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英国図書館、古浄瑠璃の孤本「越後國柏崎弘知法印御博記」をデジタル化して公開:同館での上演にあわせ(カレントアウェアネス・ポータル)
古代文学研究会 2017年6月例会(2017年6月11日(日)13:00~17:30、同志社大学今出川キャンパス、至誠館3F会議室)
小谷喜久江『女性漢詩人 原采蘋(はらさいひん) 詩と生涯――孝と自我の狭間で』(笠間書院)
裵 寛紋『宣長はどのような日本を想像したか 『古事記伝』の「皇国」』(笠間書院)
渡辺麻里子「日本古典文学のファンを増やすために―文化コードの断絶のなかで」【特集1・いま全力で取り組むべきことは何か】●リポート笠間62号より公開
寺島恒世「提案三つ―文学の研究・教育の活性化に向けて」【特集1・いま全力で取り組むべきことは何か】●リポート笠間62号より公開
山中剛史[コラム]「文豪ゲームと作家のキャラ化―極私的文アル体験記」【特集1・いま全力で取り組むべきことは何か】●リポート笠間62号より公開
日比嘉高「〈文スト〉は敵じゃない」【特集1・いま全力で取り組むべきことは何か】●リポート笠間62号より公開
松尾葦江「いま欲しい平家物語論とは―自身への問いを携帯すること」【特集1・いま全力で取り組むべきことは何か】●リポート笠間62号より公開
日本図書館文化史研究会 2017年度第1回研究例会(2017年6月24日(土)、東京ウィメンズプラザ(渋谷区))
公開シンポジウム「音声言語・手話言語のアーカイブ化の未来」(2017年6月10日(土)、日本女子大学 目白キャンパス)
2017年度 東アジア比較文化国際会議 日本支部20周年記念大会【特別講演会】「東アジアの時間と空間」中西進氏(2017年6月24日(土)、奈良県立万葉文化館)
仏教文学会 6月例会(平成29年6月17日(土)、慶應義塾大学 三田キャンパス南校舎)
早稲田大学 文化構想学部 多元文化論系 共催講演会「日本の漢文訓読からベトナムの漢文訓読研究へ」NGUYEN THI OANH(グエン・ティ・オアイン)准教授(2017年6月28日(水))
早稲田大学 文化構想学部 多元文化論系 大会・総会・春期学生研究発表会(2017年7月1日(土)、戸山キャンパス)
東京大学・准教授または講師の公募(東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻/教養学部国文・漢文学部会)(2017年06月12日 必着)
東洋大学・文学部教育学科専任教員(専任講師または准教授または教授)の公募(専攻分野:国語科教育)(2017年05月25日 ~ 2017年06月30日 必着)
国際子ども図書館・キャサリン・バトラー氏講演会「日本のアニメに描かれたイギリス:真実、虚構、ファンタジー」(2017年7月8日(土)14時~16時30分、国際子ども図書館 アーチ棟1階 研修室1、要申し込み)
雑誌約8,300点を「国立国会図書館デジタルコレクション」に追加しました(国立国会図書館)【ほとんどが館内/図書館送信限定】
小川剛生『中世和歌史の研究 撰歌と歌人社会』(塙書房)
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最新の記事

2017年5月29日

 この記事のカテゴリーは : ホームページ紹介です。

●英国図書館、古浄瑠璃の孤本「越後國柏崎弘知法印御博記」をデジタル化して公開:同館での上演にあわせ(カレントアウェアネス・ポータル)

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【英国図書館(BL)が、2017年5月29日付のアジア・アフリカ研究部のブログ"Asian and African studies blog"で、浄瑠璃本「越後國柏崎弘知法印御博記」をデジタル化して公開したと発表しています。】
つづきはこちらから。カレントアウェアネス・ポータル。
http://current.ndl.go.jp/node/34052

 この記事のカテゴリーは : 学会・講演会・展覧会情報です。

●古代文学研究会 2017年6月例会(2017年6月11日(日)13:00~17:30、同志社大学今出川キャンパス、至誠館3F会議室)

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研究会情報です。

●公式サイトはこちら
http://kodaibungaku.seesaa.net/article/450323316.html

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[日時]6月11日(日)13:00~17:30
[会場]同志社大学今出川キャンパス、至誠館3F会議室
 京都駅より地下鉄烏丸線・国際会館方面乗車、「今出川」駅(3番出口)下車、徒歩1分。
※交通アクセス
http://www.doshisha.ac.jp/information/campus/access/imadegawa.html
※キャンパスマップ
http://www.doshisha.ac.jp/information/campus/imadegawa/imadegawa.html?shiseikan_building#campusmap

[発表者および発表題目]
廣田收 『源氏物語』「物の怪」考 
辻和良 『栄花物語』の語りの方法―固有の〈歴史〉語り― 

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●小谷喜久江『女性漢詩人 原采蘋(はらさいひん) 詩と生涯――孝と自我の狭間で』(笠間書院)

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6月下旬刊行予定です。

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小谷喜久江『女性漢詩人 原采蘋(はらさいひん) 詩と生涯――孝と自我の狭間で』(笠間書院)
ISBN978-4-305-70845-8 C0095
定価:本体13,000円(税別)
A5判・上製・函入・672頁


果たして彼女の内面では何を望み、何を後悔していたのだろうか。
時代の過渡期を生きた遊歴の女性漢詩人の、生涯と詩を再評価する。

寛政10年(1798)に九州秋月藩の儒者の娘として生まれ、生涯独身で日本各地を遊歴の漢詩人として旅を続けた原采蘋。儒教倫理の規制の中で、「漢詩人として成功せよ」との父の遺命を背負い、62年間その遺命に背くことなく漢詩人としての業績を上げることに精進した。
遊歴の日記を漢詩で綴ったが、残された詩には、自らの運命に対する恨み、悲しみが正直に書かれており、江戸時代後期に漢詩人として生きた女性の複雑な感情がにじみ出る。またそれは儒者の娘として一人の女性が学んだ知識の深さを改めて知ることが出来るものである。
「男子は徳有れば便(すなわ)ちこれ才、女子才なければ、便ちこれ徳」と一般的に考えられた時代に、采蘋のような女性が生きることは決して楽ではなかったはずである。時代の過渡期を彼女はどう生きたのか。その生涯と詩に再び光を当て、これまで定着していた「男装の女性漢詩人」という勇ましい采蘋像を更新した労作。

【サブタイトルを「孝と自我の狭間で」とした理由は、采蘋の生涯の中で「孝」と「自我」の問題は極めて重要な位置を占めると考えるからである。自立した漢詩人としての人生の選択は、采蘋の場合「孝」によるものであり、「自我」による選択ではなかったと私は考える。自立した女性漢詩人として時代を先駆けたとの評価を受けてはいるが、果たして彼女の内面では何を望み、何を後悔していたのだろうか。江戸時代の女性は表面的には自我を表に出さなかったが、内面での葛藤があったはずである。采蘋も詩や文章の中では本音を語っている。采蘋の「孝」と「自我」の問題はこれまであまり問題とされてこなかった。孝のために抑圧された采蘋の自我を詩集や日記の中から読み取り、これまで定着してきた「男装の女性漢詩人」という勇ましい采蘋像の後ろに見え隠れする女性らしい一面や、政治や経済に対する采蘋の経世家としての思想にも光を当てて考察して行きたい。】

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■著者紹介

小谷喜久江(こたに・きくえ)

1947年、千葉県南房総市生まれ。1970年、法政大学文学部英文学科卒業。2003年、豪州 Macquarie University MASTER OF ARTS WITH HONOURS 修士号取得。2013年、日本大学大学院総合社会情報研究科博士課程修了、博士号取得(総合社会情報)。
著書に『江戸期おんな表現者事典』(現代書館、2015年2月、共著)。主要論文に「江戸後期における武家女性の生き方―女子教育の面からの一考察―」(修士論文)、「袁枚の隨園女弟子の実態と江戸漢詩壇に及ぼした影響」(『国際文化表現研究』第9号、2013年3月)、「原采蘋の政治的関心―采蘋遺文を題材にして―」(『国際文化表現研究』第11号、2015年3月)。「遊歴の漢詩人原采蘋の生涯と詩―孝と自我の狭間で―」(博士論文)。

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【目次】

まえがき
凡例

序章 原采蘋研究の意図と視点
一 本書のねらい
二 先行研究について
三 研究の視点
四 各章の説明

第Ⅰ章 江戸詩風の変遷と地方詩壇の状況

第一節 江戸詩壇の変遷
一 古文辞派の終焉
二 江湖詩社の清新性霊説の受容
三 江湖詩社の活躍
四 菊池五山の『五山堂詩話』出版
第二節 長崎来航清国人との交流
一 草場珮川と長崎
二 市河寛斎と長崎
三 頼杏坪と長崎
四 頼山陽と長崎
五 梁川星巌・紅蘭と長崎
六 広瀬淡窓と長崎
七 田上菊舎と長崎
第三節 女性漢詩人の輩出
一 袁枚の影響
二 袁枚の女弟子と江戸の女弟子の違い
第四節 九州詩壇の動向―福岡藩と秋月藩を中心に―
一 福岡藩の藩学
二 秋月藩の藩学
三 寛政異学の禁の余波
四 九州詩壇の動向
五 亀井学と江戸詩壇

第Ⅱ章 原采蘋の少女時代

第一節 亀井少琴との交流
一 原家と亀井家
二 儒者の娘―采蘋の場合
三 儒者の娘―少琴の場合
四 采蘋と少琴―異なる人生の選択
第二節 父古処の願望
一 古処の手紙
第三節 秋月藩の政変
第四節 古処の国学傾倒

一 国学者による『源氏物語』の受容
二 中国白話小説の流行
三 国学者萩原広道の『源氏物語評釈』と白話小説の受容
四 原古処「讀源語五十四首」について
五 「讀源語五十四首」制作の時期と動機について
六 「讀源語雑詠十首」と「讀源語五十四首」について
七 江馬細香の「讀源語」詩について
八 「讀源語五十四首」
第五節 婚約の破談

第Ⅲ章 漢詩人としての修業時代

第一節 父母との遊歴
一 遊歴
二 父母との遊歴と采蘋の評判
第二節 漢詩人としての決意
第三節 佐賀・長崎における評判
第四節 初期の作品―自筆詩稿を巡って―
第五節 『有煒楼詩稿』について
第六節 采蘋の詩風

