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2011年8月23日

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●西澤美仁「西行学界時評・2010」を公開(西行学会編『西行学 vol.2』より)

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まもなく刊行される、西行学会編『西行学 vol.2』より、2010年を対象に「西行学」にかんする時評を行った、「「西行学」界時評・2010」を公開いたします。
現在、西行をとりまく状況がどうなっているのかをまとめたものです。
ぜひお読み頂ければと思います。
ちなみに昨年の時評、2009はこちらです。

分量が多いので、以下にテキストを掲載しておきますが、同時にPDFでもダウンロードできるようにしておきました(テキスト版は読みやすさに配慮して、編集部で適宜改行をいれてあります)。

「西行学」界時評・2010・PDFダウンロードはこちら

また、お願いです。
西行学会では、「西行」に関する情報を求めています。情報がございましたら、ぜひ学会事務局宛にご一報いただけないでしょうか。メールの場合はこちらまで( saigyodensho@yahoo.co.jp )。郵便物等の場合は以下の住所までお送り下さい。よろしくお願いいたします。

〒102-8554 東京都千代田区紀尾井町7-1 上智大学文学部国文学科 西澤美仁研究室内 西行学会事務局

最後に。
西行にご関心のお持ちの方へ。ぜひ、会員になりませんか。以下のページでご案内しております。よろしくお願いいたします。

http://kasamashoin.jp/saigyo.html

それでは時評をお楽しみ下さい。

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西行学界時評・二〇一〇

西澤美仁


 西行ブーム、なのかもしれない。今年は最初から時評を書くつもりで注意していたせいか、例年より西行関係の出版が多い気がする。西澤美仁「西行学会の発足」(古書通信969)や宇津木言行「西行学と学問のゆくえ」(日本文学59--12)のように、会員の側から西行学会の発足について語りかける記事もあり、日本経済新聞4月3日夕刊や毎日新聞9月8日夕刊のように、マスコミ側から西行学会の発足や機関誌『西行学』の発刊について報道されたりもした。また、朝日新聞2月15日朝刊には西行自筆和歌新出資料の発見を報じる報道があり、4月に別冊太陽から『西行--捨てて生きる--』も出て、西行への関心が高まっていったのであろう。西行学会の存在が認知されつつあるのかもしれない。

 西行学会も二年目を迎えて、機関誌『西行学』創刊号が刊行された。「西行学」にとっても「西行学会」にとっても、本年最大のイベントであった『西行学』の創刊については、その一々についてここに取り上げるのは割愛する。本稿の読者はそのほとんどの方が前号を御存知だろうからである。

 8月末に、新潟大学の新潟駅前キャンパスで第二回西行学会大会が開催された。百人ほど収容できるスペースがほぼ満席になり、活気に満ちた熱い討議が交わされた。

 講演には、歴史学の五味文彦氏をお招きした。五味氏は「西行とその時代」と題して、鮮やかな手捌きで、西行の人生を再構築して見せて下さった。本誌に寄稿していただいているので委細は割愛するが、要は、西行という人はその生涯を「時代の意識」と共有した、という観点から充分に語りうる人だ、ということのようである。すぐれた歴史家の広く深い視野に導かれて、私たちまでもがメガネを作り替えたときのように視野が急に明るくなるのを体験できた。遁世聖として王権を守る西行、という新しい西行像が描き出されてゆく瞬間にまさに立ち会うことができたといっていい。

 山田昭全氏による講演「西行晩年の思想と信仰」も熱かった。重源や文覚との関わりの中で極めて具体的に西行が、まさに山田氏ならではの西行として立ち現れてくるのは大変な迫力であった。西行は東大寺僧の参拝団末尾に「随喜の僧」として加わりながらその伊勢参宮を目撃したのだ、との指摘は衝撃的であった。氏の視点からは、まさに文覚や上覚、あるいは明恵や喜海やが西行を見る目、そのものが再現されている、と感じられた。和歌即法楽、和歌即陀羅尼という「思想と信仰」を史上初めて西行が抱き得たとの指摘もまた、「時代の意識」との共有感覚と解されるが、本誌の講演記録に譲って委細は割愛する。

 なお、近本謙介・村尾誠一・平野多恵・高橋悠介・松岡心平「座談会 南都の文学」(文学11--1)にも東大寺復興と伊勢を結びつけた重要人物として、西行を再認識しようとの発言がある。同誌掲載の村尾「南都復興と和歌」でも「かなり大きな社会的な存在としての西行」と把握しつつ、逆に『新古今和歌集』や『西行物語』が東大寺勧進には消極的であることを問題視しようとしていた。また、坂口守男「熊野説話とその精神病理(第・報)」(大阪教育大学紀要(・)58--2)は文覚を中心に取り上げるが、西行を比較対照し、地獄絵連作や『古今著聞集』大峯修行記事に対し、「執着心を捨てた柔軟な心は精神療法への可能性を開く」もの、「神経症の克服」「のお手本」と評価する。
 二日目は研究発表が3本。荒木優也氏の「月に鳴くほととぎす--西行「月前郭公」歌の解釈--」は

  五月雨の雲重なれる空晴れて 山時鳥月に鳴くなり

を考察対象に、本来は季歌として詠まれているが、西行の精神世界を充分に反映して、釈教歌のもつ仏教的思考法に接近しているという。前回の時評に紹介した「花を惜しむ心--『山家心中集』二十七番歌と唯心--」(國學院大学大学院紀要・文学研究科40)と同調して、西行歌を読む際の古くて新しい問題を提起するが、どんなに禁欲的に読んでいっても釈教性の核心に突き当たらざるを得ない、という程、伊藤博之『西行・芭蕉の詩学』(二〇〇〇)にいう「道心者の抒情」たり得ているか、が今後も問われ続けることになろう。

 山村孝一「西に行くということ--西行と四天王寺西門信仰--」は、出家の時点から西行は四天王寺西門信仰を持していたという。西行出家の直前にあたる保延六年(一一四〇)八月に天王寺からの入水を企てた西念との関連を重視しようとする。五味氏からの質問にあったように、西行の出家には入水の意識は見られないし、阿部泰郎氏の質問にあったように、慈円の天王寺信仰とは質が違いすぎる。西行の人生を左右するほどの思想・信仰ではなかったようだが、その同時代性には今後の展開が期待される分野である。

