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2009年5月14日

 記事のカテゴリー : 新刊案内

●小峯和明『中世法会文芸論』のチラシが出来ました!

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5月下旬、刊行予定の小峯和明『中世法会文芸論』のチラシが出来ました。
表裏2面に印刷しています。以下、PDFで公開します。

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小峯和明
中世法会文芸論

ISBN978-4-305-70463-4 C0391
定価:本体9,000円(税別)
A5判・上製・カバー装・660頁(予)

〈法会文芸〉とは本書であらたに試論として提起される新概念であり、
「法会」を媒介に生み出される文芸の総体を意味する。著者が示すその「総体」は驚くほどの広範囲のおよぶ。
「法会」の場で読まれ、語られ、うたわれ、演じられるテキスト、図像イメージ、言説、所作...。
のみならず法会に参集した人々の思いや願いを綴ったもの、あるいは法会を通じて再創造されたものも含まれる。
本書は、法会の領域をダイナミックに設定し、そこに生み出される力学を丹念に読み解き、
中世の表現の時空を総体として捉えようとする試みである。

中世、多くの文芸は「法会」を媒介に、生成、享受され、再創造され、
また法会に生かされ循環する、絶えざる運動体としてあった--。

『院政期文学論』から3年。
宗教を軸に、どれだけ古代・中世の表現に迫れるのか。
小峯和明最新刊。2009年5月末刊。


【本書の構成】
序  法会の時空--方法としての〈場〉         

Ⅰ 法会文芸の世界--古代から中世へ
1 仏教の言葉
2 法会文芸の提唱-- 宗教文化と法会の〈場〉                 
3 法会文芸の流れ-- 中世前史             
4 『東大寺諷誦文稿』の言説--法会唱導の表現     
5 『東大寺諷誦文稿』の異世界
6 『日本霊異記』の語戯          
7 牛になる人--『日本霊異記』と法会唱導       

Ⅱ 安居院の法会唱導世界--澄憲と聖覚を中心に
1 澄憲をめぐる
2 澄憲断章
3 『澄印草等』について--付・翻刻         
4 聖覚の言説をめぐる  
5 『貞慶表白集』小考    
6 『鳳光抄』にみる中世の法華講会      
7 その後の安居院--『烏亡問答鈔』から      

Ⅲ 表白・願文の表現世界
1 表白の世界
2 『白氏文集』と願文・表白         
3 王の生と死の儀礼と法会文芸--堀河院の死と安徳帝の生
4 稲荷の表白二題       
5 法勝寺御八講の論義表白--十二巻本『表白集』から      
6 『敦煌願文集』と日本中世の法会唱導資料           

Ⅳ 法会文芸の表現磁場
1 和歌と法会の言説をめぐって
2 法会唱導と呪歌--和歌をよむ場           
3 仏教儀礼と和歌
4 源氏供養--表白から物語へ     
5 聖地と願文・表白--『平家物語』の厳島参詣     
6 声を聞くもの--法会唱導と大衆僉議 
7 文覚の勧進帳           
 
Ⅴ 法会文芸の資料学
1 法会唱導・注釈・聞書の資料学
2 『富楼那集』について             
3 『書集作抄』をめぐる
4 金沢文庫の唱導資料のために           

付 叡山真如文庫蔵『唱導鈔』翻刻  索引(人名/地名/書名)

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----立ち読み----

編集部註●ネットに掲載する都合上読みやすさを考え、適宜、改行をしています。

法会の時空 方法としての〈場〉

近年とみに宗教の言説や儀礼に関心が集まっており、学会や講演会でも様々な企画が試みられている。宗教というと、古代や中世など前近代が特権的な分野と思われがちだが、昨今のオカルトや新興宗教ブームをはじめ、世界中の民族紛争が一面で宗教戦争の様相を呈しているように、現代にも依然として深刻な問題であり続けている。

そうした今日の状況を相対化するためにも、逆に前近代のありようが問われるだろう。とりわけ古代末期から中世にかけて即ち十二、三世紀前後は、国家権力と宗教勢力とが王法と仏法の名のもとに相互依存を指向しつつ、同時に葛藤、相剋しあう時代として注目される。その動向をぬいて文芸はもとより文化の総体はとらえられないだろう。理念や教義だけ観念的に追い求めても宗教の実態は明らかにはならない。儀礼や言語表現の具体からいかに宗教の本質をとらえ返すか。いいかえれば、宗教を軸にどれだけ古代や中世の表現の時空に迫ることができるかが課題となる。

