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2010年8月27日

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●「西行学」界時評・2009を公開(西行学会編『西行学 vol.1』より)

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最新刊・西行学会編『西行学 vol.1』より、2009年を対象に「西行学」にかんする時評を行った、「「西行学」界時評・2009」を公開いたします。
現在、西行をとりまく状況がどうなっているのかをまとめたものです。
ぜひお読み頂ければと思います。
分量が多いので、以下にテキストを掲載しておきますが、同時にPDFでもダウンロードできるようにしておきました(テキスト版は読みやすさに配慮して、編集部で適宜改行をいれてあります)。

「西行学」界時評・2009・PDFダウンロードはこちら

また、お願いです。
西行学会では、「西行」に関する情報を求めています。情報がございましたら、ぜひ学会事務局宛にご一報いただけないでしょうか。メールの場合はこちらまで( saigyodensho@nifty.com )。郵便物等の場合は以下の住所までお送り下さい。よろしくお願いいたします。

〒102-8554 東京都千代田区紀尾井町7-1 上智大学文学部国文学科 西澤美仁研究室内 西行学会事務局

最後に。
西行にご関心のお持ちの方へ。ぜひ、会員になりませんか。以下のページでご案内しております。よろしくお願いいたします。

http://kasamashoin.jp/saigyo.html

それでは時評をお楽しみ下さい!

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「西行学」界時評・二〇〇九

時評

西澤美仁(にしざわ・よしひと/上智大学)


 西行学会の設立された二〇〇九年から、「西行学」界を展望する試みを開始することとした。一方では、西澤が編集した『西行関係研究文献目録』(1990)からすでに二十年の歳月が経過し、その二十年分の文献目録を作成することが何より急務であるが、幸い宇津木言行氏によってすでに着手され、目下精力的に進められていると聞く。本誌に掲載される形で披露されることにはなろうが、二十年分を一気に編集するのも大変なら、その分量も半端ではないから、掲載し終えるのにまた何年かが経過する。その一方で、西行学にとって今何が問題なのか、を確認し続ける作業も同様に急務であろう。本誌のさまざまな部位に、そうした機能は分担されてもいるが、年度ごとの時評にもいくらかの存在価値はあろうと思われる。

 二〇〇九年は何より西行学会発足の年であった。その設立趣意書などについては、西行学会ホームページにも掲示されており、『リポート笠間』五十号にも、また本誌にも再掲するのでここには繰返さないが、ともあれ、一六〇人ほどの会員が集まり、二〇〇九年三月二十八日に國學院大学で第一回の総会を開いて、西行学会はスタートした。会則によれば、二〇〇九年四月一日発足とあるが、参加者の都合上、発足の三日ほど前に総会を開いたのである。
 会員の投票で委員が選ばれ、常任委員がさらに互選され、と最初の委員会を開いているのと同時進行で、久保田淳氏の記念講演「西行を読む」が行われた。本誌に掲載されているので参看いただきたいが、仏教・漢籍・古歌・伝承など、西行自身の好奇心の果てしなさが語られると同時に、芸能・縁起・俳諧・近代文学など、西行に対する好奇心の果てしなさも併せて語られた。「西行十首」「西行の書誌学」という提言もあった。西行和歌研究の側から、西行学の奥行と広がりを語って、まさに西行学会発足にふさわしい記念講演であった。

 八月二十九日・三十日に第一回大会が、やはり國學院大学で開催された。錦仁氏・阿部泰郎氏による講演、山本章博氏・小堀光夫氏・宇津木言行氏による研究発表、そして、花部英雄氏・山口眞琴氏・佐藤弘夫氏・山折哲雄氏によるシンポジウム(司会を小林幸夫氏と西澤が担当)が行われた。本誌にすべてその論考を掲載できたので、参看いただきたい。
 錦氏「生成・更新するテキスト--新潟県の西行伝説を検証する--」は、『浮遊する 小野小町--人はなぜモノガタリを生みだすのか--』(笠間書院、2001)などで展開された氏の小町伝承研究「文献伝承学」を西行伝承研究に適用されたもので、伝承資料を文学的文献として、作者の意図や文献相互の書誌的展開を重視する姿勢に独特の主張がある。新潟にも西行は来訪し、頼朝から下賜された黄金の地蔵仏を地蔵堂を建立して安置して行った、などという縁起が制作されては、土地の伝承エネルギーが掘り起こされたという。
 阿部氏「西行における「神」の発見--伊勢参宮というテクスト--」は、まず、西行和歌の「伊勢参宮」を『御裳濯河歌合』を中心に論ずる。超越的存在としての「神」を、思惟し行動しつつ、西行は表現の全体性で捉えたという。従って、いつしか西行の伊勢参宮歌の代名詞になった、