一 父の影響
二 李白の影響

第Ⅳ章 遊歴詩人としての出発

第一節 京都への旅
一 出郷の動機
二 別れの挨拶
三 諸葛亮孔明との比較
四 菅茶山との出会い
五 一年半の京都滞在と父の死
第二節 江戸への旅立ち
一 『東遊日記』について
二 『東遊日記』に見る中国地方の文人たちとの交流
三 『東遊日記』の旅程図
第三節 京都の再遊

第Ⅴ章 江戸での二十年間

第一節 江戸における交友関係
一 「原采蘋女子秘柬」にみる江戸到着時の状況
二 『金蘭簿』にみる交友関係
三 『有煒楼日記』にみる交友関係
四 『日間瑣事備忘』にみる広瀬旭荘との交流
第二節 羽倉簡堂との交流
一 『南汎録』を読む
二 羽倉簡堂の側室佐野氏の碑文を読む
第三節 江戸における采蘋の名声
一 天保期の『人名録』に見る采蘋の名声
二 文人間における采蘋の名声
三 江戸在住の本当の目的
第四節 江戸客中の詩と秋月藩への上書
一 江戸客中の詩
二 秋月藩への上書

第Ⅵ章 房総遊歴

第一節 幕末房総地方の文化的状況
一 采蘋の人脈
第二節 『東遊漫草』に見る房総文人との交流
一 江戸文人と房総文人との交流
二 『東遊漫草』について
三 『東遊漫草』の詩と訪問先
四 人名録について
五 旅程図
第三節 房総における采蘋の足跡

第Ⅶ章 帰郷

第一節 帰郷後の采蘋
一 幕末の山家の状況
二 「宜宜堂」の開塾
三 『戸原卯橘日記』に見る山家時代の采蘋
四 「宜宜堂」の門弟
第二節 肥薩遊歴
一 『西遊日歴』について
二 日記にみる肥薩遊歴出発の状況
三 『西遊日歴』の詩の内訳
四 『西遊日歴』の詩
五 島原滞在の詩
六 長崎に赴く
七 島原に戻る
八 天草島滞在中の詩
九 『漫遊日歴』について
十 肥薩遊歴の旅程図
第三節 最後の出郷
一 萩での二カ月
二 萩における終焉

終章

第一節 采蘋にとっての「孝」
一 父に対する孝心
二 母への孝養
三 父母兄弟の墓の整備
四 父の遺稿の上木
第二節 采蘋のジェンダー意識―采蘋遺文からの考察―
一 「爲阿源」にみるジェンダー意識
二 「讀南汎録」にみるジェンダー意識
三 貝原東軒への眼差し
四 『漫録』にみる政治への関心
五 上書にみる経済への関心
第三節 采蘋の自我意識
一 采蘋の恋愛にみる自我意識
二 馬関・広島での恋愛
三 駿府の石上氏との恋愛
第四節 漢詩人としての原采蘋
一 男性文人の評価
二 他の女性漢詩人との比較
三 近代への架け橋

原采蘋年譜
原家系図
初出一覧
あとがき

人名索引
書名索引

 この記事のカテゴリーは : 新刊案内です。

●裵 寛紋『宣長はどのような日本を想像したか 『古事記伝』の「皇国」』(笠間書院)

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6月下旬刊行予定です。

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裵 寛紋『宣長はどのような日本を想像したか 『古事記伝』の「皇国」』(笠間書院)
ISBN978-4-305-70834-2 C0095
定価:本体5,500円(税別)
A5判・上製・カバー装・268頁

日本思想史上での宣長再評価に向けて。
『古事記伝』は『古事記』の解釈を通して、宣長による新たな神話を成立させたテキストであった。つくり出された〈古事記〉はいかなる物語となったのか。『古事記伝』の読みが『古事記』と最も乖離している箇所「外国(とつくに)」に着目し、ひるがえって、自国日本に対して用いた語「皇国(みくに)」の意味を追究する。神について語る『古事記』を、人に適用して読もうとした『古事記伝』の本質が明らかに。

【日本最古の書物や国民の古典として知られる『古事記』も、本居宣長の『古事記伝』も、昭和の戦争期を経由するまでは一般の人々に重んじられる書物ではなかった。それはちょうど、近代的学問の一つとして国文学が形成され、国文学科のなかで『古事記』が本格的に研究されることとも深く連動している。国文学が「国民の学」を担う際に、国文学者は国学との連続性をことさら強調した。......近代日本において国文学が国学という伝統を背負って誕生するところに、近代的学問としての宣長「学」の発見もある。......しかしながら、宣長の学問と思想とを峻別する「宣長問題」といったような問題設定はあまり有効ではない。......再考すべきは、宣長の「皇国」を国学的な思考の典型として批判しながらも、宣長「学」の方法を様々な近代学問の伝統として受け入れようとした国文学の方かも知れない。......国学から国文学へと単純な延長線の上に宣長を置くことから一旦離れてみる。それは近代学問の在り方そのものに対する批判的な省察の契機にもなるはずであろう。】......「はじめに」より

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■著者紹介

裵 寛紋(ベ・カンムン)BAE Kwan-Mun

1978年、韓国忠清南道生まれ。2001年、韓国外国語大学日本語科卒業。2011年、東京大学大学院総合文化研究科博士取得。翰林大学生死学研究所研究教授を経て、現在、高麗大学民族文化研究院研究教授。専門は近世国学思想。

論文:「近世国学における死後世界論の始まり――本居宣長の遺言書(근세일본 국학에서의 사후세계 담론의 시작)」(『日本思想』25号、韓国日本思想史学会、2013年12月)、「日本的霊性論と国学の生命観(일본적 영성론과 국학의 생명관)」(『東アジア古代学』33号、東アジア古代学会、2014年3月)。
著書(共著):『キーワードで読む源氏物語(키워드로 읽는 겐지 이야기)』(2013年)、『東アジアの文化表象Ⅰ:国家・民族・国土(동아시아의 문화표상 Ⅰ)』(2015年)、『東アジア古典学と漢字世界(동아시아 고전학과 한자세계)』(2016年)
訳書:『日本人の死生観を読む:明治武士道から「おくりびと」へ(일본인의 사생관을 읽다)』(島薗進著、2015年)、『良い死(좋은 죽음)』(共訳、立岩真也著、2015年)、『もののあはれ:日本的な美学理論の誕生(모노노아와레)』(共訳、本居宣長著、2016年)
その他多数。

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【目次】

はじめに
凡例

序章 『古事記伝』で「皇国」を問うこと
一 『古事記伝』の〈古事記〉
二 「皇国」を問う

第一章 『古事記伝』のつくった「外国」

第一節 「常世国」から拡大した「外国」の物語
一 神話の上の「常世国」
二 歴史のなかの「外国」
第二節 地球的世界における「外国」と「皇国」
一 世界の始まりの物語
二 古伝説と地球説との合致
三 万国の上たる「皇国」
第三節 「皇国」の物語のためにつくられた「外国」
一 「外国」を語らない『古事記』
二 「外国」を必要とした『古事記伝』

第二章 『古事記伝』における「カラ国」の克服

第一節 「韓国」の解決
一  「韓国」は「空国」なり
二 「韓国」の排除だったのか
三 「国覓ぎ」という文脈のなかで
四 「皇大宮」の起源の物語
第二節 固有なる起源を求めて
一 「韓」をめぐる論争
二 「漢」のなかに収斂された「韓」
三 熊襲偽僣説と征韓
四 「漢国」への対抗

第三章 『古事記伝』のつくった「皇国」

第一節 「事」としての世界
一 「皇国」の古の「事」
二 神代と現代との連続
三 「君臣の差別」による皇統の存続
第二節 世界の原典としての〈古事記〉
一 文字無き世の「言伝」
二 あるべき天皇記の完成
第三節 「皇国」の選択
一 「御国」から「皇国」へ
二 「皇国」の「真の道」

終章 宣長学の解明に向けて――「皇国」の物語の達成が導くもの
一 まとめ
二 宣長以後の「皇国」
三 宣長問題の始まり

参考文献
初出一覧
あとがき
索引(人名・書名)

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各章解説

第一章:
『古事記伝』は、『古事記』には何の説明もない「常世国」に対し、それが他ならぬ「外国」であるという独特な注を施している。「常世国」を「外国」の起源とする同説は、『古事記』上巻の神話的物語から、中巻以降の歴史として語られる記事の解釈にいたるまで終始一貫している。もとの『古事記』にはない『古事記伝』のつくる「外国」の物語である。『古事記伝』がいかにして「常世国」を「外国」へつなげていくのか、宣長の方法に沿って確かめたい。

第二章:
宣長が万国の上たる「皇国」というときに、実際意識している「外国」は「カラ国」以外にはない。しかもそれは「皇国」を語るにあたって第一に克服すべき存在としてある。もちろん『古事記』にあらわれる「蝦夷」なども、宣長にとっては「皇国」と区別される「外国」であったが、それを「カラ国」ほど強く意識することはなかった。『古事記伝』の「皇国」が「カラ国」に対峙する形でつくられる以上、「カラ」の問題を避けて通ることはできない。

第三章:
「皇国」の「皇国」たる所以はどこに求められるのか。ここでは「御国」から「皇国」へと書き替えられた意味について、宣長の注釈の対象として『古事記』が選ばれたことと関連して探っていきたい。「皇国」はやはり天皇の国たることを含意する語と考えられる。とすると、『古事記伝』は『古事記』を天皇記として読もうとした、というような見当はつく。だがそれだけで、宣長が半生をささげた『古事記伝』の営みを充分に説明できるだろうか。

 この記事のカテゴリーは : リポート笠間掲載コンテンツです。

●渡辺麻里子「日本古典文学のファンを増やすために―文化コードの断絶のなかで」【特集1・いま全力で取り組むべきことは何か】●リポート笠間62号より公開

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リポート笠間62号より、渡辺麻里子「日本古典文学のファンを増やすために―文化コードの断絶のなかで」、を公開いたします。

リポート笠間は、小社のPR誌で年2回刊行しています。送料無料・購読料無料。定期購読は随時受け付けています。お気軽にご連絡ください。詳細は以下のページでご確認ください。
http://kasamashoin.jp/report.html

ご連絡お待ちしております。

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特集【趣旨】は、以下。

文学教育にせよ、研究にせよ、
すべてのものが、まるで自明のものではなくなったように
見えてきてしまう昨今。
それぞれの立場から、
「いま全力で取り組むべきことは何か」について
お書き頂きました。
これから、何をどうしていくのがいいのか。
ヒントを得たいと思います。

※web版では、ルビをカット、傍点を太字に、また、改行等適宜行っています。ご了承ください。

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渡辺麻里子「日本古典文学のファンを増やすために―文化コードの断絶のなかで」

