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2011年4月14日

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●日本古書通信2011年1〜3月号掲載、小社・岡田による「編集者からみた学界の動向[2010](その一〜三)」全文掲載

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小社・岡田が日本古書通信2011年1〜3月号に連載した、「編集者からみた学界の動向[2010](その一〜三)」を全文掲載いたします。再掲載をご許可いただいた日本古書通信様に御礼申しあげます。ぜひ、定期購読してください!
●日本古書通信・公式サイト
http://www.kosho.co.jp/kotsu/

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編集者からみた学界の動向[2010](その一)

※日本古書通信2011年1月号掲載

笠間書院・岡田圭介


 二〇一〇の学会動向を書いてみたい。

 タイトルにもあるように、あくまでも日本文学・日本語学を中心とした専門出版社の「編集者からみた」ものであり、学界動向の全てを網羅できているとは思えないが、出来る範囲で書こうと思う。私が働いている笠間書院では、二〇〇六年くらいから本格的に学界に関する情報を収集しはじめ、インターネットに公開するという作業を継続している。今回は、この作業から知り得た情報の範囲で書くことをお断りしたい。加えて、本論に入る前にもう一つ弁解すると、多くの情報を日々発信しているが、それらに足を運ぶことがほとんど出来ていない、という現状がある。来年からは多くのイベントに参加したいと思う。先日、とある学会に最初から最後まで参加したが、後で活字となったレポートを読んだりするのとは、全く違う。発表者や質問者が抱えている問題意識なり、煩悶している部分が、発せられる言葉、身振りの端々からから伝わってくるし、何より会場の雰囲気自体から伝わるものがやはりあるのだ。

 私は、学会によるインターネット中継を積極的に行ったほうがいいのではないかと考えているが(小社でも学会中継を代行する係を作り、二〇一〇年春に発行したPR誌「リポート笠間新聞」にて宣伝した)、中継はあくまでも補助的なものと考えるべきで、まずは多くの人間が集いたくなる学会を作り上げていくことが、第一であると思う。
 二〇一〇年は、学会のインターネット中継の端緒が、研究者自身の手によって開かれた年である。二〇〇九年末に開催されたウェブ学会の第一回シンポジウムの成功(二、三千人が視聴した)を受け、ネット界ではUSTREAM(ユーストリーム)によるイベントの中継が盛んになった。本格的なものは、ビデオカメラを使って行われ、簡単なものはiphoneなどのスマートフォン(携帯電話)ひとつで行われる。

 例えば二月に、DOAR@758(通称どあら http://twitter.com/DOARA758)という、近現代日本文学・文化研究関係の学術イベントをライブ中継するプロジェクトチームが、名古屋地区に現れ、名古屋大学の日本近現代文化研究センター主催の講演や、日本近代文学会東海支部のシンポジウムを中継した。
 USTREAM(ユーストリーム)によるインターネット中継が面白いのは、twitter(ツイッター)というコミュニケーション・ツールで、内容について視聴者間で意見交換を行うことや、主催者に向けて質問を送ることが可能な点にある。また、twitterの良い部分は、そのイベントの開催情報を周知することが比較的容易に行える点にもある。今までであればその学会自体にアクセスすることが考えられなかった人たちにも、情報を届けることができる。私が見ていたいくつかの学会中継でも、学会員以外・研究者以外が、それぞれの興味から見ていたようである(総視聴者数はあまり多くはなかったようであるが)。

 DOAR@758の成果は、十一月に入り、日本近代文学会の十一月例会に引き継がれる。例会テーマは「《シンポジウム》紙からデジタルへ--研究環境・研究方法の前線(二)」で、前田塁(文芸批評家)、岡野裕行(法政大学非常勤講師)、谷川恵一(国文学研究資料館)らが登壇した。このイベントはある程度の成功を収めたように私には思えたし、足を運べずネットで視聴していた研究者たちも、感謝のことばを述べていた。様々な事情があって現地に行けない研究者には、とても助かる仕組みであるといえる。内容面で言えば、谷川氏による国立国会図書館の近代デジタルライブラリーを研究者が使うときの諸注意が印象に残った。例えば、国立国会図書館で公開されている画像は初版本が多く、その本は必ずしも、その時代、一般的に流通した本とは限らない、ということなどだ。