何事のおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる

ほど西行らしからぬ歌はない、思考停止した無条件な感動はもっとも西行から遠いという。西行享受についても『撰集抄』と『とはずがたり』とを対比的に取り上げ、西行という「テクスト」、社会学用語である「マージナルマン」(境界人)としての生き方を真に継承しえたのは、むしろ後者ではなかったかと結論づける。

 因みに、西行学会設立趣意書にもあるように、西行にとっても西行学にとっても「境界」という概念は重要なキーワードと認識されるが、人文・社会・自然科学のいずれにも「越境」する際に意識されるばかりでなく、ネット通販の図書検索で「境界」を引いてみると、アニメや雑誌が上位の多くを占めているのに気付く。後述するエコロジーがそうであるように、「境界」もまた現代思想なのである。
 山本氏「西行と海浜の人々」は、海人に説法する西行、という西行像を展開する。和歌的諧謔が殺生を犯す海人を救済する論理として成り立ちうることを、海人に向かって詠みかけているという。阿部氏が伊勢神宮に対する西行の全体性を論じたのと同様に、庶民の世界に割って入り込む西行、という和歌・説話・伝承世界に通有する西行に肉薄しようとする。なお、本誌掲載論文には、さらに白河院の殺生禁令をめぐる献上のための特権と仏教側からの反発、カシキ網漁の実態、阿弥陀魚説話などにも言及し、より多角的な考察になっている。
 小堀氏「「西行」地名考--山梨県南部町西行をめぐって--」は、後述する「山梨県南部町の西行伝承--西行旧跡系図・富士見西行・西行峠の伝承の位相--」(口承文藝研究32)と連動する。全国で唯一「西行」という地名を現在も用いている「山梨県南巨摩郡南部町大字万沢字西行」の由来を論じたもの。「西行旧跡系図」を持つ遠藤澄江さんの先祖は西行の同族佐藤氏で、西行自身も一年近く滞在したと伝承する。地名「西行」は万治二年1659の『身延道の記』に初出し、「西行坂」「西行の松」の伝承が記される。その管理をしていた遠藤氏が、新開地を切り開いて移住した際にその集落名を「西行」と名付け、やがて十八世紀半ばには「西行村」になったという。地名のもとになった西行伝承からは、西行峠が身延山の結界的な役割を担っていたことが読み取れるという。
 宇津木氏「西行のことば--民俗語・職掌語・宗教語に注目して--」は、西行和歌の非歌語に着目し、民俗語・職掌語・宗教語からそれぞれ、

いたけもるあまみが時になりにけり 蝦夷が千島を煙こめたり
杣くだす真国が奧の河上に たつき打つべしこけさ浪寄る
かつみ葺く熊野詣の泊をば こもくろめとやいふべかるらん

などの歌に使われる「いたけ」「いちこ」「あまみ」「のつこ」「あぢのむらまけ」「こけさ」「をぎとらじ」「ひをくくり」「こもくろめ」「そり」「いた」といった語彙の新しい解釈を鮮やかに展開し、民俗学・歴史学・宗教学からの西行学参画を誘った。

 シンポジウムは「西行研究の現在と課題」と題して、さまざまな方面からの西行研究の可能性を探る試みになった。花部氏「西行話と民間歌謡」は民俗学の立場から。問答に敗れて引き返す西行話の具体的な考察を行って、西行伝承が「西行核」を中核にしていながら、民俗的土壌を通過する間に、伝承の担い手達の身の丈に合わせて変質し、西行とは全く無関係な論理に変貌したという。旅先での女や子供との問答歌、