 一人でも多くの古典文学ファンを増やしたい。古典文学研究者ならば、誰でも考えることであろう。古典文学の魅力を伝えるために、目の前の受講生を大事にし、書ける機会、話せる機会を大事にする。一人でも二人でも、「へ〜、古典って面白いね」と思ってもらえたら、それほど嬉しいことはない。古典文学好きが一人増えれば、裾野が広がる。人文学軽視の風潮が激しさを増す今、迂遠な策に感じられようと、「古典文学を読みたい、知りたい」と思う人を増やしていくことが何より肝要である。

 授業の時には、「この学生にとって生涯最後の古典の授業だ」と考えて授業をするようにしている。高校生の場合、進学先の大学の教養科目で古典文学を受講する可能性が若干あるが、多くの場合、生涯最後の古典文学の授業になる可能性が高い。大学の一般教養科目もまた同様である。目の前の受講生たちが、古典を面白いと思うかどうか。それはとても重要なことである。

■一、読んで訳して、その先に......
 受講生の中には、必ず一定数、「古典は難しい」と思っている学生がいる。その原因の一つに、高校で一般的に行われる「品詞分解読み」の授業があるように思う。品詞分解を行って用法を確認し、辞書を引いて単語の意味を調べ、現代語訳を作成する。広く「定型化」したこの授業形態では、現代語訳がいわば「目標(=最終到達点)」になっていることが多い。生徒は、先生の言った現代語訳を書き取ったり、ワークシートで穴埋めをするが、本当に納得している訳ではない。心の中の「だから何?」というモヤモヤ感はぬぐえておらず、「なんだかよくわかんない」ままに通過していく。

 よく考えれば、現代語訳と理解とは別である。例えば太郎から花束を受け取って「花子、ほほえみにけり」という文があるとする。「花子はほほえんだ」とすぐに訳せるが、訳はゴールではなくスタートに過ぎない。この場面では、太郎や花子の人物像や太郎と花子の関係を理解した上で、はじめて花子がほほえんだ意味がわかり、この文が理解できたことになるのである。泣いた、笑った、怒った......古典作品の中に登場する人物やその思いに、背景を考えつつ可能な限り近づくと、文章が立体的に立ち上がり、古典文学がぐっと身近に感じられてくる。

 この例では、また「花束」が一つのポイントとなる。現代社会において、男性が女性に渡す「花束」は特別な好意を示す意味を持ち、私たちの社会では一定の共通理解を得ている。こうした物や事柄を「文化コード」と称しておく。花束の意味は説明されなくても、嬉しさは理解できる。しかし時代とともに、生活グッズや価値観は異なり変化するので、ここには説明が必要となる。

 平安貴族社会で外出の際に用いられるのが「牛車」であるが、今日、牛車で登校する学生はいないので、説明が必要である。木の車輪でサスペンションが効かない牛車の乗り心地を考えると、牛車を全力で走らせて酔ってしまった男たちの話(「頼光郎等共紫野見物語」『今昔物語集』巻二十八第二話)が理解できる。また牛車は、乗る人自身が走らせるものではないので、牛車での外出はこっそりとはできない。そこで童一人だけを連れた徒歩での外出に特別の意味が生じる。一歩踏み込んだ解説が加わると、文章の中の出来事にリアリティが出てくる。

 古典文学を「難しい」と思う学生たちには、できるだけ「知らないだけだ」と言うようにしている。「知らない」ことは理解できなくて当然なのだが、品詞分解と辞書でわかるはずだと言われた学生たちは、理解できない古典の文章を前に、自分たちを能力不足と誤解し、古典は難しいと考える。現代、使われない物の文化コードは、学生自ら自発的に理解できるものではないと思う。現代人にとって当たり前の携帯電話も、紫式部や夏目漱石に「ラインの既読がつかなくなった」「携帯をお風呂に落として泣いた」という文意を理解させようとする困難を考えれば、納得がいくだろう。

 生活グッズが異なる上に、生き方や価値観が違う。その違いを知るのがまた古典文学の醍醐味である。グローバルな学問が推奨されている今、異なる文化を知り視野を広げる古典文学は、グローバルな学問の代表格である。異国の文化を知るのが空間的な横のグローバル研究なら、過去にさかのぼって時空を超える古典文学研究は、いわば縦のグローバル研究である。外国の文化は、実際に行って直接見聞することができるが、平安時代や鎌倉時代に行ってみることはできない。書かれた物から当時の出来事や人々の考え方、生き方を探求する古典文学は、究極のグローバル研究であると考える。

■二、「文化コード」と宗教の学び
 古典文学作品を読んでいると気付くのは、モチーフの重層性、積み重ねである。作品中ではいちいちに説明はされないが、モチーフは積み重ねられ、読み継がれてきた。身分の高い人の都を離れた田舎暮らしといえば、『伊勢物語』東下りや『源氏物語』の光源氏を、多くの后候補の中で一人寵愛を受けたとなれば『源氏物語』桐壺を想起する。モチーフやある種のパターン・約束事は、多くの作品を媒介し、継承されていた。明治・大正・昭和の文学作品にも、古典の作品のモチーフやストーリーがひそむ。

 しかしいつの頃からか、古典の著名作品が読まれなくなり、この長い間積み重ねてきた重層的な継承が途絶えてきたように感じる。テレビで「日本むかしばなし」が放映されなくなり、昔話を簡単に知る機会も減った。かつて古典文学入門の授業で、現代版の「一寸法師」と渋川版御伽草子の『一寸法師』を比較していたが、最近は、昔話の一寸法師の話を知らない学生が一定数現れるようになり、「変化する物語」の入門授業として機能しなくなった。某携帯電話のCMによって、「浦島太郎と桃太郎と金太郎は仲良しだ」ということが基本モチーフとなる時代も近いかも知れない。

 漂流すると鬼ヶ島に着く、継子はいじめられる、特殊な誕生は異能を備える、身分の高い人が喜んで「衣を脱いで取らせた」のは褒美を与えたということ、夢は「夢で良かった」のではなく「夢だから重要」なのだ......古典文学の世界は約束事がたくさんあり、それらを踏まえて物語が形成されている。古典の世界独特の「文化コード」(=共通理解)の蓄積は、長い時間をかけて行われ、日本の文化を形成してきた。しかし現代においては、これらの文化コードが、古典文学研究者のみの特殊な知識となりつつある。現代人が古典文学に親しめなくなっている大きな理由だと考える。

 様々なモチーフを学ぶためには、もっと大量に古典を読ませたい。英語では、精読だけでなく多読・速読も行う。同様に、古典文学もストーリーを学ばせ、古典独特のモチーフや展開を知って欲しい。多読・速読には、現代語訳や漫画を利用することも効果的だと思う。あるいは教員が、こんな話もあると話して聞かせるだけでも有効だと思う。「品詞分解読み」の効能は活かしつつ、極端に読みが遅くなり、ストーリーを追いにくい弊害を、多読・速読で補いたい。

 文化コードの断絶は、とりわけ宗教に関わる内容に顕著である。戦後教育で宗教に関する教育が禁止され、古典文学の中から、仏様も神様も削り落とされた結果、異様な古典文学が誕生した。西洋文化を「キリスト教」を抜きに学ぶことはあり得ないが、日本古典文学では、観音って何?阿弥陀さんて何?を学ばずに通過させていく。

 お年寄りが「そろそろお迎えが来る」と言ったら、この「お迎え」は、極楽浄土からの阿弥陀の来迎に由来する訳だが、ほとんど理解されていない。また清水寺は、古来、観音信仰の聖地であり、身分の上中下を問わず現世利益をもたらした。それゆえに多くの物語において人々が出会う舞台となったのだが、今、学生たちは清水寺について、舞台の高さばかりを習う。多くの修学旅行生は、舞台の上から下をのぞき、観音様にはおしりを向けたままで帰ってくる。

 仏様や神様を学ぶことは、「信仰」を強要するのとは違う。古典世界の中で生き生きと活動し、人と交信していた仏神を知ると、古典文学はもっと楽しめると思う。

■三、文字の断絶
 「和本リテラシー」が提唱されているが、強く共感する。変体仮名が読めなくなったのは、日本の長い歴史の中で、ほんの数十年のことと思う。今や、くずし字が読める人は、特殊技能の持ち主となっており、文学・歴史を研究する者のみが学ぶものとなっている。お蔵の掃除をする時、壺や掛け軸はまず捨てられないが、「汚い紙の束」は真っ先に捨てられる憂き目にあう。もし少しでも読めたなら、「まず捨てたい」とは思われないだろう。

 最近のくずし字アプリの流行は、画期的で素晴らしいことである。弘前大学では、くずし字にはまった学生たちが、「弘大翻刻部」という名のサークルを作って活動し始めた。また日本古典文学ゼミでは、地域の要請によって、学区の小学校六年生に「くずし字」を教える授業を行っている。小学生は発想が柔軟で、大学生よりも反応が良く、授業の感想文をくずし字で書いてくる児童も現れる。くずし字は、古典文学へのアプローチの一つであり、古典文学に親しむ回路の一つとして大事にしたい。

■四、教員の新たな学び
 教員免許状更新講習は、研究者が現場教員と直接話ができる貴重な機会である。国語の教員免許は、古典文学専攻でなくても取れるし、古典文学専攻だった人にとっても、高校教科書の教材は、上代から近世まで実に幅広く、内容理解は至難の業である。実際のところ古典教材はよくわからないままに教えられていることが多い。教員用の指導書はあるが、現場教員の知りたいことが親切に書いてある訳ではない。それゆえ、教員免許状更新講習を、教材を学べる機会として活かせないだろうか。

 祇園精舎の鐘は、「ゴ〜ン」と鳴らないし、人が鳴らしているのではない。やたらに難しいことを学ぶ必要はないが、教壇に立つ先生方がせめて教材への理解を深め、その教材の面白さを知ることも、古典文学継承のための一つの方法ではないか。これはかつて高校の教壇に立っていた時の、自分の望みとして述べてみた。

■五、漢語の語彙について
 最後に漢語の継承について触れたい。古典文学において、漢語は大いに利用され、明治以降の作家たちも自在に使っている。近年は、教育現場だけではなく、一般社会において難しそうな言葉を避け、難しい漢字を使用しないことが徹底してきている。テレビ字幕や刊行物を見ていると、難しい字をひらがな表記した結果、漢字の熟語を片方だけ平仮名にしたものまで現れた。これはもはや熟語というのだろうか。最近、気付いた表記では、安ど(安堵)、飛しょう(飛翔)、いん行(淫行)、編さん(編纂)、発こう(発酵)、語い(語彙)......。難しい字には、振仮名を付ければ良いのではないか。そうすると、文意から熟語の意味を覚えて語彙を増やすことも可能となる。