かような宗教を軸とする表現の時空を、具体的な〈場〉に即してみると、法会という儀礼の場が俎上にあげられる。近年、寺院社会史をはじめ様々な分野で法会研究が活発化し、〈法会学〉といってよい領域が拓かれている。ひとくちに法会といっても、御斎会や最勝会をはじめ国家的な年中行事の講会から肉親の追善供養や自らの救済を祈願する逆修供養にいたるまで実に多彩であるが、その本質は今日でも基本的には変わっていないだろう。言語によって文字通り法会が荘厳される。ことばそのものが供儀化する、といってもよい。これにみぶりやしぐさ、所作による儀礼がかかわり、舞楽や猿楽などの芸能が加わる。芸能も含めた文芸としての唱導がそこに現前する。法会における唱導とはすでに言い古されたテーマではあるが、意外に実態は明らかではなく、その全容の解明にはほど遠いといわざるをえない。唱導という術語は多義的で、たとえば折口信夫は戦略的に拡張して使ったが、ここではあくまで仏事の場で限定して用いたい。その意味で筑土鈴寛の先駆的な仕事をより前進させたいと思う。法会の唱導のみに収束しない、より開かれた〈場〉を究明することから、全方位的に中世の総体をつかむ手だてとして上位概念の「法会文芸」を提起しようとする。

鎌倉末期の『元亨釈書』二九「音芸志」には、天竺、中国をふまえ、日本の音韻を以て仏道を鼓吹するに四家あり、経師〈持踊)、声明〈梵唄)、唱導、念仏の四種をあげ、唱導は演説だとする。法会唱導といえば、すぐに説教〈説経、説法)がイメージされる。たしかに説教は法会の眼目には違いないが、法会で展開される言説はそれにとどまらない。導師が高座に上がってから、神分−表白−願文−四弘誓願−経典読誦−諷誦文−呪願文−仏名−教化といった、一連の言説の流れをうけてはじめて説教にいたるのであり、たとえば説教の直前に唱えられる「教化」は、他の四弘や呪願文がほとんど漢詩文であるのに対して、和語を主とするうたである。また最近注目されている願文や表白は、漢文の対句の修辞を凝らした第一級のハレの漢文学であった。川田順造のいう「行為遂行性」の言説であり、一方の説教は「演技性」に特色がある。法会で遂行される表現行為は想像以上に多彩かつ濃密であり、多言語の交響による〈声〉の饗宴性をかもし出している。

説教は台本的な「説草」を用いて行なわれるが、漢文テキストの願文や表白は実際に朗唱されてはじめて意義をもちうる。誦む行為の呪的な性格が息づいている。経典の読誦も同様だろう。文飾の枠を凝らした表現は人々の悲嘆や感嘆の涙をさそわずにはおかない。そういう表現が立ち上がる現場として法会はあった。一度限りの擬制的な行事共同体による、慰謝を共有しあう場が演出される。そこから発せられる表現の閃光をどのようにとらえうるのか。また、朗唱される〈声〉をどうすれば回復し、再現できるのか。残されたおびただしい願文集や表白集のテキストを前に、失われた幻の声を想像するにとどめざるをえないのだろうか。『梁塵秘抄』にいう「こゑわざの悲しきこと」を改めて思う。

また願文の作り手は施主から依頼され、法会の場とは無縁である場合も少なくない。彼らにとって法会はすでに先取りされた仮構の場としてある。しかも法会の施主になりかわり、乗り移って表現がつむぎ出されるわけで、表現の虚構が必然的にはらまれている。あるいは自ら没後四十九日の供養願文を生前に書いてみたり、委嘱されないのに勝手に願文を書いて法会とは別に披露してしまったり、といった「擬作」(「偽作」〈の問題もある。それらは実際の法会とは無縁に、あるべき法会を仮構した内なる幻想の〈場〉に供される述作であった。

さらに説教とも対応しつつ位相を異にする言説として注目されるのが法華八講などの講会における論義である。問答の形で教義について論難し、学識を競いあう、問いかけ呼びかけあう話法〈弁証法)である。説教が聴衆に語りかけるマスローグであるとすれば、論義は力感あふれるダイアローグの言説として講会のなかでも独自の位置を占めている。法会唱導即説教という図式を相対化しなくてはならない。

