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2011年8月18日

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●染谷智幸「21世紀、東アジア圏の文学研究用語は? 外国語・IT・漢字漢文」(小社刊・『西鶴と浮世草子研究 第五号』より再掲載)

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ぎょうせい刊『国文学 解釈と鑑賞』の休刊が明らかとなりました。2年前の学燈社の『国文学』の休刊もあり、小社にとっても、気勢をそがれるニュースで、がっくりきます。が、それらの事象から、衰退・終焉などというキーワードを導き出して、単純化してしまうのも、違う気がします。問題点を整理して、炙り出し、それぞれがそれぞれの立場で、正しいと考えた方向に向かって、それぞれの決意とともに前進していくべきではないか。

小社では先日刊行した、原道生・河合眞澄・倉員正江編『西鶴と浮世草子研究 第五号 特集[芸能]』 で、「研究誌、あるいは研究メディアの未来」という特集を組みました。そこには、以下のような惹句を用い、ページを構成いたしました。

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『西鶴と浮世草子研究』は、本号で終刊となる。
本誌刊行中に、学燈社の『国文学』が休刊し、昨年はぺりかん社の『江戸文学』も休刊してしまった。
状況は、悪化しているのだろうか。
これから研究は、研究誌は、どうデザインしていけばいいのだろうか。
未来に向けて、議論のたたき台とすべく、幅広く問題点を炙り出し多くの人間で共有したい。
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そんな編集部の投げかけに応えてくださり、ご執筆いただいた方の原稿を、再掲載していきたいと思います。第4回目は、染谷智幸氏です。

※第1回は飯倉洋一「逆境こそチャンス」でした。URLは以下。
http://kasamashoin.jp/2011/08/post_1961.html

第2回は川平敏文「学会、研究誌のゆくえ」でした。URLは以下。
http://kasamashoin.jp/2011/08/post_1963.html

第3回は木越治「私たちは、本を「自炊」できるだろうか?」でした。URLは以下。
http://kasamashoin.jp/2011/08/post_1968.html

あと、原道生・河合眞澄・倉員正江編『西鶴と浮世草子研究 第五号 特集[芸能]』も、よろしければ、お買い求め下さい。

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21世紀、東アジア圏の文学研究用語は? 外国語・IT・漢字漢文

染谷智幸

 英語が嫌いなので、または出来ないので国文学科に入ったというのは、ちょっと前なら入試などの面接でまかり通ったジョークだったが、いまや笑えないブラックジョークとなってしまった。英語圏や外国での学会発表で英語や外国語ができずに冷や汗をかく国文学者の数が確実に増えているからだ。かく言う私もご多分に漏れず、英語ではずいぶん恥をかいてきた(思い出すだけでも背筋が寒くなる。髪が薄くなった原因の第一はそれである)。しかし、逆に言えば、外国では日本文化への関心はウナギ登りで、外国語さえできれば発表や講演のチャンスが多くあるということでもある。 

 国文学の衰退が言われて久しい。が、それは国の中のみで、外国へ行けば様相が一変することは外国通の人であれば誰もが知ることである。その興味は漫画やアニメのみならず日本の様々な文化に向けられている(ただし、この日本文化=国文学でないことはやはり注意しておかねばならない)。日本文学の衰退を嘆くならば、作品を英語・中国語・韓国語に翻訳して世界の多くの人に読んでもらうようにすることが急務であることは言を俟たない。単純かも知れないが、中国の人口が日本の十倍であれば、日本文学に興味を持つ可能性のある人も十倍ということになる。お隣の韓国も文化開放が進んで日本の小説は大変な人気だ。村上春樹がそのトップを飾るが、良い翻訳が出れば古典なども人気を博す可能性が高い。

 もとより、読者人口が増えることと、研究が深化することとは別問題だが、新しい読者を生むことが新しい研究のパースベクティブを生むことは、文学史が多々証明していることである。ちなみに今中国・韓国を中心に日本へ留学して日本文学を学ぶ学生の数が増えている。彼らは学位取得後、帰国して日本語や日本文学・文化教育の担い手になる。韓国で日本語関連の学科を持つ大学は百数校であるが、本家の日本では文学関連の学科を持つ大学は百二十校にまで減少している[http://university.info-list.net/subject/japanese.html]。ひょっとして近い将来、日本より韓国の方に多くの日本文学研究者が居るということになるかも知れない。そうした中から従来とは全く違った日本文学研究が出来する可能性もある。

 いずれにせよ、外国語への翻訳が急務であるが、これが一向に進まないのは、やはり国文学者の外国語嫌いが原因であろう。また国文系の出版社にも外国語に強い方が少ないのも一因である。しかし、皆さま、そろそろお覚悟を。これ以上この問題を先延ばしにしていると本当に命取りになりかねない......。