 学会レベルでのインターネット中継が行われる一方、ジャンルを横断して行われるものもある。言語学に関心のある人たちのネット上のコミュニティ、TwiFULL(Twitter自由言語大学 http://www26.atwiki.jp/twifull/)というものだ。これらは、実際のイベントとして、大阪・関東各所・札幌で開催、中継されている。若手の研究者たちが組織したもので、その研究ジャンルもさまざま。正式な学会ではないため、主催・発表する若手の研究者にとっては業績にならないであろうが、ジャンルを超えて議論が行われる様子や、自らの学問を積極的に公開していくその姿勢には、シンパシーを感じることが出来る。

 国文学界では、学燈社の「国文学」休刊をはじめ雑誌の休刊が相次いでいる(今年もぺりかん社の「江戸文学」が休刊となった)。それ以降、学会レビュー的なものが減り、学問が公に評価される場が少なくなりつつあるが、その反面、上述のようにあらたなムーブメントも起こりつつある。そういった芽を、きちんと汲み上げ、評価されるように発信していきたい。それにしても、学問が公に評価される場は今後どのように確保していけば良いのだろうか。
 ぜひ、小社ブログ(http://kasamashoin.jp/)にもご注目ください。(つづく)

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編集者からみた学界の動向[2010](その二)

※日本古書通信2011年2月号掲載

笠間書院・岡田圭介


 前回、「学問が公に評価される場は今後どのように確保していけばよいか」と締め括った。今回はこのことを考えていきたい。「学術論文においては、その存在意義や新規性などはすべて他人の口から語られなければならない。」(「論文における新規性ということ」。ブログもろ式:読書日記)のである。

 学燈社の「国文学」が休刊したのは、二〇〇九年六月(同年七月号が最終号)。同誌の売りの一つは学界時評であった。上代・中古・中世・近世・近代・国語と区分され、それぞれのジャンルの論文の評が見開き二ページで掲載されたものだったが、現在、それに代わるものはない。昨年同様な機能を果たしたものを、振り返りたい。

 まずは、全国大学国語国文学会の学会誌『文学・語学』一九七号(七月刊)の「平成20(2008)年国語国文学界の動向」。対象期間は二年前であるが、同誌は継続的に学界動向を掲載し続けている。また『文藝年鑑2010』(新潮社)には、古典研究を錦仁が、近代研究を池内輝雄がそれぞれ執筆。次に、全体を論じたものではないが、ぎょうせい発行『国文学 解釈と鑑賞』二〇一〇年一〇月号「特集 鏡像としての平安文学 価値変動の時代に」のレビューはユニークなものであった。「平安文学・教育」と題され、国際シンポジウム、海外研究展望、大学院教育、等が論じられる。コーナー最後に掲載された阿部好臣「学会/学界の現況と課題」は多くの日本文学研究者が感じていることではないか。短い文であるが、総括的に書かれているので、ぜひお読み頂きたい。また、少し路線が異なるが、文芸誌『月光』二号(勉誠出版、七月)には、田中貴子による「古典時評(一) 源氏文芸の競演」が掲載された。大塚ひかり訳の源氏や林真理子の『六条御息所 源氏がたり』などの文芸作品を評したもの。この雑誌は「時評」を充実させたいという意思を持っており、「古典」のほかに「文芸・詩歌・現代詩・音楽・美術」の時評が載る。田中のこの試みは古典研究者の、研究外部に接続していく取り組みとして、私にはとても魅力的に映る。
 見落としも多くあると思うが、紙媒体で「学界時評」的な機能を果たしたのは、以上ではないだろうか。

