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2011年8月12日

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●川平敏文「学会、研究誌のゆくえ」(小社刊・『西鶴と浮世草子研究 第五号』より再掲載)

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ぎょうせい刊『国文学 解釈と鑑賞』の休刊が明らかとなりました。2年前の学燈社の『国文学』の休刊もあり、小社にとっても、気勢をそがれるニュースで、がっくりきます。が、それらの事象から、衰退・終焉などというキーワードを導き出して、単純化してしまうのも、違う気がします。問題点を整理して、炙り出し、それぞれがそれぞれの立場で、正しいと考えた方向に向かって、それぞれの決意とともに前進していくべきではないか。

小社では先日刊行した、原道生・河合眞澄・倉員正江編『西鶴と浮世草子研究 第五号 特集[芸能]』 で、「研究誌、あるいは研究メディアの未来」という特集を組みました。そこには、以下のような惹句を用い、ページを構成いたしました。

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『西鶴と浮世草子研究』は、本号で終刊となる。
本誌刊行中に、学燈社の『国文学』が休刊し、昨年はぺりかん社の『江戸文学』も休刊してしまった。
状況は、悪化しているのだろうか。
これから研究は、研究誌は、どうデザインしていけばいいのだろうか。
未来に向けて、議論のたたき台とすべく、幅広く問題点を炙り出し多くの人間で共有したい。
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そんな編集部の投げかけに応えてくださり、ご執筆いただいた方の原稿を、再掲載していきたいと思います。第2回目は、川平敏文氏です(氏のブログはこちら)。

※第1回は飯倉洋一「逆境こそチャンス」でした。URLは以下。
http://kasamashoin.jp/2011/08/post_1961.html

あと、原道生・河合眞澄・倉員正江編『西鶴と浮世草子研究 第五号 特集[芸能]』も、よろしければ、お買い求め下さい。

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学会、研究誌のゆくえ

川平 敏文


 学会の高齢化が進んでいることを、このところよく感じる。私が大学院生だったころによく見かけ、ひそかにライバル視していたような同年輩の人が、いつのころからかぱったり学会に出席しなくなった。恐らくその主たる要因は、経済的な理由であろう。

 大学院生にとって、学会費を収め、さらに年二回の学会に出席することは、相当な出費となる。懇親会に参加すればなおさらだ--余談だが、総じて懇親会の参加費は高すぎると思う。場所は学生食堂、食事は簡単なオードブルでもよいから、参加費を現行の半額以下にして、学生も参加しやすい会にしてほしい。本格的に美味いもの食べたい、飲みたい人は、二次会に行くか、学会の前後にもう一泊して、それを堪能してもらえばよいだけの話である--。

 それでも、近い将来(三十代前半で)定職に就けるようにとの思いがあるからこそ、そこを我慢して地方の学会に参加もし、懇親会にも出続けていたというのが、正直なところであろう。それが三十代半ばすぎても定職にありつけないというのでは、学会に出られなくなるのは当然である。さらに、そのような先輩達の姿を見ているとすれば、博士課程に進学しようとする学生が出てこないのもまた当然である。私とて、いまの時代に学生をやっていたとしたら、この道に志したかどうかは甚だ心許ない。

 大学院生の減少のことを述べたが、じつはそれにもまして憂慮しているのは、優秀な「学部生」の減少である。もっとも、このレベルになると、さすがにまだ定員割れをするという事態にまでには至っていないようだが、その「質」ということになると、かなり危うい状況になりつつあるのでなかろうか。学力のある優秀な学生は社会学系や言語学系の学科に進み、国文学科全体の学力は相対的に低下しているように思われる。その中からさらに、研究者になろうという意欲・学力・覚悟のある者が出てくる確率は、いやがおうでも低くなる。

 このような「国文離れ」の要因は何かいえば、国文学という学問の魅力がカスレてしまっているからだと言わざるを得ない。ここでいう学問とは、教え方も含めた謂いである。これまで国文学者は、国文学=花形という図式に胡座をかいてきた感がなかったろうか。その要因の一つは、残念なことではあるが、研究の精密化にあると思う。研究が精密化し、それが学会において日常化することは、たしかに一つの達成であり、理想的な状況ではある。しかし一方で、いわゆる「ざっくり」とした魅力を語れる研究者が少なくなったのも事実である。対象を鷲掴みにするような、天才肌の研究者が。

 とはいえ、そのような英雄をいま待ち望んでも仕方がない。自戒を込めて言えば、我々がいまなすべきことは、その研究の何が面白くて、どこに意味があるのかを、分かりやすく学生に伝えることであろう。かといって、学生が気軽に楽しめる、たとえば文学史の名作をダイジェストで示すようなものでは、逆に馬鹿にされてしまうか、失望されてしまうであろう。そうではなくて、大学でしか教えられない魅力、すわわち「研究」や「考証」の楽しさを教えるものでありたい。マニアックなテーマであっても、それを突きつめれば、必ず普遍的なテーマに貫通するはずだから。