磯辺の童ど浜馴れて 沖来る波の数覚えたか
西行は宿がなければ野に寝たり 空出る星の数覚えたか

など、すでに成立している話型にはめこまれて「西行話」が形成されたという。
 山口氏「西行論における説話・物語研究の可能性をめぐって」は後述する近著『西行説話文学論』(笠間書院、2009)を背景に、和歌と説話の関係を問い直すことで、意欲的に国文学の立場を示そうとする。西行和歌は季歌にさえ官能性と釈教性とが持続する、底流化する。そのことから論を起こし、西行説話の主人公たらしめた西行和歌の作者、のイメージを再確認する。また、和歌では京極派、祖師では一遍・夢窓疎石、等々に西行和歌が受け継がれ、西行説話が今度はそれを受け継いでゆく、という、西行和歌から西行説話への生成契機を具体化する。と同時に、三昧僧のように、西行説話から惹起されるイメージにとどまらず、西行和歌・西行事実に本源を認めうるものの可能性を追う。
 佐藤氏「西行における「山」と救済」は、歴史学の立場から。家永三郎・目崎徳衛・佐藤正英各氏の西行研究を歴史学における古典的研究と位置付け、いずれも「山」は単なる自然ではなく、救済の意味を担っていたという。民俗学の所謂「山中他界観」には批判的で、「山」に対する認識が仏教の影響、末法の意識によって、古代から中世に向けて大きく転換することに注目し、西行を何より中世人として位置づけようとする。西行をその同時代に定位させ、山のみならず花や月に対する美的感動との一体化を表現するものとして、西行和歌の釈教性を再認識しようとする。その端的な表れとして、

仏には桜の花をたてまつれ 我が後の世を人とぶらはば

の解釈に踏み込んだ提言には、「分野横断」に格好の問題提起がなされたと思われる。今後もこうした切り口からの議論が、歴史学・国文学・民俗学はもとより、さまざまな角度から期待されよう。
 山折氏「西行の断食往生」は、宗教学から。西行は「断食往生死」したという。辞世に擬されることもある、

願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ

の実現を密かに心掛けた西行は、意志的・計画的に断食行を実行したというのである。西行は三つの面で、通常の歌人の枠を越えていたという。旅の人であり、非僧非俗を貫き、三昧僧でもあったという。出家をしながら和歌を手放さず、和歌を詠みながら都という拠点を持たなかった。さらには死体処理にも通暁する。従って、自分の最期を自分で見定めて、旅先の弘川寺で、誰にも気取られず、あたかも自然死のように自らの死体を処理したのだといい、それは見事な往生だったという。

 民俗学・国文学・歴史学・宗教学それぞれの立場から、西行研究の未来、西行学会の未来を展望することになったが、どのような連携・相互乗り入れが可能なのか、今回は具体的な局面にまでは踏み込めなかった。その入口くらいを見たにとどまった観がある。西行終焉の地は弘川寺か双林寺か、宗派を超越した仏教者であったのか、それとも敬虔な真言行者であったのか、という問題や、西行和歌の山や山里は和歌文学の山・山里観とどう関連するのか、その時、説話や伝承に展開される要素とどう関わるのか、という問題がこの先に見えてこようが、それは結局、なぜ西行は和歌しか詠まなかったのか、に連なってゆくであろう。西行は独自の和歌観、宗教観、人生観によって和歌を解体し、再構築したのだと思われる。その人生観等々の形成に今回話題になったすべての問題意識が関与したということで、「西行」の形成過程を追究することこそが西行学の課題であることを確認したシンポジウムであったと言えよう。

