えない西行和歌がもう二首加わったらしい。

 久保田淳『新古今和歌集全注釈』(二〇一一、十〜一二、三・角川書店)の刊行が始まった。年内には、全六冊の内三冊まで。西行和歌も九十四首入集する内、三十八首が注釈の対象となった。桜楓社(一九七六、九)・『新古今和歌集全評釈』(一九七六、十〜七七、十二・講談社)・「新潮日本古典集成」(一九七九、三〜九)・角川文庫(二〇〇七、三)に続く、久保田氏五回目の新古今集注釈作業になるが、「全評釈」の三十五年ぶりの改訂版にあたる。長く絶版だった「全評釈」の復活は国文学界にとって何とも喜ばしいことではあるが、万葉集や古今和歌集にもそれぞれの事情があるようで、最高の注釈書が最も流布しているわけではなさそうなのは、こと和歌文学に限らないのかもしれない。それにしても、これほど抜群にすぐれた注釈が、若い研究者の手に届かないところにあったのは、国文学界の大きな損失、というより汚点であったと思う。六冊で税抜き定価九万円はたしかに高価ではあるが、西行学を志す若者たちよ、書架にこれを持たずして西行を語るなかれ、である。「全評釈」からの一番の変更点は「出典」の項が「他出」になったこと。新古今以後に成立した歌集についても同一歌として掲出され、しかもすべての歌に新編国歌大観による歌番号が入った。三十五年という歳月。昨年の時評でも別冊太陽の西行特集が三十七年ぶりであったことに感慨を漏らしてしまったが、モーツァルトや藤原良経の生涯にも相当するこの歳月は、西行でいえば、

  年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山

が詠まれた、初度と再度の陸奥行脚の約四十年の懸隔に匹敵する。「あれから四十年」という有名なギャグもあったが、「全評釈」と「全注釈」との間の三十五年間にいったい何があったのか。『新編国歌大観』(一九八三〜九二)とそのCD化(一九九六)は和歌文学研究者にとって画期的な事件であったが、その直前に『西行全集』(一九八二)の刊行もあった。それらの成果を踏まえて、『典拠検索 新名歌辞典』(二〇〇七)が久保田氏の手で三十年ぶりに刷新されたのも記憶に新しい。いずれも西行以後を西行や西行以前と同じように重視する姿勢の具体化であって、「全評釈」にもすでにいくつかの歌については指摘されていた、西行以後、西行和歌の後世への影響に対する言及を今回の改訂で徹底した、ということになる。『新古今和歌集』を資料にしたことがすでに定説化している『西行物語』についても、すべての事例について言及がある。ここから次世代の研究が芽生えてゆくのを期待するばかりである。

 粟津則雄「西行覚書」(現代詩手帖五四・一〜十一、二〇一一、一〜十一)の連載も始まった。どれくらい続くのかわからないが、この一年は、まだ歌人となる前の時代環境との関わりばかりが縷述される。歌人として和歌や宗教、政治にどう対応したのか、専門家以外の識者からの忌憚ない意見が楽しみである。連載一回目には、頼長の『台記』記事が俎上に載せられた。先号の時評でも問題にした「余不軽承諾」の箇所である。

  こういうさまざまな事情を考えると、待賢門院や崇徳院に近く忠通とは不仲でありながら、頼長が「軽々しくは承諾」しなかったとしてもおかしくはない。だが、そのように訓むと、いささか文章が尻切れとんぼである。「不軽承諾す」と訓んだ方が自然だが、あるいは彼は、この文章を書いたとたん、それが軽々しくは承諾しなかった自分の反応をともに表わしていることに、苦い面白さを感じたのかも知れぬ。

 両義性を受け入れさえすればすべてがうまくいくというものでもないが、何ともエスプリが効いた発見ではないか。二回目の「心に愁ひ」ある頼長にとって、「心に愁ひ」なく見える西行が実に印象的だった、との条も同様である。西行の出家が出家の常識を覆すところから始まっていることを、頼長と同じ目線で見届けているところがおもしろい。『台記』が丹念に読み込まれた証である。