 昔の時代劇を見ていたら、お奉行様が救出された娘さんに、見て来たことを「フクゾーなく申せ」と言っていて、妙に感心した。ちなみにある授業で受講生に尋ねてみたら、正解は百二十名中十四名であった。
  
 古典世界の「文化コード」は、とても豊富で、私自身も不勉強で知らないことばかりである。知らないままに、あるいは間違った知識で教壇に立っている恐れもある。そんな自分を棚に上げて言うならば、伝えることのできる立場にいる一人一人が、少しずつ積極的に発信していくことこそ、古典文学ファンを増やす道である。

 古典文学の魅力は多様にあり、アプローチも色々ある。「いま全力で取り組むべきことは何か」とは、古典文学を楽しく読む回路を開き、古典文学ファンを一人でも増やすことである。次の世代に繋いでいけるよう少しでも努力をしていきたい。

渡辺麻里子(弘前大学人文学部教授)。論文に「古典文学教材の可能性―「検非違使忠明」(『宇治拾遺物語』第九十五話)を読む―」(『古典教育研究会論集』早稲田大学国語教育学会)、「天台仏教と古典文学」(大久保良峻編『天台学探尋―日本の文化・思想の核心を探る―』法蔵館)、「『今昔物語集』巻二十八第一話「近衛舎人共稲荷詣重方値女語」試論―巻二十八の主題と巻頭話としての意味―」(『朱』54、伏見稲荷大社)など。

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●寺島恒世「提案三つ―文学の研究・教育の活性化に向けて」【特集1・いま全力で取り組むべきことは何か】●リポート笠間62号より公開

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リポート笠間62号より、寺島恒世「提案三つ―文学の研究・教育の活性化に向けて」、を公開いたします。

リポート笠間は、小社のPR誌で年2回刊行しています。送料無料・購読料無料。定期購読は随時受け付けています。お気軽にご連絡ください。詳細は以下のページでご確認ください。
http://kasamashoin.jp/report.html

ご連絡お待ちしております。

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特集【趣旨】は、以下。

文学教育にせよ、研究にせよ、
すべてのものが、まるで自明のものではなくなったように
見えてきてしまう昨今。
それぞれの立場から、
「いま全力で取り組むべきことは何か」について
お書き頂きました。
これから、何をどうしていくのがいいのか。
ヒントを得たいと思います。

※web版では、ルビをカット、傍点を太字に、また、改行等適宜行っています。ご了承ください。

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寺島恒世「提案三つ―文学の研究・教育の活性化に向けて」

 文系不要論が唱えられ、危機に瀕しかねない文学、とりわけ古典文学の研究や教育において、「いま全力で取り組むべきこと」とは何か。国文学研究資料館に身を置いてきた立場から、三つを提案したい。

 はじめの二つは、国文研が進める大規模学術フロンティア促進事業、「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」(歴史的典籍NW事業)を担当する中から得たものである。

 この事業は、計画の認可当初に本誌56号でも紹介された通り、十年を期間とする人文系初の大型プロジェクトで、計画四年目に入る本年度、懸案の「新日本古典籍総合データベース」(Database of Pre-modern Japanese Works)を公開する運びとなった。画像情報の集積に応じ、充実化を図るそのデータベースの情報発信とともに、柱となるのが共同研究の推進である。その共同研究のうち、主要なものに異分野融合研究がある。

■提案一 異分野研究とのコラボから
 稿者は、平成二十七年四月以降「オーロラと人間社会の過去・現在・未来」という共同研究に参加してきた。国立極地研究所の片岡龍峰准教授を代表に、彼の専門分野であるオーロラ研究を進展させるもので、メンバーは、片岡氏以下、京都大学の研究者・院生、武蔵野美術大学・明治大学の研究者、総合研究大学院大学院生及び我々国文研教員からなる。

 オーロラと聞けば、北極や南極に現れる現象と思いがちだが、低緯度オーロラとして数十年、大規模なものは数百年間隔で日本でも見られてきたらしい。我々の関与は日本の古典籍類に残されたオーロラ・太陽黒点等の記述の検討であり、事例の探索作業には市民も加わり(一般市民参加企画「オーロラハンター」)、複数の新例が発見された。本年三月まで二年間の研究で得られた最も大きな成果は、一二〇四年に起きた現象が突きとめられたことであり、その主要な根拠になったのは『明月記』建仁四年の記事である。同時期の『宋史』及び樹木年輪の炭素同位体比の比較等を踏まえ、平安・鎌倉時代における連発巨大磁気嵐の発生パターンの解明に至った成果は、米国地球物理学会発行の学術誌(「Space Weather」)にオンライン掲載され、文科省での記者レクを経て新聞報道等がなされることとなったのである。

 本研究は、磁気嵐としてのオーロラが引き起こす「宇宙災害」、具体的に宇宙では人工衛星の故障、地上では誘導電流による大規模停電の危険を防ごうとする重い課題に向かうものだが、共同研究に参加した我々文系側の役割や目的は、理系分野へのデータの提供という貢献にのみあるのではなく、得られた成果を文系研究の側から捉え直し、以て新知見を提供し、新解明を目指すことに定めていた。

 そもそも、『明月記』のオーロラは「赤気」と書かれており、古天文学の分野では早くからこの語をオーロラと認定していたにも拘わらず、例えば『日本国語大辞典』では第二版においても、「夜、もしくは夕方、空に現われる赤色の雲気。彗星のこととも。」という説明に止まっている。当然『修訂 訓読明月記データベース』(稲村栄一、古典ライブラリー)の注も同様であり、それが「赤気」に対する社会一般の共通理解となってきた。『広辞苑』第六版(二〇〇八年刊)に至り、初めて『明月記』の用例とともに「オーロラのこととも」の解説が加わる。ただし、「超新星」の可能性も併せ示され、確定はされていない。こうした語彙レベルの問題もさりながら、より重要な考察の対象は『明月記』の叙述である。複数度に及ぶこの現象を、定家は「奇而尚可奇(奇にしてなお奇なるべし)」と評する。『明月記』の多数の天文記録中「奇」を重ねる評言はほかになく、描写の正確さとともに現象の特異性を明かすこの分析は、観察力の卓越を示すものである。周知の古典テキストに向かう定家の態度を想起すれば、彼の文理に亘る学的能力の秀抜が思われる。『明月記』の詳細な解明が続けられる中、定家に備わる芸術・学術双方の資質の解明を進め、指摘されてきた随筆・説話・物語的要素との関わりを問い直しつつ、作品としての『明月記』の性格や価値が検証されてよいであろう。

 他分野、特に文系以外の分野との共同研究は、取り掛かりは平易とは言い難く、模索を必然とするものの、得られる成果は、文字通り新しく、かつ有意義に違いない。提案の一つ目は、こうした異分野との融合研究に豊かな活路を見出すことである。上述の新データベースが収載する古典籍ビッグデータを活用することにより、多彩な研究が切り拓かれることを期待したい。

■提案二 世界の中の日本文学研究・教育へ
 二つ目は、その共同研究が「国際共同研究ネットワーク構築計画」を標榜することに応ずる国際化への対応である。そもそも新データベース自体、英語対応を前提とするものであり、これまでも異分野融合研究「総合書物学」の中でその対応の検討を重ねてきた。現状における喫緊の課題の一つに、書誌情報の多言語化、とりわけ英訳の具体化がある。例えば日本の書誌学用語は、基づく学の異なりに由来した呼称の揺れを有する。それぞれ拠り所があるため、画一化は至難に違いないが、最低限の共通化が図られなければ、混乱が拡散する不都合が生じる。これは学界全体で取り組むべき課題にほかならず、幅広い識者の糾合が求められる。

 周知の通り、教育においては、大学での英語重視が進み、学習指導要領改訂により小学校への英語の導入も決定されて、議論の対象は国語か英語かのレベルを超え、英語をいかに身に付けるかの方策如何に絞られてきた。研究においても、その成果発信が日本語に止まっていることはもはや許されず、海外における日本文学研究者との真の交流を果たすためにも、英語への対応は最優先の課題である。グローバルに日本における文学研究の豊饒さを伝え、その反応を得て議論が深まることが、研究と教育を活性化させる大きな契機となるはずである。

 国文研も昨年度、国際化に柔軟にかつ積極的に対応するため、組織改編を行った。またロバート・キャンベル新館長の肝入りのもと、ホームページの充実をはじめとする情報発信の真の国際化に踏み出そうとしている。バイリンガルの出版・英文ジャーナルの刊行等、国際化の取り組みは既に試みられていることながら、その速やかにして本格的な対応が必須であるに違いない。

■提案三 日本社会からの支援を
 大型プロジェクトとの関わりを離れ、三つ目に提案したいのは、日本の社会に文学の研究・教育の重要性を訴えることである。団塊の世代が定年を迎えた今日、一般社会には知的レベルの高い層が増加し、知識・教養を求める気運はますます強まっている。昔習った知見があるいは通用せず、あるいは補強されることを知る喜びは、成熟した社会を生きる高齢者に豊かな生きがいをもたらすに違いなく、我々の研究成果の公表は、学界・研究者コミュニティとともに、より広く要望の強い一般社会に向けてなされていくべきであろう。

 効率性・利便性・有用性の追求にいよいよ力が注がれ、人工知能の進化も著しい現代社会において、文学を研究し、教育する意義がいかに重く、欠かし得ないものであるかを理解する層は、着実に増えている。理系分野を主にサイエンスカフェとして実施されている〈知〉の社会還元は、文系学問においてこそ展開されるべきであり、人間社会にとって不可欠な文学の存在意義の認知のもと、その研究と教育に対する広範な支援を得る努力をしなければならない。研究の活性化には何より若手支援が優先されなければならないが、その支援を社会全体で行う発想を定着させることが肝要である。

 先に述べた異分野融合研究や国際化への対応が、新たなエネルギーを必要とするのとは異なり、研究成果の社会還元は、今の力のままに、周辺へわかりやすく伝達する営みであり、ハードルは高くはない。文学の研究と教育を復活させるべく、その活動が広く、息長く展開されることが望まれる。

〔付記〕
 二つ目、三つ目には、情報の周知が深く関わっている。情報発信にはSNSも有効で、国文研では先頃公式ツイッターを始めた笠間書院のメールマガジンもきわめて有益であり、社会への広範な流布が期待される。