 ジャック・ストーンマン「西行のうちなる芭蕉--西行歌に於ける俳諧イマジネーション--」は所謂テキスト論で西行を読む試み。西行独自の表現に対する芭蕉の共鳴を取り上げようとした。手続的には西行・芭蕉いずれに対してもより精緻な表現研究が求められようが、説話や伝承であれほどもてはやされる西行が、和歌表現の上では芭蕉に救われるまで孤立し続けた、というイメージには看過できないものがある。もっとも、久保田淳『新古今歌人の研究』(一九七三)や石川一『慈円和歌論考』(一九九八)などがすでに指摘するように、慈円の和歌には西行への「心情的共鳴」を読み取れる例がいくつもある。西行和歌の表現にさらに即した形での西行享受史を、説話や伝承と対照させながら展開してゆく必要のあることを痛感させられた。

 二日目後半には、池田和臣・別府節子・中村文三氏によるシンポジウム「伝西行筆未詳歌集切から」。司会を宇津木言行氏と西澤が担当した。昨年の時評でも取り上げた池田和臣・小田寛貴「古筆切の年代測定--加速器質量分析法による炭素14年代測定--」(中央大学文学部紀要・言語・文学・文化103)の続稿(同105)に、「伝西行筆未詳歌集切」も取り上げられ、「伝西行筆未詳歌集切(二首切)考--時雨亭文庫蔵「五条殿 おくりおきし」との関係、および新出断簡について--」(『古代中世文学論考11』新典社二〇〇四)を受けて、御自身所蔵の切を測定にかけ、一一五八〜一一六五年ころ、西行四十代と特定できるとされた。まだ格別に大家の評価も得ていない西行の四十代に、「西行風の筆跡を書いたのは、西行その人の他にはいなかったと思われる」というのが、池田氏の一貫した主張である。二〇〇八年に『西行の仮名』(出光美術館)を開催された別府節子氏もまた、「伝西行筆」「西行の仮名」の全体像から、あるいは冷泉家における伝承から、西行自筆の可能性を示唆して、池田説を支持した。一方、中村文氏は「平安末期の歌壇状況から」と題して、伝西行筆未詳歌集切の和歌表現としての同時代性を追求、西行和歌とする決定的根拠はないとした(本誌への寄稿では俊成の可能性にも言及がある)。

 朝日新聞の取材も会場にはあったが、記事にはならなかったし、結局は、シンポジウムスタート地点からあまり遠くないところに着地したようである。限りなく西行に近くはあるが、ついには西行と同定し得ない、西行の同時代人が作者である。その作者、同時に伝西行筆筆者でもあるが、は万葉や神話にも関心が深く、表現も野心的である。和歌に関する知識はあるが、残念ながら才能は(まだ)開花し得ていないというべきである。私はひそかに俊成の門人のひとりかと愚考するが、具体的な名前は挙げられそうにない。

 池田和臣・久保木秀夫・田中登・名児耶明・佐々木孝浩「古筆切研究の現在」(リポート笠間51)でも伝西行筆の問題は取り上げられている。筆跡鑑定の精度を高めるものとして年代測定を取り込むことが、書道史や国語学の成果をより積極的に取り込むことと同じくらい古筆学研究には重要である、という新局面は確かに共有されつつある。

 今年一番の注目書は、ヘレーネ・アルト『王朝美術における結縁装飾法華経』(山川出版社)。平家納経や久能寺経について西行との関係で極めて衝撃的な新説が展開されている。前者では、法師功徳品の見返し絵を、文字も絵も西行筆という。確かに西行風であることは一目瞭然である。また、神力品見返しに描かれる僧侶が西行である可能性もあるという。そこから展開して、西行が清盛に平家納経を勧めた可能性を追求する。平家納経の奉納時期に合わせるようにして、厳島神社を訪れた西行の行動を意味づけるには格好の仮説ではある。謎が一つ解けたようなすっきりした気持にもなるが、と同時に、ふらっと気ままに諸国行脚の旅に出る西行のイメージから、ますます遠ざかってゆくようで複雑な心境にもなる。

 久能寺経についても、分担の割振りなどを西行が主導したというのは新説である。その前提には、『聞書集』巻頭の「法華経二十八品和歌」詠出時期を、俊成『長秋詠藻』所収の「法華経二十八品和歌」と同じ「康治のころほひ」すなわち西行出家直後とする通説がある。三十歳頃と推定される初度陸奥の旅で久能寺に立ち寄っていることそれ自体は、定説化した事実と言っていいと思われるが、その際に奉納したとする。待賢門院出家、鳥羽院逆修と意味づけられる結縁経を、写経に関しても奉納においても西行の主導的な役割を想定することになる。興味深くはあるが、通説を批判する山田昭全説、宇津木言行説を再検討した上でなければ成り立つまい。なお、『台記』記事に見える「一品経」勧進についても、目崎徳衛氏をして「校正恐るべし」と言わしめた「余不軽承諾」は語順通り読むべきで、不軽品の承諾ではなかろうという。そう読むのはかえって新しいと評価すべきであろう。

 十年前に急逝された美術史家千野香織氏の著作集『千野香織著作集』(ブリュッケ)が刊行された。六十六編もの論文が収録されるが、西行関係は「「西行物語絵巻」の復原」一本のみ。絵巻の復原のみならず、『西行物語』伝本の分類に関しても先駆的で示唆的な好論の復活は意義あることと思うが、亡くなる一年前に出版されて最後の著書となった『絵巻=西行物語絵』(日本の美術416、二〇〇一)で提言されるジェンダー論が前掲論文にはその片鱗も見えないのは寂しい。「過去の女性観者たち」の読みが具体的に掘り起こされる日がいつか来るのを心待ちにしたい。