 学界の動向を伝えるには圧倒的に数が少ない。が、研究者自身も指をくわえてこの状況を静観しているわけではなさそうだ。和歌文学会の学会誌『和歌文学研究』第一〇一号の後記にはこうあった。「常任委員会では、このところ本誌に「時評」を載せるか否かの議論が重ねられてきました。賛否それぞれ種々の意見が出され、活発な議論の結果、現時点では時評子過重負担等から実現は困難ということになりましたが、引き続き検討すべき課題となっています」。学燈社「国文学」の学界時評を担当していた方に聞いたことがあるが、なにしろ大量の論文を読まなければならないのである。労多く、当人にとっては得るところが少ない。

 主に古典文学を対象とする学会誌に言えることであるが、近現代文学を対象とする学会誌、『日本近代文学』(日本近代文学会)、『昭和文学研究』(昭和文学会)の編集はもっと参考にされるべきではないか。両誌とも、通常の論文以外に少ない枚数で、〈研究ノート〉〈展望〉〈イヴェント・レヴュー〉といったコーナーで最新の情報を共有しようとする姿勢が顕著である。まずは、この辺りから古典文学の学会誌も変えていったらいかがだろうか。

 インターネット上では、全国大学国語国文学会のサイトに「研究レビュー」コーナーが昨年登場したが、昨年は二回の更新にとどまった。一月に、神野藤昭夫「希望の〈学〉としてのフォーラムをめざして」、六月に大石泰夫「「歌木簡」論争に想う」である。また、事実上時評的な役割を担ってしまっているインターネットサイトがいくつかある。飯倉洋一による「忘却散人ブログ」、川平敏文の「閑山子余録」、「深沢秋男日記」などである。いずれも近世文学の研究者によるものであるが、近世文学の研究者の多くがチェックしているのではないだろうか。これらのサイトはもちろんレビューとして書かれているのではなく、あくまで「ブログ」である。研究にまつわるこぼれ話もあったりするので、面白い。

 最後に先ほど紹介した阿部好臣の文を引いて終わりたい。「研究(者)を支える磁場の確保と拡大は必須なのである。ただ、それは孤立して自己満足的ではないようにしたいと思う。今という時に生かされて、古典文化を担って、次の世代にどう伝えるか」。磁場の拡大のひとつとしての「学界時評」のあり方を、商業出版社の立場で出来ることを考えていきたいと思っている。おそらくそれは、学燈社がやっていたような時代区分や編集ではないはずである。次回は「学界」を支える「学会」をテーマに、最終回とさせていただきます。(つづく)


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編集者からみた学界の動向[2010](その三)

※日本古書通信2011年3月号掲載

笠間書院・岡田圭介


 その一で「インターネット中継」、その二で「学界時評」ときて、最終回・その三は予告の通り「学会」についてである。これまでいずれも学界を如何に活性化させるかという視点で書いてきたが、「学会」こそがその大本であると考えている。「学会」の活性化なくして、国文学というフィールドの安定的な「磁場の確保と拡大」はないだろう。例えば源氏物語千年紀は、一般の方も引き込んで興味を喚起するという意味で価値あるものだったと思うが、一過性にならざるを得ない。それで終わっても悪いことではないが、継続的に喚起しアドバルーンを掲げ続けていく必要は、あるのだ。その地盤はやはり「学会」にあると思う。が、その割に私は「学会」のことをあまり知らず、最も取材が必要なところである(今年の課題としたい)。

 小社は学会誌の制作を請け負っている。主要な学会だと、上代文学会・中古文学会・昭和文学会。昨年からは、西行学会も加わった。だが学会運営にまで携わることはない。ということで、書き始めるまえから、負けを認めたような形になるが、気を取り直して学会運営で昨年気になった試みをいくつか紹介したい。