寺島恒世(国文学研究資料館名誉教授)。和歌文学大系24『後鳥羽院御集』(明治書院)、『後鳥羽院和歌論』(笠間書院)など。

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●山中剛史[コラム]「文豪ゲームと作家のキャラ化―極私的文アル体験記」【特集1・いま全力で取り組むべきことは何か】●リポート笠間62号より公開

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リポート笠間62号より、山中剛史[コラム]「文豪ゲームと作家のキャラ化―極私的文アル体験記」、を公開いたします。

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文学教育にせよ、研究にせよ、
すべてのものが、まるで自明のものではなくなったように
見えてきてしまう昨今。
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山中剛史[コラム]「文豪ゲームと作家のキャラ化―極私的文アル体験記」


 オンラインゲームに文アル(文豪とアルケミスト)というのがある。文豪とあるように、紅葉、露伴といったところから漱石、鷗外、芥川から太宰といった実在の作家達がキャラとして登場する。しかしこのゲームでは、世に知れ渡った作家の肖像に多少似せているものもなくはないが、ほぼ皆が皆、実物とは似ても似つかぬイケメンキャラになっているのである。流通する作家の肖像は、お札になった漱石や一葉ばかりでなく今までも漫画やイラストになることはよくあったが、それらは大抵似顔絵に近い描かれ方をしてきたと思う。だから最初は、ゲームの設定として有名作家の名のみを借りただけかと思われた。

 しかし実際やってみると、作家本人とは似ても似つかぬ容貌ながら、どうもそれらは作品イメージを取り入れたキャラ化であるということに気がついた。例えば、中原中也はソフト帽にマントで、夏目漱石は千円札の肖像のように背広にネクタイといういでたちで髭があるというのは世に知られたイメージ通り。また、森鷗外は軍服の上に白衣をまとい、正岡子規はバットを持っているなどというのは、伝記的事実を踏まえたものであろう。それらの一方で、宮沢賢治や新美南吉といった児童文学をものした作家は子供の姿であったり、江戸川乱歩がマジシャンの格好をし小林多喜二が防寒着を着用しているのは作品のイメージを踏まえたものといってよい。そればかりではない。ゲーム中に発声される台詞も、中原中也は酒だ酒だとわめき、田山花袋は自然自然とつぶやき、谷崎潤一郎にいたっては女装姿で、攻撃を受けるとよがり声を発し、何かといえば変態云々とつぶやくのである。

 このキャラ化された谷崎を見て思い出されたのは、パンの会の集まりをスケッチしたとおぼしき久米正雄の短篇「文学会」(大6・3)である。作中主人公達が、「秘密」での女装が事実だとすると作者はそれの似合う美青年に違いないと谷崎が会場に到着するのを待つ場面があるのだが、文アルでの谷崎などは、正しくこの延長線上にあるといってよい。世に流通する老作家の肖像を無視して作品イメージだけでキャラ化するなら、こう造形されるものかと思ったことであった。それにしても谷崎=変態という素朴なイメージは何と根強いことか。

 単なる作家の写真というのではなく、作者とテクストそのものの有機的な関係を象徴する作家イメージが構築されていくのは、おおよそ日露戦後の自然主義文学運動の渦中に端を発している。一方では「文章倶楽部」などの投稿雑誌が目指すべき作家たちの筆跡や日常生活や苦労話を掲載、それを後押しする形で、背後に人間性やら物語やらを担った作家像という作者イメージが創り上げられていった。これらのことについては既に幾つかの研究があるし、稿者自身の研究課題のひとつでもあり、作家表象の現代的あり方のひとつとして文アルのキャラ達は興味深いものがあるのだが、ここではともかく編集部からのオーダーであるところのゲーム体験記とファン達への読書案内を果たさなければならない。

 内輪の話で恐縮だが、事の発端はこうだ。昨年末、神田神保町の扶桑書房事務所で旧知の初版本コレクター川島幸希氏(a.k.a.初版道 @signbonbon)と雑談を交わしていた時に、「最近ツイッターで文アルファンが熱心に初版本についての質問をしてくるんだけど、君はやったことある? よかったら実際にやってみてどういうものか教えてくれないか」という話になった。

 文スト文アルという言葉は耳にしていた。いくら朴念仁の私でも漫画やアニメの「文豪ストレイドッグス」くらいは既に知っていたし、先日もある文学館の運営の方と所用で会った時に、集客という側面において文ストとコラボする効果は今や絶大なものがあると聞いたばかり。漫画でも『先生と僕』やら『月に吠えらんねえ』といった作品がヒットし、今では角川文庫をはじめ芥川や太宰の文庫本表紙を文ストキャラやアニメ絵で飾ることで売り上げが伸びているなど、ちょっとした"文豪"キャラ化ブームの様相を呈しているのは確かである。一昨年だったか、大学の講義で鏡花の短篇を題材に小レポートを書かせたところ、鏡花を全く女性と疑わない学生がおり、ああ文ストの設定ではそうだったなと内心苦笑を禁じ得なかったことがあった。

 だから文アルも文ストと似たようなものかとググってみると、果たして「女性向け文豪転生ゲーム」と出てきた。近年「艦これ」「刀剣乱舞」というゲームが流行ったが、あれらと同じくなにやら擬人化(元々人間だから擬キャラ化か)ゲームのようである。架空の時空にある図書館の書物が敵により侵蝕されたという設定で、プレーヤーである司書は手持ちの文豪を「有魂書」にダイブさせて新たな文豪を転生させ、そうして集めた文豪をグループに組織して、「侵蝕書」へダイブし、不調だの嫉妬だの模倣者だのといったネーミングの敵を撃破していくというゲームなのだが、早速始めてみると、イケメンキャラに人気声優がついて決め台詞が発声され......と、「女性向け」とはこのことかと合点した次第。

 実はこの種のゲーム自体、中高生時代のファミコンやビデオゲーム以来。敵を倒し、ダメージを受けたら休ませ回復、アイテム入手によって攻撃力などの数値を上げ、経験値を積むことでレベルアップさせていくというように、このゲームには文豪たちを育てていく側面があり、これまた地道な作業なのだが、しかしそこは昔ドラクエで取った杵柄、より効率的なコースを探ってコツコツと経験値稼ぎをしていく。しかしツイッターなどを検索してみると、どうもゲームのファン達は最終的なゴールを目指すというよりは、こうした地道で一見退屈な側面をこそ、別言すれば推しキャラを育成することそれ自体を愉しんでいるようなのであった。

 というのは、このゲームのキャラ達は、尾崎一門、新思潮、白樺派、プロレタリア、新感覚派等といった"派閥"にそれぞれ属し、戦闘時のグループに同門を組み入れたり、同時に食事をするといったことで文豪同士の関係性をうかがわせる会話や手紙のやり取りなどが発生し、それがいちいち一覧表のようなアルバムに記録され、これをコレクトするのもゲームの課題であったりする。つまりキャラを育てつつも、進むにつれてキャラ自体の背後の物語を想像させるような具合になっているのである。

 少しネット検索してみれば、文アルを元にした二次創作なども少なくないようだが、それも理由なきことではない。あくまでゲーム内の架空キャラでありながら、伝記的エピソードを踏まえることで、プレーヤーはキャラ同士の関係を、師弟関係やらライバル関係、あるいはまた熱い友情やら葛藤やらあれこれと自由に妄想しながらゲームを進めていく側面があるようなのである。だからであろうか、川島氏に質問を寄せるファン達は、推しキャラをもっとよく知るためにその作家の全集を購入するとか、それぞれのキャラが持っている本の表紙から何の初版本か推測してそれらの復刻本を購入したりもする由。

 ところで肝心の文アルファンへの読書案内だが、若い人向けということで、近年の文庫本で回想録やエピソード中心の読み物という観点から紹介するならば(絶版品切本も含むが、今はマーケットプレイスなどで入手も難しくはないだろう)、まずは岩波文庫『明治文学回想集』あたりから講談社文芸文庫の伊藤整『日本文壇史』などが定番となろうか。『日本文壇史』は、硯友社や明星周辺、白樺派やプロレタリア系など、お目当ての巻だけ買うことも出来る。他に、講談社文芸文庫の室生犀星『我が愛する詩人の伝記』、江口渙『わが文学半生記』、浅見淵『昭和文壇側面史』、岩波文庫の広津和郎『同時代の作家たち』、田山花袋『東京の三十年』、ちくま文庫の大村彦次郎『東京の文人たち』、中公文庫の近藤富枝『田端文士村』、正宗白鳥『文壇五十年』あたりも思い浮かぶ。

 紙幅も尽きた。改めていうのも野暮な話だが、作家本人の著作は読んで欲しい。あれやこれやのトリビアをいくら積み重ねたところで、作品を手に取らなければ意味がない。作家イメージはあくまでイメージに過ぎず、残されているのはその言葉、作品なのである。

山中剛史(中央大学兼任講師)。『決定版 三島由紀夫全集42』年譜・書誌(共著、新潮社)、『混沌と抗戦―三島由紀夫と日本、そして世界』(共編著、水声社)など。

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●日比嘉高「〈文スト〉は敵じゃない」【特集1・いま全力で取り組むべきことは何か】●リポート笠間62号より公開

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文学教育にせよ、研究にせよ、
すべてのものが、まるで自明のものではなくなったように
見えてきてしまう昨今。
それぞれの立場から、
「いま全力で取り組むべきことは何か」について
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日比嘉高「〈文スト〉は敵じゃない」


 最近、授業のシラバスを書くときに、「半年かけて芥川龍之介の一九一〇年代後半の作品をとりあげます」とか、「今期は第三の新人をやります」とか、そういうやり方に関心が向かなくて困っている。芥川龍之介がつまらなくなったわけではないし、遠藤周作なんかはやっぱりすばらしいと思うわけだが、「芥川を順番に」とか「第三の新人というカテゴリをなぞって」とかそういう発想が、まったく面白いと思えなくなってしまっているのである。

 同様に、「これまでの田山花袋研究においては、この作品についてはほとんど言及がなく」とか、「従来の「痴人の愛」の読解では、この部分については見過ごされてきた」とかいう問題設定の研究発表や論文に出会っても、なんだか聞く前、読む前からあくびをかみ殺すような気分になってくるので、困っているのである。

 私が学部や大学院で授業を受けていた一九九〇年代から二〇〇〇年代はじめごろ、学部の授業も大学院の授業も、上記のような「作家」という枠組みや、文学史的カテゴリに対応したような発想は一般的なものだった。もちろん、そうではない授業はあったし、逆に今でもこうした授業はたぶん色々なところで行われている。

