●石川和広書評●倉田良成芸術論集を読みながらー「世界の内と外 ウィトゲンシュタイン・ノート」覚書
石川和広氏に、小社刊、
倉田良成著『ささくれた心の滋養に、絵・音・言葉をほんの一滴』書評の再掲載をお願いしたところ、許諾いただきました。
ここに全文掲載いたします。
[プロフィール]
石川和広氏:1974年生まれ。大阪市在住。詩集『野原のデッサン』(草原詩社発行、星雲社発売)がある。
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倉田良成芸術論集を読みながらー「世界の内と外 ウィトゲンシュタイン・ノート」覚書
Sep 21, 2006
●石川和広
不意にいつか読んだ本の内容が自分にシンクロしてくる事があります。それが大事なときだと思います。ウィトゲンシュタインについては詳しくない僕ですが、純粋に覚書として書きます。
倉田良成さんが「倉田良成芸術論集」所収の「ウィトゲンシュタイン・ノート」で書いておられたのですが人には心というものがありますね。
心があるというのは神秘なんですね。
ウィトゲンシュタインは「人は死を経験しない」と書いています。それなのに死を悲しみ、死者を大切に思っている心は確かにあります。なぜでしょう。それだけではなく、まだまだ私もわかっていないことも多いと思うのですが死は色んなものを私たちに教えてくれるような気がしきりにしています。私たちは経験していませんが、語りえないところで死者は私たちに光を与えてくれるのではないでしょうか。それは、ウィトゲンシュタインのいうように「現在を生きる」ということではないでしょうか。逆に言えば、死について、思いをいたさないということは生をなおざりにすることに等しいのではないか。彼が第一次大戦の中従軍している間に『論考』が準備されたというのは、戦争の死者に向けてということもあったかもしれません。私たちは、どこでも、どんな形でも祈ることができると思います。記憶が遠くなれば思っているということは 少しずつ減っていくかもしれません。それでも、どこかで祈っているのだと思います。「方便の構造」かもしれませんが何かの「お陰」で生は輝いているのだと思います。祈るということ。親鸞においては 「南無阿弥陀仏」でしたが、そうでなくても、そうであっても。それが宗教という名で呼ばれなくても。
倉田さんの芸術論集をどう読んだらいいか 色々考えたりしていたんですが、単なる芸術についての鑑賞よりも積極的なものを感じました。「ウィトゲンシュタイン・ノート」を読んでこれは自分にとって大事なことが書かれているな、自分に不意に浮かび上がってきたのでした。
それで、心があるというのは神秘なのですが、そして言葉がありますね。ウィトゲンシュタインは、彼の心というものから自分が言葉にできること、できないことについて丁寧に考えていたんですね。彼がこれは「梯子」だといっているように、在ることから無いことへのプロセスでもあり、そこで私たちは言葉を吟味しなければならないといっているようなのです。倉田さんの読みからは「論考」が重要な表現論だし、祈りの書だとわかりました。
「人は死を経験しない」と。「現在を生きる」のだと。 ウィトゲンシュタインは倫理的な人だったと、マルコムや色んな解説書程度の知識しかない僕ですが そう思うので、死について厳粛な、それでいてそれが外部から 生を裏づけていると感じていたかなと思うわけです。
永井均さんが書いていましたが「『論考』の世界は、この私の存在という(世界内の偶然とは次元のちがう) もう一つの偶然によって支えられているのだ」(ウィトゲンシュタイン入門)ということ。ここから、何か「生まれる」ということを想起します。そして『論考』は彼の全身で書かれた芸術ではないか。きちんと『論考』を読んでいないのでなんともいえませんが過去に「ウィトゲンシュタインセレクション」などを読んだ限りではそう思うわけです。世界には彼の言うようにたくさんの事実があって、そこから、世界とは独立した私というものが表現というのを欲するのではないか、そう思ったりするわけです。僕は論理学は苦手なのですが、彼なりの世界の描写で、それは彼のみならずいろんな人の 現実の「逃れがたさ」とその表現なのだ、そして、そこから離陸していく言語世界があるのだと思います。「この私」という奇跡的な存在があって、それは世界と言葉の潜り抜けられるふたつの間の通路であるということが示されています。倉田さんが「身体が裏返らされる」というのはその不思議さに驚かされる感覚ではないでしょうか?在ることから無いことへ、無いことから在ることへ、メビウスのように繰り返される通行というものではないでしょうか?それは生きている中で僕も直に感じたことがあるような感もあるのです。
覚書として書いておきます。
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倉田良成著『ささくれた心の滋養に、絵・音・言葉をほんの一滴』
藤井貞和氏推薦文
倉田良成の一端に
現前ということ。 荘厳ということ。 神の名、これは『千と千尋の神隠し』について。 「寂寞のなかでめしを食ふ」。 それから「方便の構造」と、世界の内と外。 この「世界の内と外」にはウィトゲンシュタイン・ノートと副題がある。 ああ若い読者の魂にこれを読ませたいな。美術も、詩集も、音楽も、能舞台も、そして声明の公演も、心を尽くす田遊びの復活も、ここにはある。 うら若い土足の、読むひとたちの思念に参加させて、本書は語り得ぬ、ありのままにおいて、きみの魂にならとどく、と確信した。 あの説経者、自然居士なら観阿弥にとどいた。 浄瑠璃姫なら二百年ののちに、近松をうごかした。 深い自己犠牲の底に、ある倍音をかなでる、そういう一つ一つを伝えて今日という日があると、すみずみで響かせた。
【もくじ】
はじめに
1
美人論 面構小考
鉄斎の時間 最後の文人
夏の花 南宋絵画について
装飾について 中国国宝展を見る
狩野松栄の水
せめて塵無く 写真表現について
2
花々の過失 和田彰の最近の仕事Ⅰ
希望の雛形 和田彰の最近の仕事Ⅱ
3
ミシャ・メンゲルベルクの音 横濱ジャズプロムナードに行く
寂寞のなかでめしを食ふ 鎌倉薪能リポート
現前ということ
劇的なるものをめぐって 妹背山婦女庭訓妹山背山の段
鶴見の田祭り
荘厳ということ 声明を見に行く
神秘主義的音楽会 カッワーリを見に行く
昭和歌謡 通俗ということ
神の名 『千と千尋の神隠し』について
随筆岸谷散歩
岐れ道の先 鎌倉散歩
4
キョウコとは誰か 関富士子詩集『女-友-達』書評
池山吉彬詩集『精霊たちの夜』断想
福間明子詩集『東京の気分』断想
水島英己詩集『今帰仁で泣く』の気づき
歩くように生きる 高堂敏治『シンプルライフ』書評
表現について
方便の構造
世界の内と外 ウィトゲンシュタイン・ノート
日月陽秋きららかにして ひさご序文註釈
おわりに
付
俳諧昭和の巻























































































