 まず、日本近代文学会二〇一〇年秋季大会(三重大学)では、フリースペースが設置された。これは「研究者相互の交流、研究情報の交換の場となることを企図したもの」とされ、具体的には「○ポスター掲示による博士論文などの紹介、○論文抜き刷り・科学研究費補助金などの研究プロジェクトの報告書・研究同人誌などの展示、配布、販売、○研究会、学会などの紹介、○学会誌の展示、配布、販売、○研究サークル・読書会・研究プロジェクトなどの紹介」などが想定されたようである。どの程度利用されたか知りたいところだ。また、日本語学会では、ポスター発表とデモンストレーションが廃止され、両者を合わせた形態として「ブース発表」、というものが導入された。「ポスター発表とデモンストレーションの発表件数は非常に少なく、低調」だったそうで、「ブース発表」という自由度の高い形態で活性化を目指すとのことである。古典文学関連の学会だと、ポスター発表やブース発表に相当するものはない。この辺りをもう少し取り組んで欲しいと思う。発表者が増えれば、動員も増えるはずである。また近年は、在野の学会に目を向けると、託児所を設けたりしているところもあるようだ。

 インターネット上では学会運営について、「学会をコミケにして、自作の論文集を配る(販売する)。あるいは、データの入った、CD-Rでもいい。こんな企画もあっていいだろう。WEBで自由にものの言える時代なんだから。」「学会のコミケ化、というのは、未知の人でも似たような所に関心を持っている人に、論文抜刷なんかを渡したがってる人が渡せるような場があればよいのにな、ということ。」というツイッター上での @kuzan 氏のつぶやきが昨年あり、もしかしたら、日本近代文学会の取り組みはそれらを受けたものであったかもしれない。

 実際この試みがどんな結果になったとしても、それらを簡単に実現することが出来た日本近代文学会の風通しの良さは(例会のインターネット中継が簡単に実現できたことも含め)、他学会にも波及してほしいところである。しかしそれは、運営に携わられている方々が個人の熱意で突破していくほかないのかもしれない。前回ふれた和歌文学会の編集後記には続きがあった。「提案は、若い研究者が育つことを主なる目的に和歌研究を衰退化させまいとする、ある委員の真摯な配慮に出たものです」と。熱意などという美辞で語ることは、現在大学で激務にあたられながら、学会運営もこなさなければならない状況にある方々の気持ちに、油を注ぐ発言になるのは承知の上でだが、そんな風にも思う。

 上代文学会のサイト(http://jodaibungakukai.org/)にて、会誌に掲載された過去の論文が公開されたのは、快挙である。各学会誌の編集後記を読んでいると、近世文学会なども、論文のデジタル化に梶を切っているようだ。国立情報学研究所のCiNii(http://ci.nii.ac.jp/)で検索して論文が出て来て、そしてそれが読めるということは、個々の論文が存在感を主張するうえでも、無視できない「あり方」になってきている。検索して読めるものは、若い方は特に貪欲に読み進めているようだ。この点はどんどん推し進めていいただきたい。例えば、ネット上でそれらの論文を紹介しながら、研究案内のようなコンテンツを作っていくことが、誰にでもできるようになる。そういう地道な作業からしか、研究の裾野は拡大していかないのではないか。

 上手く語り切れなかった部分も多々あるし、見落としている物事も多いはずだと思うのですが、以上で終わります。もし感想・ご意見等ございましたら、ぜひ笠間書院宛にお送りください。今よりも少しでも良い考え方をみなさんと共有したいと願っています。

 最後に。私がこれまで想定した「学界」とは何だろうか。それぞれ見るところは違うであろうと思う。いままで述べたのは、笠間書院という学術書を刊行している編集者から見た「括り」である。私は私が「括った」人のために頑張りたい。

 最後に宣伝を。間もなく小社より刊行予定の、倉員正江・河合真澄・原道生編『西鶴と浮世草子研究第五号・特集「芸能」』では、「研究誌あるいは研究メディアの未来」というコーナーを作りました。古書通信に連載中の木越治氏をはじめ、倉員正江、篠原進、染谷智幸、飯倉洋一、川平敏文の各氏にお書き頂く予定です。お読み頂けると嬉しいです。研究者から見た、現在の状況がかいま見れるものになると思います。(了)


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