 続いて研究書を見ておく。西行学にとっては、何より前掲の山口眞琴『西行説話文学論』(笠間書院)が最大の収穫であろう。本誌に近本謙介氏による書評を掲載する予定なので、参看願いたいが、山口氏はまず、『撰集抄』を中世仏教説話集として位置付けるところから始める。平安期の「往生伝」の持つ結縁的要素、読者に向かって情報を伝達すると同時に、説話に取り上げる対象に結縁しようという宗教的行為を、説話を「書く」行為の内部に位置付ける。「書く」西行と「語る」西行とを重ね合わせて、説法者にも擬される西行みずからが往生者達と結縁してゆく物語を語る仕組みを作り上げたという。話末に長い説話評論(評語)を持ち、説話でありながら創作性・物語性を持込み、語り手を西行に仮託する、という中世仏教説話集としては異色の存在である『撰集抄』の方法がここに解き明かされたといっていい。『西行物語』も「往生伝」の枠組に西行名歌集を再構築したもの、という構造の原理を再確認した上で、そこに実伝が介入されることで本文の流動(再編)が始まるとする。西行和歌自体が和歌文学の再構築であった、という前述の私見と対応させれば、西行和歌に新しい革袋を求めようとした『西行物語』は西行和歌から生み落とされるべくして成った作品と言い得よう。また、釈迦の成道に擬した分、時衆などによって異本が派生すると、西行に「祖師」の面影が重ねられるという。さらには鳥羽院からの検非違使任命を拒んで出家し、鳥羽院の追善供養によって自らも往生を遂げるという鳥羽院との因縁の物語として構造化されたともいう。山口氏の関心は和歌そのものにも及ぶ。西行和歌に愛用される「なにとなく」という表現は、異界との接触、境界性を予兆暗示的に感覚する表現であるといい、その表現性を受けることで『撰集抄』は「結縁」の場を演出することが可能になったという。「往生伝」以来の筆法よろしく「西行説話文学」に「結縁」しようとでもいうかのように、その研究史の全体像をひとつひとつなぞり返し、語り直して取り込んでゆく手法は、周到で綿密な研究のあるべき姿をよく映し出してもいようが、反面、難解さも伴う。今後、西行研究に携わる者の必見の書となったことは紛れもないが、ここを乗り越えるハードルは随分高く感じられるに違いない。

 東洋大学主催の国際シンポジウム「日本発のエコ・フィロソフィを求めて」(東洋大学)では、ウイリアム・ラフルーア氏が「西行の草庵を訪ねて--その簡素な生活の豊饒な意味--」と題して、西行和歌への深い理解と環境哲学への期待を語った。都の文化に惹かれ、和歌に惹かれた西行は、和歌的生活の豊かさを捨てることで、和歌の豊かさを手に入れた。真の先進国のライフスタイルとは何かを問い直すときに考え合わすべきという。なお、私自身は迂闊にしてこの国際シンポジウムの存在を2010年1月10日の読売新聞によって初めて知った。主催の東洋大学「エコ・フィロソフィ」学際研究イニシアティブのご厚意により入手した当日の「発表原稿集」をもとに紹介する次第である。

 『西行の風景』(NHKブックス、1999)の著者桑子敏雄氏の近著『空間の履歴』(東信堂)にも「神路の奧」「姨捨の月」の項に西行への言及がある。ここにもエコロジーの観点がある。今この時代に流行する現代思想と言っていいが、その一環として西行が語られることには注目すべきであろう。常にそれぞれの時代の現代思想と関連付けられる普遍的な文化として西行が認識されることをここで確認しておく必要がある。
 桑子氏は、神宮参拝ならぬ神路山産廃(産業廃棄物)問題を契機に、伊勢神宮という空間に、末法の世を歎く西行和歌の履歴を読んだり、田毎の月を現地で詠んだ西行和歌に「易」の思想との共通点を見たりする。ただし、後者は伝承に基づいての着想が混入していて、西行の履歴としては確定した議論の前提ができてはいない。学際という意味では分野横断的指向と共通するが、桑子氏の哲学的発想は、分野の解体、あるいは原点回帰の指向であり、諸分野の研究蓄積や分野の個性を活用することで原典の読みを捉え返そうという試みとは、ある意味で正反対の視点とも言いうる。それでも、これを批判・拒否するのではなく、これをも一分野として取り込む視点こそが真の分野横断であると思われる。

 創作の分野では、吉川宏志『歌集 西行の肺』(角川短歌叢書)。歌集・句集に「西行」の名が用いられるのは、角川源義『句集 西行の日』(牧羊社、1975)以来か。標題は、

読みながら息はしずかに合いてゆく西行の肺大きかりけむ

に由来する。この短歌には、

あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ 来む世もかくや苦しかるべき

のような字余りの重なった西行和歌が意識されたか。初めて読むと呼吸まで苦しくなるが、次第に西行の呼吸法が伝わってくる、その「呼吸」が見事に表現されている。大会シンポジウムで山折氏が「西行の筋」を強調されたが、西行の心肺能力の高さはもっとさまざまな局面から発見されてしかるべきと思われる。