 絵画資料との関連では、田村正彦氏の地獄絵研究も「剣の山の上の美女--妄念の地獄から恋慕の地獄へ--」(仏教文学34)・「西行「六道歌」雑感--三悪趣の歌について--」(日本文学研究誌8)・「文学と絵画--語り描かれた地獄の思想--」(古典文芸論叢2)の3本。ただし、2本には西行は登場しない。「剣の山の上の美女」では、地獄絵の亡者が裸形から着衣へと変化することで、妄念の地獄から恋慕の地獄へと推移するというが、最後の例示で逆転するなど、論旨の不明確さが気にかかる。西行の「湿る世もなく」については西行和歌の独自性を指摘し得ていて、興味深く読めた。また、三角洋一「一一〜一二世紀のさまざまな地獄絵について--文学研究の視点から--」が巡礼記研究会の例会で発表された。私は欠席してしまったが、西行の地獄絵について言及があったときく。

 『別冊太陽・西行--捨てて生きる--』(平凡社)は、ビジュアル化した西行の決定版とも言うべきもので、会員からは、山折哲雄・嵐山光三郎・家永香織・吉野朋美・西澤美仁・花部英雄・宇津木言行・久保田淳(掲載順)が執筆し、会員以外でも、高橋英夫・瀬戸内寂聴・佐佐木幸綱・火坂雅志・細川護煕・青柳恵介・大矢邦宣・井筒信隆・魚住和晃・水原紫苑(同)と賑やかな名前が連なる。

 タイトルを書き連ねるだけで相当な分量となるため今は割愛するが、たとえば水原氏の「能における西行--「おのれ」から他者へ--」では、「「おのれ」をつきつめて考える心が、おのずから他者に開かれる」西行和歌の持つ「稀有な回路」を能『西行桜』に読み取ろうとする。西行の作歌姿勢そのものが、和歌文学全体のなかに、あるいは日本文学全体を見据えながらそのなかに、「おのれ」の特異を刻印するように詠み続けたからに他ならないともいえるが、そうした西行を目で見てたのしむというのはたのしい。永坂嘉光撮影の写真を初めとして、美麗な図版が多い。私が学生のころに出た旧版(『西行--漂泊の生涯--』一九七三)は、嵐山氏が編集長だったころの「太陽」で、やはり細江英公・入江泰吉の写真が魅力的であった。中でも「かたみの薄」には「時間」そのものが写し取られているような気がして大好きな一枚だった。新旧両誌に共通する執筆者が嵐山氏の他には佐佐木氏おひとりというのも感慨深いが、この40年ほどで失われてしまった風景が如何に多いかも痛感される。

 エストニアのタリン大学で9月8日開催された「時代の転換期の宗教と文学--西行・慈円を視座として--」と題した国際研究集会に、西澤美仁・近本謙介・阿部泰郎・阿部美香が参加し、西澤「西行と慈円」・近本「西行と西行の文学史の再評価」・阿部泰郎「西行から慈円へ--神祇法楽和歌の継承と展開--」の講演を行った。筑波大学の科学研究費によって費用は全額賄われたが、西行学会も後援した。西澤は、西行を始発点とされる「隠者文学」の系譜には慈円は組み込まれないことを確認した上で、伊勢移住以後の最後の十年間において、西行がいかに濃密に慈円と交流し、お互いに影響し合ったか、そして、その交流が慈円の西行離れにつながった、『愚管抄』を産む原動力はここにあった、という大隅和雄説を追認した。また、能因の「数奇」を受け継ぐことで西行は都・山里・山・旅といった空間意識の変革から和歌そのものを変革したのであり、その隠者文学の系譜は鴨長明『方丈記』に受け継がれたかと示唆した。

 近本氏は「院と聖をめぐる文学史」を視点として「西行の文学史」の構想を展開する。『山家集』に見られる「西行が描く西行」(近本氏は花部英雄氏の言を容れて「実西行」とするが、実像とは限らない以上、あくまで本人の言とすべきかとも思う)や『三国伝記』西行人麻呂邂逅譚や『撰集抄』をその典型とする「結縁する西行」(『西行物語』に典型化される「往生する西行」を当初からその前提として、相互補完的に内包する)が、『新板小町のさうし』などに現れる「結縁される西行」(西行に結縁する物語)へと転換する文学史を構想する。「院と聖をめぐる文学史」はその前半の「結縁する西行」と関わると思われるが(後者にはすでにそのエネルギーが終熄して、時代に働きかけられる西行、に転換してしまっていることを見据えた上で)、時代に対して積極的に働きかけてゆく西行、が院と聖をめぐる社会構造の中で可能であった、ということのようである。充分に近本氏の意図を汲み切れていない説明になったかもしれないが、氏にとって、「ことば」がどれほどの力を持ち、世の中を動かし得るのか、が最大の関心事ということである。

 阿部氏は、西行から慈円へ何が受け継がれたかをダイナミックに論究した。後に慈円が「散佚恋百首跋」(拾玉集巻五)や『慈鎮和尚夢想記』(及びそれに関わる高田専修寺蔵慈円自筆書状「不可説の夢記進覧」)などに展開する和歌即真言観、王法仏法相即論は、神の力の復活を企てた「大神宮法楽」と評価できる、しかもそれは御裳濯河・宮河両宮歌合や二見浦百首を伊勢神宮に奉納しようとする西行の言動の中にすでに胚胎していた、というのがその主旨である。慎重を期して「胚胎」の語が用いられたが、慈円のように天台座主・護持僧を歴任した立場で自ら著述することと、西行の和歌本文や詞書等とが同じレベルで捉えきれるのか、に私はまだ若干の引っ掛かりを感じている。後白河院を施主とする東大寺再建と『千載和歌集』勅撰は連動しているし、重源の東大寺衆徒参詣と西行の伊勢神宮への歌合奉納、百首勧進奉納もそれらと確実につながっている。西行最晩年の十年間の交流で、慈円は確かに西行のメッセージを受け止めたに違いないし、それが和歌即真言観、王法仏法相即論であることは言うまでもない。それでいて、「和歌即真言」と割り切ってしまわない、むしろもっと純粋で私的な実感として、和歌はなにとなく真言である、と神の啓示のようなものとして受け止めるのが、いかにも西行という気がする。

