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2011年8月17日

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●木越治「私たちは、本を「自炊」できるだろうか?」(小社刊・『西鶴と浮世草子研究 第五号』より再掲載)

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ぎょうせい刊『国文学 解釈と鑑賞』の休刊が明らかとなりました。2年前の学燈社の『国文学』の休刊もあり、小社にとっても、気勢をそがれるニュースで、がっくりきます。が、それらの事象から、衰退・終焉などというキーワードを導き出して、単純化してしまうのも、違う気がします。問題点を整理して、炙り出し、それぞれがそれぞれの立場で、正しいと考えた方向に向かって、それぞれの決意とともに前進していくべきではないか。

小社では先日刊行した、原道生・河合眞澄・倉員正江編『西鶴と浮世草子研究 第五号 特集[芸能]』 で、「研究誌、あるいは研究メディアの未来」という特集を組みました。そこには、以下のような惹句を用い、ページを構成いたしました。

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『西鶴と浮世草子研究』は、本号で終刊となる。
本誌刊行中に、学燈社の『国文学』が休刊し、昨年はぺりかん社の『江戸文学』も休刊してしまった。
状況は、悪化しているのだろうか。
これから研究は、研究誌は、どうデザインしていけばいいのだろうか。
未来に向けて、議論のたたき台とすべく、幅広く問題点を炙り出し多くの人間で共有したい。
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そんな編集部の投げかけに応えてくださり、ご執筆いただいた方の原稿を、再掲載していきたいと思います。第3回目は、木越治氏です(氏のブログはこちら。震災後、氏のブログのエントリーに「「自炊」を始めています!」がありました。こちらもあわせてお読みください!)。

※第1回は飯倉洋一「逆境こそチャンス」でした。URLは以下。
http://kasamashoin.jp/2011/08/post_1961.html

第2回は川平敏文「学会、研究誌のゆくえ」でした。URLは以下。
http://kasamashoin.jp/2011/08/post_1963.html

あと、原道生・河合眞澄・倉員正江編『西鶴と浮世草子研究 第五号 特集[芸能]』も、よろしければ、お買い求め下さい。

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私たちは、本を「自炊」できるだろうか?

木越治


 年末に、近くの図書館で経済関係の雑誌をめくっていたとき、「本を自炊する方法」という記事に目がとまった。本をPDFファイルにして、パソコン等に取り込んで読む方法を紹介している記事である。そういうことを自分でやっているという人のことを読んだことはあるし、また、iPad(アイパッド)に「青空文庫」を取り込んで読むとこんな感じになります、というデモンストレーションを見たこともあるので、全く目新しい情報というわけではなかったが、しかし、この記事に私は強く反応し、かなり熱心に読みふけった。なぜそんなにも強く反応したのだろうか。

 たぶん、ふつうのスキャナではなく、Scansnap(スキャンスナップ)を使うと説明してあったことが大きいと思われる。Scansnapがどのくらい普及しているのかよく知らないが、近年購入したコンピュータまわりの機器では相当のスグレモノであると断言できる。プリンタに紙を差し込むようにしてコピー類(両面でも可)を入れ、ボタンを押すと、50枚くらいならたちどころにPDFファイルにしてくれるのである。ふつうのスキャナで同じことをやる場合は、コピーをとるのと同じ手間がかかるが、こちらは紙をセットしてボタンを押すだけだからとても便利である。ただし、感激のあまり、手元のコピー類をまとめていっぺんに(たとえば、段ボール3箱分くらい)処理しようとは考えない方がいい。こういうことをやると、あとでできたPDFファイルの整理(デフォルトではファイル名は日時+時間になる)に往生するからである。手間はかかっても、いちいちコピーの内容を確認し、その内容に応じたファイル名を与え、しかるべきフォルダーに整理しておくようにすべきで、未整理のがたまってしまうと、結局は使い物にならなくなる。

 ただ、この機器を本に使うためには、本をいったんバラして、一枚一枚の紙の状態にもどしてやらないといけない。くだんの記事は、そのための方法について細かく説明してあり、そういう作業を称して「自炊」という呼ぶのだということであった。