 とすれば、おかしいのは私なんだろうか。私は私小説的な作品がどうやって産出されるようになったか、という文学史的な関心による博士論文を書いた後、移民研究に片足を突っ込んだり、出版文化研究にも首を突っ込んだり、うろうろしすぎたので、〈ザ・文学〉みたいなのが面白く感じられなくなってしまったのだろうか。

 たぶんきっとそうだ。それが九割方の理由である。だが、残り一割において、ひょっとしてこうした感覚は、他の研究者や大学院生たちにも共有されているのではないかと思って、今こうして書きはじめている。

  *

 「文ストは敵じゃない」
と、この前一緒に研究会をやったSさんは言っておられた。ここでSさんが「文スト」といっていたのは、『文豪ストレイドッグス』(原作・朝霧カフカ、作画・春河35、二〇一三年~)というタイトルのマンガのことであり、そしてそこから派生したテレビアニメや小説やグッズやタイアップ企画などなどを指している。キャラクター化された文豪が、それぞれの特殊能力を操って戦う「イケメン文豪バトルアクション」である。最近では、いくつかの文学館が「コラボレーション企画」もやっている。公式サイトを見ると、森鷗外記念館、田端文士村記念館、芦屋市谷崎潤一郎記念館、与謝野晶子記念館(さかい利晶の杜)の名前が載っている。イラストの展示や、グッズの販売、スタンプラリーのプレゼント企画などをやっているらしい。ちなみに私は与謝野晶子記念館で、与謝野晶子キーホルダーを購入してきた。
 文学をとりまく風景と感性は変わっている。当たり前だが。

  *

 うん、じゃあ若者にあわせて、こういうマンガとかゲームを導入にして、そこからだんだん文学の深みにハメていけばいいじゃん、と浅はかな教師根性を出して私は考える。だが、世の中そんなに簡単ではない。「若者」は文ストを読んでいるかというと、大多数の学生は聞いたことはあるけれど読んでいないか、そもそもまったく知らないか、その程度である。修士の学生もそんな感じで、博士の学生にいたると学部生との接触が断たれている分だけ、教員よりも現代文化に疎かったりするから、ぜんぜんだめである。

 だから、「文スト読んでる?面白いよねぇ、中島の月下獣はまあいいとして、谷崎の必殺技が細雪って芸がなくない?ていうか与謝野晶子の君死給勿(きみしにたもうことなかれ)って漢字の並べ順おかしくない?」とか授業の前振りで口走って学生の関心を掴もうとしても無駄であるだけでなく、下手すると気持ち悪がられるのでやめたほうがいい。

  *

 でも「文ストは敵じゃない」と私も思うのである。私たちが手にしているのは、文学・文芸という営為が過去千数百年にわたって続けられ、その結果の堆積物として積み上がっている、文化のリソースである。これは文句なくすばらしいもので、絶対に私たちの世代やそれ以降の世代で失ってはならないし、できればこれらのリソースを有効に活用し、堆積物の上に少しでもよりよいものがさらに積み上がっていくような手助けがしたいものだ。
 それが私たち文学研究者、そして国語関係・文学関係の教員の社会的責務である。

  *

 笠間書院編集部からのお題は、「いま全力で取り組むべきことは何か」「これから、何をどうしていくのがいいのか」であった。

 試行錯誤するしかない、というのがありきたりの結論だが、いま言った社会的な責務を果たすためには、とにもかくにも、自分たちがここにいてこういう仕事をしているということを知ってもらい、文学の面白さとそれに関わる仕事の価値を知ってもらい、理解の輪を広げてそしてできることなら手伝ったり手伝ってもらったり、援助したり援助してもらったりして、より面白く、より活性化した状態にもっていくのが大事である。自分たちの研究環境を整備し、教育のプログラムを工夫し、手を携えるべきところと手を携え、必要なお金は獲得して来、宣伝すべきところは宣伝しなければならない。

 そのときに、「半年かけて芥川龍之介の一九一〇年代後半の作品をとりあげます」とか「これまでの田山花袋研究においては、この作品についてはほとんど言及がないのです」とかいう姿勢では、もともと文学趣味を持っていた一部の人にしか響かない(そういう人たちとの間の関係ももちろん大事だが)。〈文スト〉にあたるもの――社会とのつなぎ目――は、きっといろいろなところに転がっている。〈文スト〉は敵じゃない。

  *

 紙幅もなくなってきたので駆け足で具体的なことを列挙しておく。
 学会同士の連携をもっと図った方がいい。これまで学会は細分化してきた。連絡会議はやっているようだが、もう少し一緒にできることを模索してもいいのではないか。学内を見てみれば、古典から近代まで教員が揃っている大学など、もう多くないのだ。学生もだが、教員も、別の時代の研究動向に疎くなりがちだ。連携が必要なのは国外の学会ともそうである。私の記憶では二〇〇〇年初頭ぐらいに韓国のある学会から近代文学会に連携(具体的な形は承知していない)の打診が来たが、断っているはずである。愚かなことだと当時も思ったし、いまでも思う。日本の文系分野が危機に瀕しているのと同等かそれ以上に、韓国でも中国でも台湾でも米国でもヨーロッパでも文系分野は冷遇されており、学生集めに苦しんでいる。われわれは手を携えて支え合うべきだ。

  *

 学会誌の「国際基準」対応を検討してもいいのではないか。日本の学会誌には、日本に住んでいる日本人か留学生しか投稿しない。外国からなぜ投稿がないのか、考えたことがあるだろうか。ご承知の通り、海外には少なからぬ日本研究者とその学生が存在している。彼らはどうして日本の学会誌に投稿しないのか。

 答えは簡単で、日本の学会誌に掲載しても何のメリットもないからである。もちろん言語的な障壁もあるが、日本人だって必要な分野においては英語で論文を書くのであるからそれは決定的な理由になるまい。世界の先頭を走るこの分野の学術雑誌(そうなんでしょう?)に、世界の国々から投稿がないのは"異常"ではないのだろうか。

 韓国では、教員を採用するときに国際的な査読誌に論文が掲載されていることが求められるようになっているという(中国や台湾は今のところ国内基準でやっているらしい)。国際的な査読誌は英語がほとんどである。韓国人の日本文学研究者は、強烈な英語化の圧力の中で苦労をしている。当然、アメリカやイギリス、オーストラリアなどで学術的なキャリアを築く人が増え始め、次第に英語で書くというルートが太くなっていく。一〇年後二〇年後には、日本に留学して学んだ韓国人日本文学研究者の数を、英語圏で学んだ日本文学研究者の数が上回るかもしれない。

 学会誌を英語にしろと言っているのではない。日本語のまま、国際的な基準――理系的発想の電子ジャーナル会社の基準を受け入れるという苦々しい思いをすることになるが――を満たすようにする道筋は本当にないのか、調べたり、相談すべきところに相談したりしたことがあるだろうか。折り合いを付けていく道は、きっとあるはずなのだ。

 最後に触れておきたいのは、デジタル人文学(ヒューマニティーズ)。今後の一つのフロンティアだ。きっと、できることが広がるし、面白いし、面白がってもらえるはず。

 ウチだけ見ていると、きっと愚痴しか出ない。

日比嘉高(名古屋大学大学院人文学研究科准教授)。『ジャパニーズ・アメリカ─移民文学・出版文化・収容所』(新曜社)、『いま、大学で何が起こっているのか』(ひつじ書房)、『文学の歴史をどう書き直すのか 二〇世紀日本の小説・空間・メディア』(笠間書院)など。

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●松尾葦江「いま欲しい平家物語論とは―自身への問いを携帯すること」【特集1・いま全力で取り組むべきことは何か】●リポート笠間62号より公開

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リポート笠間62号より、松尾葦江「いま欲しい平家物語論とは―自身への問いを携帯すること」、を公開いたします。

リポート笠間は、小社のPR誌で年2回刊行しています。送料無料・購読料無料。定期購読は随時受け付けています。お気軽にご連絡ください。詳細は以下のページでご確認ください。
http://kasamashoin.jp/report.html

ご連絡お待ちしております。

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特集【趣旨】は、以下。

文学教育にせよ、研究にせよ、
すべてのものが、まるで自明のものではなくなったように
見えてきてしまう昨今。
それぞれの立場から、
「いま全力で取り組むべきことは何か」について
お書き頂きました。
これから、何をどうしていくのがいいのか。
ヒントを得たいと思います。

※web版では、ルビをカット、傍点を太字に、また、改行等適宜行っています。ご了承ください。

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松尾葦江「いま欲しい平家物語論とは―自身への問いを携帯すること」


 平家物語研究の喫緊課題については、昨年十二月から今年の一月にかけて、講演や共同討議の場で話し、その内容は錦仁・石井正己編『文学をよむ意味・古典編』(仮題。笠間書院、近刊)に収められる予定であるので、ここでは箇条書きに補足するかたちで述べたい。

1 学校教育の教科書の底本とされる、もしくは注釈・現代語訳などが付された一般読者向けの、いわゆる「代表本文」と国文学・日本史学研究者が注目する本文とは一致していない。この状態のままでよいか。諸本研究は、どのようなかたちで読者に還元されるべきか。

2 琵琶法師の役割を教科書や評論では過大に述べる傾向があるが、それは文芸的達成度や成立事情とは別個の問題である。語りの文体の特性を追究しようとする試みが行われた時期もあったが、未だ突き詰められてはいない。成立事情との関係は芸能史の視点が有効だと思われ、こちらも多くの未解決課題が残っている。

3 平家物語の研究では、抽象的な仮説に基づいていたり、またある価値観による主張が基底にあったりする立論について、そのことが十分意識化されておらず、半世紀近く論の枠組みが見直されていない問題も少なくない。成立や古態に関しても、じつは旧来の枠組みと新説とが擦り合わされずに、それぞれ通説として固定してしまった現状がある。例えば読み本系的本文から十二巻本平家物語への移行過程について、また読み本系的本文が古態に関わるとするなら、読み本系を特徴づける頼朝挙兵記事はいつから平家物語の中にあったのか等々、成立論には幾つもの穴が開いたままになっている。

4 歴史文学=ドキュメントではないことをふまえずに、「科学的」「実証的」研究を求める傾向が強くなっている。歴史学の成果は文学研究にとって有益ではあるが、同じことをやるわけではないので、文学の側からの正しい位置取りを保持していたい。