 鈴木健一「江戸時代の和歌と西行--和歌・道心・絵画--」(学習院大学文学部研究紀要56)は西行和歌からの本歌取作品や画賛を中心に近世和歌と西行との関わりを概観し、西村正身「落語「西行」源流考--含補足『宝物集』巻第五に出典未詳とされている二編の物語について--」(作新学院大学紀要19)は、『大智度論』の術婆迦説話から『源平盛衰記』を経て、室町物語『西行』・『浄瑠璃物語』等を経つつ、落語『西行』に辿り着いた西行失恋出家譚を概観して有益である。鈴木論文は、和歌から和歌への直接的影響ではなく、絵画とのコラボなどが西行への憧れを表現しやすくしたという。

 田村正彦「「剣の枝」のある風景--西行が見た地獄絵と死出の山--」(国語国文78・5)は「子を食らう餓鬼--西行の和歌と唱導--」(仏教文学32、2008、3)「続・子を食らう餓鬼--図像の流布とその背景--」(古典文藝論叢1)「「剣の枝」考--和泉式部と邪婬の刀葉林--」(国語と国文学86・3)と一連の論考。文学と絵画との双方向的影響関係を見ようとする姿勢は大いに評価すべきである。ただし、後代資料をほとんど無批判に用いれば、結論が「機運を先取りした画期の人」となるのは当然といえば当然であろう。大いに評価しつつ苦言を呈するのは、こと当該論文に限った問題点ではなく、分野横断を目指す西行学自体が抱える課題がここに浮き彫りとなったからである。異分野におけるものの見方、考え方、論証方法をどこまで取り込めるのかが学会として成り立つかどうかの境目になる。知見だけを学ぶことはありえない。

 塩谷純「橋本雅邦筆 西行法師図」(国華1370)は、井上靖『西行・山家集』(学研・現代語訳日本の古典、1981)の見返しに用いられて馴染みの深い橋本雅邦「西行法師図」(井上書には「鴫立つ沢の西行」とあった)を紹介する。現在は東京大学教養学部にある駒場博物館に所蔵されるが、そもそも第一高等中学校が企画した「歴史参考室」のために明治二十五年三月以前に描き下ろされた作品という。「あたかも異邦人であるかのよう」に「彫り深く」「あくの強」い西行の相貌が、独特の魅力を放っていると評される。

 絵はがきブックとでもいえばいいのか、冴『夜を残す--西行上人の歌に寄せて--』(文芸社)は、『願わくは--西行上人の歌に寄せて--』(新風舎文庫、2007)『儚しや--西行上人の歌に寄せて--』(文芸社、2008)に続くシリーズ3作目。また、『願わくは』が文芸社から再刊された。大好きな小説が映画化されたときなどに味わう違和感や再発見を、西行和歌とイラストのコラボレーションで楽しむ、といった趣向であるが、『夜を残す』では、私のすきな西行和歌、

ませに咲く花に睦れて飛ぶ蝶の 羨ましくもはかなかりけり

の花をアサガオとする。ここは桜でなくてはならないと思う(角川文庫『西行--魂の旅路--』2010)が、文様としては菊が目慣れてもいて、おそらくは桜と蝶では絵にならなかったのであろう。野村秋足作詞の唱歌「ちょうちょう」では「菜の葉に飽いたら、桜にとまれ」だったのだが。
 菊の文様といえば、高城功夫「仙の宮(菊)」(東洋通信46・4・5)が、鳥羽院仙洞を詠んだ

君が住む宿の壺には菊ぞ飾る 仙の宮とやいふべかるらん

を「皇室に対する畏敬の念の表れ、しかも菊花が皇室の紋章になるということを意図していて好もしい歌境を開いているといえる」と読み解く。『和歌文学大系』に私見を示したように、

桜散る宿に重なる菖蒲をば 花菖蒲とやいふべかるらん

などと同様に、「なんちゃって」形式の俳諧歌で、畏敬というより機知が先行しよう。心の奥深くから出たことばではないが、この結句は西行に四例もあり、ダジャレのように詠み散らしてその場を作った、和歌の機能に目覚める契機になったような歌ではなかったか。

 魚住和晃『マンガ「日本」書の歴史』(講談社)の第六章「仮名美の変容--時代の流れが仮名を変えた--」はその第一節を「放浪の歌人・西行」として十一ページを割いている。御子左家の私家集収集への関与にも簡略に言及するが、伝西行筆を「早く正確に淡々と書かれた」書風とし、定家筆・熊野懐紙の先蹤に位置付けるのはユニーク。

