« 西行学会編『西行学 vol.2』(笠間書院) | メイン | 第4回日本古典文学学術賞を金時徳(キム・シドク)氏が受賞(研究業績=小社刊『異国征伐戦記の世界−韓半島・琉球列島・蝦夷地−』) »

2011年8月11日

 記事のカテゴリー : ホームページ紹介

●飯倉洋一「逆境こそチャンス」(小社刊・『西鶴と浮世草子研究 第五号』より再掲載)

このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote Share on Tumblr LINEで送る

ぎょうせい刊『国文学 解釈と鑑賞』の休刊が明らかとなりました。2年前の学燈社の『国文学』の休刊もあり、小社にとっても、気勢をそがれるニュースで、がっくりきます。が、それらの事象から、衰退・終焉などというキーワードを導き出して、単純化してしまうのも、違う気がします。問題点を整理して、炙り出し、それぞれがそれぞれの立場で、正しいと考えた方向に向かって、それぞれの決意とともに前進していくべきではないか。

小社では先日刊行した、原道生・河合眞澄・倉員正江編『西鶴と浮世草子研究 第五号 特集[芸能]』 で、「研究誌、あるいは研究メディアの未来」という特集を組みました。そこには、以下のような惹句を用い、ページを構成いたしました。

-------
『西鶴と浮世草子研究』は、本号で終刊となる。
本誌刊行中に、学燈社の『国文学』が休刊し、昨年はぺりかん社の『江戸文学』も休刊してしまった。
状況は、悪化しているのだろうか。
これから研究は、研究誌は、どうデザインしていけばいいのだろうか。
未来に向けて、議論のたたき台とすべく、幅広く問題点を炙り出し多くの人間で共有したい。
-------

そんな編集部の投げかけに応えてくださり、ご執筆いただいた方の原稿を、再掲載していきたいと思います。第1回目は、飯倉洋一氏です。氏のブログも、あわせて御参照ください

あと、原道生・河合眞澄・倉員正江編『西鶴と浮世草子研究 第五号 特集[芸能]』も、よろしければ、お買い求め下さい。

--------------
逆境こそチャンス

飯倉洋一

 『国文学』『江戸文学』が休刊し、大学から文学部が次々に消えてゆき、日本文学を専攻する研究者の数も、ポストも、学生も確実に減少している状況の中で、日本文学研究の将来を憂える声をよく聞くようになった。日本文学に関わる研究誌・研究メディアの未来はあるのだろうか。

 私の好きな言葉に「逆境こそチャンス」というのがある。これまで通りのやり方で立ち行かなくなったときに、反省し、工夫し、創意を持って新しい世界を拓く。人や組織は逆境にならないと変わろうとはしない。現在の危機は、対処療法的なものでは早晩行き詰まる。根本的に考え直さなければならない。

 情報の電子化、研究の国際化などは、時流の必然である。いずれ研究成果は電子データで発信されることが普通になるだろうし、研究者は個人ホームページを持つことが当然という時代になるかもしれない。ホームページという固定的なものではなく、もっと新しい媒体が開発されるかもしれない。十五年前に、研究上のほとんどの連絡をメールでやり取りする現在の状況は考えられなかった。ましてブログやツイッターなどは想像もできなかった。これから十年後、十五年後のネット環境など、想像する方が愚かだろう。なるようにしかならないのである。

 我々が考えるべきは、どんなに状況が変わっても失われるはずのない根本的な部分である。それは何か。
 人間がことばを駆使して表現する動物であり、そのことなしに生きることができない限り、言語表現への思いは絶対になくならないということである。現代の、そして将来の人間が、言語表現を学ぶのは、それまでの言語表現の歴史的堆積(アーカイブ)からである。『万葉集』『源氏物語』『徒然草』『奥の細道』『心』は、現代からみれば、それらのアーカイブの結節点であり、それを生んだ背後には、魅力的なコンテンツが無限に眠っているのである。

 世界は今さまざまな意味で危機的状況にある。そのような中で、文学研究などという呑気なことをやっている場合かという声が聞こえなくもない。しかし、歴史的に見れば、そのような中でこそ、文学、そして文学研究は真価を発揮してきたのである。哲学が見直されているように、文学にも出番が来るに違いない。能天気と笑う人は笑えばよい。その時に備えて、いやその時が来るように、我々は文学研究に対する態度を内省し、研究の基礎力を蓄えておく必要がある。そして、日本文学研究が、これからの社会に大いなる役割を果たすであろうことを実感として感じ、社会への還元を常に意識しつつ、研究を進める必要があるだろう。虚学だとしても虚学なりの理論武装が必要なのである。必然的に、研究誌・研究メディアの意味は重要になってくる。