5 文学はプロパガンダではない。現実世界と文学との関係をどこに見いだすかは、各人の内部でそれぞれ譲れないものがあるはずである。なぜ古典を読み、研究し、継承しようとするのか、つまりは自分自身にとっての「文学の効用」を語り、研究対象の魅惑の由縁を説き明かす論が、いま複数語られる必要があるのではないか。

平家物語の研究はこのところ、右のような基本的問題を看過してきた結果、読者や教育現場に向かってひらいて行かず、じりじりと自閉的になっているような気がする。

 例えば1について。覚一本が代表本文であることの妥当性については私も述べてきた。その上で、ゆれる物語を読むということは、個人の作家が完成品を目指して書き上げる作品とは異なった知的散策の楽しみを与えてくれるものであり、平家物語諸本のなかに中世がある、すなわち中世文芸の幅=平家物語諸本の幅でもあることを改めて感じさせてくれることが重要である。それを現在の「中世文学」研究の範囲の広がりに応用してみれば、文芸作品の評価基準の見直しも視野に入ってこよう。

 2については、語りが平家物語の達成をもたらしたと言うのであれば、表現論にこだわり、音数律によらないリズム感の由縁を説明できる方法を探す必要がある。学校現場のアンケートでも、多くの生徒がこの作品の魅力の理由として、文章のリズム感を挙げている。単なる音数律でなく、内容と修辞とが見合って生まれるリズムとは、読者の意識に対して何が、どのように作用して生まれるのかを解明する方法を見つけなければならない。

 覚一本の文体の魅力は、緩急のメリハリが利いた、叙事的抒情性(重大事を冷静に、しかも感動的に語る)にあると言えようが、それに対して読み本系諸本の魅力とは、例えば次のようなものだろうか―雑多な話題と飛躍する語り口、いわば多事多端性とでも言うべきめまぐるしさ。また装われた博覧強記と訓諭的な語り口、それは抑圧的な主張性を読者に押しかぶせてくる。しかしこれに満足し陶酔した読者も中世以来少なくなかったことを思えば、再び1の問題に立ち返り、文学史的展望の再考が必要となってくるであろう。

 5に関して。自らの死期が判った時、残る時間で何を読みたいか、というアンケートの上位には、常に平家物語が入るという。死生学という学問分野ができて、平家物語が取り上げられることもあるらしい。しかし平家物語自身は、決して死を美化したり、様式化して日常に馴致したりしてはいない。戦時中、軍国主義に利用されたのは、誤ったよみを普及し押しつける過程を経てのことで、中世以来の平家物語が、戦争賛美や軍国主義的教育のために書かれたわけではないのである。教室では戦争反対のために平家物語を読めというならば、裏返せば、体制が要求するスローガンを教えることにもたやすく移行するのではないか。文学を教訓や格言や宣伝に矮小化しないために必要なのは、表現にこだわり、恣意的な読みに歯止めをかけ、作品の魅惑を客観的に論述できる方法を手に入れることが第一歩だと思う。

 端的に言えば、いま求められている平家物語論とは、なぜこの物語が八百年もの間愛され、作り替えられ、それが現代の我々にどういう意味をもつのかを語れる論ではないであろうか。諸本論も成立論もその点を意識して踏み出す時期に来ていると思う。それは他者のためでなく研究者自身のためでもある。

 自分が古典文化の精髄の何を次世代へ継承しようとしているのかを、どこかで意識しながら研究を進めること―それを具体的に実現するために、今般『ともに読む古典 中世文学編』という本を仕掛けてみた(三月末に笠間書院から出たばかりである)。前面には現場教員との架け橋を謳ったが、もう一つの狙いは、文学研究者にいま語るべき「次世代へのメッセージ」とは何か、を各自の課題として考えて欲しかったのでもある。自らの反省も籠めて言うのだが、日々の作業に没頭しつつも、文学とは何かという問いを念頭に置いていないと、取り返しのつかないものを喪う時代になってきた気がする。教育方法の技術的開発が進み、さまざまな理論やマニュアルが提供される今日こそ、文学それ自体の効用、文学に何ができるかを胸中に持って授業をしなければならないし、それにはまず文学研究者自身がその問いを、日々傍らに引きつけて持ち歩かなければならないのではないか。

 しかし、そのような書生論を生でふっかけても苦笑されるのが落ちであろう。やはり我々は作品を読みながら、教室で語る言葉を探しながら、文学の効用をイメージしていくのがよい。それこそが、健康的で強靱な姿勢を保証する。3や4で述べたように、歴史文学は文学以外の要因に引きずられやすい。だから今、さまざまな見方で中世文学の魅力を語る文章を、幾つも幾つも用意しておきたいのである。

 『ともに読む古典』はその支援ツールの一つである。読後感をお寄せ頂き、あるいはご自分の授業に応用して頂き、読者カードや笠間書院のツイッターを通して議論が始まればいいと思う。また他の時代の編が企画されるなら嬉しいことである。さらに、今回は通常教科書に採用されるような作品を中心にしたが、中世は多様性の時代である。現在は多少マニアックに研究が行われている分野など、何故それを研究対象にしているのか、そこから何が見えてくると信じているかを当事者に訊いてみたい分野が、いくつかあるではないか。それ以外の分野からも、続編が出るならば書きたい、という短信がすでに寄せられている。

松尾葦江。著書に『平家物語論究』(明治書院)、『軍記物語論究』(若草書房)、『軍記物語原論』(笠間書院)、編著に『文化現象としての源平盛衰記』『ともに読む古典 中世文学編』(笠間書院)など。

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●日本図書館文化史研究会 2017年度第1回研究例会(2017年6月24日(土)、東京ウィメンズプラザ(渋谷区))

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研究会情報です。

●公式サイトはこちら
http://jalih.jp/events/events.html#reikai1

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 本年度第1回研究例会を,下記のように東京ウィメンズプラザにて開催いたします。研究発表1件と図書資料室の見学を実施します。
 東京ウィメンズプラザ図書資料室は,1979年東京都立日比谷図書館4階フロアに「東京都婦人情報センター」として発足しました。男女平等社会の実現をめざす研究・活動や,女性に関するさまざまな問題を解決するために,男女平等参画に関する国内外の図書,行政資料,民間団体の資料,学会誌,雑誌,ミニコミ誌,新聞のほか,ビデオやDVDなどの視聴覚資料を幅広く収集し,情報支援をしている,男女平等参画のための専門図書館です。
 多くの会員の皆さまのご参加をお待ちしております。

○日  時  2017年6月24日(土) 13時30分~15時30分

○場  所  東京ウィメンズプラザ 第一会議室A(30名)
         〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-53-67

○参 加 費  会員500円,非会員1,500円

○申込方法  参加ご希望の方は、次の事項を明記して電子メールでお申込ください。
 ◆ 氏名(ふりがな),所属,「千代田図書館資料」希望の有無(以下★を参照)
 ◆ メール送信件名:「研究例会参加」とお書きください。
 ◆ 申し込み先:office@jalih.jp  日本図書館文化史研究会事務局

○申込締切  6月19日(月)(必着)でお願いします。

○プログラム

 13:15-    受付開始
 13:30-14:30 発表 明治・大正期における婦人閲覧室の概要について
           青木玲子(国立女性教育会館),赤瀬美穂(甲南大学)
 14:30-15:30 図書資料室の説明 ライブラリーツアー(解説担当専門員:大塚洋子様)

○発表要旨:明治・大正期における婦人閲覧室の概要について
 婦人閲覧室は,明治・大正期から戦前の図書館で,男性の閲覧室とは別に設けられた女性専用の閲覧室である。図書館史において婦人閲覧室の利用状況についての記述,文献は非常に限られている。今回の発表では,開館の節目に記念誌として発行された個別の図書館史や年次報告などから婦人閲覧室に関する記述を調査・採集し,特に各図書館の婦人閲覧室の名称,面積・席数,建築図面や写真など判明した婦人閲覧室の概要を報告する。
 収集した文献リストからは,設置目的についての先行研究の論点,また雑誌記事,新聞記事に記載された利用状況について紹介する。現存している婦人閲覧室についての数例を事例として紹介する。

★『千代田図書館蔵「一橋・駿河台図書館業務資料」関係資料集:講演録・目録』頒布のお知らせ
 千代田区立千代田図書館から,標記の図書が編集・発行されました(本文98ページ,2017年3月)。同館では東京市立一橋図書館,駿河台図書館の業務資料約130点を所蔵しています。本書は同資料の概要や特徴的な資料を紹介しています。ご希望の方は,第1回例会の際に無料でお渡ししますので,例会参加にあわせてお申し込みください(9月の研究集会の際にお渡しすることも可能です)。
 なお,「一橋・駿河台図書館業務資料」は整理・調査を終え,昨年度より全資料の画像,目録がWeb上で公開されています。(小黒浩司)

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●公開シンポジウム「音声言語・手話言語のアーカイブ化の未来」(2017年6月10日(土)、日本女子大学 目白キャンパス)

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シンポジウム情報です。

●情報はこちらからいただきました
https://www.jpling.gr.jp/gakkai/gakkaibbs.php

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公開シンポジウム 「音声言語・手話言語のアーカイブ化の未来」

日時 2017年 06月 10日 (土)  14:00-17:00
場所 日本女子大学 目白キャンパス 新泉山館(しんせんざんかん)大会議室
  (東京都文京区目白台2-8-1)
内容 プログラム:
 14:00 木部暢子(国立国語研究所 教授・日本学術会議第1部会員)
    「音声言語の多様性、その保存・活用」
 14:30 菊澤律子(国立民族学博物館・総合研究大学院大学 准教授)
    「音声言語と手話言語をつなぐもの」
 15:00 酒井邦嘉(東京大学大学院総合文化研究科 教授・日本学術会議連携会員)
    「自然言語の多様性とは」
 15:30 坊農真弓(国立情報学研究所・総合研究大学院大学 准教授)
     大杉豊(筑波技術大学・障害者高等教育研究支援センター 教授)
    「コーパスを用いた手話相互行為分析」
 16:00 休憩
 16:10 総合討論
    コメンテーター:清水康行(日本女子大学文学部日本文学科 教授)
    ディスカッサント:松森晶子(日本女子大学文学部英文学科 教授・日本学術会議連携会員)

 総合司会:松森晶子(日本女子大学文学部英文学科教授・日本学術会議連携会員)
備考 共催:日本学術会議 言語・文学委員会 科学と日本語分科会
   日本女子大学文学部・大学院文学研究科
連絡先 金水 敏

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●2017年度 東アジア比較文化国際会議 日本支部20周年記念大会【特別講演会】「東アジアの時間と空間」中西進氏(2017年6月24日(土)、奈良県立万葉文化館)

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講演会情報です。

●公式サイトはこちら
http://www.manyo.jp/event/detail.html?id=189

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2017年6月24日(土)13:00~(開場12:30)

東アジア比較文化国際会議日本支部の20周年記念大会を、万葉文化館との共催で開催いたします。
申込み不要・聴講無料です。ぜひご来聴ください!
 