 塚本邦雄『西行百首』(二〇一一、三・講談社文芸文庫)が刊行された。雑誌連載は一九九三〜五年のことというが、生前は単行本として上梓されず、一九九八〜二〇〇一年にかけて刊行された全集にも収録されることがなかった。西行の和歌の中から百首が精選され、その解釈と鑑賞に絡めながら独自の西行論が展開される形式を取る。読めばわかると言わんばかりに何首もの歌が並ぶだけで章が閉じられることもあり、何度か言及される『西行物語』に似たその形態のせいか、いくぶん毒舌は穏やかな気がするし、秀句表現に対して「プレ新古今派とも称すべき手法」と評価されたりもしている。

 塚本氏の西行嫌いは有名で、良経や定家の歌と並べると俗臭が鼻につくという。これは明らかに、小林秀雄『無常という事』の「山家集ばかりを見ているとさほどとも思えぬ歌も、新古今集のうちにばら撒かれると、忽ち光って見える」(引用は新潮文庫)などへの反発で、自身の芸術至上主義的立場からは、唯々諾々とは受け入れかねない詠歌姿勢である、ということであって、実作者の自己表現も兼ねている以上、それを読む我々もそのつもりになって味わえばよい、ということであろう。ただ、「西行はあくまで「新古今歌人」である」という姿勢を貫徹されているところからすると、和歌=短歌の全盛期である新古今が西行を最高位に評価したことを、自身の問題として引き受けた、ということでもあって、西行に対して、あるいは西行を評価した定家や後鳥羽院に対しても時に、罵声を浴びせたりするのは、同時に苦々しい自嘲でもあるということになろうか。院や定家が、時には自身よりも高く、西行を手放しに賞めてしまうことを、どうすることもできない、日本の文学・文化それ自体の宿命として受け止めようとしているのかもしれない。

 ただ残念なのは、詳細な年譜や著作目録が重宝なのと裏腹に、ごく簡単でいいから目次か和歌索引があってしかるべきであったし、せめて識者による通読が欲しかったと思う。たとえば、千載入集歌はまるで新古今の食べ残しを拾うようだ、俊成の意趣返しに相違ないと舌鋒鋭い指摘があって、塚本嫌いの読者まで唸らせること必定であるが、渦中の「おほかたの露」を新古今入集と誤記(誤認でも誤植でもありえない)する箇所がある。生前なら単行本化の折に見逃されることはあるまいと惜しまれる。卓説が泣いてしまうではないか。

 なお、小林幹也『短歌定型との戦い─塚本邦雄を継承できるか?─』(二〇一一、四・短歌研究社)に「書き換えられた未来─塚本邦雄と西行─」という論文が収録される。塚本邦雄の例の西行嫌いは、

  西行ファンの彼奴におくらむ毒杯用銘酒「澤の鴫」はござらぬか
  西行論みななまぬるし塵取りに掃きよせてこの柊の花

等々の短歌で例証されるという。「嫌い」という感情を楽しんでいたようにも見えるが、歌の詠み方だけでなく、我が身の死に方も西行への反発を美学としたという。「死を美しいものと捉え、そこに自分自身の理想を注ぎ込む姿勢」を西行から学びながら、美しい死を詠んだ自作のいずれとも違った死を死ぬことで、作品世界の現実からの自立を表現したのが塚本であるという。

 このほかにも、紹介すべき西行文献はまだまだあったようだが、割愛する。なお、『リポート笠間』五二(二〇一一、十一)の書評集は、平田英夫氏による山口眞琴著『西行説話文学論』(二〇〇九、九・笠間書院)の書評(説話文学研究四五)、宇津木言行氏による「西行学と学問のゆくえ」(日本文学二〇一〇、十二)を再録する。


●グーグル提供広告