 その記事が想定していたのは、ビジネスマンが普段電車で読むような本や雑誌であったが(私は、そういう類いの本は紙媒体で充分だと思っている)、私がこのとき即座に考えたのは、実は、旧版古典文学大系を「自炊」してみようか、ということであった。旧版古典文学大系の本文データが国文学研究資料館のHPで公開されたとき、私はすぐにすべてをダウンロードし、以後ずっと手元で利用してきたが、使い込むうちに、やはり、もとの書物を見なければならない、という局面がしばしばあったからである。本文の文字遣いのこともあれば、頭注・補注を見たいということまでさまざまである。これまでは本棚から抜き出して当該箇所を確認していたわけである。しかし、いま、旧版古典文学大系は「日本の古本屋」などでさがせば1セット5万円以下で入手可能なはずで、とすれば、別にもう1セット入手すれば「自炊」できるのではないか、やってみようか、とその記事を読みながら真剣に考えたのである。

 しかし、同時にまた、私はやらないだろう、いやできないだろう、とも思わざるをえなかった。私のなかにある「書物観」は、そのように本をバラバラに切り刻むことを絶対に許さないと思われたからである。

 ただ、実際にやるやらないは別にして、そのようにして使いたいツールは私の本棚にたくさんある。古事類苑、広文庫、角川伝奇伝説大辞典等々......、もっとも、角川古語大辞典や角川地名大辞典、国歌大観等はCD-ROMがあるし、『日本国語大辞典』や『国史大辭典』はJapan Knwoledge(ジャパンナレッジ) で提供されているわけだが......。

 というようなことを考えているとき、同じ棚に並んでいる新古典大系に関しては、その種の欲求をあまり感じないことに気がついた。これらのうち、八代集や続日本紀等はすでに別のかたちで本文電子データが入手可能だということもある。が、それ以上に、自分がまだこの叢書を充分に使いこなしていないことがその最大の要因のように思われた。さきに挙げたツール的書物群に関しては、これまでずっと使い続けており、今後も使っていくことが確実なものであるからこそ、電子データのかたちで、どこででも使えたら、という強い欲求を感じるのである。引っ越しによる自宅収納スペースの縮小という実際的かつ切実な問題もあるが、たぶんそれだけではない。

 ここで、ちょっと別の話をしてみる。

 昨年秋、十六年半にわたって金沢市民の方と読み続けていた『源氏物語』講座を終えた(講座自体はいまも存続している)。『源氏物語』全巻を最初から最後までいっしょに読みましょうということで始めたもので、月二回各二時間、途中半年の海外出張があったので正味十六年で読み終えたことになる。講座の前日の夜はそのための予習の時間であり、最初のうちは、玉上源氏の熟読が中心であったが、後半、「解釈と鑑賞」の巻別シリーズが揃ってからは、こちらを主体に読むようになった。だから、若菜以降のこのシリーズを私はかなり丁寧に読んだ人間であると思う。

 で、そのときに感じたのであるが、最近の若い研究者の手になる箇所ほど、用例の列挙(というより羅列)が目立つように思ったのである。あきらかにこれは、角川源氏等の電子データの普及によるものと思われるが、いくら簡単に検索できても、その結果を有効適切に使えなければ無意味ではないか、と痛切に思わされたのである。もちろん、なかには、きわめて適切に、情報として提示している箇所もあったのではあるが......。たしかに、右側の本文に対応させて左側の決められた紙面空間を解説めいた文章で埋めていくのは─すべての箇所についてそれだけの解説が必要なわけではないだろうから─大変なことであろう。だから、用例を列挙するのがいちばんてっとりばやいということになるのだろうが、しばしばスペース稼ぎのようにやっているとしかみられないところがあって、うんざりすることがしばしばあったのである。

 このことと、さきに私が、旧版大系を「自炊」したいとは思うが、新版大系にその欲求はあまり感じない、と書いたこととは連動していないだろうか。

 要するに、電子データであろうがなんであろうが、使う側がそのデータを熟知していないと本当には使いこなせないということなのである。いくら便利になっても、そこのところは一〇〇年前となにも変っていないのである。

 学生や院生に頼まれて手元の電子データを貸すことはしばしばあるが、残念ながら彼らはそれほど上手には使いこなせないようにみえる。それはコンピュータリテラシーの問題ではなく、国文学リテラシーの問題だからである。たとえば、『風来六部集』が検索でひっかかっても、それが誰のどういう性質の作品かがわからなければ使いようがないのである。『源氏物語』でいえば、用例はすぐに集まるだろうが(『源氏物語大成』の索引で調べたことのある人間には夢のような早さである)、それがどの巻のどういう場面で使われたものかわからないと使いようがないし、この巻別シリーズのように、それをどのように料理して提示するかになると、まさにそれぞれの筆者の力量の問題に帰せられることになるわけである。この点は、今も昔も全く同じである。