 当日を含め、一週間ほど、阿部夫妻・近本氏と異国を旅して、トポロジーで有名なケーニヒスベルクの橋こそ流石に渡らなかったが、日本語で語り合い、考えた実感である。なお、エストニアのタリン大学はもとより、リトアニア・カウナスのヴィタウタス・マグヌス大学(日本のシンドラーとして有名な杉原千畝の記念館が日本領事館跡に設けられており、現在はヴィタウタス・マグヌス大学のアジア研究センターが併設されている。そこが会場となった第十三回「欧州の日本学」にも参加した)及び両大学で出会ったパリ大学・チューリッヒ大学・ロンドン大学等の日本学者に、『西行学』創刊号を手渡してきた。

 稲田利徳『人が走るとき--古典のなかの日本人と言葉--』(笠間書院)は、軽いエッセー集の体裁をとりながら古典語や古典文学から日本文化論を再構築しようという意欲作である。西行への言及も随所にある。『西行物語』が語る出家の場面では、西行は走ることで、和歌が持っていた日常性の世界から超常的世界へ駆け込んだという。『撰集抄』が語る、雨の漏る賤が伏屋では、連歌を付合って「風流精神」を語ったとある。「和歌」という世界の境界に、『西行物語』や『撰集抄』をも含めたいわゆる「西行」が居を構えていることを示すものであろう。また、「し吹く(柴吹く)」「潮踏む」など和歌本文の考証も手際よい。ただ、松尾恒一「南都寺院における『走り』の呪法と芸能、その展開」(文学11--1)などが扱う、結界を作り出す「「走り」の呪法」などとの関連にも視野が広がると、境界性の意味づけができておもしろい気もした。

 久保田淳氏にも西行本文の考証はある。「ことばの休憩室245西行和歌私注--春の歌二首--」(礫2月号)では、

  春知れと谷の細水漏りぞ来る 岩間の氷ひまたえにけり
  鶯の春さめざめと鳴きゐたる 竹の雫や涙なるらん

の二首が対象。前者は『山家心中集』の詞書に異伝があって詠作の場を特定しづらく、後者は和歌には珍しい語彙や見立てが詠まれることに注目する。同じく「中世和歌と万葉集」(高岡市萬葉歴史館叢書22『歴史のなかの万葉集』)でも児手柏を詠んだ西行和歌に注目する。「西行と信仰」(白百合女子大学キリスト教文化研究論集11)では、西行にとって神仏とは何かを総合的に概観し、「歌によって世界を認識した、歌を詠むことが悟りに至る筋道であった」と結論された。

 十一月十三日に東京大学文学部のホームカミングデイで「古典と向き合う」と題した講演があり、西行についても最後に少し言及があった。

  荒れにける沢田の畦にくらら生ひて 秋待つべくもなきわたりかな

に詠まれる「くらら(苦参)」は紙の原料にもなり、正倉院展にやや赤みの勝った苦参紙が展示されていたという。論旨との関連からいえば、桜以外の植物についても西行が如何に多様な関心を示したかの一例であり、漢方の健胃薬という知識が荒田に生える雑草の名を歌に詠ませたのだ、と捉えておけば一応はよいのだが、「和歌文学大系」の注には、本草に全く触れていなかったのは不覚というかショックだった。早速反省して、拙文「仰げば尊し」(上智大学国文学会報31、二〇一一・三)を書き、『徒然草』224段や『方丈記』兼良本にも草庵に薬草を植える記事のあることを付記して、中世隠者の日常の一端として先蹤的かとした。話題になった西行筆と関連付ければ、西行と確定できる和歌の筆跡はわずかに一葉しかなく、それが薬草喩品を詠んだ一品経懐紙であるのはあまりにできすぎた偶合かとも書いた。

 因みに西澤『西行--魂の旅路--』(角川文庫)は、國學院大学の大学院などでの講義に加筆したもの。運良くこの西行ブームの年に間に合った。西行和歌への入口をなるべく広くして、多様な関心との接点を作りたかったが、如何。すでに論じたものとこれから論じようと準備中のものとがおおよそ半々で、一緒に入門しましょうという呼びかけでもある。

 記念の年といえば、吉丸雄哉「上田秋成と西行没後六百年--新出色紙の紹介と考察--」(三重大学日本語学文学21)は、二〇〇九年の上田秋成没後二百年を機に出現した新出色紙が、当時流布していたであろう建久九年(一一九八)入滅説(古今著聞集・西行物語)に従った没後六百年、寛政十年(一七九八)二月十五日に記された可能性があり、前年末に失った妻に対する秋成の思いも籠められていたかとする。

 芸能関係にも西行人気は上昇中だ。西行和歌への作曲では、信時潔による『古歌十四首』『古歌二十五首』の試みがよく知られているが(『独唱曲集』『合唱曲集』がともに春秋社から二〇〇五年に復刻されている)、山本純ノ介氏の「来るべき汎音楽の実践--無伴奏合唱組曲・番パンタレイの作曲とその考察--」(千葉大学教育学部研究紀要58)・『パンタ・レイ--無伴奏混声合唱組曲・--』(音楽之友社)は、

  世の中を捨てて捨て得ぬここちして 都はなれぬわが身なりけり
  捨てしをりの心をさらにあらためて 見る世の人に別れはてなむ
  鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて いかになりゆくわが身なるらむ

に作曲したもの。いずれも仏教に説く出家者にはなりきれない「捨てて捨て得ぬ」境地を、「和歌」という異なった枠組に入れることで自己表現に成功した、西行若き日の代表作である。「パンタ・レイ」(万物流転)という視点からどのように音楽化されているか、西洋音楽に「聲明を西洋のa cappellaの分身として」取り込み、聲明の一節がコラージュされているというから、楽しみなところだが、残念ながら時評子には楽譜が読めない。どなたか音声資料をお持ちではありませんか。御自身の解説によると、

  願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ

はすでに作曲したという。また、

  心なき身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮
  春風の花を散らすと見る夢は 覚めても胸の騒ぐなりけり