法会の言説は右の論義も含め多くは類型的である。とくに願文・表白などすでに固定的な表現様式が確立し、その鋳型をふまえてはじめて述作者の創意が凝らされるしくみになっている。類型の反復が疑似的な共同体〈行事共同体〈の存続を保証する。たとえば追善供養では死者を悼むとともに、その場に参集する残された者同士の悲嘆を確認しあい、わかちあう儀礼の言語が必須とされる。死者の救済の祈願を生者たちの救済にも結びつけ転化しようとする。導師が読みあげる願文類のテキストは、一回限りの法会に収斂するとともに、またその場から離脱し逸脱する方位を必然的にはらみ、同時にどの場でも通用する普遍性や一般性をもそなえている。「反復と偏差」の相をどう把捉するかが問題になるだろう。

法会の儀礼は場の聖化をめざす。導師による最初の「神分」は一種の神降ろしであり、『般若心経』の読誦であらゆる神仏をその場に招請し、魔を退散させ会衆を守護させるのである。したがって導師が繰り出す言説は聴衆に向けられると同時に、中心の本尊にとどまらず、常に見えない〈冥〉の世界にも発せられている。導師は言語や作法によって、非日常の世界を呼び込み、聴衆にあらたな命と力を付与しようとするのだ。

個々の法会の場で鍛えられた願文や表白の表現は十二世紀の院政期頃から陸続と集成され、あらゆる法会に供される規範となり、権威化していく。それが軍記や説話や謡曲をはじめ、中世の様々な文芸や言語表現の基底をなしていくことはすでに自明となっているかのようだ。しかしその具体的な筋道の解明はむしろこれからの課題である。法会を方法としての〈場〉に読みかえうるか、深められるべき問題が山積している。

以上のような問題意識で法会文芸論を展開することになるが、あらためてその趣旨や目的についてまとめておこう。

まず本書の目的は、中世の文芸世界の全体像をとらえるための一方策として法会という場に着目し、そこから何がどう生み出されたのか、また既知の文芸が法会の場にどう生かされ、再び法会を媒介することでいかなる再創造と享受がなされたのかを解明するところにある。法会を媒体とする文芸の総体を「法会文芸」と名付ける。その全容解明にいたるための糸口や端緒としての瀬踏みを試みたものである。本書では本格的に論ずることはないが、「文芸」の「芸」には芸能が意識される。多くの文芸が法会を媒介に生成、享受され、再創造され、それがまた法会に生かされ、循環する、絶えざる運動体としてあることを、一次資料に即してとらえようとした。基礎的な資料学をも指向している。

ここでいう中世とは、平安期の摂関体制末期から院政期、鎌倉期、南北朝期、室町期を主体に近世の江戸初期あたりまでを包括する。およそ十一世紀後半から十七世紀初期に相当する時代で、広くゆるやかに設定する。寺社勢力の伸張に応じて仏法・王法相依論が提唱される十一世紀から、寺社が幕府の寺社奉行の管轄下におかれ、天草・島原の一揆に象徴される、宗教と結びついた一揆が終息する十七世紀頃までを想定しておく。いわゆる権門体制に相当する時代、宗教と俗権力が相互に拮抗し、きしみあい、また一方で融和し、関係しあい、宗教が真摯にもとめられ、宗教勢力が最も力を持ち得た時代である。宗教を具現する具体的な場が法会であり、まさしく法会と文芸が最も沸騰的に連関しあう時代である。学侶たちが教学の研鑽を披露しあう場でもあり、聴聞の俗人がひそやかな悟りや日常性を見つめ直す恰好の機会でもあり、そこからあらたな文芸がはぐくまれ、享受されていった。法会を軸とする文芸史もまた今後記述されるべき重要な領域となるであろう。

「法会文芸」とは本書であらたに試論として提起される新概念であり、いまだ必ずしも十全なる定見を得ているわけではなく流動的たるを免れないが、法会を媒介に生み出される文芸の総体を意味する。寺院社会史に代表される、〈法会学>と称すべき研究の進展に応じて、これも近年研究が活発な唱導研究を当初はめざしていたが、ともすれば発信する担い手側の面にばかり収束しがちであり、これをより開かれた世界におしひろげるために、法会における受け手、聴聞側の対応、反応、影響、反発などをもあわせて含みこんだ広義の概念の必要性を痛感するに及び、あらたに提起するものである。唱導という用語が無定見のまま拡大解釈され、実体が曖昧なまま何でも唱導の一言で安易に処理され、ために用語が一人歩きしていることはいなめず、本来の法会に即した言説行為から問題を立て直す必要があり、そのため本書ではあえて煩を厭わず「法会唱導」の語彙についた。法会で読まれ、語られ、うたわれ、演じられ、同時にそれを聞き、感じ、心を動かす、受けとめる側のありようもあわせ含む、唱導より上位概念としての「法会文芸」をあえて提起するゆえんもそこにある。