 審査を経て専門的論文が掲載される学会誌や、研究会が刊行する研究誌が今後も成果発表の場として中心的な役割を果たしていくだろう。しかしそれらは、一般の人には開かれていないし、まあ開く必要もない(学会のHPにアクセスすれば、買いたい人は買えるくらいにはしておきたいが)。しかしそれを社会に還元する通路(研究メディア)は必要である。
 どんなに優れた研究も、専門分野の研究人口が先細りする状況の中で、きちんと継承されうるのか、そして社会に反映されるのか、はなはだ心もとない。『国文学』や『江戸文学』は、そういう意味で社会還元に一定の役割を果たしていた。休刊の影響が出てくるのはこれからであろう。では、どうすれば我々は研究の成果を一般の方々に読んでいただき、社会に還元できるのであろうか。

 これまで研究側は、それなりの社会の需要に甘えて、戦略を持たなかった。しかし、今日の危機を迎え、出版社や新聞・雑誌などのメディアと連携して攻めに出る時が来たのだと思う。攻め続けることで、眼を向けさせるのである。

 たとえば科研費での研究は、一般の方は誰も読まない研究成果報告書という形で残される(近年はその義務もなくなったが)が、それを一般向けの書籍の形で出すには、ちょっと工夫が必要である。もし、その実績のある方はノウハウをどんどん公開していただきたいし、科研自体に、一般向けに出版する場合の補助金としての支出を認めていただきたい。一般の方に科研費の意義を理解していただくにも、出版(電子媒体であれ、書籍であれ)するということは極めて重要である。一般向けでない出版を補助する科研の出版助成とは趣旨が異なる。

 出版社と学会・研究会の連携もこれまで以上に重要になる。その意味で『西鶴と浮世草子研究』の創刊は、「攻め」の姿勢を鮮明にした画期的なものであった。第1号は、書店平積みを前提に二千五百部を印刷し、林望・見城徹という現代メディアの雄を招くなど並々ならぬ意欲を見せた。ある程度の部数は捌いたと仄聞するが、それは企画と熱意の賜物だっただろう。しかし2号で刊行が遅延。3号もそれを繰り返した。魅力的な執筆陣と練られた企画、充実した付録は評価できるが、大手商業出版であれば、この遅延はありえない。そこに日本文学者と日本文学系出版社の旧弊(甘えと甘やかし)が出たといえる。社会性のない研究者が、社会に認められることはありえず、それを自覚しない限り、研究誌や研究メディアの未来を論じることなどナンセンスである(もちろん自戒である!)。

 近世文学には面白い作品が山ほどあるのに、あまりにも作品が一般に読みやすい形では提供されていない。これでは一般読者が近世文学に興味を持ちようがないのである。『源氏物語』や『奥の細道』しか出してくれない出版社に理解がないと嘆いていてもはじまらない。最近、『正徹物語』が角川文庫で出た。『徒然草』に勝るとも劣らない面白さで、現代人の心にも響く内容である。この作品が文庫で出ることに意外な感を持たれた人も多かっただろう。しかし訳注者の小川剛生氏が、編集者を熱心に説得したと聞く。もし『正徹物語』が新しい読者を獲得すれば、それは次の、余り知られていない作品の文庫化に弾みがつくのである。こういう試みは何度もやってよい。

 そして、そのことが出版社のリスクを伴うという理由で見送られるとしたら、その時こそ学会等の出番ではないだろうか。最近、日本文学の諸学会が連携する連絡会議が活動を開始した。政治的な圧力団体になるのではなく、一般向けの出版などの明るい企画を次々に生み出す源泉であってほしい。たとえば一般にはあまり知られていないが重要な文献の文庫化の企画会議、あるいは海外の日本文学研究者と連携して、外国での翻訳出版を推進する窓口になるとか。

 日本近世文学会は、今秋、ソウルでの大会を企画している。現在事務局がアンケートによりつかんでいる情報では、日本から百人以上が参加する見通しである。学会員の意欲に希望の灯を見た。韓国の日本文学研究者から何を学べるのか、それは未知数である。しかし、いろんな意味で、「外に出ていくこと」が今の学会には必要ではないか。日本史・美術史・思想史との共同研究やフォーラムの開催なども大いに必要である。佐藤悟氏が中心にここ数年進めている「絵本ワークショップ」などは、未来を志向する好企画である。その成果が出版物としても出始めているが、外国研究者とも連携しやすいこの共同研究事業は、学会などとの共催にするなどの工夫や、求めやすい価格の一般書籍化で、より実りのあるものになるのではないだろうか。

 以上、思いつきを漫然と述べてきた。研究誌・研究メディアの未来を考えることは、研究の未来を考えることと同義である。現在学会事務局の代表を務めている私には、人ごとではない。姿勢だけは前向きでありたいものである。


●グーグル提供広告