を「ピュシス」(自然)という観点から作曲した『ピュシス--無伴奏混声合唱組曲・--』(音楽之友社)も上梓された。「身のまわりで触れてきた様々な人々、文学、自然科学、芸術、音楽など、それらの観念を素直に楽譜という古くからの枠に収めるのが私の仕事」と言う氏は、「技法、技巧に凝ってみたり、電脳機械、電子制御に寄り添ってみたり、偶然性、複雑性、非調性等々、それらの先にあるかもしれない日本人の音楽を無心に探訪していたら、なんと西行にいきついてしまった」という。御同慶の至りという他ないが、氏と同様に、「歌うこと」そのものが西行によっても問われてきたことが、時代・ジャンルを超えて立証されたと言っていい。

 ところで、「春風の」の歌は、「二つの時間/境の旅」と題した『風の旅人』40号にも、「京都、国宝礼讃。」を特集名にした『CREA Traveller』第5巻第2号にも引用されている。後者は、枝にも花が多く残り、地面はすべて散る花に埋められた桜一色の「平安神宮の八重紅枝垂桜」の写真に重ねられるばかりで、どのように西行和歌と重なるのか解説されないが、前者には、巻頭巻末に佐伯剛編集長の「二つの時間/境の旅」と題した詩と短文が掲載されるのでその意図も知られる。自己と他者、日常と非日常、現実と夢という二つの時間の境界に、西行が見た凄絶な美の瞬間を見出そうということのようだ。花が散るのは惜しむもの、だったはずなのに、あまりの美しさに心奪われる。夢に見ただけなのに、もっと見たい、いやいや見てはいけない、という逡巡によってすでに、禁断の美の域に入るのを知る。
 「境界」といえば、島内裕子・渡部泰明『和歌の心と情景』(放送大学教育振興会)に収録される渡部「西行の旅と和歌」は、放送大学教材という性格もあって充分な説明こそ施されてはいないが、西行を「境界の歌人」と規定して、代表作のいくつかを「境界」を詠んだ作品と位置づけている。

 また舞台では、別役実氏の最新作「花のもとにて春死なむ」が兵庫県立ピッコロ劇団の第38回公演として、11月12日から17日までピッコロシアター大ホールで開演され、ポスターや割引券など送っていただいた。残念ながら出かけられなかった。副題に「本朝・桜の園・顛末記」とあり、チェーホフとのコラボレーションがどのように表現されたのか興味深くはあった。
 小林とし子『空の記憶』(私家版)に収められる西行を詠んだ一首。

  西行は断食往生したといふ 満々とした月に聞きたや

前号にも掲載された山折哲雄説の説得力を、「満々とした月」に問おうとする。餓死寸前に痩せ衰えた西行と満々と太った月。いま自分が見ている満月をその日の西行も見ていただろうと想像するのは誰にでもできるが、「断食往生」の語が逆説的に太った西行まで想起させていて、ついボテロの描いた太ったモナリザまで思い出してしまう。すぐれたパロディである。散文では説の当否に言及せざるを得ないが、短歌に詠めばただ軽やかに笑うだけでいい。「満々とした月」はまた「自信満々」に通じる軽口でもあって、宗教学の大家の持つ権威をちょいとからかって、作者は説の当否からそっと身を隠すことになる。

 もっとも、昨年紹介し損じてしまったが、山折氏には「西行と往生--今こそ死を想え、自殺を見つめよ--」(atプラス思想と活動1、二〇〇九・八)があって、御自身の断食経験を紹介されている。断食とは「人を食う」ことを避けるために「我を食う」行為である、「宗教のカリスマたちはたいていが断食を体験している」といい、西行も死の一・二ヶ月前から断食に入ったというが、「宗教のカリスマたち」や山折氏と大きく違うのは、それによって達成できるのは自らの死ひとつであった、という点である。それが究極の美学というのかもしれないが、西行には有名な「和歌断ち」があるのだから、何も合わせて断食までしなくてもと思う。というより和歌断ちこそが西行にとっての断食であって、東大寺大仏再建・千載和歌集成立に向けて、宗教者が断食をするように和歌断ちした、というのが西行らしくていいようにも思う。

 ところで、山折哲雄氏の執筆意欲は実に旺盛で、セブンネット・ショッピングの検索では雑誌記事を除いても新刊や再刊は16点を数える。中では、角川ソフィア文庫から再刊された『愛欲の精神史3 王朝のエロス』に西行への言及が多い。とはいえそれは『とはずがたり』前半の愛欲図から捉え返される待賢門院や西行の姿であり、「宗教的自死」への「過剰な性愛からの遁走」を西行の出家に読み取ろうというのはあまりにも過剰な読みであるが、これも散文ゆえか。しかし山折氏の時事発言は傾聴に価するもの多く、読売新聞の「地球を読む」欄(2月1日刊)には、「優劣判定今昔」と題して、行政刷新会議の事業仕分けに反発する科学界の様相を、定家に歌合判を依頼した西行に見立てている。曲水宛芭蕉書簡の「定家の骨、西行の筋」を引合に、学問する側には「それ(定家に比される、専門人による骨身をけずるメス)を迎え撃つ、足腰を鍛えた余裕と自信」が必要と叱咤激励する。

 『とはずがたり』との関連は、昨年の阿部泰郎氏の講演でも論じられたが、すでに十指に余るすぐれた注釈書が刊行されているにも関わらず、西行との関連についてはむしろこれからの有力な研究課題という様相を呈している。二条の文章が散文としての完結力を持っていて、西行表現との関係を看過しても支障なく読めてしまうからかもしれない。山口賀代子「ふたりの女人(待賢門院璋子と後深草院二条)と西行」(Coal sack 67)はしかし、そういう踏み込みとは無縁の世界だ。出家後の西行が待賢門院女房たちに歌を教えた、という(前掲の山折『愛欲の精神史3 王朝のエロス』にも類似表現がある)。待賢門院中納言・堀河・兵衛らは、西行七歳の折に初度本が成立した『金葉和歌集』に入集した錚々たる勅撰歌人であったから、和歌の手ほどきを受けたのはむしろ西行の方に違いないが、女房たちも西行との交流から和歌とは何だったかを学んだ可能性もないとはいえない、と思わず立ち止まってしまった。同じ著者の「吉野 西行庵への道」(Coal sack 66。『離湖』(コールサック社)にも収録)でも「武士・佐藤義清の苦悩の深さを思わずにはいられない。僧・西行が誕生するまでの吉野の三年間は必要というよりも必然の年月であったのかもしれない」の一文に出合うと同じような感慨に陥ることになる。「吉野の三年間」をただの伝承と笑ってはなるまい。西行庵から宝塔院跡へ向かう静かな山道が吉野山の中で私は一番好きである。堂塔の跡と覚しい平地の前をいくつも通り過ぎるが、その道を歩くと確かに「必然の年月」が実感できる。