〔日時〕 2017年6月24日(土)13:00~(開場12:30)

【講演会】

寺川 眞知夫 氏(同志社女子大学名誉教授)
「玉と霊―宇気比神話における天孫誕生の意味―」

井上 さやか(当館指導研究員)
「古代日本における文学と芸能」


【特別講演会】

中西 進 氏(東アジア比較文化国際会議名誉会長・当館名誉館長)
「東アジアの時間と空間」


〔定員〕150名(当日先着)

〔申込〕 申込不要・聴講無料

〔会場〕 奈良県立万葉文化館 企画展示室

〔お問い合わせ先〕 奈良県立万葉文化館

 〒634-0103 奈良県高市郡明日香村飛鳥10
 TEL 0744-54-1850
 FAX 0744-54-1852

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●仏教文学会 6月例会(平成29年6月17日(土)、慶應義塾大学 三田キャンパス南校舎)

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研究会情報です。

●公式サイトはこちら
http://bukkyoubun.jp/studies/2017.htm

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平成29年度(2017年度)
大会例会
大会
例会
6月例会
PDF(地図、要旨)

◇期日 平成二十九年六月十七日(土)十四時~十七時三十分
◇会場 慶應義塾大学 三田キャンパス南校舎 4F 441
    東京都港区三田2-15-45

《シンポジウム》寺社縁起に近代はあったのか?
開会の辞慶應義塾大学名誉教授 岩松研吉郎 氏
研究報告
司会京都精華大学非常勤講師 橋本 章彦 氏
明治画家・喜田華堂による「妙應寺縁起」とその後の展開―絵伝・宿場・稲荷講―京都精華大学非常勤講師 鈴木 堅弘 氏
法然伝の近代恵泉女学園大学 佐谷眞木人 氏
明治期の親鸞絵伝―『見真大師御旧跡要図』を中心に―京都精華大学 堤 邦彦  氏
パネル・ディスカッション
閉会の辞大正大学 大場 朗  氏

懇親会
会場近くの店を予定しております。お気軽にご参加下さい。
会費は五〇〇〇円の予定です(当日いただきます)。

*委員会のお知らせ
当日委員会を開催いたします。委員の方は昼食を済ませてお集まり下さい。
時間 十二時三十分~十三時三十分
場所 慶應義塾大学 三田キャンパス南校舎 4F 444

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●早稲田大学 文化構想学部 多元文化論系 共催講演会「日本の漢文訓読からベトナムの漢文訓読研究へ」NGUYEN THI OANH(グエン・ティ・オアイン)准教授(2017年6月28日(水))

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講演会情報です。

●公式サイトはこちら
http://www.waseda.jp/trns_cult/

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日時:2017年6月28日(水)16:30~17:30
会場:33号館16階第10会議室

講演者
NGUYEN THI OANH(グエン・ティ・オアイン)准教授(ベトナム社会科学アカデミー、漢喃研究所)

題目
「日本の漢文訓読からベトナムの漢文訓読研究へ」

使用言語:日本語
主催:早稲田大学日本古典籍研究所
共催:早稲田大学文化構想学部多元文化論系・多元文化学会・総合人文科学研究センター研究部門「グローバル化社会における多元文化学の構築」
来聴歓迎、予約不要、入場無料です。どの方も遠慮なくご参加下さい。

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●早稲田大学 文化構想学部 多元文化論系 大会・総会・春期学生研究発表会(2017年7月1日(土)、戸山キャンパス)

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研究会情報です。

●公式サイトはこちら
http://www.waseda.jp/trns_cult/

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日時:2017年7月1日(土)12:15~18:10
会場:戸山キャンパス36号館 3階 382教室
 多元文化論系の教員・学生が一体となって運営している「多元文化学会」のイベントです。 学生研究発表会・大会シンポジウムともに入場無料・予約不要・来聴歓迎です。
第Ⅰ部 総会(12:15~12:45)

第Ⅱ部 春期学生研究発表会(13:00~16:00)

 多元文化論系のゼミ学生が、各ゼミの研究内容について発表します。
発表ゼミ

アメリカ文化論ゼミ
イギリス・アイルランド・英連邦諸国ゼミ
地中海文化論ゼミ
中東・イスラーム文化論ゼミ
アジア近世史ゼミ
東アジアの生命観と倫理ゼミ
日本文化史ゼミ
第Ⅱ部 大会シンポジウム(16:00~18:00)

共催:多元文化論系・総合人文科学研究センター
テーマ

「帝国統治と官僚制度―ローマ帝国と唐の比較史的考察―」
パネリスト

井上文則(早稲田大学文学学術院教授)
シンポジウム趣旨説明
新保良明(東京都市大学教授)
「ローマ帝政前期における帝国官僚制―巨大帝国の「小さな政府」―」
林美紀(日本学術振興会特別研究員〈PD〉)
「唐の官僚制と北衙禁軍」

懇親会(18:10~)

会場:戸山キャンパス31号館 2階 208教室
予約不要です。懇親会のみの参加も歓迎します。

2017年5月27日

 この記事のカテゴリーは : 研究者のための公募情報です。

●東京大学・准教授または講師の公募(東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻/教養学部国文・漢文学部会)(2017年06月12日 必着)

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●詳細はこちらから(JREC-IN)
https://jrecin.jst.go.jp/seek/SeekJorDetail?fn=3&id=D117051209&ln_jor=0

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●東洋大学・文学部教育学科専任教員(専任講師または准教授または教授)の公募(専攻分野:国語科教育)(2017年05月25日 ~ 2017年06月30日 必着)

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●詳細はこちらから(JREC-IN)
https://jrecin.jst.go.jp/seek/SeekJorDetail?fn=3&id=D117051155&ln_jor=0

2017年5月26日

 この記事のカテゴリーは : 学会・講演会・展覧会情報です。

●国際子ども図書館・キャサリン・バトラー氏講演会「日本のアニメに描かれたイギリス:真実、虚構、ファンタジー」(2017年7月8日(土)14時~16時30分、国際子ども図書館 アーチ棟1階 研修室1、要申し込み)

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講演会情報です。

●公式サイトはこちら
http://www.kodomo.go.jp/event/event/event2017-07.html

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※申し込みは上記サイトをご確認ください。

【国際子ども図書館は、児童文学研究者であり、児童文学作家としても作品を発表しているキャサリン・バトラー氏を講師に招き、講演会「日本のアニメに描かれたイギリス:真実、虚構、ファンタジー」を開催します。
キャサリン・バトラー氏は、児童文学、特に日本のアニメにおけるイギリス児童文学の受容をテーマとする研究者としてご活躍で、今回はメディアと児童文学との関連について研究的な立場からお話しいただきます。参加は無料です。(英語・逐次通訳)】

日時 2017年7月8日(土)14時~16時30分(13時30分受付開始)
講師 キャサリン・バトラー氏
(イギリス・カーディフ大学上級講師、児童文学作家)
通訳:菱田信彦氏(川村学園女子大学文学部国際英語学科教授)
場所 国際子ども図書館 アーチ棟1階 研修室1 [ACCESS]
対象 中学生以上
定員 100名 事前申込制
参加費 無料

 この記事のカテゴリーは : ホームページ紹介です。

●雑誌約8,300点を「国立国会図書館デジタルコレクション」に追加しました(国立国会図書館)【ほとんどが館内/図書館送信限定】

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【国立国会図書館は、平成29年5月26日に、雑誌約8,300点を「国立国会図書館デジタルコレクション」に追加しました。

今回追加した資料は、主に、これまでも一部の巻号を提供していたタイトルの、より古い巻号です。

これにより、国立国会図書館が「国立国会図書館デジタルコレクション」で提供するデジタル化資料の総数は約266万点になりました。】
詳細は以下。国立国会図書館。
http://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2017/1220901_2755.html

 この記事のカテゴリーは : いただいた本・送られてきた本です。

●小川剛生『中世和歌史の研究 撰歌と歌人社会』(塙書房)

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塙書房さまより頂きました。

9784827301274.jpg


小川剛生『中世和歌史の研究 撰歌と歌人社会』(塙書房)
A5判 736頁 上製・函入
2017年5月発行
定価 15,120 円 (本体14,000 円+税)
ISBN 978-4-8273-0127-4

版元公式サイト
http://rr2.hanawashobo.co.jp/products/978-4-8273-0127-4

鎌倉後期から室町中期を中心に撰歌を基底に据えて、文化の根幹であった和歌の働きを歴史的・実証的に考察する。また勅撰作者部類・続作者部類の翻刻や索引を収載する。

【目次】
序章 「撰歌」の時代
第一部 勅撰和歌集と公武政権
  第一章 鎌倉武士と和歌 -続後拾遺集一九
  第二章 歌道家の人々と公家政権 -「延慶両卿訴陳」
  第三章 勅撰集入集を辞退すること -新千載集と冷泉家の門弟たち
第二部 歌道師範家の消長
  第四章 二条家と古今集注釈書 -二条為忠古今集序注
  第五章 為右の最期 -二条家の断絶と冷泉家の逼塞
  第六章 飛鳥井家の家学と蔵書 -新続古今集まで
  第七章 南北朝期飛鳥井家の和歌蹴鞠文書 -大津平野神社蔵某相伝文書書籍等目録断簡考証
第三部 私家集の蒐集と伝来
  第八章 「伏見殿家集目録」をめぐる問題
  第九章 伏見院の私家集蒐集
  第十章 足利義尚の私家集蒐集
第四部 古歌の集積と再編
  第十一章 類聚から類題へ -夫木和歌抄の成立と扶桑葉林
  第十二章 禁裏における名所歌集編纂 -方輿勝覧集
第五部 勅撰作者部類をめぐって
  第十三章 歌人伝史料としての勅撰作者部類
  第十四章 勅撰作者部類伝本考
附録一 勅撰作者部類・続作者部類 翻刻
附録二 勅撰作者部類・続作者部類 索引
終章

【著者紹介】(発行当時のものです)
小川剛生(おがわ・たけお)
1971年東京都生まれ。
慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程退学。
慶應義塾大学文学部教授。