「法会文芸」の具体的な全体像に関しては、後続の論で展開することになるが、法会の場で読まれ、語られ、うたわれ、演じられるテキスト、図像イメージ、言説、所作等々が直接の対象となるばかりでなく、法会に参集した人々の思いや願いをこめて綴られたもの、法会を媒介してはぐくまれ、享受、再創造されたものも重要な対象となる。そうなると、前近代ことに中世においては、法会と無縁の文芸、テキストをさがす方が難しいほど全体を覆うものであることが想定され、際限がなくなる可能性が高いが、それ故、通時代の法会文芸史が記述されるべきおおきな課題であることが再認識されるであろう。つまりは、法会の遂行に直接かかわる言説、テキスト、資料類と法会を媒介、契機として生み出され、あるいは法会について言及したり、法会に触発されて表出される言説、テキスト、資料類との双方をあわせた総体が「法会文芸」である。

したがって、法会という場は仏事儀礼を実際に主催し、遂行する現場であるとともに、法会の前や後に想起されたり、イメージ化されたり、幻想化されたりする領域としてもある。実体の現場に限らないことにも着目しなくてはならない。法会の内側から法会を遂行し実現させるものにとどまらず、法会を外部に対象化してとらえかえすものとをあわせて検証されるべきであり、いわば法会の内と外の双方にまつわる領域化がもとめられるのである。受け手と伝え手とからなる相互作用、関係性のありように〈場〉の本性がきわまるが、法会の現場には眼に見えない存在、神仏や霊、冥界の存在などあらゆるモノも参集することも見のがせない。見えないモノに囲まれる場としてもあり、非日常性や異世界への回路でもあった。まさしく中世の基調である〈顕〉と〈冥〉が交差し、出会う〈場〉が法会であった。そうした見えないモノもあわせた力学を持ち得た時代が中世なのであった。〈顕〉と〈冥〉の緊張、融和、相互作用が薄れ、〈冥〉の世界が喪失ないし変質した時、あらたな時代〈近代〈がはじまるといってよいだろう。

以上の問題意識がすべて本書で具現されているとはいえないが、少なくともそうした指向性をもつものとして編まれた。以下にその概要を略述しておこう。

Iは序論で、仏教と文芸のかかわりをはじめ、法会文芸の概要や意義について提言を試み、古代、平安期の法会文芸の始発期を『日本霊異記』と『東大寺諷誦文稿』に見定め、その表現の特性を追究した。

IIは法会文芸の中核ともいうべき院政・鎌倉期に活躍した安居院の澄憲・聖覚親子の言説を中心に、『転法輪抄』『言泉集』をはじめ『釈門秘』『澄印草等』等々、具体的な資料の解析や表現分析をふまえ、実体の究明に挑戦した。特に『貞慶表白集』など安居院周辺の作例をもあわせて取り上げ、『烏亡問答鈔』を手がかりに、室町期以降の安居院のゆくえについても言及する。

IIIは法会文芸の代表ともいうべき表白・願文を中心に、忘れられた漢文学の意義と役割の復権を試み、『白氏文集』とのかかわりをはじめその生きた諸相をとらえ、従来、充分研究対象になっていない論義表白などにもふれた。さらには『敦煌願文集』などから東アジアへの視界もあわせて提起した。

IVは法会文芸の表現の諸相を、既知の文芸側から追究した。法会における和歌のはたらき、源氏供養の表白から物語への展開、『平家物語』にみる聖地の表現や法会と大衆議の声等々を例に検証し、勧進帳などにも及んだ。法会がさまざまな表現、言説を媒介する動態を表現の磁場としてとらえ、その一端の解明に取り組んだもので、法会文芸史の一端を集約したもの。

Vは法会文芸の資料学として、研究史的展望をふまえ、古典注釈や聞書と法会唱導の諸資料が相互に連関しあう具体相を検証し、真福寺や金沢文庫の調査の成果にもとづく資料紹介や今後の展望などにふれた。

以上まだ未開拓の領域があまりに多く、今後の進展を期すほかないが、ひとまず研究の向かうべき方位を提起したものである。


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