 久保田淳「荷風と西行・芭蕉」(図書722)も短いながら、西行・芭蕉・荷風三者の関連に想像力をかき立てる。芭蕉との関連では、大島富朗「「古人も多く旅に死せる」考--西行・宗祇・芭蕉--」(ソフィア58・1)が前掲「仏には」歌の辞世としての適格性を説き、

年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山

を扱った、小澤實「いのちの詩--西行から芭蕉へ--」(俳壇26・9)も含蓄のある文章。西行を長く愛読してきたことで、この歌が「体の奥に居座っ」た感覚に至ったという。「ふいに命が匂いたつ」ように「命の実感、手応え」を感じている「ぼく」とちょうど逆向きに、芭蕉はここから西行を詠み始めたという。まるで「いのち」を吹き込まれたように。

 近本謙介「シンポジウム「画期における中世文学」の記録--院政期末から鎌倉初期の画期をめぐる提言をかねて--」(中世文学54)は西行を中心的事例として、和歌と説話の領域横断の必要性を説く。高野山蓮華乗院の勧進や天王寺関連、古今著聞集の藤原家隆と関わる説話は、鳥羽院政における宗教施策の視点から捉え直すべきと示唆する。なお、同誌掲載の蔡佩青「『西行物語』の読み方--七家集本「西行山家集」--」は、七家集本「西行山家集」が『西行物語』の最終形態であることを具体的に確認したもの。同論文は名古屋大学に提出された学位論文『西行説話の研究』にも収録される。

 蓮華乗院との関係では、波多野智人「高野山蓮華乗院における金剛峯寺と大伝法院の関わり方」(密教学研究41)に言及がある。第十三代大伝法院学頭賢宗が五辻斎院の御願によって、千手院谷東別所に鳥羽院の菩提を弔う蓮華乗院を建立し、賢宗の死後は西行が壇上に移建した、とある『紀伊続風土記』の記事が正しいことを確認し、西行に奉行が委嘱された理由を、西行と大伝法院との具体的な関係に見出している。『高野山先哲灌頂記録』(西南院蔵正治元年1199奥書本)に見える「上人円意(大法房)」を、『源平盛衰記』の西行法号表記「大法房円意」と同一と認定する。とすれば西行は上法房兼海の弟子大法房円意であったことになる。兼海は大伝法院覚鑁だけでなく、醍醐寺の理性房賢覚にも師事したから、西行の同行西住と相弟子になり、兼海に帰依した美福門院との関連などさまざまな展開が想定できて興味深いが、その一方で付法弟子ではない別所聖人あるいは客僧が「灌頂記録」に名を留めうるかなど疑問なしとはしない。
 また、天王寺関係は本年の大会に山村孝一氏が研究発表予定である。

 仏教との関係では、荒木優也「花を惜しむ心--『山家心中集』二十七番歌と唯心--」(國學院大学大学院紀要・文学研究科40)、前田泰良「『山家集』「心におもひけることを」歌群の再検討--仏典から捉える二つの心--」(詞林46)が、西行和歌解釈の再検討を仏典を通して行おうとした。荒木氏は「「惜しむ心」の世俗性を「唯心」の思想によって脱却した」と説き、前田氏は「菩提心を志求する、仏典の言葉に裏打ちされた西行の姿勢」を説く。ともに、仏典を典拠として詠歌することによって「師とする」に足る心を西行は見出しえているという。戸波智子「『閑居友』考--「心澄む」ことを起点に--」(千葉大学日本文化論叢10)は、『閑居友』の美文と「心澄む」表現との関連を遡ると、『西行上人談抄』の「和歌は常に心澄む故に悪念なくて」に行き着くという。

 池田和臣・小田寛貴「古筆切の年代測定--加速器質量分析法による炭素14年代測定--」(中央大学文学部紀要・言語・文学・文化103)は炭素14の半減期を利用した自然科学的方法で紙の年代を測定し、古筆切の書写年代や伝承筆者の当否にも判断を加えようというもの。西行関係ではともに伝西行筆として知られる「小色紙」や「未詳歌集切」と筆跡が似通っているという
「伝西行筆源氏物語切」「円位署名一首懐紙」の二点が具体的な測定対象に選ばれている。測定結果はどちらも西行没後で、西行真筆の可能性はないというが、その一方で、後者は「実在した西行筆懐紙の鎌倉期の写しと考えるべき」という。なお、続稿が本年度の同誌に発表されており、本年の大会のシンポジウムでも取り上げられる予定である。