 一方、佐竹温知『西行 求道の境涯』(春秋社)や田中貴子『中世幻妖--近代人が憧れた時代--』(幻戯書房)・稲垣克美『和歌逍遙』(風媒社)などにも西行への言及があるが、新鮮さは特にない。というより「田中貴子氏はじめての西行」にあまり期待しない方がいいというべきか。田中著は、現代人の中世に対するイメージは単純に過ぎて、本質を外しているという。そのイメージの中核に西行・実朝・世阿弥があることが元凶、とでも言わんばかりだが、中世についても西行についても研究書に対する田中氏の読書量は相当なものなのに、なぜ肝心の西行を読もうとしないのかが逆に気になった。もっと西行そのものを読むべきだと思う。

 国文学に限らず、文献実証は諸学の基本であるから、第一次資料と二次、三次以下を区別しなくてはいけない。学問の学際化がどんなに大きな声で提唱されても応用科学や実学が大学の中核には収まり得ないように、また日本学を離れての国際化がありえないように、西行学の基本は「西行」そのものを読むことにある。渡里香氏に「西行と義経--その秘められた深い絆--」(蒼き狼ボルテ・チノ日本の心4)、「流鏑馬神事--西行から頼朝へ伝えられた武士の真髄--」(同5)、「西行と四天王寺--西へ行くという意味を追って--」(同6)と3本もの収穫が本年はあって、「仏門にありながら、西行は最後まで真のサムライであった」を主旨に、「究極の武士の生きざま」を西行に見届けようとする姿勢が一貫する。しかし、「合理的かつ客観的」な方法論を良しとするあまり、情報量に振り回されてしまっているのは田中著と変わるところがない。新資料の開拓や再発見はそんなに簡単なものではないが、資料を虚心に読む、資料の中に論の根拠を置こうとする姿勢は、文献実証の基本であって、学際化されようが国際化されようがつねに学問する心の中核になり続けなければならないであろう。

 山田雄司「直島における崇徳院伝承」(三重大史学10)には、「在地に残される最も古い記録」である『故新伝』等の崇徳院関連記事が翻刻されている。『梁塵秘抄』収録の崇徳院関連歌謡2首について、「両歌とも、後白河天皇側に立って崇徳院側を非難しており、崇徳院の怨霊が意識される前の、歌を収録した後白河院の勝ち誇った顔が思い浮かばれる歌である」という。従って、そこに「直島」が登場する以上、崇徳院が一時的にせよ直島に遷幸していたことは事実として動かせず、多くの伝承は、院の配流時に都から同行した女房所生の三宅重行を先祖とする三宅氏によって管理伝承されたという。

 平田英夫「西行和歌の原風景についての一試論--遊女・歩き巫女・比丘尼の歌文化との関わりをめぐって--」(藤女子大学国文学雑誌82)にも「崇徳院の怨霊」は登場する。ただし、ここでいう「原風景」が何を指すのか、冒頭部にいう『山家心中集』妙法院本奥書に言及される「宮木が歌」や遊女妙との贈答をいうのか、終結部の崇徳院・近衛院の墓参を指すのかはっきりしない。そもそも前者における「遊女の芸能「あそび戯れ」と等置される和歌という西行の認識」についても、「声をもってこのような歌を詠じ交わし戯れる様子を楽しむよう設定されている」「聖と遊女にまつわる何かしら演劇的な試み」についても、後者の『保元物語』金刀比羅本が「演出された崇徳院の怨霊鎮魂儀礼」を描き出すと読むのと同様に、「西行和歌」そのものに即した読み取りとは言いがたい。そもそもを繰り返すことになるが、そもそも崇徳院は西行墓参時にはまだ怨霊ではなかったし、『保元物語』冒頭に描かれる熊野巫女の託宣との間に看取される「王の無常」という呼応関係も、もちろん西行自身の与り知るはずのないものである。それであってそれらが充分に「西行的な行為」と解されてしまう以上、本論文はしかし傑作である。「崇徳院に憑かれた聖西行のシャーマニックな歌として意識させようとする」『保元物語』の原動力は、「崇徳院の心情に憑かれたように詠む実際の西行和歌が保持していた潜在的モチーフ」であり、これこそが「原風景」に他ならないということのようだ。御霊を鎮撫する歌、神と交信する和歌、といった遊女や巫女の和歌のありかたと重なってゆく西行和歌の機微が解明される日は近い。

 蔡佩青「歌人から法師へ--西行の鎮魂歌--」(アジア遊学130)でもこの問題は扱われる。西行には、歌人としての他に「導師」としての一面があり、『山家集』の崇徳院展墓譚ですでに導師の一面は発揮されているが、『古事談』『西行物語』『撰集抄』を経て、『保元物語』『平家物語』に至るや、怨霊鎮魂という導師本来の呪力が発揮される、ということのようである。平田氏のいう「潜在的モチーフ」「原風景」が崇徳院の怨霊化を呼び込んだと換言してもいいだろう。崇徳院を配流して和歌を衰滅させたこの国のあり方を、憂い怨み呪っていたのは、実は西行だった、という読みがこういう流れからいずれ出てくるんじゃないか、その「潜在的モチーフ」ではあるのではないか、と読みたくなってくる。

 『大法輪』9月号に「「高校の教科書に出てくる」日本仏教と日本の思想」の特集があり、「西行の歌論」の項目を志村有弘氏が担当している。「心から心にものを思はせて」の一首をあげて「人間の心を主軸とする近代文学の手法と酷似するものが見られる」といい、『沙石集』『西行上人談抄』『今物語』の説話を引いて「西行の歌道は、仏道と同次元のものであったらしい」という。