 問題を近世文学研究にもどせば、最近の研究において、書誌をならべるような論文が多いのは別に若い研究者が書誌に強くなったからではないだろう。国文研に行けば(あるいはアクセスすれば)、容易に情報が入手できるからにすぎない。問題は、それを使って何をするかなのだが......。

 この10月からはじめた「秋成研究会」では、だからそういうのに抗して、全集第八巻の『春雨物語』諸本を読みくらべることだけに特化してすすめているが(参加者は10名程度)、結局、ためされているのは我々の読む力であるということをいつも痛感させられている。

 所与の課題は、研究誌、研究メディアのこれから、ということである。しかし、研究という局面では、いま述べたように、本質的なところはなにもかわらない、と私は考えている。
 しかし、研究誌ということになると、もうすこし別の角度から述べる必要があろう。もっとも、刊行形態が紙媒体であるか電子媒体という問題は、雑誌というメディアにとって実はそれほど本質的な問題ではない。グレードが高いとされる専門学術誌=それに載ることが励みになり、かつ業績評価においても高い点数を与えられるような雑誌、は、形態がどうであれ、これからも必要だし、水準を保つ努力さえ怠らなければ、これからも存続していくだろう。それとは全く逆に、同人研究誌や紀要の類も、自前で維持していく媒体であるから、これまた存続は可能であろう。それらのバックナンバーはいずれPDF等で保存・閲覧されるようになるはずだし、それが一般化すれば、最初からその形態で配布されるようになるにちがいない。

 問題は、このいずれでもない雑誌の今後である。昨年休刊になった学燈社の「国文学」などを念頭に置いているわけだが、たぶんこの雑誌は、個人の購読者ではなく図書館や研究室での講読で支えられていたのではないだろうか。とすれば、「国文学」ないし「日本文学」という名前が大学や研究機関から消えていくのと並行して購読数が減り、たちゆかなくなったのはある意味当然である。一方、これらの雑誌を自分がどのように利用していたかを考えると、毎号の特集のためでなかったことははっきりしている。特集号の中味を利用するのは、あとでなにかの折に必要になって探し出すときであり、雑誌として毎号目を通していたのは、学界時評欄であり、書評であり、新刊情報であったと思う。要するに、論文を載せるメディアとしては必ずしも月刊であることを必要とはしないが、国文関係の情報を得るためには月刊であることには意味があった、ということである。

 ここから考えれば、いま笠間書院から出ているようなメールマガジンがある程度その役割を果たしているということはできよう。しかし、いまのメールマガジンという形式は、まことに可読性に欠けるし、情報だけに特化されているので、雑誌としてのおもしろみは全くない。
 いま私は、落語協会のメールマガジンを講読しているが、落語の情報は別にして、毎号の末尾に載る「俳句」コーナー、「宗匠『扇橋』と小袁治「後輩」の会話」という連載を楽しみに、ここだけは必ず読んでいる。たぶん、マガジン(雑誌)を名乗るためには、毎回こういうふうに読みたくなるコラムのようなものの存在が必要なのではあるまいか。それはたとえば、学界時評でもいいし、もっとくだけた、大昔に長野嘗一先生がやっていた研究室訪問的な記事でもいい。このあたりは、まさに「編集者」の仕事であり、そういうセンスの産物でなければならない。

 そういう意味で、我々が本当に必要としているのは、そしてまた、学界として育てていかなければならないのは、その種の意欲にあふれた「編集者」ではないだろうか。すぐれた「編集者」の目を経たものだけが、ウェブ(WEB)上にあふれている凡百の文章・情報と差異化をはかりうるものだと思う。そして、そのことに関していえば、読むための方法が、雑誌・本などの紙媒体からiPadやKindle(アマゾン・キンドル)などの電子ツールにかわっても、通底するものは同じなのではないだろうか?

[注記]Scansnapに関しては、『日経産業新聞』二〇一一年二月二十三日の記事が参考になる。


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