 民俗学関係には、小堀光夫「山梨県南部町の西行伝承--西行旧跡系図・富士見西行・西行峠の伝承の位相--」(口承文藝研究32)、花部英雄「西行問答歌と民間歌謡」(伝承文化研究8)があり、前者は前掲のように、本誌掲載論文「「西行」地名考--山梨県南部町西行をめぐって--」と姉妹編をなす。「西行旧跡系図」そのものを資料紹介し、西行の末裔として、「西行」(という名の土地)に生きた人々の心を知る手掛かりとしている。文献実証としては大正期以前に遡及できないものの、江戸期から代々語り継がれてきた伝承であることを、他の伝承や地誌資料との関連から読み取っている。「西行に生きた人々」の中には、「西行を生きた人々」もいたに違いない。「西行旧跡系図」を記した遠藤憲次氏もそのひとりかと思われる。後者は『西行伝承の世界』(岩田書院、1996)以下、すでに数多く積み上げられた実績を踏まえて、極めて具体的な西行伝承の実態を追求する。「男女の掛け合いの熱気」が西行話を生むエネルギーのひとつであるという。それにしても花部氏が引用する昔話は、国会図書館や県立図書館にも所蔵されない稀覯の文献が多い。そうした文献を紹介しながら、西行話を昔話の体系の中に手際よく位置付けてゆく手法は見事なもので、氏の論考自体が伝承資料といっていいほどではあるが、昔話自体が消えゆこうという危機的な状況にあって、昔話関係の文献の管理が十全でないのは将来に大きな不安を残していないだろうか。現に今なお、西行伝承研究に限らず、その利用価値は一向に減ってはいないのであるから。

 中西満義「『善光寺道名所図会』の西行伝承」(上田女子短期大学観光文化研究所・観光文化研究所所報7)も、「『科野名所集』所載西行関係記事」(同3、2005.3)「有明山の西行--西行伝承歌をめぐって--」(『西行伝説の説話・伝承学的研究(第三次)』2008.3)に連なる論考で、西行伝承王国ともいうべき信州の西行伝承を、地誌ひとつひとつから丹念に読み取ろうとする。現地を歩く西行、のイメージを活き活きと作り上げているという。

 そうした一方に、稲田利徳「「思はぬ袖」考--西行和歌の解釈とその周縁--」(『工藤進思郎先生退職記念論文・随想集』)があり、西行研究の礎石そのものを見せつけられる思いがする。山家集の、

きりぎりす鳴くなる野辺はよそなるを 思はぬ袖に露のこぼるる

の「思はぬ袖」を、「物を思はぬ袖」の圧縮表現で「物思いをしていないときの我が袖」と新解釈する。西行和歌に初出する表現ながら、新古今時代には繰り返し愛用され、定着した軌跡を丹念に跡付けている。学際・分野横断には各分野ならではの徹底した掘り下げがあってこそ、という思いが、西行和歌を精読すると見えてくるようである。なお同書に、橋本美香「西行の花の歌--「昔の人」から「後の世」へ--」も掲載される。遍昭・花山院・能因・行尊といった「昔の人」への思いを際立たせるために、西行は先人の詠んだ花そのものは意図的に詠まなかったという。

 見落としている論文も多いかと思うが、宇津木言行氏がほとんど独力で編纂した本誌掲載の文献目録の、その平成初年度と比べてみるだけでも、点数はかなり減っていることがわかる。西行八百年遠忌の行われた平成元年は、確かに西行ブームの様相を呈してはいたにしても、この二十年、西行研究は果たして活発化しているのか、疑問なしとしない。ただ、本年三月に刊行された別冊太陽の西行特集は実によく売れて、わずか一ヶ月足らずで初刷を売り切ったといい、それは業界では異例なことなのだという。

 私たちは、実はまだ、ほんとうの西行には気付いていないのかも知れない。

(にしざわ・よしひと/上智大学)


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