 日野西眞定「山岳修行者としての西行」(山岳修験46)は、昨二〇〇九年十月に高野山で開催された日本山岳修験学会の公開講演を活字化したもの。拝聴していながら昨年度の時評には書き落としたようである。空海入山以来の高野山の歴史、特に結界(女人禁制)と納骨信仰、大峯入峯について整理し、西行の「立場」「業績」をそこに位置付けようとする。西行の大峯入峯と高野山との関連については、五来重氏が『高野聖』以下で唯一実証的根拠とした「宗南坊行宗=行窓僧都」説にはむしろ批判的で、それであっては充分な論証結果を得たと言えないように思われるが、蓮華乗院の壇場移転によって開始されたと覚しい長日談義については、現在の年中行事の中に「内談義」として受け継がれているとして、その概要を紹介する。「談義」自体が形骸化、行事化していることを認識した上で、「西行が導入したものが今でも生きている」と評価するのは、教学的な業績としてよりも宗教民俗学的に受け止めようという視点と解される。対照的に、萩原昌好「西行の和歌と求道」(十文字国文16)では、良忍系の融通念仏僧との交流により出家した西行が、真言密教とどのように関わってゆくかが論じられるが、初度陸奥の旅にも「奥州の藤原氏からの沙金勧進」が推定されたり、覚鑁の弟子兼海からの付法が推定されたりする。前者は二〇一一年の「西行の仏教的世界」(解釈と鑑賞76--3)にも繰返されるが、まだ充分に根拠が示されているとは言いがたいであろう。後者についても昨年の波多野智人「高野山蓮華乗院における金剛峯寺と大伝法院の関わり方」(密教学研究41)と同様、付法の有無について慎重な検討が必要であろう。

 樋口大祐「検非違使文学の系譜」(武蔵野文学58)は、検非違使の属性を華やかさ、罪業性、多重所属性に求め、その第二の罪業性の典型例として山口眞琴『西行説話文学論』(二〇〇九)を引きながら久保家本西行物語絵巻に言及する。論文の面目は、康頼・時忠・義経といった検非違使の文学として平家物語を読み直すと、例えば信連が以仁王の笛を届けた後にも検非違使と一戦を交えるべく引き返して捕縛される必然性が読み解けるというあたりにある。

 中尾堯・今井雅晴『知っておきたい名僧のことば事典』(吉川弘文館)には聖徳太子から良寛に至る三十四人の「名僧のことば」が取り上げられるが、和歌のみで綴られるのは西行ひとりである(今井氏担当)。そのことにまずは快哉。最初の一首

  そらになる心は春の霞にて 世にあらじとも思ひ立つかな

については「俗人でいるかぎり不安で何も手につかないが、出家を決心した私の心は春霞のように心地よく、仏道の世界へ昇っていく」という「訳」が付く。「不安」と「心地よ」さとの綯い混ざった心情を見事に捉えた達意の名訳ではあるが、「俗人でいるかぎり不安」なのではなく、出家に対しても残ったであろうその不安をぐっと飲み込んでしまおうという心情を一種の気合として「思ひ立つかな」には含まれていると読みたい歌である。ともあれ、修辞に気を配った拙訳(『西行--魂の旅路--』)より作品に切迫した感はある。「願はくは」の歌と釈迦入滅を結びつけないなど訂正を要する瑕瑾はいくつかあるが触れない。

 今年は白洲正子生誕百年の年だった。その企画の一部で、NHKで放送された(らしいが全く気付かなかった)「西行」「明恵」「近江山河抄」「かくれ里」がDVD化された。「西行」は『芸術新潮』に連載されていたころは、実に美しい見開きの写真が目を奪うほどだったが、単行本化され、文庫本化されるにつれて、視覚的な魅力は失われていった。それはそれで、現地にさえ行っていれば、その時の自分の記憶を甦らせるのにはかえって具合が良かったりもするが、DVDの画像と『西行』のさわりの一節を重ねながら観るのもまた一興である。疑うことを仕事にしているような我々と違って、白洲さんは本当に素直に何でも信じてしまう。画像を止めてでも一緒に観ている学生に向かって説明を加えたくなる衝動に何度も駆られながら、最後まで観てしまうと、究極のところ西行は自分の歌しか信じていなかった、と語る白洲さん自身が、究極のところ自分の目しか信じていない、ことに思い当たることになる。何でも知っているくせに何も知らず、何でもできるくせに何もしない、という中途半端このうえない「中世隠者」としての西行を、白洲さんはからだを張って表現していたのだ、ということに思い当たることになるのである。おのれの生命の限りを尽くして向かい合うことの尊さを学んだ思いがして、自分も同じ人間に生まれていてよかったという気分になる。

 生誕百年の展覧会「白洲正子神と仏、自然への祈り」は二〇一〇年の十月から滋賀県立近代美術館で始まり、愛媛県美術館を経て、二〇一一年三月から五月まで世田谷美術館で開催された。その監修を担当された白洲さんの孫(同時に小林秀雄の孫でもあるという)白洲信哉氏の随筆集『かたじけなさに涙こぼるる』(世界文化社)は野呂希一氏の写真がまた美麗である。信哉氏が祖母の代表作の足跡を辿る構成になっていて、西行に関する記述は最後にごくわずか出てくるだけであったが、標題に用いられた西行伝承歌の一節が、西行の信心を足で歩いて見つけ出そうとした白洲正子のスタイルを如実に表現しているという。展覧会も実に見応えがあった。「西行」のコーナーがないのはなんとも寂しかったが、白洲正子が書いた国宝・重要文化財級の神仏が一堂に会していて、その文章を読みながら直接見る贅沢を味わった。白洲正子の目そのものを見る贅沢である。

 小林秀雄といえば、出岡宏『小林秀雄と〈うた〉の倫理--『無常という事』を読む--』(ぺりかん社)が出て、「歩行する詩魂--「西行」--」という章があるが、小林の文章をただ詳細に説明することに終始する。正しい読み方かもしれないが、正しいかどうかの判断材料は少なくとも提示されていないようである。小林の他の作品なりその研究、西行の他の作品なりその研究に、一歩なりとも踏み出すことなくしては、読みの検証などできようはずもない。せめて白洲さんのように西行を歩行してみたら如何、と読むことより歩くことの方が多分好きな私などは思ってしまう。小林については、日本人の知性『小林秀雄』(学術出版会)も出たが、これは一九六〇年に日本書房から出版された「現代知性全集」の復刻。その復刻の意義などについて一切何も語らないという無愛想な企画である。