 とはいえ、若い時ならいざ知らず、今更と言われる御仁も多いだろう。だが、国文学者にとっての外国語環境というのは、実はそれほど不利でも悪くもない、というのが私の持論である。自分の体験談で誠に恐縮だが、今から十年近く前にこんなことがあった。

 そのころちょうど朝鮮文学に興味を持ちだした私は、頻繁に韓国へ行くようになって、向こうで日本文学に興味を持って居る明知大学校の鄭炳説氏(専門は韓国文学、現在ソウル大学校教授)と知り合う機会があった。もちろん、最初は英語、もしくは通訳をお願いして話し合った。鄭氏も日本語を勉強し始めたばかりということで、では、お互いの勉強のためにもと、メールを送り合うことになった。そこでお互い書くことよりは読むことの方が簡単だろうということで、私の鄭氏宛のメールは日本語で、鄭氏の私宛のメールは韓国語で送り合おうということになったわけである。

 これをやってみて驚いた。日本語と韓国語は相当に近い間柄である。最初は鄭氏のメールを読むのは些か大変だったのだが、慣れてくると大体の意味はつかめるようになり、しかも昨今はPCに付いている辞書に良いものが多く、カーソルを合わせるだけで日本語に変換してくれるものがあることもあって、そうしたものに頼りながら、半年もメールのやり取りをしているうちに、日常的なことはもちろん、日韓の問題や朝鮮時代(李朝)や江戸時代の小説に関しても、つまりお互いの専門的なことについても、深い話し合いが出来るようになってしまった。或るときはこのメールの方法で、竹島(独島)問題についてかなり突っ込んだ厳しい議論を鄭氏としたことを覚えている。ところが、悲しいことにと言うべきか、面白いことにと言うべきか、鄭氏と実際に会って韓国語や日本語で話そうとしても、日常会話すら上手く通じない。よく二人で、会わない方がいいねと笑い合ったりした。これは、お互い韓国語や日本語が上手くなった今でも同じで、少し学問的で難しい話になると、これ以後はメールでやろうというのが二人の合言葉になっている。

 こんなエピソードを紹介したのは理由がある。それは我々の経験は拙いものだったとしても、かつて東アジアの学者たちが行っていた書記交流に、はっきりつながっていることが途中で分かってきたからである。たとえば、日本の知識人が中国や朝鮮半島に渡ったとき、また朝鮮通信使のように、向こうの人間が日本に渡ってきたとき、話言葉が通じなくても、漢字漢文を書いて意思疎通を図ったことはよく知られている。私たちは漢字漢文ではなく、ハングルと日本語だったが、その基本には漢字漢文がある(ハングルの70〜80%は漢字が基になっている)。それが思いのほか簡単に相互理解を促したのだ。

 これは他の中国語などの東アジア言語にも通じるはずである。そもそも、コミュニケーションは易しい方法を第一にすれば良いのであって(昨今のオーラル何とかの悪影響で「話す?聞く」をコミュニケーションの基本にするから、ややこしいことになって、大量の語学嫌いを生みだしているのである!)、 東アジアは漢字漢文があるのだから、断然書記交流が便利であり、この方法を優先すればよい。さらに国文学者にとって漢文は身近なものだから、東アジアの言語を理解するには他の人たちよりも更に有利な地点にあるとも言える。しかも、今は優れたITとして電子メールがある。会わなくても自宅に居ながら書記交流が簡単にできるのである。これを使わない手はない。

 要するに、かつての東アジアの知識人たちが行っていた書記交流を、現代の学者たちも復活させればよいということだ。話せなくたって良い。理解しあえればそれで良い。それはそんなに難しいことではないし、この方法を通せば、東アジアには更に多くの共通根が今も生き続けていることに気づくだろう。もちろん、そうは言っても他の言語を学ぶことは大変で骨の折れる作業である。しかし、かつての学者・文人たちがどのような努力のもとに東アジアで書記交流を図ったのか、そのことを追体験できるチャンスでもある。また、文学作品はその作品が生まれた時代の意識から読まれるべきだと良く言われる。もしそうならば、この努力こそ、そういう意識に立つための必要不可欠な過程だとも言える。

 とはいえ、この方法は中・韓・日のみで英語には通じない。英語はやはり正面から挑むしかなさそうである。しかし、将来アジアや東アジアが世界の中心になれば、漢字漢文が世界第一の国際語(共通語ではない)になるやも知れない。そうなれば我々は英語から解放されるが、国連で漢字漢文の書記交流というのは、これはこれで面倒臭いかも知れない。


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