 つまり、自分の研究内容を「稀釈」して紹介するのではなくて、「蒸留」して教えるのである。そんなことをすると、かえって難解になると言われる向きもあるかもしれない。しかし難解になるのはその「教え方」のせいであって、その「内容」ではないだろう。学生が面白い、意味があると思わないテーマは、本当は、研究としても面白くないし、意味がないのである。この点、最も参考になるのは、本誌の笠間書院から出ている小松英雄氏の一連の仕事である。こういう授業ができれば、「国文離れ」に少しは歯止めが掛かるのではないかと、切実に思うのだが。

 次に研究誌について。『国文学』(学燈社)が倒れ、『江戸文学』(ぺりかん社)が去り、国文学系の商業誌が相次いで無くなってしまったことは、やはり寂しい。しかし、ややきつい言葉で言えば、末期の『国文学』の特集にはほとんど魅力を感じなかったし、たとえある特集についての原稿依頼があったとしても、よほど時間的な余裕がないかぎり、それを引き受けることはなかったであろう。なぜかといえば、『国文学』はすでに、意欲的なテーマで、かつ本格的な論文を出したくなるような「場」ではなくなっていたからである。簡単に言えば、雑誌のステータスが下がっていたのである。昔の『国文学』をみると、錚々たる作家や研究者が寄稿・対談していて、特集も内容が濃いことに驚かされる。それは編集者の意欲や才能によるところも大きかったに違いない。編集者の役割は大である。

 その点、『江戸文学』にはまだ期待するところが大きかったが、やはり一番の問題点は、責任編集者を置き、「特集」化してしまったことであろう。そうなる以前の『江戸文学』は、これまたバラエティに富む論文が並んで、学会誌『近世文藝』に準じるステータスを感じていたものである。新聞と同じで、とりあえず揃えておこう、という気持ちになった。しかし、恐らくは書き手不足から、座元(責任編集者)を置き、テーマの設定から執筆者への打診までを行うスタイルに変更された。この方法はたしかに一冊の研究書としての純度は高まるのであるが、読み手にとってそれを購読するかは、選択的にならざるを得ない。そうすると、買う号と買わない号、売れる号と売れない号が出てくる。それが休刊の要因だったのではないかと、勝手ながら推測する。

 執筆者が書きたい、これに載ると名誉だと思えるようなステータスの高い「場」、しかもある分野に特化したものではなくて、万人に開かれている「場」が、これから創出できないものだろうか。そのための一つのアイデアとして、他流試合的な要素を挙げたい。江戸文学に特化するならば、その隣接分野、具体的には、日本思想史、美術史、国史学とのセッション、これがこの分野が活性化する最も現実的な道だと、私は思っている。しかしここで間違ってはならないのは、何も新しい学問を創出したり、融合しようということではない。鵺のような学問の出現を期待するのではなくて、いわば異種格闘技的に、それぞれの研究分野を背負ってタッグマッチをするのである。たとえは悪いが、格闘家たちにおける「K-1グランプリ」のような場。そういう興行的な、楽しくかつ実のある仕掛けづくりを、研究者と出版社が共同で模索していくべきだと思う。

 それと、これは拙ブログでも書いたが、電子書籍の波については、今後真剣な対応を迫られるであろう。論文集を出そうとすれば、現状では、科研費の出版助成を取ったり、みずから何十万か分を買い上げしなければならない。しかも、そのような努力をしても、定価が一万円を下ることはめったにないのである。だが、始めから紙媒体ではなく電子媒体としてウェブ(WEB)上で「出版」すれば、作る方も読む方も「無料」である。バージョンを明記すれば、随時増補・修正さえ可能である。問題はそのような「出版」を正式な業績として認めるかどうか、ということであるが、理論的には、どこかの同人誌に出した業績は認められて、ウェブで公開したものは認められないというのは不条理である。国文学は「本」を扱うことを仕事とする学界であるから、「紙」というか、モノとしての「本」の質量や身体性へのこだわりがあろうから、この波はおそらくあらゆる学界のなかでも最後に到着する場所であろうが、いずれはそれが主流となるであろう。

 そのとき、出版社も本格的な電子書籍化への対応を迫られるであろう。論文集を電子化して廉価で販売するとか、上のようなウェブ論文集の「出版」をむしろ先取りして、その編集・製作協力事業(たとえば書面レイアウトや、表紙デザイン、画像などの掲載許可申請代行など)を行うとかいうことが、素人ながらも考えつく。

 そのほか、国文学関連事業は意味があるだろう。たしか新典社が試みようとしていた国文学検定試験は、その後どうなっているか知らないが、もっと実用的で魅力的だと思うのは、くずし字検定試験である。茶掛や石碑の文字を読みたいと欲している人は多いであろうし(実際はこれがなかなか読みにくいのであるが)、書道界や俳句・短歌結社などとの連携・協力があれば、中高生などにも受験者が広がっていくような気がする。

 以上、思いつくままに身勝手な感想を書かせていただいた。すべて斯界への思い余っての放言ということで、ご海容下さればと思う。


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