 それより、東京書籍から刊行された大津雄一・日下力・佐伯真一・櫻井陽子編『平家物語大事典』がおもしろい。巻末の索引によると、西行は「物語編」に「後藤基清」「双林寺」「■」、「周縁編」では「撰集抄」「蜷川家文書」「保元物語」の項に言及があるほか、前者に「西行」の項もあって、『平家物語』との関わりが見やすく配慮されている。その「西行」の執筆担当者でもある渡邉裕美子氏の『新古今時代の表現方法』(笠間書院)にも西行への言及はあり、第八章の「偽装された「説話」--『今物語』--」は三年前の『中世文学』からの再録で、第一章第六節には八年前の和歌文学会シンポジウムから「西行思慕と本歌取--『花月百首』をめぐって--」が収録される。後者の長能と能因との師弟関係は単純な勘違いと思うが、定家が本歌取技法を完成させるにあたって、西行が微妙な影を落としたところに注目していて興味深い。

 三田誠広『阿修羅の西行』(河出書房新社)は『西行--月に恋する--』(二〇〇八)に続く同氏二作目の西行小説である。二〇〇〇年には『清盛』(集英社)もあった。氏の歴史小説はそもそもが説明的に過ぎて、例えば後白河院を日本一の天狗と評したのが清盛であったり、など一般常識(通説)とのずれ、ずらしに積極的な意味が読み取れず、単なる挑発にしか感じられなかったりもするが、義経は後白河院の御落胤、頼朝も院に育てられた、などという設定あたりから少しずつ動き始めた気がする。ワキ僧として「すべてを見る」役を果たしていたはずの西行が、保元の乱での崇徳院の仁和寺脱出や、平治の乱での頼朝の救命に奔走し、鬼一法眼となって義経に武道を伝授するなど、歴史の現場で大活躍するのを読むのは、一西行ファンに戻った気分でたしかに気持ちいい。

 西行小説ではないが、佐伯泰英『紫房の十手--鎌倉河岸捕物控「十七の巻」--』(ハルキ文庫)には再三「西行」の名が登場する。江戸の十手持ちの若親分夫人が東海道を旅して、大磯の鴫立庵で盗賊を見かけたことがきっかけで逮捕にまで至る、というストーリーで、箱根へ湯治に行く道中、東海道随一の景勝地が「西行ゆかりの」鴫立沢なのだという。「西行」と江戸文化との関わりがほのかに香る。大垣内暖人「結界」(文芸埼玉84)も西行自身は登場しないが、西行研究者の「先生」に大峯に案内され、西の覗きで擬死体験をする学生の話。「西行」は現代においてもなお未知の世界に誘ってくれる、ということで強調されるのであろうが、どう読んでも私にしか見えないこの「先生」はちょっと格好が良すぎるようだ。

 笠原仙一『詩集 ひとと宙』(土曜美術社)に「西行舟」という詩がある。「願わくは(中略)仏さまの手のひらで/キラキラと 燃えるように/とけゆくことを」と語られると、作者の心があんまりやさしくて、西行とは違う御方を御覧なのでは、とつい思ってしまういけない私に出くわす。

 それにしても、今回は震災の影響もあって図書館通いができず、民俗学的成果を収集する作業にはほとんどまったく踏み切れないまま終わった気がする。金森敦子『旅の石工--丹波佐吉の生涯--』(法政大学出版局)が新装版に再刊されたのを機に読み返した程度である。昭和三十年頃を境にことば自体も消滅してしまった「西行を打つ」旅職人の石工を追ったルポルタージュ。故郷を失った孤独な名工が、西行を打とう、西行に出よう、と誘い出されるように旅に出る。江戸末期の逼塞した石工の社会からの旅立ちなのではあろうが、その情念がまるで根源的な旅心の発露のように感じられてくる。「西行を打つ」とは如何に言い得て妙なものがあったか。

 鬼頭尚義「説話から名所へ--実方客死説話の変相--」(伝承文学研究59)は「みちのく」で客死したという実方の伝承が笠島にある実方墓に定着するにあたって、『山家集』記事が一定の役割を果たしたとする。ただし、「形見の薄碑」は現存しないとあるが、岡田隆『歌碑が語る西行』二〇〇〇)にもすでに紹介し(碑文の翻刻を比較すると13文字もの相違がある)、前掲『別冊太陽・西行--捨てて生きる--』には「中将実方朝臣之墳」の部分が写真で紹介されている(因みに先述した細江英公氏の「かたみの薄」とは別物である)。現存する中で最も美しく、気品が感じられる西行歌碑である。名取市は今回の地震で大きな被害を受けたが、奥州街道より山側は被災を免れたときく。ただ、拓本が宮城県図書館に所蔵されていることは知らなかった。

 石橋睦美『歴史原風景』(平凡社)は不思議な写真集である。日本各地の「伝説の地」「に染みついた往事の旅人の気配」を撮影したのだという。たとえば「西行戻しの松の情景」には瑞巌寺や松島の風景が切り取られているが、「西行戻しの松」それ自体の写真はない。すべて「往事の旅人」の心象風景なのである。35の風景の中に何と多くの西行が映し出されていることか。平泉・象潟・那智・吉野......。西行の名前が出てこない場所にも西行は感じられる。その集積が「日本を形作る原風景」だったのだという。

 被災地出身の学生に家族の安否を問うたところ、西行の伝承地が数多く消滅したのではないかと逆に気遣われてしまった。そうした心遣いがその分余計に深く心に残ることになる。被災された方々の御冥福をお祈りいたします。

 とともに、私たちの一日も早い復興を祈念します。西行学に関わる私たちのすべてが、戦乱と災厄に充ち満ちた時代を生きた西行を学ぶという連携のもとに、ともすると震災で失われた日常性をそれぞれが復興されることを心より祈念いたします。

(にしざわ・よしひと/上智大学)


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